第56話

     ◆


 地上へ戻ったアクロは、さすがに安堵した。

 地下での大地震の後、ハムジャン遺跡の地下道は激しく崩壊し、しかしかろうじて人が通り抜ける空間は残されていた。これ以上の地震に見舞われれば、全てがぺしゃんこに崩落するのは目に見えている。

 際どいところでの脱出であった。

 負傷者をイナンホテプの平地にある陣地ではなく、近くのまともな拠点へ後送するようにアクロは指示を出した。その負傷者の中には彼の弟のエクラの姿もあった。彼は意識は朦朧としており、高熱を発していた。

 弟のことを半ば諦めるようにして、アクロは遺跡で待っていたものと共に馬で一路、イナンホテプへ駆けた。

 夜の闇の中の帰陣に、その場で待機していた部下たちは驚きを隠せなかった。

 しかもアクロが夜にも関わらず、大地の割れ目から全ての兵士を撤収させ、そのまま割れ目に誰も近づかぬよう、見張りを立て、柵を設けるように矢継ぎ早に指示を出したのには、さらに驚いた。

「明日ではいけませぬか」

 部下の一人が恐る恐る確認したが「すぐだ」の短い一言に、黙るしかなかった。その短い言葉には、拒絶は受け入れない断固とした意志がこめられていた。

 そうして夜明けを待たずに伝令が走り、撤収作業が始まった。

 第一陣として地下から戻ったものがアクロのところへ報告にきて、地下に残されている人間がいるかもしれない、と進言したが、アクロはこれには一言も返事をしなかった。

 割れ目の中にいた男たちは総勢で百五十名を大きく超えたが、迅速に撤収は終わり、最後の一人が地上へ出たときには、すでに柵が八割方、出来上がっているのにその兵士は眉をひそめた。これではもう地下からの兵の救出は考えていない、ということではないか。

 その頃のアクロは方々への通達で忙しかった。エッセルマルクの各騎士家に対し、地下において遭遇した危機について通報し、同時に、現時点では混乱の芽は地上にはない旨も伝えた。

 何よりも強調したのは、地下に住むものと接触するべきではない、ということである。

 獣人戦争の再来は、途方もない混乱を招き、三国が覇を争うどころではない混沌に直結する、とアクロは書き記した。

 聖教会にも通達を出したが、それより先に例の老尼僧とともに、立派な僧服の男が訪ねてきたのは、事態をより早く察知したからだと思われた。アクロは日々、警戒しているが、聖教会に関係するものはどこにでもいるのである。騎士の中に、商人の中に、農民の中に、そして兵士や奴隷の中にも。

「魔獣は全て討伐したということでよろしいか」

 僧服の男はあいさつもそこそこに、単刀直入に問いかけたが、アクロは気分を害したようでもなく、「知りませんな」と笑いさえ浮かべて答えた。これには逆に、僧服の男が逆上した。

「人間の敵を、化け物を、あなたは放置したとおっしゃる? それは騎士としての務めに反しますぞ!」

「では逆にお聞きするが、地下に何があるのですか?」

 僧服の男は目を白黒させた。

「それは、異種族の街があり、そこで人間が襲われたと」

「それは我々、人間が不用意に地下に踏み込んだからでしょう。とりあえず破滅は避けられた。それで良しとしないか。もう我々は地下のことは忘れる。知らないふりをする。精霊王とやらも、それで勘弁してくれるだろう」

「精霊王の御名を、そのように軽々しく……」

「私も、精霊王が仲間を助けてくれたなら、もっと敬意を払うがね。しかし精霊王は言われているほど親切でもなければ、言われているほど万能でもない。そう思わないかね」

 僧服の男も老尼僧も、これには怒りのあまり絶句し、怒りの矛先を向けられている壮年の騎士の「話は終わったかな」という一言で、ついに幕舎を出て行った。

 後方へ輸送された負傷兵の様子が少しずつ伝わってきて、今回の作戦に参加したものの死傷者の数もはっきりしてきた。

 割れ目から地下へ入ったエクラその他の隊からの死者が最も多い。逆に、アクロと共にハムジャン遺跡から地下へ降りた隊の死者は比較的少なかった。

 魔獣と化した敵より、人に近い姿のまま向かってきた敵の方が手強かったか、とアクロは思いもしたが、これは結論の出ない問題である。

 大地震がこの後、二ヶ月の間に四度あり、その度にイナンホテポの平地にできた大地の亀裂は徐々に小さくなっていった。そしてどうやら、ハムジャン遺跡の地下は完全に崩落し、何ものも出入りできなくなったようであった。

 オルシアス軍の侵攻は撃退され、国境地帯には平穏が戻った。エッセルマルクは本来の態勢に戻り、来るべき決戦のために国力を高めることが重視された。

 その政策の中で、一部の騎士から地下鉱脈に関する意見が中央で持ち上がったが、これは激しい議論の末、退けられた。

 エッセルマルクの最高権力者である騎士王は、四年に一度の選挙で決められるが、新しい騎士王としてアクロ・アガロンが選出されたのは、オルシアス軍の侵攻をイナンホテプの平地で撃破した四年後のこととなる。

 この頃にはイナンホテプの平地は一面が農地となり、地割れの痕跡は、その一部だけが大地がずれたように人の背丈ほどの段差が生じているだけである。



(続く)

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