第30話
◆
そこまで驚くほどではないわ、と老婆が笑っている。
「いえ、失礼ですが……」
俺は言おうとして、口がまごつき、うまく言葉が続けられなかった。
「私の年齢でしょう?」
カップを手に取りながら、老婆が嬉しそうに言う。こういう話はめったにできないから、と言いたげでもある口調だった。
「私はもう、千年は生きているわね。前の戦争の時、私はまだ小娘で、ただ見ているだけだったわ」
やっぱり俺にはどういうこともできなかった。
前の戦争。
獣人戦争のことだ。
獣は、千年を生きるのか。人間はどう頑張っても七十とすれば、世代が五つ、六つ、もっと大きな交代を必要とする途方も無いほど時間だ。
「あの戦争は悲惨だった。終わりが見えなくて、どちらかが滅びない限り、終わらない、終わらせられない、終わらせない、そんな感じだった」
何事でもないように老婆がいう言葉は、言葉以上のものを俺の脳裏に描き出した気がした。
終わらない戦争。
終わらせられない戦争。
終わらせない戦争。
誰かは戦争に倦み、誰かが倒れたもののために戦争を続行し、誰かは相手を滅ぼすべしと声を上げ続けて戦争に邁進したか。
誰がいったい、一番愚かなんだろう。
誰もが愚かなのか。それとも誰かは、智者だったのか。
俺の疑問とは無関係に、老婆はいやにハキハキと、明快な発音で話を続ける。
「私たちと人間、数え切れないほどの死が積み重なって、この世界はもう、終わるんだろうと思った時、精霊王が現れたの」
「お婆ちゃんはよくこの話をするのよ」
急にナルーが口を挟み、自然、俺は彼女の方を見ていた。ナルーは片手にカップを持ち、片手にはお菓子を持っていた。何かの焼き菓子だ。美味しそうに見えるが、俺はとても手を伸ばす気になれなかった。
こちらは本当に楽しそうに、ナルーが言う。
「精霊王が現れて、人間と獣、この二つを全く別の世界に切り分けたの。そして二つの世界をつなぐ通路を断ち切って、封印した。そして獣からも人間からも、争いを奪った」
「その通りよ、ナルー。ちゃんと勉強しているみたいね」
これはからかいというか、まるで子どもをやり込める親の口調だった。そんなに子どもじゃないよ! とナルーが言ったかと思うと、大口を開けて焼き菓子を口に入れた。笑えそうなものだが、やっぱり俺は笑えなかった。
「でもさ、お婆ちゃん、精霊王はなんで今、何もしないわけ? 精霊王の行った裁きが今、否定されているじゃない。それをどうして精霊王は放っておくの?」
この老婆も、人間が侵入してくる兆候があることを知っているようだ。ナルーの言葉に取り乱しもしない、戸惑いもしない。
「精霊王はどこにもいらっしゃるわ、ナルー。誰の中にも、どの種族の中にも、万物の中にいらっしゃるの」
「でも今はいないわ」
「いらっしゃるわ」
急に押し問答になり、ナルーは精霊王の不在を指摘して、老婆は精霊王の存在を主張する、不自然なやり取りになった。俺は黙っているしかない。精霊王にそこまでこだわりもないこともあるけれど。
人間の俺からすれば、伝説の上の精霊王の存在より、いかにして論理で、騎士をやり込めるかの方が重大で重要な問題だった。
結局、少女と老婆は引き分けとなった。
「それにしてもあなたは、私が知っている人間より落ち着いているわね」
カップに口をつけてから、老婆が初めて、まじまじと俺を見た。居心地が悪くならないのは、その視線には尖ったところがなく、撫でるような光があるからだ。
「いろいろと、考えなくちゃいけないことがあって、とても、その、気楽にはいられませんから」
そう答える俺に、大変な時期ですものね、と老婆は深追いしないで話題をお茶の濃さに変えてくれた。俺にはその方がだいぶありがたい。
その日はこのラックラの家で過ごし、日が薄暗くなる頃、ナルーは自分の家へ戻って行った。
「もし機会があればうちにも来てね」
そんな言葉を残して少女は去って行ったけど、俺が彼女の家を訪ねられるかは、微妙なところだ。
俺がこの町で生きていくことを決めれば、ナルーの家に行くことも自然とできる。
でもそういう未来が、確実に来ると言えないのは、まだ俺が迷っているからだ。
ここは人間の生きる世界ではない。
どうやっても俺は、千年は生きられない。その十分の一も無理だ。
俺はやっぱり、生きる世界が違うのではないか。
ラックラは空間が真っ暗になった頃に戻ってきて、「先に渡しておく」と俺に短剣を差し出した。
「護身用だ。切れ味と頑丈さは折り紙付きだ」
ありがとうございます、と受け取ったが、ずっしりと重く感じた。
夜は更けていく。
(続く)
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