第29話

     ◆


 建物の外で、待機していた爪牙隊の男たちに囲まれて待っていると、本当にすぐ、呼び戻された。

 ただ、違いがある。

 俺とラックラが並んで待っているうちに、少年に見える獣を連れてナルーが建物の中からやってきたのだ。俺とラックラより先に建物に招じ入れられていたらしい。そして今、俺とラックラを改めて呼んだのがナルーだった。

 ナルーがどういう立場か、今まで真剣には考えなかったし、問いかけもしなかった。

 ただ、トピアとは親しいようだったし、あるいは何かしら特別な立場だったのだろうか。俺の見張り以上に? いや、しかし考えてみれば、洞窟と街をつなぐ通路にはユッカムが立っていたはずで、見張りとしてはユッカムだけでも十分だったのではないか。

 そんなことを考えながら、屋内に戻る。やはり香の匂いが立ち込めて、薄暗いのは変わらない。ナルーの姿もラックラの姿もぼんやりしている。

 トピアと他の二人が一度、起立し、何やら身振りをした。言葉も続くが、聞き取れない。俺たちが話す言葉ではないようで、祝詞のような響きがあった。

 やがてその言葉も終わり、三人ともが座り直した。

「ここにいるナルーを、我々からの使者として立てます」

 トピアが厳粛な声で言った。俺は思わず、すぐ横に立つナルーを見たが、彼女は深く頭を下げるだけで無言。一方、ラックラはやや不満そうだった。しかし彼も無言だ。ここではトピアたち三人の意志は何よりも優先されるらしい。

「スペースさん。あなたにはナルーと人間との取次と、交渉を任せてもいいですか」

「交渉?」

 思わぬ言葉と依頼だった。

 交渉は必要だが、俺自身の役目が不意に重くのしかかった気がした。

 さすがにしどろもどろになりながら、必死になって俺は言葉を口にしていた。

「交渉、というのは、その、獣の存在を人間に認めさせる、そういうことでしょうか」

「そこまでは望みません。地上と地下、この二つが干渉することがないようにしていただきたい。人間は地下に立ち入らず、獣は地上へ立ち入らない。それが守られることを望みます」

「それは、わからなくはないが、エッセルマルクの騎士たちがなんというかは、予想がつかない」

「予想がつかないのは大前提での交渉です。ナルーとスペースさんの二人で、どうか、我々に平和を取り戻してください」

 またナルーが頭を下げたが、俺はとても、そんなことはできなかった。

 たかが奴隷の分際で、騎士と交渉したり、ましてやなんらかの取り決めを結ぶのは、度を越している。騎士やそれに準ずる階級の者が、俺の言葉を真に受けるわけがないのだ。

 それをトピアは失念しているのか。

「スペースさん。あなたには、地下で生きることを選択できることとしました」

 俺が反論しようとしたところへ、トピアはなんでもないようにその言葉を向けてきた。

 地下で生きる?

「それは、獣たちと生きていい、ということですか?」

「そう。地上で生きていくより地下で生きる方が良いというなら、私たちはそれを認めます」

 地下で生きる。

 もう地上で、奴隷として生きる必要はないのか。

 しかし、地下には俺と同じ人間は、一人もいない。

 それでもナルーのような理解者がいるのも事実。

 全く答えが出ない、判断が下せない難問だった。

「二人の出立は明日とします。道筋はすでにナルーに伝えてあります。それは極秘ですから、他言無用です。いいですね、ナルー」

 またも無言でナルーが腰を折る。

 くそ、俺はどうしたらいい? 何を言ったらいい?

 沈黙がやってきて、トピアが「以上です」という一言を発したことで、結局、俺は自分の意見を口にすることはできないままになった。

 建物を出てラックラが部下である爪牙隊の男たちに指示を飛ばし、彼らは声高く返事をすると駆け去って行った。その場に残ったラックラが「俺の家に来い」とぶっきらぼうに言う。そうか、俺は洞窟に戻らなくてもいいのか。というか、洞窟は今や、人間がやってくるかもしれない境界線、争いの最前線ということになる。

 ナルーが普段通りに戻り、呑気な調子で「私も行っていいですか?」と言ったことで、三人で移動することになった。

 ラックラの家はすぐそばで、中に入ると見るからに年老いた獣の老婆がいて、細めた目で俺を見るが、咎める色はなく柔和そのものだ。

「これはまた、かわいいお客さんだこと。入って。お茶でも出しましょうかね」

 俺が戸惑うのをよそに、ナルーが追い越して中へ入って行ってしまう。俺は一礼してそれを追った。

 リビングのようなところで、すでにナルーは席についてテーブルの上のお菓子をつまんでいる。俺は恐る恐る、空いている席に腰掛けた。老婆が戻ってきて、お茶を用意した。どうやらラックラは仕事へ戻ったようだ。

「ようこそ、人間さん。あなたたちを見るのは、そう、九百年ぶりかしらね。それとも、千年は過ぎたかしら」

 自分も席に着いた老婆の言葉に、俺は危うくカップを落としそうになった。

 そっとテーブルに戻して老婆を見ると、やっぱり穏やかな顔で微笑んでいた。



(続く)

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