第58話

     ◆


 アクロは体を椅子にもたれさせて、従者に付き添われてやってきたエクラを出迎えた。

 アクロは騎士王としての激務の合間に、王宮の中庭の見える広間で、書見をしていたのだった。そこへ自分の領地となったアガロン騎士領から弟が到着したという話がきた。訪問は事前に知らされていたが、予想より半日は早かった。アクロは弟を広間へ通した。

 あの地下での戦闘の後、エクラは一命をこそ取り留めたが、片腕は切り落とすしかなく、それでさえも処置が遅かったため、体に毒が回り、片足の動きに障害が残った。

 エクラはアクロの前に来ると、杖を器用に使って片膝をついた。

「お久しぶりです、兄上」

「どうやら、息災なようだな」

 年の離れた兄弟は笑みを交わした。苦労して弟が立ち上がるのを、老境に差し掛かった騎士王がそっと支え、二人は中庭の方へ向き直った。

「やはり名を刻まぬのですか」

 エクラの言葉に、アクロは少し皮肉げな笑みを見せた。

「王宮の中庭に、奴隷の名を刻んだ碑を、残せるものか」

 二人は一人の少年のことを脳裏に浮かべていた。

 スペースという名の、ただの奴隷に過ぎなかった少年。

 短い間に、その立場が激変し、そして地下へ消えていった、奇妙な少年。

 アクロは時折、今、彼がどこで何をしているのか、想像した。生きているとも思えないが、死んだとも思えない。あの最後の一場面、少年が地面に剣を突き立て、激しい揺れの中で落盤が起き、全てが見えなくなった。

 その場面で、あの少年の時は止まっていた。

 生きていれば、立派な大人になっているはずだが、そういう想像も水が指の間をすり抜けるように、うまく輪郭を明確にはできなかった。

「聖教会が嫌な動きをしていますね」

 エクラの言葉に、アクロが顎を引く。

「ちょっと手酷くやりすぎたかな。奴ら、私のところにも釘を刺してくる始末だ。例の地下の一件をよもや忘れていないな、と」

「兄上はどう答えるのですか?」

「地下とは何のことだ? そう、とぼけるだけだよ」

 それは滑稽ですな、とエクラが声を上げて笑った。

 兄弟はしばらく、国について、民について、話をした。その一番最後の話題が、奴隷だった。

「奴隷制度はやはり、変更はできそうにもない」

 そのアクロの言葉に、エクラはただ顎を引いた。騎士王は庭の石碑を見ながら、誰に言うともない様子で、言葉を重ねた。

「奴隷というものによって、この国に貢献できる存在が浪費されている。しかし奴隷というものがあるからこそ、経済が、軍事が、円滑に進んでもいる。どちらかを選ばなければいけない、というものではないが、判断は困難だな」

「誰にどのような才があるかなど、わからないものです」

 不意にエクラが疲れたような顔になった。

「私は、兄上のお役に立てませんでした。例えば、私があの時、地下に残るようなことはできなかった」

 そうだな、とアクロは答えたが、それ以上の言葉はない。

 地下に取り残される役目を、誰かが負う必要があった。

 アクロはなぜか、あの少年がふさわしいと思った。少年もためらいなく、まるで自然に受け入れた。

 あの時の呼吸、まるで決まり切ったことが、そっくりそのまま形になり、誰も何も疑わないまま確認されたような、あのやり取りは何だったのか。

 運命、宿命。

 考えたくないが、アクロはそれを否定しきれなかった。

 そもそもからして、大地が割れ、そこに転落したにも関わらず、生き残っている時点で運命的というしかない。

 精霊王など、アクロは少しも信じていなかったが、あるいはいるのかもしれない、そう思わずにいられないのが、あの地下にまつわる事件だった。

 兄弟二人は日が暮れかかる頃、別れの言葉を交わした。

 一人になり、椅子へ戻って書物を手に取ったところで、アクロはもう一度、最後の場面を想像した。

 スペース。

 ただの奴隷。

 しかし特別な存在だった。

 彼は彼にしかできないことをした。

 ならアクロも、自分にしかできないことをするべきだった。命が尽きるまで、心が擦り切れるまで。

 倒れることは許されない。

 自分は確かに、犠牲の上に立っている。

 犠牲にしたもののことを思えば、倒れることが許されないのは、当然だった。

 日が暮れて広間が薄暗くなってくると、従者の一人が明かりを入れに来た。

 小さな灯火が揺れているのは、やはり地下に踏み込んだ時、古の石像などが灯りに浮かび上がったところを思い出す。

 あの遺跡はすでに存在しない。度重なる地震で、完全に崩落し、潰れてしまった。

 灯りに照らされる広間から、アクロはまた視線を中庭にある石に向けた。

 そこに何かが重なっているが、輪郭は落ち着かず、すぐに見えなくなった。

 石はいずれは砕ける。

 人間の命も、いずれは消える。

 最後には何も残らないのか。

 あのほんの少し垣間見た地下の街も、今は消えただろうか。

 あの少年は、どこへ消えたのか。

 風も吹かずに、灯火が揺れ、アクロは一度、目を閉じ、そうして椅子から立ち上がった。



(続く)

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