第5話

      ◆


 急に目が覚めた。

 咳き込むと大量の水が口から出て、鼻からも吹き出る。目の奥がツンとした。仰向けからうつ伏せに体を捻ると、背筋に激痛が走り、息が止まりながらも咳が止まらない、という変な形になり、胸が軋むようにやはり痛む。

 涙が滲むのを拭うと、自分が今、河原のようなところにいるとわかってきた。河原だが、光がおかしい。変に青みがかっている。

 上を見てみると、光を放っているのは岩壁だ。

 そう、岩壁。岩のようなものが光っている。

 その岩のそそり立つかなり上に、かすかな光が見える。

「あ、起きてる」

 いきなり高音の澄んだ声がして、そちらを見て、いよいよ俺は言葉を失った。

 何て表現できるだろう。

 女の子だ。十五歳くらいで、俺と同年代に見える。

 見えるが、その白い髪の毛の頭から、耳が生えている。猫みたいな耳だ。というか、猫と人間を合わせると、こんな感じになるかもしれない。

 その頭から耳を飛び出させている女の子は俺の前まで来て、首を傾げた。

 俺はといえば、素早く立ち上がり、痛みの中でも体術の構えをとった。

 それなのに少女には特に何の影響もないようだった。のほほんとした顔をしている。

「見たところ、ちゃんと生きているみたいだね」

「それは」

 やっと言葉が出た。しかし無意味な言葉だ。

「死んでいたら、話せないだろうけど」

 そうだよねー、と少女が笑って、何かをこちらへ突き出してくる。

 丸い果実で、蜜柑のように見えた。

「すぐに用意できるのはこれくらいだから、ま、我慢して」

 俺だけ警戒してて、バカみたいだ。

 律儀に、ありがとう、などと言いながら果実を受け取り、十分に距離を取ってから果実の皮を剥いてみた。オレンジ色の皮の中から、ちゃんと白い薄皮に包まれた房が出てくる。耳の生えた女の子には面食らったが、蜜柑は蜜柑らしい。

 食べてみると程よい酸味と甘みで、それでやっと俺も落ち着いた。

 落ち着いたが、実際のところ、謎が多すぎた。

 頭に耳が生えている存在は、地上にはいない。そう聞いている。というか、伝わっている。

 で、伝わっている話の中でどこにいるかといえば、地下にいる、という話なのだが、まさしく俺は地下に落ちて、こうして獣の耳の生えた少女を前にしている。

「えっと」

 どう言葉にするべきか、悩ましいところだ。

 広すぎる間合いがあるが、少女が急に身振りで座るように示した。警戒したままゆっくり座る俺の横に、平然と歩み寄った少女がちょこんと腰を下ろす。

 俺は思わず立ち上がろうとしたが、少女の微笑みを見てしまったら、できなかった。

 本当に、警戒するのが愚かしいと思えた。

「あなた、名前は?」

 当たり前の問いかけが最初だった。

「スペース」

 名前を答える俺に嬉しそうな顔になり、少女が胸を張った。

「私はナルー。よろしく、スペース」

 手が差し出される。毛が生えているようでもなく、人間のそれに近い。爪が伸びるようでもない。

 そっと手を取ると、柔らかく、やはり人のそれのようだ。

「私、人間を見るの、初めてなの。本当に存在するのね」

 この言葉に、俺は緊張せずにはいられなかった。

 やはりそうなのだ。

 伝説の通りだ。

「ここは、獣人の世界なのか?」

 そんなところね、とナルーは笑っている。

「かつて、人間と争い、精霊王の力で地下に封じ込められた、あの獣人の世界か?」

 確認する俺に、ピクリとナルーの目元が震え、目尻が少し上がった気がした。

「あなた、そんなことを教えられてきたの? っていうか、人間ってどう考えているわけ?」

 口調が砕けたものになったものの、厳しい口調にもなっていた。

 どうやら俺は彼女を怒らせたらしいが、しかし、なぜ俺は伝説の中だけのはずの世界にいるんだ? 本当は死んでいて、これは生まれ変わった後の世界とか、そういうことか。

 俺が何も言えずにいるからだろう、ナルーが口を開きかけた。

「それくらいにしなさい、ナルー」

 澄んだ声が投げかけられ、その人物の接近に気づいていなかったこともあり、驚きのままに今度こそ立ち上がっていた。

 こちらへ歩み寄ってくる女性は二十代に見える。灰色の髪をしていて、やはり頭に耳が飛び出していた。顔の作りは美人、それも相当な美人と言っていいが、ただ、瞳の光り方に引っかかるものがあった。

「トピア様!」

 ナルーも跳ねるように立ち上がり、頭を下げた。そのナルーの肩にそっとトピアと呼ばれた灰色の髪の女性が手を置く。

「あなたは家に戻りなさい。この方とは私が話をします」

「はい!」

 元気よく返事をして、それから容赦なくギロリと俺を睨みつけてから、ナルーは駆け出していった。

 その姿を見送った俺だが、もちろん、何も解決していないし、安心できない。相手が少女から成人女性に変わっただけだ。

 その女性が柔らかく微笑む。

「少し、話をしましょう」

 その言葉に含まれた威圧に、俺は反射的に武器を探し、自分が鎧も身につけず、少し湿っている着物だけでいることを心の中で罵った。奪われた、ということだろう。

 話を聞くも何も、この時の俺にできることは他になかった。



(続く)

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