第40話
◆
幕舎の中で、ナルーが目を覚ました。
彼女は動こうとして柱に固定されていると知り、二度、何かを確かめるように体を動かし、そして俺を見た。真っ青な顔。死人のような顔だ。
「落ち着け、ナルー。落ち着こう」
俺はそう言葉にしたが、どこか自分に言い聞かせているようだった。
「地下には百五十人を超える人間が入ったらしい。戦闘になって、どちらが勝ったのか、それともまだ押し合っているのか、何もわからない」
「あんた」
ナルーの声は冷え冷えとして、冷淡だった。
「人間の味方をするの? 奴らが私たちの世界に攻め込むのを、放っておくの?」
「ナルー、お前、本気で言っているのか? 俺がお前たちを見捨てるって?」
ぐっとナルーが体を揺らすと、柱が引っ張られ幕舎全体がかすかに震えた。
挑戦的な表情でナルーが俺を睨みつけた。
「私が野獣化すれば、こんな棒はへし折れるし、縛っているロープも引きちぎれる。それはいつでもできる。私を解放しなさい、スペース。問答はしない。あなたが解放するか、私が無理矢理に逃げるか、どちらかよ」
「落ち着け」
「問答はしない!」
その言葉は外まで聞こえただろう。しかし誰も入ってこなかった。それでもきっと周囲にいる兵士たちは、いつでもナルーを制圧できるように身構えているだろう。そして俺ももしかしたら、処理されるかもしれない。
「よく聞け、ナルー」
俺は彼女に歩み寄りながら話しかけた。もし足を止めて話しかければ、逆上していると言っていいナルーは、無理矢理に拘束を振りほどき、暴れ出しただろう。
「さっきの男、アクロ・アガロンという騎士は話がわかる。地下に向かうはずだった人員を、とりあえずは三分の一にしてくれた。無駄な戦闘を好まない人物だ」
返事はない。俺はナルーの後ろに回り込み、彼女の背中側にある結び目に手をかけた。
「獣を殺してしまったのは、不可抗力というしかない。犠牲は犠牲、尊い命が奪われたのは事実だ。それと並行して、これ以上の犠牲を止める必要がある」
「あの人のこと、知らないの?」
ナルーの声は強張り、震えを帯びていた。慄いていたのかもしれない。
俺は静かに答えた。
「話したことがある。トゥナルという名前だったよな」
「そう、トゥナルさん。トゥナルさんは、死んじゃった。あれは、幻じゃない……」
俺は手を動かした。縄は硬く縛られていた。しかし俺が時間稼ぎをしていると、すぐにナルーも気づくだろう。
「もうこれ以上、俺は獣が死ぬところは見たくない」
「それは人間の勝手よ!」
ナルーが首をひねり、こちらを見た。俺も彼女の横顔に視線を向けた。
「人間の勝手だ。しかしナルー、獣もやっぱり、獣の勝手で人間を殺した。どちらが先とかではないし、きっと今、この時も地下のあの洞窟で、人も獣も血を流して、場合によっては命を落としている。わかるよな?」
眼光こそ燃える炎のように強いものの、言葉はない。
考えているのだ。彼女は彼女なりに。彼女の価値観、彼女の人生観、そういうものが今、彼女の中で激しく衝突しているだろう。
今まで、決して考える必要のなかった、人間との接し方を今、彼女は考える必要があった。
彼女の後ろにしゃがみこんでいる俺だって、そうだ。
俺は獣たちのことを好意的に捉えている。でもそれは俺が経験したことからくるものだ。獣に優しくされ、信頼することができた。
しかし地上にいる大半の人間にとって、獣は人間そっくりの、しかし違う世界に生きる存在なのだ。それはある時には不気味で、ある時には不安を掻き立て、ある時には恐怖さえも芽生えさせるだろう。
そんな存在をどうするべきか、間違いなくアクロは考えているし、もしかしたらもっと大勢が今、あるいはいずれ、真剣に考えないといけないのが、人間に求められていることである。
戦うのか、それとも協力できることがあるのか、そうでなければもう一度、住む世界を完全に隔てる方法を模索するのか。
「ナルー、落ち着いてくれ。今、この場にはアクロ様の配下しかいない。それは幸運だ。地下のことを知っているものは、人間の総数と比べればはるかに少ない。今ならまだ、大きな混乱もなく状況を鎮められる」
「どうやって?」
そうだな、と答えている一瞬で、俺は理屈を組み立てた。いや、実際にはずっと前から、頭の片隅で考え続けていたのだろう。
「一度、地下から人間を引き上げさせよう。それで話し合う」
「もう大勢が死んでいて、そんなことができる?」
「獣にはできないのか?」
またナルーが黙った。俺も黙った。
沈黙がやってきて、幕舎の中では、静寂だけが存在を主張する時間が始まった。
俺は耐えた。
俺はもう決めた。
人間の犠牲は受け入れる。許容する。容認する。黙認する。言葉はなんでもいい。もう犠牲に対する見返りは求めない。そうしなくては、この争いの終わりは来ない。
同じことを、獣は認められるか。
一つの答えを、ナルーが出すはずだった。
俺は手を止め、ナルーもそれを気にした様子もなく、ただ二人ともが口を閉じていた。
(続く)
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