第20話

      ◆


 すぐそばでささやかな水の音がしていて、生命の川がそこへ流れているのはわかった。

 洞窟を出たところは少し高い位置にあり、闇に沈む街が俯瞰できた。石造りらしい半球型の屋根が並び、道筋が無数に伸びる。明るい中で見ればもう少し詳細に把握できただろうけど、今はほとんど闇に沈んでいる。所々に配された小さな明かりがほぼ唯一の光源だった。

 行きましょうか、とナルーがまだ俺の手を引いたまま歩いていく。

 家を作っているのはやはり岩のようだが、レンガとも違う。自然石で作られているわけではないのは石と石の境目に直線が多いからわかるが、では、どうやって石を加工したのだろう。

 通りの地面も綺麗な石畳になっていた。様々な色がそこに配されているのが見て取れる。

 軽快な足取りでナルーがどこへ向かっているかは、俺にもわかってきた。

 この巨大な空洞の真ん中にあり、高い位置をほとんど占めている巨大な影に向かっている。

 あれが前にナルーが入っていた、ロチの実が取れるという大樹だろう。

 すぐにその枝葉の下に入り、いっそう、周囲は薄暗くなった。

「どう、すごいでしょ?」

 不意にナルーが足を止める。俺も自然と足を止めたが、目の前には川が流れ、それが生命の川だ。中州はほとんど大樹の根に覆い尽くされ、よく見えない。まるで川の中から木が生えているように観察される。

 ナルーが頭上を見上げているので、俺もそうしていた。

 今は真っ黒くとしか見えない枝葉は、どこかから風でも吹いているのか、かすかに揺れていた。

「この木はね、精霊王が私たちへの餞としてくだされたんだって」

 餞……。

「私たちがここでいつまでも生きていけるように。地上のことを知ることなく、平穏に、生きていけるように」

 まるで責められているような気持ちになった。

 俺が地下へ転落して生き延びてしまったことは、もしかしたら精霊王の意に反するかもしれない。そして今も精霊王のことを敬っている獣たちには、俺はやっぱり邪魔かもしれない。

 地上へ戻るべきだ。

 ここにいても、きっと俺は何か、悪い影響を与えることになる。

 元の洞窟へ戻ろう、とナルーに言おうとしたが、背後に人の気配がした。

 人ではない、獣だ。

「誰だ?」

 低い男の声。俺の横にいるナルーがすぐに振り返る。しかし狼狽したところはない。

「ラックラさん! こんな時間に何しているの?」

 ナルーが俺をその場に残して駆け寄って行く。相手の獣は体格がいいし、壮年の男性のように見えた。彼からも俺が見えているだろう。鋭い視線はすぐそばのナルーではなく、俺の方にずっと向いていたからだ。

「仕事が長引いてね」

 男性がそう言って、やっとナルーの方を見た。

「こんな時間に何をしているか、教えてもらおうか、ナルー」

「いや、その、ちょっと風にあたりたくて」

「そこにいるのは誰だ?」

 やっぱり彼は俺を見ている。

 ここに至ってナルーが進退極まったような気配を発し、うらめしそうに俺を見た。姿を消せるなら今すぐ消してくれ、と言いたげな瞳だった。

 いや、消せるわけないけど。

 俺が黙っていると、ラックラと呼ばれた男性が一歩、こちらに踏み出した。

 俺は正直、もう観念していたので微動だにしなかった。捕まるなら捕まる、処刑されるなら処刑される、それしかない。

 どう見ても目の前にいる男性に、今の俺が対抗できる部分はない。腕力では及ばず、どんな知恵もこの窮地を脱することはできない。

 もう一歩、男性が歩み寄り、それで動きが止まった。

「元いた場所へ戻ったほうがいい」

 不意にそんなことを言われ、俺が無意識に目を丸くしているうちに男性は背を向けて離れていった。ナルーにも「面倒ごとは起こすなよ」と注意を与えて、しかしそれきりで、彼は悠然とした歩調で歩み去った。

 静寂。

 助かったぁ、とナルーが座り込み、しかしすぐに跳ねるように立ち上がった。

「早く戻りましょう。見張りが戻ってきちゃうしね」

 帰り道は駆け足だった。例の狭苦しい通路を抜け、洞窟へ出る。我が家に戻ってきた、という感じだ。

 いつの間にか俺もナルーも息が切れていて、座り込んで、どちらからともなく笑い出した。

「私たちの街も悪くないでしょ?」

「全くだ」

 自分が夢を見ていると思った。

 今までも夢を見ている気がした。

 でもきっとこれは、夢じゃない。そうとも気づいている。

 全てがこれは現実の一部だと、俺に教えていた。

 耳の生えた人間も、地下空間とそこにある街も、傷を癒す水も、全部が本物だった。

 だからこそ俺は、地上へ戻れるんじゃないか。

 地上は今いる場所の真上に、ちゃんとあるはずなのだ。

 笑い声が収まり、ナルーはゆっくりと立ち上がり「また明日ね」と手を振って離れていった。

「ナルー!」

 姿を消そうとする彼女に声をかけた。

「今日はありがとう」

 俺の言葉に、ナルーは笑顔になり、そして今度こそ通路へ消えていった。



(続く)

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