第38話
◆
そんな馬鹿な。
俺は思わず言葉にしそうになった。ナルーも黙り込んでいる。アクロだけが冷静なまま、無言で俺たちを観察していた。何を読み取ったのだろう、言葉が続けられる。
「今、倒した敵の遺体を運ばせている。奇妙なことに、耳と尻尾があるという」
ナルーがやおら立ち上がったが、それと全く同時に、幕舎の外へ通じる切れ目が持ち上げられ、「到着いたしました!」と声が響いた。アクロが席を立ち、俺も顔を上げていた。ナルーは外に通じる方を見て、動けずに、しかしその体は確かに震えていた。
いっそ堂々とアクロが外に行き、俺はナルーとともにその背後に従った。
外では、かすかな腐臭がした。
幕舎の前に何かが横たえられ、布がかけられている。
疑いようのない、濃密な死の気配。
兵士の一人にアクロが身振りで布を剥ぐように指示した。
布は丁寧に半分だけ、まくられた。
死体。人にそっくりだが、耳が生えている。着ている具足は人間のそれとはまるで違う。
ああ、と誰かが呻いた。
誰かじゃない。ナルーだ。
彼女はよろめくように遺体に近づくと、すぐそばで膝を折り、その頬にそっと触れた。指の震えは激しすぎるほどだ。
俺は無言で、アクロも無言。そばにいる兵士も黙っていた。
「あぁー!」
ナルーが跳ねた。
反応できたのは俺だけだった。
抱きとめるように、アクロに飛びかかったナルーを受け止める。あまりの勢いに俺は背中から倒れこみ、直立したまま微動だにしないアクロの眼の前で、彼女と揉み合うことになった。
「貴様ら! 殺す! 殺す!」
ナルーが喚いていた。
その目はアクロしか見ておらず、実際に彼女を止めている俺など視界の外だったようだ。
あまりにも動きが激しく、頭に巻いていた布が外れてすっ飛んだ。
彼女の白い髪が広がり、その頭には間違いなく獣の耳がある。
兵士たちが息を飲んだ。ナルーは暴れ続ける。アクロは平然と、いや、超然としている。俺は土と草にまみれていた。
まず何から起こったかは、説明が難しい。
兵士たちが一斉に恐怖の顔のまま剣を抜いた。
アクロが身振りでそれを止めた。
俺はナルーの首に腕を回し、苦労して絞め落とした。
ナルーは脱力して、地面に投げ出された。
そうして静寂が戻った。
「お前、名前はなんといったかな」
冷静すぎるほど冷静に、俺にアクロが言葉を向けた。
「スペースでございます」
「スペース。その娘を幕舎へ入れよ。みな、今、見たことは口外しないように」
淡々とそれだけ言うと、アクロは幕舎へ入ってしまった。俺は動こうとしないナルーを抱え上げて、幕舎に入った。兵士たちがどういう顔をしているか、どういう思いでいるか、考えるのも億劫だった。
幕舎の中でナルーを下ろし、アクロがロープを投げてきた。縛り付けておけ、ということらしい。幕舎の屋根を支える柱に、俺は念を入れて、厳重にナルーを括り付けた。野獣化すればどうなるかわからないが、形だけでも拘束した方がいいだろう。
椅子に戻っているアクロが、器に水のようなものを注ぐと、こちらに差し出した。
飲め、ということらしいと、深く拝礼し、にじり寄るようにして器を受け取った。飲んでみるが、水なのだ、何の味もしない。そうでなければ、俺に水を味合うというだけの余裕もないかだった。
「もう争いは止められないと思うか」
アクロの言葉に、俺は頭を下げ、思考を走らせた。
争いは始まっている。
どうやったら止められるか、考えられない。俺が今まで、そういうことを考えない立場にいたこともあった。ただの奴隷であり、戦場でもただの一人の歩兵で、全体を決めることも、見通すこともなかったのだ。
目の前の敵を倒せばよかったし、その日一日を生き延びればよかった。
「正直に答えてみよ、スペース」
「兵を引けばよろしいかと」
どうにか言葉にしたが、自分でも意味のない言葉だとわかった。
人間が地下から撤退すれば、どうなるか。獣が報復を考えなければ、あるいは争いは終結する。
しかし俺は、間違いなく戦死した獣をたった今、目の当たりにしたばかりだった。
あの獣の死は、獣たちが争いをやめない理由として十分だった。
最初は獣が人間を殺したことが理由でも、人間も獣を殺してしまった以上、もはや、この争いはどちらにとっても無視できないものになりつつある。
「その娘を通じて」
俺の言葉はきれいに無視してアクロが言う。それもそうだ、俺の言葉など無意味だった。
「地下にいるものと交渉できるだろうか」
「それでもやはり、兵を引いてからではないかと」
「今朝方、三〇〇名が地下へ降りている」
なんだって?
「今すぐ、撤退か、待機させるべきです、アガロン様」
「もちろんだ。しかし、その前の隊、総勢で一〇〇名はすでに地下になだれ込んでいるだろうな」
もう引き返すことは、できないのか。
ゆっくりとアクロが立ち上がった。
「スペース、そこの娘とともにここにいろ。決して外へ出てはならない。私も争いは求めるところではないからな」
はい、と頭を下げる俺の横を抜けて、アクロは幕舎を出て行ってしまった。
静寂。
居心地の悪い、じっとりとした静寂だった。
(続く)
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