第3話

      ◆


 何が起こったか、考える暇はない。

 手を伸ばすと、裂け目にある岩の一つに手が届いた。掴む。

 肩が外れそうな激痛に、危うく指が岩から外れそうになるのを、歯を食いしばって耐える。

 突如、地面にできた割れ目には、エッセルマルク軍、オルシアス軍の区別なく、歩兵たちが落下していった。悲鳴が響き、落下を免れたものたちがどよめいている。

 俺が見ている前で、岩が震え始める。

 いきなり地面が割れたのは、地震か。

 冷静さがそう判断しても、何も事態は変わらない。

 震えが激しくなり、それが指から手、腕、肩と俺に伝わり、もう一方の手でなんとか掴むものを探した。すでに剣も盾も放り出している。

 助けてくれ!

 そう叫びたかったが、体がこわばって声が出ない。

 死ぬ。

 落ちる。

 岩にヒビが入った。早く、掴むものを探さないと。このままだと岩ごと落下する。

 この割れ目の底がどうなっているかなんて、想像できない。

 想像できなくても、死ぬことは確実だ。

 思い切って両手で岩を掴んだ。姿勢が安定した途端、ヒビから岩がついに割れた。

 その寸前に、両手に力を込めて俺はすぐそばの岩に体を放り出していた。

 手が、届くか、どうか。

 指が岩に触れた。届いた!

 が、そこに積もっていた砂であっけなく指は滑った。

 体が落下し始め、強烈に何かにぶつかる。

 張り出した岩だった。

 跳ねた体がまた別の岩にぶつかる。抱きつくように衝突し、今度こそ両手に力を込めて俺はその岩にしがみついていた。

 助かった。

 頭上を見上げる。だいぶ落ちている。

 何にせよ、まずは姿勢を……。

 岩の上に登ろうとした時、衝撃があり、岩は壁から離れていた。

 嘘だ。

 どう思っても、現実は現実であり、現実とは、俺は落下しているということ。

 どこまで落ちるのか。

 すでに体には相当な勢いがついている。

 岩に衝突すれば、骨が砕けるとか、内臓が破裂するとか、致命傷は間違いない。

 悲鳴をあげたかったのに、俺がじっと口を閉じ、目も閉じ、落ちていった。

 短い人生だった。

 奴隷になり、歩兵させられ、手柄を立てる寸前に、何故か地面が割れて地の底まで落ちていくとは。

 誰を罵ればいいのか、わからなかった。

 誰を罵ったところで、俺の死はもう確実だ。

 しかし、どこまで落ちるのか。

 激しい衝撃。人生で初めての衝撃。

 俺の意識はプッツリと途絶えた、はずなのに、目の前には様々な光景があった。

 両親が畑で農作業をしている姿。

 その二人が病で伏せっている姿。

 あの不愉快なアクロ・アルガンという騎士家のボンボン。

 ありもしない未来の手柄話をする仲間。

 戦場での悲鳴と、血飛沫、馬蹄の響き、金属同士が打ちあう高く、鈍い音の連なり。

 死ぬにあたって、全てを復習しているようだった。

 やがて何も見えなくなり、俺は全身の痛みを感じながら、これが死なのか、とぼんやり思っていた。

「どうも生きているようだね」

 遠くでそんな声がする。

 生きている? いや、俺は死んだよ。

 しかし、声だって? 死んだ後の世界でも声が聞こえるものなのか?

「引っ張り上げてやりなよ。水が冷たいだろうし」

 また別の声がした。

 息を吐く気になった。吐いた瞬間、体が何かに沈み、それが水に沈む時そっくりだった。何度か奴隷として、水に潜ったりもしたのだ。

 あの時に似ている。でもあの時は、どういう意味で水に潜ったのか。

 いや、違う、水だ!

 いきなり全身に力が蘇った。そこここが痛むし、うまく動かないが、このままだと溺れ死ぬ。

 ただ、もう遅いようだった。

 口から息が漏れ、薄暗い明かりの中、水中を気泡が上がっていくのに対し、俺は沈んでいった。

 意外に水の中も、明るいのだ。

 そう思った次に、今度こそ意識が途切れた。



(続く)

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