第32話

      ◆


 意外というより、真偽定かならぬ、という困惑がアクロの心に生まれた。

「大地の切れ目の下に、空洞があるのだな」

 場所はイナンホテプの陣地で、すでに規模は縮小され始めている。

 この場はアクロが責任者となっていた。すでに戦場に残された遺体の埋葬や、武具の回収などは全ては終わっている。

 アクロは真夏の酷暑に耐え切れず、少しでも風が通る幕舎の表に椅子を出して、日陰を作った下で職務を続けていた。

 だが、その報告はさすがに周囲に聞かせないために、幕舎の中で受けた。

 アクロの配下の兵士が指揮して、奴隷を使って割れ目の底を目指した。地割れの亀裂に無数にある遺体の回収と同時進行で探索は続き、ロープが足りなくなればすぐに繋ぎ直し、どんどんと降りて行っていた。

 報告に来た奴隷が言うには、三百メートル近い深さで空洞にぶつかったという。

 その洞窟には光が満ちていたと聞いて、アクロはそれが嘘ではないか、とまず思ったのである。奴隷が自分たちが仕事から解放されるためについた嘘。

 しかし、そんな嘘をつくだろうか。奴隷だって馬鹿ではない。

 話は続き、一人が洞窟を覗き込んだ後、いきなり落下していき、それきり姿は見えなくなった。その寸前に風を切る音がして、それから、人の怒鳴り声のようなものが聞こえてきた、と話は続いた。

 信じられない話だった。

 全てを信じれば、深い地下に空間があり、そこに人がいることになる。

 戦場においては地下に穴を掘ることはないわけではない。しかしまさか、三百メートルも下に坑道を掘る理由は少しもない。無意味だ。

 では、地下に何があるのか。

 こうなっては調べるより他になくなってしまった。何があるにせよ、誰がいるにせよ、確認せずに結論は出せない。

 アクロは報告に来た奴隷をしっかりと口止めしてから幕舎から出し、少し考えた。

 表へ出て従者に五十人隊の隊長を一人、呼ばせた。

 五十人隊の隊長はすぐにやってきた。アクロの前で彼が直立する。

「割れ目の奥に何かがあるらしい」

「何かとはなんでしょうか」

「それを調べるのが役目だ」

 とりあえずは、地面の割れ目の終着点となっている地下空洞を確保すること、おそらく何者かがいるはずで、争いは可能な限り避け、観察し、敵か味方かを見極めること、この二つだった。

 物資について打ち合わせ、また今後の展開について検討しているところに、勢いよく幕舎に入ってきたものがいる。

 誰でもない、エクラだった。

「兄上! 地下に何かがあるとか」

 つかつかと歩み寄る年の離れた弟に、アクロは露骨に顔をしかめた。

「何があるかはこれから調べる」

「しかし、一人、奴隷が帰ってきていないと聞き及びました」

 どこからその話が漏れたのか、と思ったが、帰還した奴隷しかいない。しかしまさか、あの奴隷の首をはねるわけにもいかない。

 不毛と知りながら、アクロはエクラの説得を始めた。

「事故かもしれない。大地の割れ目の奥底など何が起こるか、わからない場所だ。幻覚を見た可能性もある」

「人の声が聞こえたともいうではないですか。もしや、オルシアスのものたちでは?」

「お前がそう思いたいだけだろう。常識的に考えてみろ」

 兄とそっくりの顔になったエクラが、アクロの前で膝をついた。

「兄上、俺を割れ目の探索に加えてくれ。決して、しくじったりしない」

 しくじったりしない。その言葉のあやふやさに、アクロは舌打ちしたい思いだった。

 何がしくじりで、何が成功か、それはまだ影も形も見えないのだ。

 それなのに目の前の男が、しくじりなどと、何を示すものかわからない言葉を弄して自由に振舞おうとしている。

 アクロには弟を止める権利があったし、立場でもはるかに上だった。

 それがこの時に手綱を握れなかったのは、兄と弟、という関係性によるのかもしれなかった。

「いいか、エクラ、これは偵察だ。それ以上ではない。何が潜んでいるのか、正直、分からないのだ」

「偵察というのは心得ております。兄上の望むところを、過不足なく果たしてご覧に入れます」

 もういい、行け、とアクロは乱暴は身振りでエクラを退室させた。彼は希望が叶ったからであろう、軽快な足取りで幕舎を出て行った。

 アクロはもう一度、五十人隊長を呼び戻した。

 五十人隊長は困惑して戻ってきたが、主君の険しい顔に、自分が無理難題を押し付けられるのだ、と直感した。

「弟が探索に参加したがっている。主導権は決して渡すな。とにかく、気をつけてやってくれ」

 五十人隊長は直立し、短く返事をしたが、内心では苛立つしかない。

 領主の弟が、その立場を笠に着て指揮官ヅラするのは明らかだった。それを五十人隊長として諌める、諭すのは、並大抵ではない。五十人隊長もエクラという人物について知悉していた。乱暴で、単純で、愚直な上に愚直。

 楽な仕事ではない。

 幕舎を出て部下のところへ戻りながら、五十人隊長は悲観的になるのをやめられなかった。



(続く)

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