第22話

     ◆


 まぁ、こんなもんだよねぇ。

 俺のそばに座り込んだナルーが、のんびりと言う。

「いや、変に展開が早まってないか?」

「え? 何が?」

「だから、街に忍び込んで俺に対する意識が変わったというか」

「そんなことないって。どう考えても、いつまでもここには置いておけないし」

 どこまでもナルーは気楽なものだけど、俺としては自分の未来に関して、考えざるをえない。

 それに、ラックラが剣を没収して行ったので、剣術の稽古は出来なくなっている。もっとも組打ちはできるわけだけど、そういう気分でもなかった。

「牢って言っても、ちょっとした建物だし、心配ないと思うよ」

 やっぱりナルーは呑気だった。

 そりゃ、牢に入れられるのは自分じゃなくて、俺だしな……。

「組打ちでもする? 他にやることもないし」

 それもそうだ、と俺が無言で立ち上がるとナルーも反動をつけて立ち上がった。

 構えをとって向かい合うと、少しだけ不安も消えた。

 これでナルーを投げ捨てられればいいんだが。

 間合いが一瞬で消え、二人が組み合う。投げの打ち合いになる。重心を崩し、足を払い、腕を手繰り、振り回し、それに対して踏ん張り、姿勢を取り、力をいなし、とにかく複雑だ。

 つい数週間前まで、自分がこんなことができるようになるとは思わなかった。

 結局、ナルーの技が上回り、俺は足を払われるのを回避した瞬間、一本背負で背中から地面に落ちた。受身を取ったので、それほどの痛みでもない。ナルーも手加減している。

「ねえ、あなた」

 起き上がった俺ともう一度、向かい合いながらナルーが問いかけてくる。

「自分の知らない世界を目にするって、どういう気持ち?」

 答えづらい質問だった。

 呼吸を読んでいるふりをして、黙る。

 質問は続く。

「自分が知らない世界に迷い込んで、その目と鼻の先で何もできないって、どういう気持ち?」

 おちょくっているわけではないだろう。

「そうだな」

 答えながら、呼吸を読まれないように注意する。

「何も変わらないよ」

 言いながら俺は足を踏み出した。実戦の中で身につけた、重心を横にスライドさせるような踏み込み。

 拳を繰り出すのをナルーが機敏な反応で避け、逆に腕を掴まれそうになる。

 腕を引きながら膝蹴り。これをナルーが膝を上げて受けるが、俺の方が体が大きいのでナルーがよろめく。

「なにも変わらない!」

 声を発しながら、こちらに繰り出されたナルーの拳を受けざま、その腕を絡め取る。

 膝蹴りを受けられるのは想定済み、その蹴りは足を送る予備動作も兼ねている。

 腕を引きつつ、足を払い、投げ捨てる。

 そのはずが、ナルーは空中で体をひねって着地すると、その時には掴みにいった俺の手が逆に掴まれ、引きずられ、足が地面から離れる。

 振り回されるままに投げ倒されたのは俺で、床に衝突した時にはすでに腕を極められている。

 どこにこれだけの力が宿るかわからないナルーの細腕を何度も叩くと、やっと開放してもらえた。肘が激しく痛む。

「何も変わらないものなの?」

 俺のすぐ横に座り込んでいるナルーに、まあね、と答えながら、何度か肘の様子を見た。一応、後で生命の川の水を当てておこう。

「もっと興奮したり、探検したいとか、そう思わないの?」

「うーん、思わないかな。っていうか、見たところで元の世界に戻れるわけでもないし」

「元の世界に戻りたい?」

 また答えづらい質問だった。

 元の世界に戻ったとして、どこへ行けるだろう。また奴隷として生きていくのだろうか。

 この地下空間の洞窟で過ごした日々は、俺という人間をだいぶ大きく作り替えていた。

 きっともう、奴隷の生活には戻れないだろう。

 奴隷の生活に戻るくらいなら、ここで生きていきたい。

 俺はもしかして、もう地上に戻ろうとは思っていないのだろうか。

 戻りたいと思っているのは、錯覚か。

 この異郷の地で、自分とは少し違う人たちと生きていくことを、選ぼうとしているのか。

「どうしたの?」

 ハッとした時には、ナルーがこちらに身を乗り出して、顔を覗き込んでいる。思わず背けるけど、別に後ろめたいところはない、はずだ。

「実はね」

 ナルーがちょっと声を小さくした。見張りに聞こえるわけもないが、それを避けているようでもあった。俺も自然、耳を澄ました。

「私、外の世界に興味があるの」

「……なんだって?」

「だから、地上を見てみたいのよ」

 思わぬ言葉だった。俺が驚きのあまり何も言えずにいると、ナルーが嬉しそうに説明を始めた。

「伝承の上では知っているけど、本当には存在しないのかも、って思っていたところにあなたが落ちてきてさ。やっぱり地上はあるんだ、と思ったし、それにあなたの話を聞いてみたら、途方もない数の人間っていうのがいて、しかも地上はものすごく広いって言うじゃない。そんな世界、見なかったら損だよ」

 損とか得とか、そういう話でもない気もするけど……。

「ナルーはきっと、すごく目立つと思うな」

「この耳と尻尾のせい?」

 手で触れてみせる様子に、俺はちょっと笑っていた。

「いや、あまりにも周りに興味を示しすぎて、というか」

 そんなことないよー、とナルーは可笑しそうな顔になり、そしてちょっと首を傾げた。

「そういうあなたこそ、私たちの世界に無関心すぎない?」

「そうかもね。なんとなく、その……」

 地下世界のことを知ってしまったら、本当に地上へ戻る気力を失いそうで。

 そう言葉にすることもできた。

 できたけど、俺はそうしなかった。

 立ち上がって、服の埃を払って構えを取り直す。俺の誤魔化しを、ナルーは受け入れてくれた。彼女も立ち上がり、「さっきの攻防のおさらいをするけど」と組み合う形になる。

 俺の力が彼女に伝わり、彼女の力が俺に伝わる。

 今はそれだけの関係でいい。

 俺はまだ、結論を出すには、決意が足りないようだ。



(続く)

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