第56話 赤坂結心

 話をミサと久美の写真集の発表会があった月曜日の昼前に戻す。ロックのボイストレーニングを終えて、明日夏、ハートレッド、久美が練習室から出てきた。

「明日夏、冗談じゃなくて、ロックはレッドに敵わなくなってきているよ。」

「本当に一瞬で私を抜かしていったね。さすがはレッドちゃん。」

「有難うございます。でも、癒しの歌なら明日夏さんに全然かないません。」

「そうだよね。私はそっちだよね。有難う、レッドちゃん。」

「しかしなあ、明日夏は私の一番弟子なんだから。」

「橘さん、ロックなら、ミサちゃんを一番弟子、レッドちゃんを二番弟子にした方がいいと思います。」

「本当にそうなりそうだ。」

「本当にそうなります。」

「口の減らないやつだな。」

「でも、私も橘さんのおかげで歌自体は上達したと思います。」

「まあ、前は酷かったからね。」

「橘さん、酷いです。」


 もう一つの練習室では由香が亜美のダンスの練習に付き合っていた。3人が練習室から出たのを見て、二人も練習室から出てきた。

「由香、亜美さん、お疲れ様。隣から見ていたけど、由香のダンス、やっぱり切れ味がすごく鮮やか。」

「サンキュー、レッド。社長たちと橘さんが出発したら、いっしょにダンスの練習をしようぜ。」

「うん、そうしよう。明日夏さんも一緒にいかがですか?」

「レッドちゃん、それはいじめだよ。」

「それじゃあ、明日夏さん、ベリーダンスをやりましょう。こういうやつ。」

ハートレッドがベリーダンスの腰の動かし方を使ってセクシーな動きをする。明日夏が感想を言う。

「すごいねー。社長が目を見開いている。」

「明日夏ちゃん、そんなことはないけど、レッドちゃん、それは事務所で習っているの。」

「私は所属したときから習っていますが、『ハートリンクス』のメンバーも、今は全員習っています。」

「でも、レッドちゃんが一番上手なんだろうね。」

「上手かどうか分かりませんが、一番似合っているとは言われています。」

久美も感想を言う。

「レッドのそれ、私が全裸でロックを歌うより男には魅力的かもしれないな。」

「有難うございます。それでは、橘さんもいかがですか?」

「今日は記者会見に行かなくちゃいけないから。でも、明日夏がそれを踊るところを見てみたいな。」

「橘さん、笑えると思っているんでしょう。」

「ははははは、そうだな。」

「橘さん、酷いです。」


 由香がハートレッドに呼びかける。

「レッド!」

「何、由香?」

「それ、絶対、豊の前ではやるなよな。」

「いいけど、それより由香が練習して、豊さんの前でやった方がいいんじゃない?」

「俺がか?・・・・・うーん、俺がか。」

「迷うなら、後でちょっとやってみようよ。」

「おっ、おう。」

「亜美さんもどうですか?」

「レッドさんのお気持ちは嬉しいですが、今日はダンスはもういいです。それより、明日夏さん、後で普通の歌の練習をしませんか。」

「そうだね。ダンスは由香ちゃんとレッドちゃんだよね。何の歌にする。」

「みんなの歌の曲か、ジブリの曲がいいです。」

「そっ、それは、もしかして?」

「アイシャが歌うと徹君が喜ぶと言っていました。」

「だと思った。」

「亜美さん、徹君にベリーダンスを踊ってみたら?」

「レッドちゃん、小学2年生相手にベリーダンスを踊ったら、変態お姉さんだよ。」

「掲示板の亜美さんの投稿は行くところまで行っちゃっていましたけど。」

「それはそうだったね。でも、ベリーダンスよりは歌の方がまだいいんじゃない。それじゃあ、亜美ちゃん、後でジブリの曲を練習しよう。」

「はい、アイシャには負けたくないです。」

「亜美ちゃん、分かった。」


 時計を見たハートレッドが悟に尋ねる。

「ところで、皆さん、昼食はどうするんですか。」

「平日の午前中は久美と僕しかいないときが多いから、近くのコンビニかサンドイッチの店で買ってくることが多いかな。」

「それじゃあ、近くの牛丼屋で牛丼を買ってきましょうか?普通のチェーン店ですが。」

明日夏が少し驚いて言う。

「お嬢様のレッドちゃんが牛丼。意外だね。」

「明日夏さん、今では家の周りはすごくにぎやかになりましたが、祖母はそうなる前から住んでいて、私の育ちはあまり良い方ではないです。お嬢様というなら、監督とお兄さんのお友達のアキさんの方だと思います。」

「なるほど。」

「俺は、ダンスのイベントがあるとレッドが昼食に牛丼を食べているのを見ていたから、それほど意外じゃない。」

「確かに牛丼屋に由香たちも居たよね。それなら、由香と私は同じ釜の飯を食べた仲ということになるのかな。」

「でも、俺はいつもレッドに怖い目で見られていた気がする。」

「ごめん。たぶんあの頃は、私が全力で頑張っても、由香にいつも負けていたから恨めしかったんだと思う。」

「いや、俺も豊がレッドの方をチラチラ見るから、同じだったかもしれない。」

「由香の場合、怖い目というよりは、ダンスが上手で、彼氏がいて、勝者が敗者を見下す目だったような気がするけど。」

「全然違う。豊を取り合ったらレッドに絶対に勝てないから、ここに居るな、豊を見るな、あっちに行け、みたいな感じだったと思うぜ。」

「それは意外。今はいても大丈夫?」

「豊にちょっかいを出さないなら大丈夫だ。」

「うん、絶対に出さない。」

「それなら、大丈夫だ。」

「有難う。明日夏さんは牛丼で驚いていましたが、明日夏さんは、牛丼とかを食べたりしないのですか?」

「昔はサンボの牛丼を食べたりしたけど、閉店してからは食べていないかな。」

「サンボと言うと、秋葉原の閉店した伝説の牛丼屋ですか。」

「さすが博識のレッドちゃん。その通り。」

「私は行ったことがないのですが、喫茶店の古炉奈(ころな)や肉の万世のレストランも閉店して寂しさを感じる人も多いそうです。」

「古炉奈は知らないけど、肉の万世がなくなるのは悲しかったよ。」

「さすがです。」

「ところで、牛丼でいいなら、僕が買ってくるよ。」

「社長はこれから重要で大変な仕事がありますし、今日は私は仕事がありませんから、地元の私が行ってきます。」

「レッド、社長の重要で大変な仕事って言うのは?」

「記者会見で橘さんがちゃんと話せるようにすること。」

「それは、レッドの言う通りだな。社長、俺もレッドに付き合うから大丈夫だ。」

「由香、サンキュー。それではみなさん、何を買ってくるか決めて下さい。メニューはこれです。このアプリで注文もできるんですよ。」

「レッドは常連なんだな。それでレッドは何にするんだ。」

「もちろん、チーズ牛丼。」

明日夏がまた驚く。

「いや、レッドちゃん、それネタで言っていない?」

「いいえ明日夏さん。オタクの食べ物というイメージがありますが、美味しいです。」

「それじゃあ、私もチー牛にしてみようかな。」

「分かりました。」

「俺もそうするわ。」「私も。」「それじゃあ、僕もチーズ牛丼にしてみるよ。」

「私はチーズ牛丼の小で。記者会見で水着にならないといけないからな。」

「久美、それで足りる?」

「足りないけど、私が歌うのは2曲だからなんとかなる。だが、夜の打ち上げは飲み放題だから、悟、最後まで付き合え。」

「分かった。」

「ということは、チーズ牛丼の普通盛5つと小盛を1つですね。」

「うん、それで大丈夫。」

「店に到着するころには出来上がっているから、由香、行こう。」

「了解。」


 ハートレッドと由香が牛丼を買いに出た。悟が全員分のお茶をいれていると、二人が戻ってきた。

「買ってきました。」

「噂のチーズ牛丼だぜ。」

「お帰りなさい。注文が済んでいるから早いんだね。」

「はい、その通りです。」

ハートレッドと由香がチーズ牛丼を配ると、全員でいただきますをして食べ始める。

「へー、これがチー牛ね。」

「明日夏さんは初めてなんですね。」

「うん。サンボにはなかったからね。」

一口食べた明日夏が感想言う。

「美味しいジャンクフードと言う感じだね。」

「なるほど。その表現、分からないこともないです。」

亜美がチーズ牛丼を食べているハートレッドを見ながら言う。

「でも、やっぱりハートレッドさんには似合わないです。」

明日夏が答える。

「亜美ちゃんには良く似合っているよ。」

「明日夏さんにも似合っています。ハートレッドさん、チー牛が似合わないコンテストがあれば、日本一になれるんじゃないですか。」

「えー。それはミサさんじゃないかな。」

「そうかもしれませんが、二人で一位二位を争いそうです。」

「亜美さん、うちは全然お金持ちとかではないですし、食べてきたものも普通の人と同じで、外食も牛丼とかラーメンとかハンバーガーとかが多かったです。」

「それが不思議なんです。何でそういう普通の家庭にこんな美人が生まれたのか。レッドさんのお母さんがすごい美人な人なんですか?それともお父さんがすごいイケメンとか?」

「亜美さん、この際ですから私のことをお話しますね。えーと、私の母は美人と言われていますが、私は母方の祖母に似ているみたいです。」

「そうなんですね。」

「その祖母は、一代でお金持ちになった有名な人の妾で、今の青山の家はその時に祖母がもらったものなんだそうです。」

「そっ、そうなんですか。」

「父親の方は、私は母が結婚する前に生まれていて、私の本当の父は誰だか知らされていません。それで、今の父親の籍にも入っていません。」

「なんか余計なことを聞いてしまったようで、ごめんなさい。」

「いえ、大丈夫です。ですので、私はあまり育ちのいい人間とは言えないです。」

悟が意見する。

「大変なことがあったのかもしれないけど、レッドちゃんは何も悪くないから、気にする必要は全然ない。今のまま頑張っていくのがいいと思う。」

「有難うございます。母は妾の子ということで、いじめられたこともあったみたいですが、私にはそういうことはなかったでした。」

「それは良かったと思う。」

久美も同意する。

「私も悟と同意見。だからと言って歌の練習は手加減しないけど。」

「はい、よろしくお願いします。」

「でも、有名なお金持ちのお妾さんだったとすると、レッドさんのおばあさんもすごい美人だったんですか?」

「はい、祖母は本当に美人だったそうです。田舎の中学を卒業してから、一人で東京に出てきて、小さい会社で働いたそうです。そこにたまたま親会社の社長が視察に来て、祖母が見染められて、妾にさせられたそうです。」

「妾にさせられたって?」

「祖母は田舎から出てきて一人ぼっちで、頼りにしていた会社の人は親会社の社長に誰も逆らうことができなかったですので、すぐにその社長の秘書にさせられて、気が付いたら18歳で社長の妾になっていたそうです。」

「親会社の社長に18歳で妾にさせられるって、酷い話ですね。」

「18歳は今の私と同じ歳ですから、妾になるときはつらかったんじゃないかと思います。ただ、田舎の実家は貧乏で、仕送りをしなくてはいけなかったみたいですので、他に方法がなかったのかもしれません。そうだ、若い時の祖母の写真をお見せしますね。」

ハートレッドがスマフォを使って、若い綺麗な女性と、元気がありすぎそうな中年の男が写った昔の写真を見せる。

「亜美さん、この女の人が祖母です。」

「本当だ。レッドさんに似てすごい美人だと思います。」

「有難うございます。」

明日夏もハートレッドのスマフォを覗き込み、吐き捨てるように言う。

「くそじじいか!」

悟が明日夏に言葉遣いを注意しようとして途中で止まる。

「明日夏ちゃん、くそじじいって。えっ、おじいさんの方???」

「レッドちゃんは、このじじいの名前を知っている?」

「北崎、何とかと言っていたと思いますが。」

「北崎康次?」

「はい、そうだったと思います。かなり個性的な人だったという話です。有名なお金持ちらしいですが、明日夏さん、よくご存じですね。」

「個性的と言うより、かなり酷い人だった。レッドちゃんの苗字がおばあちゃんと同じだとすると、レッドちゃんの苗字は赤坂というんじゃない?」

「はい、そうです。赤坂結心と言います。」

明日夏が土下座をする。

「うちのくそじじいが、レッドちゃんの家族に大変な迷惑を掛けて本当にごめんなさい。」

「えっ!?」

亜美が説明する。

「そう言えば、明日夏さんの苗字は小学校2年までは北崎と言っていましたね。」

「うん、そう。離婚した時に私は母に引き取られたから、苗字が神田に変わった。うちの親戚の男どもはロクな奴がいない。」

「明日夏さん、母は北崎さんに認知はしてもらえませんでしたが、祖母は別れた後も普通以上の生活費をもらっていて、経済的には普通以上の生活ができていたみたいですので、明日夏さんが謝る必要はないです。」

「あいつら、お金だけはあるからね。でも、私もレッドちゃんと似たようなものかな。」

「お母さんが離婚しても、明日夏さんの養育費は払ってくれたということですね。」

「そういうこと。でも何か許せない。」

「弁護士からお金は送られてきましたが、北崎さんと会うことができなくなって、祖母は寂しそうにしていたということです。」

「レッドちゃん、それは寂しいんじゃなくて、復讐ができなくて残念そうだったんだよ。」

「そうでしょうか。」

「絶対にそうだよ。」


 悟が二人に話かける。

「ところで、今の二人の話からすると、明日夏ちゃんとレッドちゃんは、同じ人の孫と言うことになるの?」

「はい、レッドちゃんには申し訳ないですが、そういうことだと思います。」

「私は妾の子孫ということになりますが、そうなると思います。」

なぜか明日夏とレッド以外の全員が「なるほど。」という顔をする。

「良く分かったよ。」

「社長、何が分かったんですか。」

「いや。レッドちゃんと明日夏ちゃんが大変だったということかな。」

久美も同意する。

「私もそう思った。明日夏はオタクの楽天家で、レッドはいい子だと思っていた。」

「人間はそんなに簡単なもんじゃないということだね。」

「そうね。」

ハートレッドが答える。

「でも、私の方は本当に気にしなくて大丈夫です。」

「私も普通に扱って大丈夫です。たぶんだけど、レッドちゃんのおばあちゃんは、清美さんって言うんだよね?」

「その通りです。赤坂清美と言いました。」

「寂しそうにしていたと言っていたから、もう亡くなられたの?」

「はい。祖母は、まだそれほど歳と言うわけではなかったのですが、5年ぐらい前にガンで亡くなりました。祖母のお棺の中にはさっきの北崎さんといっしょの写真だけを入れたと母が言っていました。」

「そうなんだね。それも寂しい話だね。」

「明日夏さんのおじいさんの方は?」

「申し訳ないけど、まだ生きている。ガンで余命があまり無いと言われていたけど、歳で進行が遅いのか、しぶとい。」

「うちの母もガンと分かって5年ぐらいしてから亡くなりました。でも、私は一度北崎さんにご挨拶に行った方がいいんでしょうか?」

「お礼参りで、じじいを一発殴るため?」

「違います。単なるご挨拶です。」

「うーん、それはじじいへのご褒美になりそうだからやめておいた方がいいかな。それに、おばあちゃんは、清美め、とか逆恨みしているようなことを言っていたし。」

「奥様には悪いところはないですので、悲しいことですが、うちのおばあちゃんが恨まれるのは仕方がないかもしれません。」

「悪いのはじじいだけ。でも、じじいを管理する責任はおばあちゃんにもあるんだから、レッドちゃんのおばあちゃんを恨むのは逆恨み。」

「二人の歳の差や立場を考えれば、僕もレッドちゃんのおばあさんが恨まれることはないと思うよ。」

「社長の言う通り。でも、おばあちゃんには、レッドちゃんのことを知られないようにした方がいいかな。フランスに住んでいるから大丈夫だとは思うけど。」

「明日夏さん、それはおばあさまが悲しむということですか?」

「ううん。おばあちゃんは、まだお金を持っているから、レッドちゃんにちょっかいを出そうとするかもしれない。」

「そうですか。」

「あの、レッドちゃん。そういう時は僕に言って。」

明日夏が答える。

「社長、持っているお金の桁が違いますので、社長じゃ何もできないと思います。」

「明日夏ちゃん、酷い。」

「社長、お気持ちだけでも嬉しいです。」

「レッドちゃん、できることはするから。」

「分かりました。その時は頼らせて頂きます。」

「うん、いつでもどうぞ。」

「でも本当のところは、おばあちゃんがそういうことをしようとすると、たぶん、おばあちゃんがセーヌ川に浮かぶことになる。」

「えっ、それは逆じゃないですか?」

「逆じゃない。そういうことはマー君も絶対に許さないから、おばあちゃんや護衛がマー君にちょっかいを出そうとして、尚ちゃんとミサちゃんが激怒して、そうなる。」

「護衛がいても?」

「おばあちゃんの護衛はフランスのDGSE、対外治安総局のOBなんだ。そのDGSEはフランスの核実験に反対した環境活動家の船を爆破して、人を死なせたりするロクな組織じゃないんだけど、尚ちゃんとミサちゃんに敵うわけはないし。」

「でも、さすがに元フランスの国家機関の職員なら、プロデューサーとミサさんでも無理じゃないですか?」

「まあ、とりあえず、レッドちゃんはあまり心配しなくても大丈夫だよ。おばあちゃんのことは、私の兄妹にお願いしても絶対に何とかするから。でも、唾液でDNA鑑定ができるから、念のため私とやってみる?」

「はい、はっきりさせた方がいいですのでお願いします。」

「あと、しばらくの間はレッドちゃんの本名は公表しないでいてくれる。」

「はい、公開する予定はありませんが、そうします。あの明日夏さん、これからもよろしくお願いします。」

「こちらこそ、よろしくね。」

「はい。」


 久美たちが出発する時間になって、悟が話しかける。

「レッドちゃんのことがいろいろ分かって良かったけど、久美、僕たちはもうそろそろ出発しないと。」

「本当だ。結構時間が経ってるね。まだ間に合うけど。」

「それじゃあ、忘れ物をしないように。」

「分かっているよ。」

「それじゃあ、僕たちは行ってくるけど。レッドちゃんの件は、身近な人にも勝手に話すことはないようにして。みんな、プロの芸能人だから分かっているよね。」

「社長、了解。それでは、頑張ってきて下さい。」

「絶対了解だぜ。行ってらっしゃい。」

「はい、大丈夫です。行ってらっしゃい。」

久美と悟が事務所から出発して行った。


 会場に向かうバンの中で、久美が悟に話しかける。

「レッドの話は驚きだった。みんないろいろ大変なんだな。」

「久美の言う通りだけど、レッドちゃんの家の場合は、美人すぎることが良くない方に働いた感じかな。」

「仕事を選べれば良かったんだろうけど。」

「そうだね。北崎さんのことは明日夏ちゃんに任せるとして、教えてもらえないと言っていた、レッドちゃんの本当の父親の方は大丈夫なのかな。」

「そうか。そっちもあったね。」

「レッドちゃんを見ている限り、家庭内が酷いということはなさそうだけど。」

「本当に酷い家庭なら、大学なんて行かないでアイドルで稼げとか言いそうよね。」

「そうだね。大学に受かると気持ちも楽になるかもしれない。」

「それは少年とラスカルに頑張ってもらおう。」

「分かった。誠君には、あとでお願いしておく。」


 この後の記者会見の様子は前話で書いた通りである。夜に悟がホテルから事務所に戻った時には、明日夏とハートレッドは既に帰った後で、久美だけが残っていた。その後二人は、徹夜で朝4時ごろまで尚美から渡されたブランディーを飲んでから、事務所のソファーと床でそれぞれ寝ていた。


 翌日の火曜日、朝8時半ごろにハートレッドがやってきた。小声で、

「お酒臭い。」

と言いながら、暖房を強めて事務所の窓を少し開けた。久美には毛布が2枚かかっていたが、悟が何も被っていなかったため、

「橘さんの毛布は、社長がかけたんだろうな。」

と小声で言いながら、レッドが自分のコートを誠に掛けた。


 少しして、悟が目を覚まして、ハートレッドに尋ねた。

「レッドちゃん、おはよう。このコートはレッドちゃんの?」

「お早うございます。はい、そうです。社長に何もかかっていなかったので。」

「すごい嬉しいんだけど。」

「橘さんに誤解されるのが怖いですか?」

「いやそうじゃなくて、レッドちゃんは溝口エイジェンシーのトップアイドルだから。」

「確かに社長はイケメンですから、噂になりそうですよね?」

「僕のことはともかく、事務所がかけているお金がうちとは桁違いだから、いろいろ制約が厳しんじゃないかと思って。」

「そうかもしれませんが、これぐらいは大丈夫だと思います。ところで、社長の写真集、楽しみにしています。」

「いや、僕は出さないけど、昨日の配信を見ていたのね。」

「はい。ここで明日夏さんといっしょに見ていました。明日夏さんと私が橘さんを巻き込んで、社長の写真集の話を進めようということになっています。」

「ははははは。」

「あと、社長、私が誤解されないためなら、寝袋を買っておいた方がいいと思います。」

「そうだね。引っ越した時に古いやつを捨ててしまって、新しいのを買うのを忘れていたから、後で何枚かネットで注文しておく。」

「それがいいと思います。」

「それで、レッドちゃん、今日は明日夏ちゃんとストーリー創り?」

「はい、それも明日夏さんが来たらやりますが、その前に、宿題がお兄さんと監督からメールで急に送られてきて、朝はそれをやりにきました。」

悟は「昨日、僕が誠君に頑張ってと言ったからかな。」と思いながら答える。

「宿題は、パスカルさんからも?」

「はい。プロデューサーから送られてきたので、『ユナイテッドアローズ』のウェブページにあった問合せ連絡先(誠とパスカルにメール転送される)に聞いてみたら、宿題をちゃんとやったら、二人がどんなポーズでもしてくれて、キスシーンでもいいという約束をしてくれたので、頑張っています。」

「キスシーンでも!?」

「はい。お兄さんは、演技のキスは本当のキスじゃなくて、人工呼吸をするのと同じと思えばいいって書いていました。」

「そう言えば、昨日、誠君は記者さんに人工呼吸をしていたけど、もしかすると、レッドちゃんは、映画でのキスシーンがファーストキスになるかもしれないってことを、誠君たちに話したことがあるの?」

「はい。共通テストの前の家庭教師の時に話しました。もちろん、お兄さんと監督がキスをした上に自分がキスをするという計画は言っていませんが。」

「やっぱり、そうなんだね。」

「お兄さんと監督がキスでもいいと言ったのは、映画の演技のキスは人工呼吸と同じでキスでないことを実演で示すためにですか。」

「うん、その通り。」

「その通りかもしれませんね。・・・・・・いや、もしかしたら、それを二人でファーストキスをする言い訳にしているだけかも。」

「ははははは、レッドちゃんも、妄想が激しくなったね。」

ハートレッドが微笑みながら答える。

「はい。・・・・・でも、とってもいい人たちだと思います。」

「それは、そうだと思うよ。それで、二人の話はともかく、僕も大学は受かっておいた方がレッドちゃんに自信がついていいと思うから、レッドちゃんも頑張ってね。」

「はい、そのつもりです。」


 その後、悟とハートレッドが、それぞれ、事務処理と受験勉強をしていると、10時20分になった。

「さて、勉強は一休みして、社長、ワイドショーでも見ましょうか。」

「昨日の記者会見ね。」

「そうです。」

ハートレッドがテレビを付けると、久美がのそっと起きた。

「悟、おはよう。レッド、来ていたんだ。」

悟が用意してあった二日酔いの薬と水を久美に渡しながら答える。

「久美、おはよう。」

「おはようございます。来週の月曜日が二次試験なので、勉強しに来ました。プロデューサーが今週は練習や仕事を抑え気味にしてくれたので、今日は夜まで仕事がありません。」

「さすが尚ちゃんだと思うよ。」

「うん。でも、変わった事務所の使い方ね。」

「うちとしては大歓迎だよ。」

「そうね。レッドがベリーダンスを踊ってあげれば、悟も満足するんじゃないか。」

「久美、レッドちゃんのベリーダンスは、たぶん10分で一千万円ぐらいの価値があるから、気安く言わない。」

「そうか。」

「あの、社長、いいですよ。服を着てていいなら、社長のためにいくらでも踊ります。」

「悟、服を着てということは、残念ながらレッドは悟には気がないようね。」

「それは残念。でも、レッドちゃんはレッドちゃんが本当に好きな人といっしょになるのがいいと思う。」

「昨日の話ですね。はい、お母さんは今の父を好きそうなので、良かったのかなとも思っています。まあ、私はあまり好きじゃないんですけど。」

「レッドちゃんは周りに惑わされないで、最後は自分で考えて決めることが必要かな。」

「有難うございます。」

「でも、レッド。もし誰もいなかったら悟はお勧めだから。」

「私もそう思いますが、橘さん、残念ながら社長も私には興味がないと思います。さっきの、それは残念っていうのも、全く残念そうではなかったですし。」

「レッド、でも、そうなんだよ。悟は昔からすごい綺麗な人にもモテたのに、あんまり女性に興味がないみたいで。悟はやっぱり今はやりのBLなのか。」

「それは違うと思いますけど。」

「でも、少年とか好きそうだし。」

「えっ、監督のライバル出現ですか。それはっ、それはいいですね。」

「二人とも勝手なことを言わない。」

「すみません。・・・あっ、テレビで昨日の記者会見の話が始まりました。」

「本当だ。悟が映っている。」

「久美もね。でも、僕たちがテレビのワイドショーで取り上げられるようになるとは思わなかった。」

「それはそうね。」


 3人でワイドショーを見始める。ハートレッドが久美の様子を見て感想を言う。

「橘さん、もう少し落ち着きましょう。」

「そうだけどさ。美香は何であんなに平気なんだ。」

「素質や練習もありますが、最後は場に慣れることだと思います。ですから、少しぐらい失敗しても何度でも経験することが必要だと思います。」

「それは、レッドちゃんの言う通りだね。」

「レッドの言うことは分かるけどさ。悟、恋愛もそうだぞ。」

「・・・・・。」

「それなら、橘さんが社長に手ほどきしてあげてみてはいかがですか。」

「レッド、さすがにそれじゃあ真面目に生きてきた悟が可哀そうだ。うーん、『ジュエリーガール』ズは全員彼氏持ちか。でも、あいつら、1年ぐらいしか続かないから、別れた時を狙えばいいんじゃないか。去年のサファイアとか3か月で別れていたし。」

「僕と『ジュエリーガールズ』じゃ、セクハラかパワハラになるよ。」

「でも、『ジュエリーガールズ』のメンバーの方、みなさんすごいんですね。」

「まあ、ガールズバンドにしては演奏技術が高いから、そういう子が好きなバンドマンで取り合いになっているみたいだ。」

「それに、ちょっと怖そうですが、皆さん可愛い方ばかりですからね。」

「正直すぎるだけで、悪い奴はいないけどな。」

「悪いというのは、男性に関して二股をかけないということですね。」

「そうだね。ちゃんと別れてから次に行っている。」

「なるほど。でも、お互いが知っていても悪いですか?」

「男性二人が了解しているということか?うーん、私じゃ分からないな。悟はどう思う?」

「レッドちゃん、少年とパスカルさんということ?」

「そうです。後は、例えば、大輝さんと治さんと翔さんと英樹さんと和さんとか。」

「レッド、『デスデーモンズ』5人一度にか。」

「はい。」

「私の理解は超えているけど、悟、本人たちが了承しているならいいのか?」

「うーん、レッドちゃんは恋人じゃなくて、そういう人たちの、仲間になりたいんじゃないのかな?」

「社長の言う通りかもしれません。『ハートリンクス』のメンバーもいい子ばかりなのですが、やっぱり私が気を張っちゃって。その点、お兄さんとか監督とか、『デスデーモンズ』の皆さんも一緒にいても気が楽で。」

「なるほどね。『デスデーモンズ』のやつら、楽かもしれないけど、いっしょに居ても刺激がないだろう。」

「別に刺激は求めていませんので。」

「安らぎが欲しいのか?」

「うーん、もしかすると橘さんの社長みたいな間柄でしょうか。」

「私にとっての悟か?まあ、そう言われれば分からなくもない。」

「家も近いなら、遊びに来るだけでもいいので、気楽にしていてね。」

「有難うございます。その代わり大学に入って、可愛くて胸が大きな子がいたら、社長のためにここに連れてきますね。」

「悟、良かったな。」

「別にそういうことをしなくていいから。ここはモデル事務所じゃないし。」

「音楽事務所でしたね。ハードルが高くなりますが、楽器か歌も『ジュエリーガールズ』ぐらい上手なことが必須ということで探してみます。」

「それなら、別に可愛くなくても構わないから、いつでもオーディションをするよ。」

「可愛くなくてもいいけど、胸が大きいことは必須なんですね。分かりました。それで探してみます。」

「レッドちゃん、・・・。」

「あっ、歌のパートが始まります。」


 テレビでは写真集や記者が倒れたことの説明があった後、歌の場面が合わせて1分ぐらい流れた。

「やっぱりミサさん、歌もスタイルもすごいです。私も脚が短い方ではないのですが、ミサさんには全然敵わないです。」

「久美、ミサちゃんの歌、また良くなっているよね。」

「そうね。改めて聴くと、切れが良くなっている。気持ちの載せ方も上手になっている。」

「それにミサさんは水着とか関係なく、本当に堂々と歌っていますよね。」

「それもそうね。この美香なら全裸で歌っても本当に違和感がないかも。」

「久美、さすがにそれは無理。」

「はい、男性の皆さんには歌どころじゃなくなると思います。」

「なるほど。」

「でも、橘さんもステージでは、下はジーンズでもいいですが、派手な水着のような恰好で歌ってみたらいかがでしょうか。橘さんが魅力的に見えると思うのですが。」

「僕にはレッドちゃんの言いたいことはよく分かるけど。」

「私は全然分からない。」

「ということだから、やっぱりダメかな。」

「社長、そんなに簡単に引き下がらないでください。そういう恰好で歌う有名なロック歌手ならいくらでもいますし。最初に見て興味を持ってもらえれば、歌を聞いてもらえますし。それで歌を気に入ってもらえれば、ファンになってくれます。」

「レッドそんな恰好で歌えるのか。」

「次の『私に熱中してよ』の衣装は、下がスリットスカートで、上は花柄のビキニの水着のようなもので、ダンスもベリーダンスではないですが、セクシーなものになるそうです。」

「さすがだな。でも、昨日それは私には無理と分かった。」

「歌っている時に堅くなっているように見えましたが、数をこなせば慣れると思います。社長も、橘さんのためになると思うなら、そこは社長が押さないと。」

「僕にとっては、久美がしたいようにして売れるのが一番だから。」

「なるほど、そうなんですね。分かりました。」

「レッドちゃんが久美のことを本当に考えて言ってくれているのは、僕には分かったから。レッドちゃんのところと比べて、うちはプロになりきっていないのかもしれない。」

「私も生意気なことを言って、申し訳ありませんでした。演者を大切にするところが、パラダイス興行の良いところでもあるんですよね。それは分かっています。」

「有難う。」

「でも、社長はせっかくイケメンなんですから、苦労しすぎて禿げないで下さいね。」

「ははははは。分かった。」

「悟が禿げたら、半分は私のせいか。」

「いや、久美、そんなことは気にしなくていい。」

「うーーーん。」

どうしようか悩む久美だった。

「それじゃあ久美、仕事にもどろうか。レッドちゃんは勉強ね。」

「はい。」


 また、3人がそれぞれの仕事を始め、昼食には悟が買ってきたサンドイッチを食べ、午後になると明日夏がやってきた。

「皆さん、こんにちは。」

「明日夏ちゃん、こんにちは。」「明日夏、こんにちは。」「明日夏さん、こんにちは。」

「レッドちゃんは勉強か。」

「はい、昨日、お兄さんと監督から宿題が送られてきたので、それをやっています。」

「なるほど。宿題か。見せてみて。」

「はい。」

明日夏と久美がハートレッドの宿題を見る。

「難しいな。近頃の高校生はこんな難しいことをやっているのか。」

「本当だな。近頃の高校生は本当に大変だな。」

「明日夏さんのところは、そんなにカリキュラム変わっていないと思いますが?」

「もうすぐ変わるみたいだけど、今はそうだね。」

「悟はこの問題、分かるのか?」

「僕は文系・音楽系だから。」

「これは?」

「漢文か。これは、四面楚歌のもとになった項羽の話だな。」

「その通りです。さすが、社長。」

「社長、少しは面目が保てて良かったですね。」

「まあね。」

「明日夏さん、それじゃあ、シナリオ作りをしましょうか。」

「了解。」


 夕方になると、授業が終わった誠が事務所にやってきた。

「こんにちは。今日はアイシャさんが『ハートリンクス』の新しい曲を聞いて欲しいということで来ました。」

「いらっしゃい。ということは、今日はアイシャちゃんも来るんだね。」

「はい。もうすぐ来ると思います。」

「それなら、アイシャちゃんが来たら、昨日の様子をアイシャちゃんからも聞いておこうかな。久美やミサちゃんのことはアイシャちゃんの方が詳しいだろうし。」

「悟、そんなことは聞かなくてもいいんじゃないか。別に何もないよ。」

「僕もそう思います。」

「橘さんはともかく、マー君、何かあったの?」

「特には何もありません。」

「本当に?」


 その時、アイシャがやってきた。

「皆さん、こんにちは。」

「アイシャちゃん、いらっしゃい。」

「アイシャちゃん、昨日のことを聞くとマー君の様子がおかしいんだけど、もしかして昨日ミサちゃんと何かあったの?」

「大したことではありません。曲を作るついでに練習室でお話しします。社長、犯罪とかそう言う可能性は全くありませんので心配は無用です。」

「それは分かっているから、まあ、女の子だけで共有して。」

「有難うございます。明日夏さん、ハートレッドさんがもうすぐ仕事に出なくていけないので、練習室に行きましょう。」

「そうだね。マー君の話も聞きたいし。」


 アイシャが楽譜を渡して、4人が練習室に入る。

「それでは、私が電子ピアノを弾くので、明日夏さんが歌っていただけますか?」

「えっ、私が。いや、この歌詞を歌うのは恥ずかしい。」

「自分で作詞したのにですか。昨日、美香なんて裸で歌っているところに、誠君が部屋に入ってきても全然気が付かないで歌っていたのに。」

「アイシャちゃん、何?それ。」

「ですから、それが昨日の件です。」

「なるほど。」

「美香のように集中すれば裸でも恥ずかしくないので、明日夏さんも恥ずかしがらないで欲しいのですが、時間がないので私が歌います。レッドさん聴いていて下さい。」

「いえ、私も、その前のミサさんが裸で歌っていて、お兄さんが入ってきたという方が気になります。」

「さっき言った通りです。ミサが部屋でパンツ一丁で歌っている部屋に、それを知らずに私と誠が入りました。ミサを見て驚いていると、後からナンシーさんが入ってきて誠にぶつかって、誠が転びそうになりました。それを見たミサがすごいダッシュをして誠を受け止めました。誠君の頭はミサの胸に当たってショックが吸収されたので、誰も怪我をしませんでした。その後、私と誠君が部屋から出ました。それだけです。」

「うーん、それだけという内容じゃなかった気がしますが、お兄さん、本当?」

「はい、その時は、アイシャさんの言う通りです。」

「お兄さん、今のその時は、というのが気になったんだけど、それ以外にもそういうことがあったということなの?」

「僕だけのことではないので、勝手に言うことはできないです。」

「それはそうか。ミサさんはうちではすごく大切なタレントだし、今日は時間がないから許してあげる。」

「有難うございます。信じてほしいのですが、僕は悪いことはしていないんです。」

「悪い人はみんなそう言うけど。」

「・・・・・。」

「うそ、うそ、分かっているから、ごめん、大丈夫。」

「誠君にはあれ以外にもあるのか。私も気になるけど、まあいいか。それじゃあ、まず、私が歌うね。」


 アイシャが電子ピアノを弾きながら歌う。

「こんな感じです。どうですか。」

「アイシャちゃんが歌うと、雰囲気が出ないね。」

「私じゃ雰囲が気出ないか。それは明日夏さんの言う通りですけど。誠君の意見は?」

「アイシャさんの歌、初めて聴きましたけど、やっぱりクラシックなんですね。ポピュラーなら、ジブリの歌とか歌うと似合いそうです。」

「誠君が徹君と同じようなことを言っている。私がジブリの曲を歌うと、徹君に、アイシャお姉ちゃんは乱暴だけど歌が上手と言われる。」

「ははははは。でも、そうなんでしょうね。」

「私が乱暴と言うこと?」

「それもありますが、曲と声が合うということです。」

明日夏も「マー君の言う通りかもしれない。亜美ちゃん、勝てるかな?」と思いながら話を聞いていた。

「でも、今は私の声じゃなくて、誠君、曲はどう思う。」

「申し訳ありません。個人的感想で言えば、ここからの転調は要らないんじゃないかと思います。雰囲気が壊れる気がします。」

「うーん、何もしないと曲が単調になるかなと思ったんだけど。」

「アイドルの曲は5人で声が変わりますので、分かりやすくした方がいいと思います。」


 アイシャが電子ピアノを弾きながら歌う。歌い終わって、また誠に尋ねる。

「こんな感じ?」

「アイシャさん、楽譜なしでいきなり曲を変えて歌いながら演奏できるのはすごいです。僕は今歌った方がいいと思いました。細かい音の高さは、レッドさんに歌ってもらってから、調整した方がいいと思います。」

「お兄さん、ごめんなさい。私はすぐには歌えないです。」

「分かりました。それじゃあ、私は全部を歌いますから、レッドさんが歌うところをいっしょに歌って下さい。」

「アイシャさん、有難うございます。」


 レッドとアイシャが4回ほど一緒に歌う。

「レッドさん、それでは、レッドさんパートを一人で歌うことはできますか?」

「やってみます。」

明日夏が「自分だけ歌わないのはカッコ悪いか。」と思い、提案する。

「レッドちゃん、アイシャちゃん、それじゃあ私も加わるよ。グリーンちゃんとイエローちゃんのパートは私が歌う。」

「明日夏さん、有難うございます。それじゃあ、私がブルーさんとイエローさんのパートを歌いますね。それじゃあ、行きましょう。」


 3人で歌い始めた。ハートレッドがアイシャに注意を受けながら3回歌ったところで、アイシャが誠に尋ねる。

「誠君、どう?」

「僕から言うのは何なんですが。」

「僕は何でも言っていいから。」

「はい、お兄さん、何でも言ってください。」

「えーと、何と言ったらいいのか。」

「誠君は何をためらっているの?昨日の美香みたいに、レッドさんも裸で歌えって?」

「お兄さんはそんなことは言わないと思います。」

「はい、言いません。」

「でも誠君、橘さんが全裸で歌えと言ってるのは、本当にその方が歌に気持ちを載せられるのかもしれないよ。」

「いや、アイシャちゃん。橘さんの言うことを真に受けじゃだめって。」

「そうですか。昨日の美香は裸で歌って練習して、記者会見の会場では、いつもより気持ちを乗せて歌えていたと思いますが。」

「橘さんとアイシャさんが言うなら、本当にそうなのかもしれませんね。」

「あの、アイシャさん、レッドさんはアイシャさんが言うと真に受けそうですので、そういうことは言わない方がいいように思います。」

「私は歌が専門じゃないから詳しくは分からないけど、美香の歌が良かったのは本当だし。誠君はそう思わなかった?」

「そうは思いましたが、単に積み重ねた練習の成果じゃないでしょうか?」

「そうだ。歌のことなら、真理子さんに聞いてみようか?」

「いや、そういうことに関しては、マリさんはマリさんで問題がある方ですので。」

「アイシャちゃん、やっぱり人によるんじゃないのかな。ミサちゃんはそうでも、レッドちゃんは違うかもしれないし。」

「明日夏さんの声はセクシーさがないところが良いところですから、明日夏さんはそういうことをしなくても良いと思いますが、レッドさんは美香よりもセクシーな感じで売ろうとしていますから。」

「私はセクシーさがないところが良いところって、アイシャちゃん。」

「明日夏さんの歌は癒される感じがいいんです。ハスキーなロックでセクシーに歌うということもできるとは思いますが、明日夏さん的には好まなそうです。」

「うーん。アイシャちゃん、橘さんと口裏は合わせていないよね。」

「口裏を合わるって、何についてですか?」

「橘さんが、ハスキーなロックなら歌えそうと言っていたから。」

「明日夏さんの声的に似合うというだけで、性格的に無理だったら上手に歌うのは難しいですので、今の感じを続ける方がいいと思います。」

「そうなのね。」

「でも、それで歌が上手になるなら、1対1は無理だけど、お兄さんと監督の二人の前で全裸で歌ってみるというのをやってみようかな。」

「レッドちゃん、それはマー君が壊れるから止めておいた方がいいと思う。」

「そうか。それに監督の方が危なさそうです。」


 アイシャが話を戻す。

「それで、誠君、さっきの歌の感想は。」

「こことここの部分をもう少し低くした方が・・・・」

「セクシーな感じが出ると思います、かな。」

「はい、逆に可愛くしたいなら上げた方が良いです。」

「なんだ。マー君はさっきから何を言いよどんでいるのかと思ったら、セクシーという単語が言えなかっただけか。」

「はい、女性がいるところでそういう言葉を言うのは、僕には無理です。」

「それなら、少し下げてみようか。ちょっと、歌ってみるね。」

アイシャが音程を変えて歌おうとするが、誠が止める。

「たぶん、レッドさんが歌った方がいいと思います。アイシャさんが歌うと、音程を変えても綺麗な感じしかしないと思います。」

「まあ、分からなくはない。それでは、レッドさん、その部分を一緒に歌ってから、その後で一人で歌ってみましょう。」

「分かりました。」


 変えた部分あたりを最初二人で歌った後、レッドが歌う。

「そうだね。誠君の言う通りだね。」

「お兄さんは、私のことを理解してくれて、嬉しいです。」

「マー君は『ハートリンクス』の最初の曲を作るときに、レッドちゃんの声を研究したみたいだからね。」

「そうなんですね。有難うございます。」

「レッドさん、誠君が君をもっと知るために、今晩僕とホテルに付き合ってと言ったらどうします?」

「アイシャさん、お兄さんはそういうことを言わないと思いますけど。」

「でももし言ったら、どんな感じで答えます?」

「そういうことですね。分かりました。やってみます。」

ハートレッドが演技をする。

「はい・・・。私も嬉しいです。誠さんにもっと私のことを知って欲しいから。でも、家に友達の家に泊まるって連絡しないといけないので、少しだけ待っててもらえますか。それで、あの、私は初めてですので、誠さん、素敵な一夜にして下さいね。」

「さすがレッドさん、本当に女優です。」

「有難うございます。」

「どう、マー君?」

「どうと言われましても。ハートレッドさんが主演の映画ができたら、10回は見に行こうと思いました。」

「本当に!有難う。」

「それではいい雰囲気になったところで、レッドさん通しで何回か歌ってみましょう。」

「分かりました。」

「明日夏さんもお願いします。」

「分かったけど、アイシャちゃんは最初にミサちゃんの話を出した時から、この場の雰囲気作りをしていたわけね。」

「はい。特にレッドさんの雰囲気作りです。」

「近頃の若い子は怖いわ。」

「僕も同意します。」

「誠君、音楽は理論だけで割り切れるものじゃないから。」

「そうだと思いますが、僕には難しいかもしれません。」


 3人で通しで3回ほど歌った。

「レッドさん、すごく良くなった。」

「うん、私もそう思った。」

「ぼくも表現が良くなったと思います。」

「有難うございます。皆さんのおかげで、歌いやすくて表現しやすくなりました。」

「レッドさんはこういう歌を歌うと、レッドさんの良さが一番はっきりと分かりますね。」

「有難うございます。」

「とりあえず今のメロディーで編曲してみます。その後で社長に聞いてもらいましょう。」「はい、有難うございます。でも、私はもうそろそろ行かないと。」

「もうこんな時間ですね。お疲れ様です。」

「それじゃあ、レッドちゃん、また今度ストーリーを考えよう。」

「はい。」

「お疲れ様でした。アイシャさんの話はだいぶオーバーなところがありますから、全部を真に受けることはいと思います。」

「分かりました。アイシャさんとお兄さんの二人が言えば、真に受けることにします。」

「有難うございます。あと、もしさっきアイシャさんが言ったようなことを言う男性が、皆さんの周りにいたら教えて下さい。」

「いたら、マー君がやっつけてくれるの?」

「はい、パスカルさんと一緒に何とかします。」

「なるほど。でも、この事務所にはそんな人はいないかな。それ以外でも私にはいない。」「それは、良かったです。」

「明日夏さんは、男性にとって、何だかよく分からない存在だからですかね。」

「アイシャちゃんにもいないでしょう。」

「それはそうです。クラッシックの世界でもそういう人はいるみたいですが、私にはそういう話は全然ないです。」

「私の周りにもいません。みなさん、溝口社長が怖いですので、芸能界でうちの芸能人にそういうことをするのは、世間知らずの人だけみたいです。」

「それは良かったです。溝口社長、さすがです。」

「それでは、皆さん、またお願いします。」

ハートレッドが悟と久美に挨拶をした後、放送局に向かって行った。


 誠、明日夏、アイシャも練習室から出てきた。

「お疲れ様、誠君以外は、楽しそうだったね。」

「僕も楽しくないことはないのですが、大変でした。」

「ははははは、分かる。」

アイシャが誠に話しかける。

「誠君、編曲をしたらMIDIにしてくれる?」

「構いませんが、時間があるなら今やってしまいましょうか。」

「了解。それじゃあ、後でマリさんに今日は誠君といっしょに泊ると連絡しないとか。」

「僕は妹が戻ってきたら帰らないといけないです。」

「それじゃあ、なおみさんが帰ってくるまで作業しよう。まずはメロディーを入力するんだよね。」

「アイシャさんが鍵盤のキーボードができるので、それで入力してしまいましょう。」

「了解。」

二人がヘッドフォンを装着すると、明日夏が尋ねる。

「私も聴いていい?」

誠が3つめのヘッドフォンを接続しながら答える。

「明日夏さん、今日のアニメは大丈夫ですか?」

「リアタイで見たいけど、録画してあるし、こっちが優先なことぐらい分かっているよ。」

「録画が失敗しても泣かないで下さいね。」

「円盤を買うから大丈夫。」

「さすがです。これを使ってください。」

「有難う。」


 アイシャが鍵盤のキーボードでメロディーを入力する。

「マー君、すごい。画面に音符が並んでいく。」

「はい、そうです。」

入力が終わったところで聴いてみる。

「誠君、ちょっとリズムがおかしいね。」

「はい、だいたい大丈夫ですが、少し修正します。」

「お願い。」

誠がパソコンの画面を見ながら少しだけ修正した。

「これで大丈夫だと思います。始めに何の音を入れますか?」

「キーボードかな。」

「了解です。」

アイシャがキーボードでキーボードの伴奏を入力する。その後、ギターとベースの伴奏を入力する。

「あまり効果は入れられなかったけど、最後はドラムか。あんまり得意じゃないけど。」

「これがドラムとキーの対応ですが、練習してみてください。」

「了解。一度に全部は無理そうだから、分けて入力するね。」

「了解です。」

アイシャがドラムを入力する。

「とりあえずはこんなものかな。」

「少しタイミングがずれているところがありますので直します。」

「有難う。」

誠がパソコンの画面を見ながら修正していく。

「マー君は、音を聴かないで修正するんだ。」

「とりあえず、見ておかしいのだけ直しています。」

「ふーん。」

誠の修正が終わる。

「終わりました。」

「あとは、ヴァイオリンを入れてみよう。」

「はい。」

アイシャが音を聴きながらヴァイオリンの音を入れ、誠が修正する。

「できました。でも、アイシャさん、本当に即興で編曲できるんですね。」

「とりあえず適当だよ。聴いてみようか」

「分かりました。社長、聴いて頂けますか?」

「本当にもうできたの?」

アイシャが答える。

「はい、とりあえずですができました。」

「それでは聴かせてもらおうかな。」

誠がスピーカーにつないで、編曲したものを流す。

「本当にできている。ヴァイオリンも入って。僕もMIDIを覚えようかな。」

「社長は今まで、バンドメンバーとこもって曲を作っていたんですよね。」

「自分たちの曲は、その通りだ。」

「DTMならネットワークを使って、世界に散らばっている人が協力して曲作りができるみたいです。」

「すごい時代だね。でも、歌うとどんな感じになるの?」

「分かりました。曲の雰囲気は出ないのですが、私が歌ってみます。」

「有難う。」


 アイシャがコンピューターから流れた伴奏に合わせて歌う。歌い終わって、明日夏がアイシャの声の感想を言う。

「ねえねえ、アイシャちゃんは変態なのに、何でそんなに澄んで綺麗な声をしているの?」

「私は変態なんですか?」

「だって、ハートレッドちゃんに全裸で歌えとかいうし。」

「それは橘さんの真似をしてみただけです。セクシーさを出す曲ですから、そうすれば雰囲気が出るかなと思って。」

「なるほど、アイシャちゃんは橘さんの変態に関する一番弟子と言うことか。」

「明日夏!頭ぐりぐりされたいの?」

「いやです。」

「まあ、誠君がセクシーな男性だったら不要だったのかもしれませんが。」

「それは無理だよ。そういう雰囲気、マー君には全然似合わない。社長なら似合うかもしれないけど。」

誠と悟が目を合わせた。

「それじゃあ、誠君、とりあえず楽譜にして印刷してくれる。もう少し考えてくるから。」

「分かりました。楽譜の修正が終わったら送って下さい。修正しておきます。」

「有難う。私も考えるけど、他に加えたい楽器があったら考えておいて。」

「了解です。」

こうして、この日の作曲・編曲作業は終了した。


 次の日の水曜日の夕方、いつものように、誠とパスカルは時間ぴったりにハートレッドの家の呼び鈴を鳴らし、ハートレッドの部屋で家庭教師の準備を始めた。

「宿題はやったよ。約束は覚えている?」

「おう、覚悟はできている。でも、コッコちゃんには知られないようにしてほしいけど。」

「分かった。キスシーンがある映画に私の出演が決まったら、3人だけでいる時にお願いする。たぶん、場所はこの家かな。」

「それなら、仕方がないな。」

「はい、仕方がありません。それでは、今日もパスカルさんの古文・漢文から始めます。僕は数学の宿題の採点をしています。」

「えっ、来てすぐに始めるの?」

「月曜日の夜、平田社長から、レッドさんの家庭教師を全力で頑張って絶対に合格させて、とお願いされましたので頑張らないわけにはいきません。」

「平田社長からか。余計なことを言うんじゃなかったな。」

「大学合格すれば、もっと自信がつくんじゃないかということです。」

「平田社長の言いたいことは分かるけど、でもいいの、自身がついて鼻高々の私でも?」

「いや、湘南、それはそれでいいかもしれないよな。」

「そうですね。それはそれでいいと思います。」

「分かった。受かったら二人を足蹴にしてあげるからね。」

「それは嬉しいよな、湘南。」

「はい、嬉しいご褒美です。それで、レッドさんのパソコンを貸していただけますか?」

「何、私のDドライブを見るの?」

「違います。遠隔会議ソフトをインストールするのと、液タブを使って書いたものを共有できるようにするだけです。使い方は最後に説明します。」

「分かった。」

「それでは、パスカルさん、お願いします。」

「おう。」


 1時間半ほど、古文・漢文を勉強して休憩時間になった。 

「赤坂さん、漢文はともかく、古文は短時間ですごいできるようになってきた。」

「本当に!有難う。古文は最近、面白くて自分で読んでいるから。」

「やっぱり、それが一番だな。」

「監督は哲学を面白くて読んでいるの?」

「哲学は面白いぞ。」

「へー、そうなんだ。」

「パスカルさんは、あれが面白いんですね。さすがです。」

「おう。」

「私も大学に行ったら読んでみようかな。とりあえず、お茶を入れてくるね。」

「お湯は火傷すると危ないですので、僕が行きます。」

「お兄さん、幼稚園児じゃないんだから大丈夫よ。それに、私の方がお兄さんより運動神経はいいと思うよ。」

「いえ、僕はレッドさんと違って火傷をしても大した問題になりませんから、損失の期待値が違います。」

「期待値。ここで数学の話?値と確率をかけたものだっけ。」

「そのかけたものを全ての場合に対して足したものです。言い換えると、確率変数に確率を書けたものの総和です。」

「そんな感じだったわね。」

「たとえば、さいころの目の数かける10円もらえるとすれば、もらえるお金の期待値はいくらですか。」

「今やるの?」

「式だけでいいので。」

「サイコロの目が1の時は10円で確率が6分の1、2の時は20円で確率がやっぱり6分の1か。それなら、10かける6分の1足す、20かける6分の1足す、を、60かける6分の1まで足したもの。」

「さすが、その通りです。答えは35です。」

「でも、期待値がどうしたの?」

「それでは、コインの表が出ると50円、裏が出ると30円もらえるとすると、期待値はいくらですか?」

「まだ、やるの?」

「はい。」

「50円と30円だっけ。」

「はい。」

「50かける2分の1足す30かける2分の1で・・・・40円。」

「その通りです。それでは、無償で二つのゲームのうちどちらかができるとするとどちらをやりますか?」

「期待値の大きい方ということ?」

「その通りです。」

「なら、コインのゲーム。」

「正解です。期待値はこのように選択に使うことができます。」

「そうだけど。」

「火傷した時の損失の期待値は、火傷した時の損失にやけどする確率をかけたものに、火傷をしないときの損失に火傷をしない確率をかけたものを足したものになります。」

「そうかもしれないけど。」

「火傷しない時の損失は0と考えていいですから、火傷した時の損失にやけどする確率をかけたものが損失の期待値になります。それで、僕の方が火傷をする確率が高くても損失が極めて小さいです。今回の値は損失ですので、その期待値が小さくなる僕がお茶を入れるべきと言ったんです。」

「なるほど。期待値の話は何となく分かったけど。お兄さん、やっぱり女の子にもてなかったでしょう。」

「はい。僕は逆上がりもできないぐらいの運動音痴ですから、もてなかったでした。かなり頑張ってはみたんですが。」

「でも、逆上がりができるように頑張っていたら、周りの人に勇気を与えてくれると思うよ。私は小学生の時に逆上がりができない子を手伝って、できるようにしたことがある。」

「さすがです。赤坂さんは見かけによらず、優しいんですよね。」

「お兄さん。見かけによらずは余計!」

「すみません。綺麗な人は優しくないという、自分のアンコンシャスバイアスが原因だと思います。」

「あの、難しい言葉でごまかそうとしていない?」

「アンコンシャスバイアスは無意識の中の偏見という意味ですが、申し訳ありません。」

「俺も申し訳ないが、赤坂さんは孤高の存在のような人かと思っていた。」

「私が孤高の存在なの!?」

「この前の撮影で『ハートリンクス』のメンバーのために頑張っているのを見て驚いた。」

「有難う。でも、監督とお兄さんは、お互いにカバーし合う美しい友情という感じがすごくいい。」

「美しい友情!?いや、たぶん違う。」

「はい、腐れ縁みたいなかんじでしょうか。」

「腐れ縁ね。まあ、いいけど。それで、逆上がりはどのぐらい頑張ったの?」

「小学生の時でよく覚えていないのですが、親の話によれば、家の近くの公園に何週間も通って頑張っていたそうです。それでも結局できなくてがっかりしたのか、帰った時に妹の機嫌がとても悪かったそうです。」

「それでプロデューサーの機嫌が悪くなるの?そういうことはないと思うけど。」

「妹は幼稚園のときから逆上がりが簡単にできていたそうですから。」

「私はプロデューサーの機嫌が悪くなったのは違う原因な気がするけど。でも、お兄さんに火傷させたら、プロデューサーはすごく怒ると思うよ。」

「そうでしょうか。」

「だからお茶は私が入れるべきかな。だって、それを計算に入れれば、お兄さんがお茶を入れるときの損失の期待値が大きくなるから。」

「そうですか。それでは僕はレッドさんがお茶を入れるお手伝いをすることにします。パスカルさんもお願いします。」

「おう、いいそ。」

「そうね。みんなで行こう。」

「はい。」


 3人は一階の暗い台所に向かった。誠が電気ポットの中のお湯の量と温度を確認する。ハートレッドがお茶を入れるポットとお茶の葉を取り出すと、パスカルが急須を水ですすぎ、結局、誠とパスカルだけで手際よくお茶をいれ終わった。それを見たハートレッドが言う。

「二人はお茶を入れるのも、いいコンビよね。」

「おう。湘南がうちに来た時に、いつも二人でお茶を入れているからな。」

ハートレッドが目を輝かせたのを見て、誠が説明を加える。

「ユナアロをプロデュースする計画の作成や、ビデオの編集のために、パスカルさんの家で作業することがあるんです。」

「へー、よくあるの?」

誠がパスカルの方を見ると、パスカルが答えた。

「このところ、ユナアロのビデオを作るために少し多かったかな。」

「なるほど。少し多かったんだ。」

「先週末は『ハートリンクス』のビデオも作っていました。」

「それはそうよね。有難うね。」

「それでは、レッドさんは階段を先に上がってください。」

「転んでもお湯がかかることがないように?心配性ね。」

「よく言われます。」


 ハートレッドが階段を上がった後に、誠とパスカルが階段を上がり部屋に入る。

「そう言えば、今行った一階も暗かったのですが、ご家族の皆さんはどちらにいらっしゃるんですか?」

「気になる?」

「気になるというか、防犯的に大丈夫かなと思って。」

「今日は一人なんだ。」

「今日は一人?今日は誰も帰って来ないということですか。」

「帰って来ないと言うより、単に来ない。この家に住んでいるのは私だけ。」

「この間は、お母さんがいらっしゃいましたが?」

「二人を見て安心したから、もうあまり来ないと思う。」

「えーと、まだ状況を把握していませんが、とりあえず妹を呼びます。」

「大丈夫よ。二人を襲ったりしないから。」

「そういう理由ではなくて、この家の防犯対策が大丈夫か妹とチェックします。」

「プロデューサーは今日はクイズ番組の撮影で少し遅くなるかもしれないけど。」

「はい、専用スマフォにメッセージを送っておきます。妹が到着しだいチェックします。」

「大丈夫だと思うけどね。」

「それでは、数学Iを始めます。」

「あの、まだ全然休んでいないよ。30分ぐらい休まないと。」

「そうでした。30分間休憩を取りましょう。」

「お兄さん、せっかちも女の子に嫌われるよ。」

「30分は休みますが、もてないことは元から分かっていますので気にしていません。必要なことをするだけです。パスカルさんもそうですよね。」

「いっしょにするなと言いたいところだが、湘南の言う通りだ。」

「いや、まあいいけど。それじゃあ、とりあえず、アキさんたちのビデオを見せてくれる?アドバイスできるようなら、するから。」

パスカルが答えた。

「おお!赤坂さんにアドバイスをもらえるなんてすごく有難い。だな、湘南。」

「はい、パスカルさんの言う通りです。」

「監督、お兄さん、任せて。」

「赤坂さん、このテレビにノートパソコンを繋いでいいですか?」

「どうぞ。その方が大きく見れるもんね。」


 誠がパソコンをテレビにつないで、アイドルの大会に応募するビデオを流した。見終わったところで、ハートレッドが話し始める。

「うーん、そうだなーーって。私、ちょっと、偉そうか。」

「赤坂さんはアイドルに関しては絶対的に偉いから、忌憚のない意見は大歓迎。」

「監督。分かった。」

「オープニングは、本当は部屋全体が見渡せるような高い位置から、カメラを下げてくるといい絵になると思うけど。」

「赤坂さんが言いたいことは分かる。でもそのためには、スタジオの天井を高くして、クレーンカメラを使わないといけないから、俺たちには難しいかも。」

「確かに、部屋を俯瞰した部屋の中に2人がいる感じに撮れば、すごい良い絵になると思います。ただ、天井の高いスタジオは本当に空のスタジオしかありませんので、部屋のセットを作るところから始めなくてはいけないので、僕たちには無理だと思います。」

「そうか。あとは、2人しかいないんだし、アップはカメラを固定して一人ずつカメラに寄った方がいいんじゃないかな。」

「なるほど。」

「それは、レッドさんの言う通りですね。」

「その時に、もう一人も画面のどこかに写っているようにね。」

「了解。」

「後は笑顔が堅いかな。笑顔もいろいろ変えないと。」

「笑顔を変えるんですか?」

「やってみるね。まず、普通に可愛い笑顔・・・。次に、すました笑顔・・・。ごまかすような笑顔・・・。あとは、誘うような笑顔・・・。見下すような笑顔・・・。ちょっと、エロチックな笑顔・・・。次は、もっと・・・」

「あの、赤坂さん、もうやめて下さい。」

「えっ、どうしたの?」

「パスカルさんがまた鼻血です。」

「えー、こんなので。」

「申し訳ない。古文・漢文を先にやって良かった。」

「僕もかなり危ない感じなのですが、とりあえず落ち着くようにします。赤坂さんの実力は良く分かりましたので、これぐらいで大丈夫です。」

「お兄さんも危ないの?」

「はい、スマートウォッチを見ると、血圧と心拍数がかなり上がっています。スマフォの画面にグラフを表示しますね。」

「へー。本当だ。かなり値が上がっている。私の表情に興奮したということ?」

「そうだと思います。でも、パスカルさん、これは使えますね。」

「もしかして、アキちゃんたちのパフォーマンスを評価するためにか?」

「はい。パスカルさんとラッキーさんにもスマートウォッチを付けてもらって、心拍数、血圧、発汗などの情報をブルーツースでスマフォに集めて、スマフォで撮影した動画と同期させて表示させるソフトを作ってみようかと思います。」

「そうだな。」

「うちの事務所には、一応そういうものがあるみたいだけど。」

「そうなんですね。さすが溝口エイジェンシーです。赤坂さんはそういう装置を使って笑顔とかパフォーマンスの練習をしているんですか?」

「ううん、そんなスーパーアイドル養成装置みたいな使い方はしていないけど、どちらの芸能人をデビューさせるか、二人に同じことをさせて決める研究はしているみたい。」

「なるほど。」

「あと、ヘルツレコードもヘルツ電子と共同で、脳波を使って、どういうビデオがいいか調査する研究をしているみたいだよ。」

「さすがですね。だから、ヘルツレコードが撮影するビデオには敵わないわけですね。」

「いや、そこまで大したもんじゃないと思う。言うほど役立っていないみたいだし。」

「そうなんですか。まだまだ発展途上なのかもしれません。」

「そうだと思うよ。でも、急に機械の話に夢中になるのは、二人とも男の子よね。」

「そうでしょうか。」


 ハートレッドが話を戻す。

「話を戻すと、体の動きをもっとしなやかにかな。やってみるね。」

「ちょっと待ってください。あの、パスカルさんの鼻血のことがありますので、僕の心拍数が120を超えたら止めて下さい。」

「分かった。120ね。手だとこんな感じ・・・。肩だとこんな感じ・・・。腰だとこんな・・・あっ、120を超えた。」

「パスカルさん、大丈夫ですか?」

「あっ、ああ、また少し出てきたが大丈夫だ。」

「そうだ。パスカルさんの鼻血の量でパフォーマンスを計ればいいかもしれない。うちのメンバーでやってみようかな。」

「あの、それだとパスカルさんの体が持ちません。」

「そうね。出血多量はダメよね。」

「はい。ダメです。」

「分かった。」

「それにしても、本当に体が滑らかに動くので驚いた。」

「ベリーダンスを習っていたから、腰を動かすのは得意。こんな感じで。」

「ストップです。あの、面白がってパスカルさんに鼻血を出さそうとしていませんか?」

「ごめんなさい。そうかもしれない。」

「でも、ベリーダンスも習っていたんですね。」

「前にも言ったけど、私は切れ切れのダンスの方が好きなんだけど、前のプロデューサーがこっちの方が似合っているということで練習していた。」

「僕もその方に同意します。パスカルさんが鼻血を出すぐらいですし。」

「ははははは、そうね。でも、監督はアキさんのパフォーマンスで鼻血を出したことはないの?」

「ないと思う。」

「僕も見たことがないです。」

「湘南、混浴事件でも鼻血は出さなかったよな。」

「あのパスカルさん!」

「えっ、混浴事件って何?」

「えーと、湘南、どうする。」

「あまり隠しても仕方がないですので、事実関係だけお話します。」

「うん、お願い。」

「去年のゴールデンウイークに、アキさん、コッコさん、パスカルさん、ラッキーさんと僕で筑波山に観光に行きました。」

「ふむふむ。」

「帰りにホテルの温泉に入ることになったのですが、大浴場の1つが修理のために昼間の間だけ閉鎖されていて、もう一つを混浴で使っていました。」

「そこに入ったわけね。」

「はい、フロントで話を聞いたコッコさんがそのことを隠していて、全員がその混浴に入ることになってしまったんです。」

「へー、さすが師匠。私じゃそんなことはできないわ。」

「できない方がいいと思います。ただ、更衣室と洗い場は別で、湯舟ではバスタオルを巻いて入って良いことになっていて、裸を見たわけではありません。」

「なるほど、でも全裸にタオルを巻いたアキさんは見たわけね。」

「それはそうだったと思います。」

「それでも、監督は鼻血を出さなかったんだ。」

「心配だったが大丈夫だった。」

「なるほど。それじゃあ女の子に関して、他にどういう時に鼻血を出すの?」

「・・・・・・。」

「もしかして、AVビデオとか?」

「・・・・・・。」

「監督、ああいうビデオを撮ってみたいの?」

「俺には無理だ。撮れない。」

「鼻血の多量出血で死んじゃう?」

「おう。その通り。」

「でも、見るのは楽しいの?」

「いや。」

「私が出たら買ってくれる?」

「赤坂さんとは全く関係がない世界だと思うけど。」

「そうでもないよ。アイドルで売れなくて、他の仕事もだめで、ヌード写真集を出して、それでも返せない借金があると、最後は事務所を辞めて元アイドルとしてAVビデオに出演したことがある元溝口エイジェンシーの人はたくさんいるよ。」

「そうなんだ。やっぱり怖い世界だな。」

「私も溝口エイジェンシーと契約して芸能人になるときには、最悪、そうなるかもしれないって覚悟をしていた。」

「でも、借金しなければ大丈夫だよね。」

「この世界にいると変な人が寄ってくるんだよ。芸能関係者なら溝口社長がなんとかできるんだけど、そうじゃない愛人の仲介業者みたいな人や、芸能人を騙して借金させてお金を得ようとする人とか。」

「人と言うと男だけじゃないということですね。」

「そう。若い女性を騙すおばさんとかもいる。事務所では注意を受けるんだけど、それでも引っ掛かる人がやっぱりいるの。」

誠は「もし橘さんが悪い人だったら、美香さんは引っかかるかもしれない。でも、レッドさんの場合は、もしかすると家庭に問題があるのかもしれない。」と考えていた。

「いわゆる、洗脳みたいなやつか。そんなのに引っ掛かっちゃだめだ、親が悲しむぞ。湘南も何か言ってやれ。」

「はい、絶対にダメです・・・。」

「どうした、湘南?」

「いえ。さっき赤坂さんが、ここに一人で住んでいると言っていたのが気になって。」

「そう言えば、そうだったな。両親と仲が悪いのか?」

「私も隠しても仕方がないから言うけど、私は今の父親の子じゃないんだよ。父親の籍にも入っていない。」

「そっ、そうなのか。」

「この家は、もともとおばあちゃんの家で、おばあちゃんが亡くなるまでは私はおばあちゃんと二人でここに住んでいたの。お母さんはたまに様子を見に来るけど、普段は結婚した後に生まれた子供と父親の家に住んでいる。」

「なぜ、赤坂さんが18禁のビデオ出演のような話をするのかと思っていたんですが、やっぱり、家庭に複雑な事情があるんですね。」

「まあね。そのおばあちゃんも、実はお金持ちの妾だったんだよ。」

「そうなんですね。やっぱり、社長の言う通り、頑張って大学に受かりましょう。」

「おう、そうだな。」

「私も頑張るけど、まだ休み時間だよ。それで、お兄さんはミサさんの水着を近くで見ても興奮しないの?」

「俺も一昨日そう思った。湘南、よくあれで冷静でいられるな。」

「監督はモニターの前で鼻血をだしていたりして。」

「・・・・・。」

「出していたの?」

「まあ。」

「なるほど。」

「コッコさんは、パスカルさんは鼻血を出すことによって、血圧の上昇を押さえていて、鼻血を出さなかったら、あの記者さんと同じで倒れていたと言っていました。」

「へー、鼻血は監督の安全装置なわけか。さすが師匠、発想が違う。でも、お兄さんは心拍数が120を超えたりしなかったの?」

誠は月曜の部屋での出来事を思い返しながら答える。

「はい、あの時はそういうことはなかったでした。」

「何でだろう?」

「命が危ない人が目の前に居たからじゃないですか。」

「でも、お兄さんにはそれ以外のこともあったんだよね。その時も?」

「そうですが、それは、あの。」

「分かった。ミサさんはお兄さんにとって?」

「妹の友達でしょうか。」

「なるほど。私は?」

「妹の友達です。」

「同じじゃない。」

「そうなんですけど。理論では割り切れないところだと思います。」

「歌と同じか。」

「何はともかく、レッドさんは誰かに騙されないことが肝心ですので、少しでもおかしいと思ったら、できるだけ早く信用できる人に相談してください。」

「うん。お兄さんと監督でもいい?」

「はい、パスカルさんと全力で力になります。」

「湘南の言う通りだ。」

「有難う。私がAVビデオに出演して、監督が鼻血の出血多量で死んだら困るもんね。」

「おう、俺を殺すな。」

「分かった。」


 誠も「そう言えば、明日夏さんの両親も離婚して、明日夏さんはお母さんに引き取られたんだっけ。」と思いながら続ける。

「僕たちはもちろん相談に乗りますが、本当のお父さんに相談しないのは、本当のお父さんともあまり仲が良くないのですか?」

「お母さんはその人と結婚はしていなかったみたいで、お母さんが本当のお父さんを教えてくれないから分からない。生きているのか死んでいるのかも。」

「今のお父さんも、別居しているということは仲が良くないんですよね。」

「お母さんが今の父親と結婚したのは、私が小学3年になったばかりの時だったんだけど、最初にいやらしい目で見られて、それで嫌になって。」

「えーと、パスカルさんが見る目とは違うんですね。」

「監督の目は全然いやらしくはないから。興味はありそうだけど、悪いことは絶対にしなさそうという感じがする。」

「確かに、そうだとは思います。」

「それじゃあ、俺が赤坂さんの父親代わりになってやろう。」

「あの、パスカルさんに父親は無理です。」

「私も監督は悪い人ではないと思うけど、監督一人だと頼りがいが不足しているかな。」

「まあ、そうだよな。」

「そうです。」

「でも、お兄さんと二人なら、頼りがいがあるかも。」

「おう、何でも頼ってくれ。できるだけのことはする。湘南もそうだろう。」

「はい、僕もです。」

「本当に有難う。二人ともいい人よね。それなら監督とお兄さんが結婚して、私が養子になるのはどう。これで完璧よね。」

「俺と湘南が結婚!」

「ほら、もうすぐ、同性婚が認められるようになるだろうし。二人合わせて私のお父さんになることができる。」

「いや、そうなるかもしれないけど。」

「でも、それだと、コッコさんも養子になると言い出すかもしれないですね。」

「そうか。コッコちゃんが長女で、赤坂さんが二女か。それはすごいな。」

「はい、すごすぎですね。」

「なるほど、師匠がお姉さんか。それも面白そうね。」

「でも、それは法律ができてからの話ですね。」

「パートナーだとだめなの?」

「戸籍ができませんから、どちらか一方の養子になるのではないでしょうか。」

「そうか。残念。」

「えっ、赤坂さん、本気なの?」

「冗談。だってプロデューサーが許さないから、無理。」

「だよな。」

「それにどうやっても、僕たちでは本当のお父さんの代わりにならないでしょうし。何か手掛かりはないんですか?」

「お母さんの部屋にあるかもしれないけど、分からない。」

「もし、手紙や写真とかを隠すならこっちの家でしょうね。」

「そうだな。赤坂さんの受験が終わったら家探(やさが)しでもするか。」

「パスカルさん、それは違法になるから止めましょう。」

「実の父を探すと言えば大丈夫じゃないか。」

「僕たちならば大丈夫ですが、赤坂さんは芸能人ですから、違法行為は大きな問題になる可能性があります。」

「そうか。」

「でも、赤坂さんは、本当のお父さんに会ってみたいですか?」

「どんな人かぐらいは知りたいかな。あとは、遠くから見ることができればそれでいい。」

「やっぱりそうですよね。えーと、赤坂さんが生まれたとき、お母さんが住んでいた所とか、どこで働いていたとか、趣味とかは分かりますか。」

「住んでいたのはここ。職場とかはおばあちゃんの日記に書いていないか調べてみる。」

「はい、それで何か分かったら教えて下さい。」

「湘南、それで分かるか?」

「普通なら無理でしょうけれど、赤坂さんのお母さんも綺麗な人ですから、写真や文書などの情報で何かわかるかもしれないと思いまして。もしあたりが付けば、あとは遺伝子検査で調べることができます。」

「なるほど。唾液が付いたものを集めるというあれね。何か面白そう。分かった。受験が終わったら、本格的に調べてみる。」

「お願いします。」

「それで監督の鼻血は止まった?」

「おう、止まったぜ。」

「良かった。でも、私で鼻血を出したことはアキさんに言わない方がいいかもしれない。」

「もちろん。言ったら思いっきり馬鹿にされる。」

「馬鹿にされるというより、アキさんがやきもちを焼くかもしれない。」

「アキちゃんが?そんなことはないと思うけど。」

「そう思うなら、まあいいか。で、残りの休み時間は何をする?」

「音ゲーはどうでしょうか。」

「私、強いよ。」

「僕も音ゲーはそれほど弱くないです。」

「俺はあんまりできないから見ているよ。」

「それじゃあ、お兄さん勝負ね。」

「はい。」


 音楽ゲームをやっていると、あっと言う間に休憩時間が過ぎて行った。

「やっぱり、赤坂さん強かったでした。」

「お兄さんも、なかなかだった。」

「それでは、数学Iの勉強を始めます。」

「えーー。まだいやだな。くらえ、ベリーダンス攻撃。」

ハートレッドがセクシーな表情でベリーダンスを踊ろうとする。しかし、誠とパスカルはすぐさま目を閉じる。

「あっ、二人とも目を閉じている。」

「ふふふふふ、無駄な攻撃だ。」

「それじゃあ・・・。」

「パスカルさん、ASMR来ます!両耳を押さえて床に伏せて下さい!」

(著者注:ASMRは自律感覚絶頂反応と訳され、視覚や聴覚の刺激による、頭部から背中にかけたゾクゾクするような感覚を意味する。自然音など様々なもので引き起こされる、耳のそばで囁いたり食べたりするものが有名である。)」

「了解!」

「あっ、耳のそばでお菓子を食べながら囁こうと思ったのに。」

「セーフです。」

「ふふふふふ、見事に赤坂さんの攻撃をかわしたな。」

「すごい連係動作。まあいいわ、この仲良く伏せている写真を撮らせてもらう。」

ハートレッドが写真を撮っていると、急に尚美が部屋に入ってきた。

「何ですか、これ?」

「あっ、プロデューサー!」

「スタングレードが投げ込まれたときに対応する訓練ですか?」

(著者注:スタングレネードは、マグネシウムを急に燃やして、部屋の中の人を音と空気の衝撃波で気絶させる手榴弾である。それに対応するためには、両手で両耳を押さえて、目を閉じて、口を開けて、床に伏せるといい。)

「いらっしゃい。えーと、そんな感じです。」

「尚、いらっしゃい。」

「いっ、妹子ちゃん、いらっしゃい。」

「皆さん、こんにちは。チャイムを押しても誰も出てこなくて、鍵は開いていたので勝手に入ってきましたが。お兄ちゃん、鍵を閉めなかったのは家族が不在だから。」

「やっぱり、女性一人だけの家で、鍵を閉めるのはどうかと思って。」

「それはそうか。ということは、外からは開かなくても、中からはすぐに開けられる鍵を使った方がいいね。」

「そうだと思う。僕はこれからレッドさんに数学Iを教えるんだけど、尚、防犯対策を考えてくれる?」

「分かった。レッドさんよろしいですか?窓や戸以外は触らないですので。」

「もちろんです。プロデューサー、よろしくお願いします。」


 誠とハートレッドが数学Iを、尚美がハートレッドの家の防犯対策を、パスカルが古文・漢文の宿題の採点と添削を始めた。家を見終わった尚美はネットで防犯のために買うものを探したり、パスカルが添削したものを見ていた。パスカルは採点が終わると次の宿題の作成を始めた。1時間半が経ち、誠の家庭教師が終わった。

「今日はここまでにします。」

「ふー、やっと終わった。」

「赤坂さん、これが古文・漢文を添削したものです。良くできていると思います。」

「有難う。」

「それで、これが3日分ぐらいの宿題です。」

「うへっ。」

「これが、数学Iの添削結果と宿題です。」

「おーい。これでも私はアイドルで忙しんだよ。」

「知っていますが、二次試験までラストスパートです。」

「来週の月曜日まで、悔いのないように頑張ろう。」

「パスカルさんの言う通りです。質問には全力で答えますから。」

「おう、湘南の言う通りだ。」

「もう、二人とも分かったわよ。」


 誠が遠隔会議システムの使い方を教える。

「もう時間がありませんので、先ほど言ったように質問には遠隔会議システムを使ってください。」

「遠隔会議システムか。スタッフが使っているのは見たことはある。」

「会議ではありませんので、マイクとカメラは常時ONでも構いません。」

「分かった。」

「リンクをブックマークしておきますが、これをクリックすると僕と共同ホストのパスカルさんに通知が来ます。」

「共同ホスト!えっ、二人でホストをやっているの?」

「そういう意味ではなくて、この場合のホストはその遠隔会議室を管理する人という意味です。」

「知ってる。」

「ですよね。それで、すぐに出られないときでも、できるだけ急いでチャット機能でお答えします。」

「分かった。」

「それと、このサービスで画像の上に手書きしたものを共有できますので、これで答えます。レッドさんも液タブを使って書くことができますので、書いてみて下さい。」

「分かった。」

描いたものを共有できるサービスの画面に、液タブで絵を描いた。

「本当だ。でも、これで漫画を描くのは難しそう。」

「ここに描けるのは図面とかになると思います。では、僕は下に行きますので、遠隔で話してみましょう。先ほどのリンクをクリックしてみてください。」

「了解。」

パスカルがハートレッドに話しかける。

「湘南と俺は、普段からユナアロのプロデュースでこれを使っているから、夜ならだいたい連絡が取れると思う。」

「監督とお兄さんで使っているの?」

「まあ、二人で使うことが多いけど、100人以内の有料配信にも使ってみようとは思っている。」

「へー、夜はこれで二人で話しているんだ。」

「毎日じゃないけど。」

「毎日じゃないけど、そうなんだ。」

ハートレッドがリンクをクリックして、誠と遠隔会議システムで会話する。

「これで、監督と会話しているんだ。」

「はい、平均すれば週に2回ぐらいユナアロのプロデュースについて話しています。」

「3人でも話せるの?」

「はい、100人まで話せます。レッドさんが会議室に入る場合は問題が起きないように、できるだけ二人で入るようにします。あと、電車の中だと、あまり話せないかもしれませんが、聞いているようにはします。」

「有難う。」

「では、宿題を頑張って下さい。」

「分かったけど、宿題以外も質問していい?」

「はい、もちろん構いません。文系はパスカルさん、理系は僕、何でも答えます。」

「有難う。恋愛については?」

「それは無理ですので、平田社長に相談して下さい。」

「平田社長も恋愛経験ゼロだよ。」

「そうでした。そうすると、橘さんには問題があるし、困りました。」

「分かった。とりあえず、恋愛はしないでおく。」

「有難うございます。」

「有難うって、お兄さん、私に彼氏がいないと嬉しい?」

尚美が話を止める。

「レッドさん。」

「プロデューサー、申し訳ありません。調子に乗ってしゃべりすぎました。」


 尚美がハートレッドのパソコンから誠に話しかける。

「お兄ちゃん、私も入れるときは入るようにするので、質問を受けるときは連絡して。」

「了解。」

「それとお兄ちゃん。」

「分かっている。試験が終わったら削除する。」

「だったら、いい。」

「プロデューサー、もしかしてお兄さんたちを信用していないんですか?」

「そう言うわけでもないですが、兄のレッドさんに対する態度が少しおかしい気がするので念のためです。」

「全然大丈夫だと思うけど。」

「レッドさん、気にしないで下さい。レッドさんは一人住まいですし、心配するにこしたことはありません。」

「一人住まいは、明日夏さんもそうでしょう。」

「明日夏さんはお姉さんがすぐ上の階に住んでいますし、お父さんがガードマンを雇っていますので、マンションの防犯体制は完璧です。」

「へー、すごい。明日夏さんのお父さん、離婚しても実の娘は可愛いということなのね。少し羨ましい。」

「パスカルさん、今の明日夏さんの話は内密で。」

「父親のことね。了解。」

「お兄さん、ごめんなさい。」

「俺は地方公務員だから守秘義務にはうるさい。地区の有名人の週刊誌もビックリなようなことも知っているし。」

「お兄さん、私も明日夏さんについてすごいことを知っているけど、やっぱり話せない。」「それは構いませんが、何か話したそうですね。」

「本当にそうなんだよ。話したくてうずうずしている。」

「でも、話さないで下さい。明日夏さんがOKするようでしたら、尚には話してあげて下さい。」

「分かった。そうする。」

「ところで、お兄ちゃん、何で私も知らない明日夏さんのこと、そんなに詳しく知っているの?」

「それもあまり詳しく言えないんだけど、明日夏さんから聞いたんじゃなくて、明日夏さんのお姉さんから聞いたんだよ。明日夏さんのお姉さんが、たまたまバイト先に居たから。」

「ふーん。」

「明日夏さんのお姉さんは、コンピューターのソフトを開発しているってこと、尚も知っているでしょう。」

「それは知っているけど。」

「あの、プロデューサー、お兄さんは悪くないようですので、そのぐらいで。」

「分かった。帰りに詳しく聞く。」

「申し訳ないけど、個人情報だから、尚でも勝手に詳しくは話せないかもしれない。二人は苗字も違うし。」

「話せる部分だけでいいから。」

「分かった。」

「それでは、遠隔会議はこれぐらいにして、尚が考えた防犯対策を確認してみようか。」

「そうする。」

尚美が家の窓を見ながら説明する。

「まずは警備会社の防犯サービスに入ろうと思う。窓ガラスはフィルムを挟んだ合わせガラスのもに入れ替える。」

「それがいいと思う。いっしょに、雨戸も防犯用にした方がいいね。」

「そうだね。あと、玄関と庭には防犯カメラを置く。」

「あとは、1階の隅の部屋をセーフルームに改造するといいと思う。」

「どうせなら、庭の地下に小さな核シェルターでも作る?」

「その方がいいことはいいけど。」

「あの、プロデューサー、さすがにオーバーじゃ。それにかなり高そうです。」

「溝口事務所と5年契約をするということで、事務所から出すように溝口マネージャーと溝口社長に相談します。」

「もしかして、5年間は首にならないということですか。」

「そうですが、5年間は勝手に他の事務所には移らないことが条件になります。基本給と出来高払の給料やその他の条件は今の契約と変わりません。」

「分かりました。それでお願いします。」

「有難うございます。」

「よろしくお願いします。良かった。お兄さん、監督、これで大学卒業までは、何とか一人でも生活できるよ。」

「でも、まずは入学だぞ。」

「はい。」

「入学できても、5年間では卒業して下さいね。」

「お兄さん、酷い。4年で卒業するよ。」

「その意気です。何か分からないことがあったら、パスカルさんか僕に相談して下さい。」

「うん、お願いするかも。」

「おう、どんとこい。」


 尚美が話を変える。

「ハートレッドさんが、一人で住んでいる理由などを、もしよろしければ、私に教えて頂けますか。」

「分かりました。平田社長、橘さん、明日夏さんには話したのですが、今度パラダイス興行でお話しします。でも、聞いたら驚くかもしれませんよ。」

「分かりました。覚悟しておきます。」


 誠と尚美、パスカルが、それそれ帰宅することになった。

「それでは私たちは帰りますが、戸締りはしっかりして下さい。」

「分かりました。でも淋しくなるな。あの、私が合格したら、みんなで合格パーティーをして下さい。」

パスカルが誠を、誠が尚美を見る。

「分かりました。」

「有難うございます。お兄さん、監督、私が料理をするから、・・・・楽しみにねと言えないところがつらい。」

「大丈夫です。僕は雑食性ですので、何でも食べられます。」

「俺もだ。赤坂さんが作るなら、どんなまずいものでも美味しく食べられる自信はある。」

「褒められている気がしない。」

「最初は無理したりオリジナリティを発揮しようとしないで、レシピ通りに作りましょう。それなら、普通に美味しいものができます。」

「分かった。そうする。それじゃあ、また。」

「また、よろしくお願いします。」

「おう、またな。」

「はい、次は金曜日の夜ですね。よろしくお願いします。」


 帰りの電車の中、尚美が誠に話しかける。

「レッドさんが、お兄ちゃんとパスカルさんがいると勉強させられると言っていたんだけど、その意味が分かった。」

「説得はしているけど、強制している訳じゃないんだけど。」

「まあね。」

「でも、尚が僕のレッドさんに対する態度が違うと言っていたけど、そうなの?」

「明日夏先輩やミサ先輩と比べても、なんか少し違うんだよね。少し積極的と言うか。」

「平田社長も言っていたけど、レッドさんに大学受験に受かってもっと自信を付けて欲しいからじゃないのかな。」

「そうかもしれないけど。」

尚美は妹の勘として、ハートレッドの場合、明日夏やミサと比べて、誠の態度に少し違和感を感じていた。


 今日の誠とパスカルの様子を思い出しながらスケッチをした後、ベッドに横になろうとした、ハートレッドがつぶやいた。

「あっ、アキさんの『ハートリンクス対ギャラクシーインベーダーズ』の出演のことを聞くのを忘れたた。まあ、いいか。こんど遠隔会議システムで聞いてみよう。」

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