第23話 海外ライブ(前編)

 9月中旬、ミサのワンマンライブに関して、ミサ、溝口マネージャー、早川ナンシーマネージャーが溝口社長にその内容を説明していた。

「溝口社長、お久しぶりです。」

「大河内君、頑張っているようで何よりだよ。新しいマネージャーの早川君とは上手くいっていますか。」

「はい、ナンシーも音楽はロックを聴いているようですので、話が合います。」

「それは良かった。」

「早川君の方は。」

「ミサのアメリカデビューに向けての準備に忙しいですねー。でも、成功したらすごいことになるんですねー。今までで一番やりがいがある仕事ですねー。全力で取り組んで行きますねー。」

「それは良かった。それで、大河内君の英語の方は現地でも大丈夫そう?」

「会話は問題ないですねー。歌の英語はネットを通じて特訓中ですねー。海外で仕事をするには、奥手なところがだめですねー。それが神秘性につながればいいですねー。でも、本当は、自分をもっと出すべきですねー。」

「分かった。有難う。引き続き頑張ってくれたまえ。」

「はい、頑張るですねー。それでは失礼して、アメリカでのデビューに向けたスケジュールの調整をするですねー。」

「ああ、そうしてくれたまえ。」

ナンシーが部屋を出て行った。

「大河内君、前よりだいぶ良くなったけれど、アメリカでは歌手を目指す人口は日本よりもかなり多い。早川君が言う通り、人前でもどんどん積極的に前に出て行かないと、そういう人たちの陰に隠れてしまうから。」

「はい、レベルが高い歌手が多数いることは分かっています。その方たちに負けないよう、もっと積極的になれるように努力します。」

「頼んだよ。それで、溝口マネージャー、ワンマンライブのチケットの売り上げの方は?」

「販売開始から1週間程度ですが、ファンクラブの販売だけで東京が7割、大阪が6割埋まりました。一般販売とプロモーションはこれからが本番ですので、両方とも満席になると思います。」

「それは良かった。構成の方は?」

「ゲストに呼ぶのは、『トリプレット』、神田明日夏です。4人ともうちの所属ではないのですが、『トリプレット』はうちがサポートしていますし、5人の仲がいいというのは、広く知られるところになっていますので、それがベストだと思っています。」

「まだ、『ハートリングス』を入れるという感じではないな。全員ヘルツレコードだからレーベル関係は大丈夫だろうし。了解した。」

「『トリプレット』の星野なおみに司会を担当してもらう予定です。」

「星野君なら、トラブルがあってもうまく進行させてくれるだろう。そういえば、星野君から聞いたんだが、大河内君が彼女たちの歌も歌うんだって。」

「はい、そのつもりです。明日夏の歌で、明日夏とのデュエットもする予定です。」

「うん、あまりロックに固まらないでいろいろ歌うのはいいことだと思う。」

「有難うございます。」

「一応、少しだけ注意をしておくけど、神田明日夏には一つ良くない噂があるんだ。」

「良くない噂ですか。ボケているとかでしょうか?明日夏は好きなことに集中すると他のことが見えなくなるタイプですから、そういうことを言う人がいても仕方がないかもしれません。もちろん本当にボケているわけではないですが。」

「それはそれで困った話しだが、そうじゃない。デビューの際、ヘルツレコードの社長のごり押しがあったようで、ヘルツレコードの社長に個人的に取り入ったんじゃないかという話しがあるんだ。」

「明日夏に限って、そんなことは絶対にありません。」

「まあ、確証のある話しじゃないんだが、ヘルツレコードの若い社員がそう言っていたそうだ。」

「何かの間違いなんじゃないかと思います。」

「相手がヘルツレコードの社長だから、何があっても表になる話じゃないし、うちとしてはどちらでも構わない。急に分かって大河内君がショックを受けたら困ると思って、噂程度として聞いておいてくれたまえ。」

「分かりました・・・。心に留めておくようにします。」

「繰り返すが、基本的にはうちとは直接は関係ない話なので、あまり気にしないでくれ。」

「はい、そうすることにします。」

ミサは心の中でつぶやいた。

「明日夏に限って。」

「そういえば、シンガポールのエンジョイアニメーションのライブ、『トリプレット』のワンマンのプロモーションをかねて『トリプレット』が出演できるようにした。」

「社長がですか。」

「そうだ。」

「有難うございます。尚たちともいっしょなんですね。すごく楽しみになりました。」

「そうか、それは良かった。」

溝口マネージャーが話を戻そうとする。

「あの、社長、ワンマンの話に戻してよろしいでしょうか。」

「あー、ごめんごめん、ちょっと話が脱線した。」

その後も、ミサのワンマンライブの計画について溝口社長に報告がなされ、承認された。


 その夜、ミサが尚美にSNSの通話で連絡した。

「もしもし、尚?」

「はいそうです。こんばんは。美香先輩。」

「尚たちも、シンガポールのエンジョイアニメーションのライブに出演するんだって。」

「はい。私も今日聞きました。溝口社長が押し込んだみたいです。でも、海外での初ライブ、楽しみです。」

「私も海外でライブするのは初めてなの。あと飛行機で初めてビジネスクラスに乗れるので、仕事に行くって感じで、すこしワクワクしているの。」

「そうなんですか。少し意外です。こちらは、社長、橘さん、明日夏先輩に『トリプレット』の合計6人なので、全員エコノミークラスです。」

「そうなんだ。みんなとわいわい、エコノミークラスに乗って行くというのも楽しそうよね。私、ファーストクラスしか乗ったことがなくて。」

「あー、そっちですよね、納得しました。それより、美香先輩の方はフリータイムはありますか。ライブは同じ日曜日の午後ですよね。」

「金曜日の便で行って、土曜日の午前にテレビ出演があって、土曜日の午後はあいていると思う。帰りは月曜の朝の便。」

「こっちは、金曜日の深夜便で行って、日曜日の深夜便で帰る感じです。いずれにしても、土曜日の午後は観光できますね。」

「じゃあ、土曜日の午後に観光しよう。でも、誠もシンガポールに来ているんだよね。」

「はい、兄たちも金曜日の深夜便で行って日曜日の深夜便で戻る予定です。兄たちの飛行機会社は全日空で、パラダイス興行は主催者が用意してくれたシンガポール航空で行く予定だそうです。土曜日は、兄のグループはオタクらしく、エンジョイアニメーションの展示を見ると言っていました。それで、日曜日の午前に少し観光して、午後からライブに参加するとのことです。」

「そうなんだ。ご一緒するのは無理と言っていたから、無理なんだよね。」

「はい、向こうのグループにはミサさんのファンもいますので、兄はけじめをつけると思います。残念ですけれど。」

「分かってる。でも尚も誠も、行き帰りの両方とも深夜便って大変ね。」

「亜美先輩と私は学校に行っていますから、その関係で仕方がありません。明日夏先輩たちは、もっとゆっくりできるんでしょうけれど、付き合わせちゃっています。」

「そっか、授業が終わってから飛行機に乗って、月曜日は空港から直接学校に行くの?」

「はい、その予定です。」

「うちのリムジンをお願いしてもいいけど。両親もドライバーも尚のことならいやと言わないと思う。」

「亜美先輩も同じ日程ですし、私は飛行機でも寝れますので、なんとでもなります。」

「そう。体には気を付けてね。」

「了解です。では、土曜日の午後に遊びに行くところを考えておきます。」

「有難う。実は、あともう一つ聞きたいことがあるんだけど、時間大丈夫?」

「はい、大丈夫です。」

「溝口社長から、明日夏に良くない噂があるって聞いたんだけど、尚は何か知っている?」

「えっ、馬鹿だとかですか。」

「何か、そういうのじゃなくて、明日夏のデビューのオーディションの時に、ヘルツレコードの社長の強い推薦があったみたいで、明日夏が個人的に取り入ってデビューしたんじゃないかという噂があるみたい。」

「あの、いわゆる枕営業とか言うやつですか。明日夏先輩には絶対に無理だと思いますけど。」

「うん、私もそう思う。」

「何かの間違いだと思いますよ。」

「そうだよね。」

「でも、美香先輩の枕営業なら知っていますけど。」

「えっ、何、尚、ひどい。分かっていると思うけど、私、絶対にそんなことしないよ。」

「私は見ましたよ。夏の別荘で明日夏先輩が美香先輩の背中を枕にしているのを。」

「ははははは、そうそう。人の背中を枕にして、のんきな顔をして寝ていたわ、明日夏。そうか、私が明日夏に枕営業ね。・・・違うって。」

「うーん、あと考えられるとすると、明日夏先輩を知っている力のある人が会社に圧力をかけたとかでしょうか。」

「そういう人がいれば、そうかもしれないかな。私も親に何もしないようにとは言ったけど、実際のところはどうだか分からない。」

「実際のところは分からなくても、美香先輩の場合は、歌の実力と外見で、親の力がなくても絶対に受かったと思います。明日夏先輩が受けたオーディションの会議でも、美香先輩は歌も外見もすごいという話が出ていたということですから、心配は無用です。」

「尚、そう言ってくれると嬉しい。」

「明日夏先輩の場合も、少なくとも先輩自身は関係していないと思います。」

「明日夏なら、そうだよね。」

「明日夏先輩、今日もいつもの調子でしたから、美香先輩も今は気にするよりは、シンガポールと、次のワンマンライブに集中して下さい。」

「尚の言う通りね。」

「でも、もし万一、何かありましたら協力をお願いすることがあるかもしれません。その時はよろしくお願いします。」

「分かった。そういう時には何でも言ってね。あっ、あと、誠、私のワンマンに来てくれそう?」

「友達のパスカルさんから、FCチケットを定価で買ったそうで、大丈夫だと思います。」

「パスカルさん?もしかすると、夏のライブの時に誠の隣にいたアイドルのプロデューサーをやっているという人かな。」

「そうだと思います。」

「そうなんだ。良かった。じゃあ、尚、今日はいろいろ有難う。また練習で。」

「はい、また練習で。」


 9月中旬の土曜日、ユナイテッドアローズのレコーディングの日となった。誠、アキ、パスカル、ユミ、マリがレコーディングスタジオに到着した。

「すごい、ユミちゃん。頑張って。今日はレコーディングスタジオでレコーディングよ。」

「ママ、落ち着いて。昨日からテンション上がりっぱなしだよ。」

「だって、レコーディングスタジオだよ。」

「分かってるよ。」

パスカルが指示を出す。

「アキちゃん、今日は二人がレコーディングするので、発声練習を始めてくれる。」

「了解。」

「湘南は、機器の準備を。」

「了解です。今回から、ボーカロイドでコーラスを入れてきましたから、もう少し音が豊富になると思います。」

「それはすごいな。」

アキが携帯音楽プレーヤーで発声練習をするなか、誠が準備を始めながら、マリに尋ねた。

「マリさんの大学にはレコーディングスタジオはなかったんですか。」

「あったかもしれないけど、レコーディングスタジオには縁はなかったわね。ステージ上でみんなでレコーディングすることはあったけど。」

「独唱のパートとかは?」

「たまにあったけど、やっぱりステージの上でだから。」

「試験は、何人かの審査員の前で歌う感じですか。」

「その通り。すごい緊張したわ。」

「でも、独唱のパートがあったということは優等生だったんですね。」

「最初のころは。でも、二十歳でこの子ができちゃって。それ・・」

誠が話を遮る。

「あの、マリさん、その話はここまでで。」

「そうか、みんな独身だったわね。」

「僕たちは大丈夫ですが、ユミさんとアキさんがいますので。」

「湘南兄さん、私は大丈夫です。アキ姉さんも、あと10年はアイドルで頑張るから心配無用じゃないかな。それより、お兄さんたちの方が心配。」

「ユミちゃん、俺はもう悟りを開きつつあるから大丈夫だよ。」

「本当に?」

ユミがパスカルに向けてキラキラした目で言う。

「プロデューサー、今日のレコーディング、よろしくお願いします。」

「おっ、おう。頑張るよ。」

「パスカルプロデューサー、大好きです。」

「おう。しかし、演技と分かっていても、何かすごいな。」

「はい、ユミさん、女優か声優に向いている気がします。ですから、そういうことは本気でなければ、言わないようにしましょう。本当に誤解する人が出てくるかもしれません。」

「湘南兄さんは心配しすぎですけど、またコッコ姉さんに魔性の小学生って言われてしまいますね。そう言えば、今日、コッコ姉さんは?」

「ユミちゃんのパパが来ないから来ないって連絡があった。あっ、マリさん、あのすみません。全然、変な意味ではありませんので、心配する必要ありません。」

「マリちゃんだって!」

「あっ、マリちゃん、あの、全然心配する必要はありません。」

「BLの方が変じゃないって面白い話ですが、分かっていますから大丈夫です。それに、今日は人手もあまりいりませんし、私も見学だけですしね。」

「有難うございます。それでは、アキちゃんと湘南、レコーディング開始できる?」

「大丈夫。」「はい、大丈夫です。」

「それでは、湘南、後は任せる。」

「了解です。それではアキさん、ボリュームのチェックから。」

「はい。それじゃあ湘南、カラオケ音源を流して。」

「了解です。」

ボリュームチェックを終えてから、アキが『ジャンプイン』と『ネクストサンデー』のレコーディングを始めた。アキと誠と相談しながら2曲を4回歌い、レコーディングを終了した。

「次は、ユミちゃんの番よ。」

「ママ、分かっているって。」

「発声練習用の音源はヘッドフォンを付けてから、こちらから流します。」

「湘南兄さん、分かりました。」

「アキさん、最初はユミさんといっしょに録音ブースに入って説明してもらえますか。」

「分かってる。じゃあ、ユミちゃん行こう。」

「うん。」

少し口数が少なくなったユミをアキが元気づける。

「さすがのユミちゃんも緊張しているかな?とりあえず、それじゃあ、まずヘッドフォンを付けてみて。」

「分かった。」

アキがユミにヘッドフォンをつけて、マイクの位置を下げる。

「それでは、テストのためにカラオケ音源を流します。」

「ユミちゃん、音量はどう?このボリュームで調整して。」

「アキ姉さん、分かった。」

ユミがボリュームを回しながら音量を調整する。

「これくらいかな。アキ姉さん、これで大丈夫です。」

「湘南、ユミちゃん、オーケーだって。」

「了解です。それでは発声練習の音源を流します。」

誠が発声練習の音源をヘッドフォンとスピーカーに流し、ユミが発声練習を始めた。マリが録音ブースに入り注意を与えながらも、ユミの発声練習が終了した。

「それじゃあ、私たちは外に出るから頑張って。」

「ユミちゃん、ママはガラス越しに見てるから。」

「分かってる。」

アキとマリが録音ブースから出て、アキが扉を閉めた。

「それでは、ユミさん、とりあえず歌ってみましょう。アキさんの歌を想像しながら、歌ってみてください。」

「分かりました。」

ユミが歌いだす。

「ユミちゃん、声がだいぶ上ずっているわね。」

「マリさんの言う通りで、ユミちゃん、緊張しているみたいですね。でも、とりあえず一曲通してみましょう。」

「分かったわ。」

ユミが歌い終わる。

「ユミさん、歌うパートを間違わずに良くできました。」

「うん、練習してきたから。」

「少し緊張した声になっているんだけど。」

「ごめんなさい。湘南兄さんの言う通り、かなり緊張しています。」

「湘南さん、最初、私が一緒に歌いましょうか。」

「はい、初めに何回か一緒に歌ってみてください。その後で、レコーディングしましょう。パスカルさん、その場合、今日は一曲だけの収録になりそうですが、構いませんか?」

「了解。そうしよう。」

「有難うございます。」

マリが録音ブースに入る。最初に軽く体を動かしリラックスさせようとする。

「ユミちゃん、今まで一番何が楽しかった?」

「うーん、この前の海でアキ姉さんたちと遊んだこと。」

「じゃあ、それを思い出しながら歌ってみようか。」

「分かった。」

「そのときのビデオがありますが、見てみますか。」

「うん、そうする。」

誠がパソコンから夏の海でのビデオを見せる。

「こうして見ると、アキ姉さんのダンス、上手ですね。」

「有難う。でも本当のプロはもっと全然上手だよ。なおみちゃんとか。由香ちゃんはなおみちゃんよりも上手だし。」

「私も頑張らないと。」

「ユミさん、最初のライブまでまだ一か月以上ありますので、ダンスは焦らず練習してみてください。」

「分かりました。」

「それでは、マリさん、一緒に歌ってみてください。」

「分かりました。」]

ユミとマリがいっしょに歌うと、ユミもだいぶリラックスしてきたようだった。

「いい感じだな。あんな嫁さんと娘が欲しいもんだな。」

「本当に、そうですね。」

「お二人さん、そのためには、まず相手を見つけないとね。」

「・・・・・・。」

「・・・・・・。」

曲が終わったところで、誠が声をかける。

「それでは、レコーディングいきましょうか。」

「はい!湘南お兄さん。」

「マリちゃんはついているんだから、頑張ってね。」

「はい、ママ。」

マリがブースから出てきた。

「ユミさん、レコーディング、行きます。」

「はい!」

誠がカラオケ音源を流し始める。

「前より、だいぶ大丈夫そう。」

「おう、その通りだ。どうだ、湘南。」

誠から返事はなかった。

「聞いちゃいないな。」

「ユミちゃんの歌に集中できるということは、だぶん大丈夫ということだと思う。」

「それは、良かった。」

ユミが4回ほど歌って、終了となった。

「湘南、どうだ?」

「はい、現状はこれが最善だと思います。」

「私もそう思うわ。」

「マリさん、湘南、分かった。だいたい時間だし、今日はここまでにしよう。」

パスカルがユミにOKのサインを出す。ユミは安心して、ヘッドフォンを外して出てきた。

「この曲はOKだよ。」

「パスカルプロデューサー、アキ姉さん、湘南兄さん、ママ、有難う。」

「小学生なのによく頑張ったわよ。」

「これで、ミックスを制作します。」

「ユミちゃん、偉い。」

「それじゃあ、引き上げだ。」

後片付けをした後、録音スタジオを出て、駅に到着した。

「それじゃあ、お兄さん、お姉さん、有難うございました。」

「私も楽しかった。また練習で。」

「ユミちゃん、マリちゃん、またねー。」「お気をつけて。」

ユミとマリが別の方向のホームへ向かって行った。

「さて、1曲だけになっちゃったけど、目途はついたな。」

「パスカルさんの言う通りだと思います。」

「またレコーディングしないとね。」

「おう。」「はい。」

「それじゃあ、また。次は羽田空港でかな。」

「うん、みんなでシンガポール行くの楽しみ。」

「夜の便で時間はありますが、忘れ物をしないように。」

「うん、チェックリストを作るわよ。」

「さすがだな。」

「パスカル、アイドル活動をするようになってから、チェックリストは当たり前という感じになったよ。」

「俺もだけど、湘南の影響だろうね。」

「そうね。」


 シンガポールのライブへ向かうパラダイス興行の一行は、金曜日の夕方、羽田空港国際線ターミナルの出発フロアで待ち合わせをしていた。最初に久美と悟がパラダイス興行から電車で移動し、他のメンバーを待っていた。そこに、亜美と父親が車でやってきた。父親は悟と久美に挨拶をした後、帰っていった。その後、尚美が一度来て離れていった後、由香が来て、明日夏がやって来た。

「社長、橘さん、由香ちゃん、亜美ちゃん、こんばんは。」

「明日夏ちゃん、こんばんは。」「明日夏さん、こんばんは。」「こんばんは。」

「明日夏、待ち合わせ時間前にえらいわね。」

「えへん。あれ、尚ちゃんは?」

「もう来ているわよ。さっき一度来た後、少年といっしょに座って・・・あっ、尚、こっちに向かって小走りで来ているけど、何かあったのかな。」

尚がパラダイス興行の一行のところに到着した。

「明日夏先輩、パスポートを持っていますか。」

「尚ちゃん、いきなり、それ!?もう、信用ないな。さっきSNSで連絡したじゃない。ちゃんと、・・・・・あれ、ない。」

「明日夏、本当にないの?」

「はい、本当にないです。持って出たはずなのに。」

「それはSNSで確認しました。」

「パスポートをコピーした方はあるのに。」

「それでは、あそこのコンビニに行きましょう。とりあえず、今、兄がコピー機を見張っています。」

「えっ!?」

「あそこのコンビニでパスポートのコピーをとったときに、コピー台の上に忘れたんだと思います。」

「そうか。でも、そんなこと何でわかるの。」

「明日夏先輩がコピーしたものをポシェットにしまうときに、パスポート自体をしまっているように見えなかったためだそうです。」

「そうなんだ。尚ちゃんのお兄ちゃんが見ていたの。でも何で見てたんだろう。やっぱり、私が可愛かったから?」

「冗談を言っている場合ではないです。明日夏先輩がパスポートを出しながらコンビニに入るのを見て急に不安になったそうです。とりあえず、急いで行きましょう。」

「わっ、分かった。」

コンビニでコピー台を見張っていた誠が尚美に話しかける。

「尚、大丈夫。まだ誰もコピー機を使っていない。」

「良かった。お兄ちゃん、有難う。」

明日夏と誠は黙って会釈したあと、コピー台を開ける。

「あっ、私のパスポート。」

「明日夏先輩、良かったです。」

明日夏と誠が向き合うが、明日夏は何を言っていいか分からなくなっていた。

「あのっ。」

「はい。」

そのあと黙っていると、悟がやってきた。

「明日夏ちゃん、パスポートあった?」

「はい、ありました。」

 コンビニを出ながら悟が誠に話しかける。

「誠君、明日夏ちゃんのパスポートの件、気が付いてくれて有難う。」

「いえ、お役に立てて嬉しいです。」

「前のライブでの編曲の件も、僕に時間がなくて助かっています。」

「妹がお世話になっていますし、ライブで使って頂いて嬉しいです。それに、社長さんが手直ししたところもとっても勉強になりました。」

「尚ちゃんから聞いたんだけど、誠君、作曲にも取り組んでいるんだって?」

「はい。ただ、今は威張れるような曲ではないですけれど、パスカルさんがプロデュースしているアイドルのために作曲しているところです。」

「良かったら、『トリプレット』か明日夏ちゃん、あとロックになるけどデスデーモンズの曲も作曲してみない?誠君が気に入るものができたら送ってくれれば、僕が多少手直しするかもしれないけど、良ければ、コンペに推薦することはできると思う。タイトル曲は無理かもしれないけれど、アルバム用やカップリング用ならなんとかなるかもしれない。どうかな。」

「はい。もし、チャンスを頂けるならば、喜んでコンペに参加したいと思います。社長さんの手直しも、自分の勉強になると思います。」

「じゃあ、とりあえず、そのアイドル用の曲も送ってもらえるかな。」

「分かりました。もう少し手直しをしたら、すぐにお送りします。」

「ありがとう。楽しみにしているよ。」

「よろしくお願いします。」

「それでは、僕たちはこれからチェックインに向かうから。」

「お兄ちゃん、それじゃあ、月曜日の朝で。」

「社長さん、有難うございました。尚は羽田の朝で。」


 6人がそろったところで、悟が注意を与える。

「一応、明日夏ちゃんと『トリプレット』のみんなはマスクをしてくれるかな。」

「はい。」

「では、チェックインカウンターへ行こう。」

「レッツゴー!」

明日夏が久美に叱られながら、パラダイス興行の一行はチェックインカウンターへ向かう。尚美が悟にお礼を言う。

「社長、先ほどは有難うございました。」

「尚ちゃん、誠君に作曲をお願いしたこと?」

「はい、その通りです。」

「まあ、単に僕もまた曲を作ることに関わりたくなっただけなのかもしれない。」

「それでも嬉しいです。」

尚美が明日夏の方を向いて言う。

「でも、明日夏先輩は無理なようでしたら、『トリプレット』の方で何とかしますので、心配しなくても大丈夫です。」

「えっ、何で。」

「さっきも、兄とは話しにくいようでしたし。」

「お礼を言わなくちゃと思ったんだけど・・・・。パスポートの件、悪いけど尚ちゃんからお兄ちゃんにお礼を言っておいてくれる。」

「はい、喜んで。兄には伝えておきます。」

「でも、曲の方は全然かまわないよ。作詞は私が担当したいけれど。」

「そうでした。作詞が経験できますよね。作詞家への第一歩です。」

「それに、尚ちゃんのお兄ちゃんが作曲した曲に、自分で歌詞を付けて歌うのが子供のころからの夢だったし。」

「えーと、作曲家から曲をもらって、それに自分で歌詞をつけて自分で歌うのが子供のころからの夢と言うことですか。」

「そうかな。」

「有難うございます。兄も自分が作曲した曲を明日夏先輩に歌ってもらえれば、すごく喜ぶと思います。」

「尚ちゃん、実際、『トリプレット』のコンペは、ヘルツレコードからも募集するから、いい曲を作る作曲家からそれなりに曲が集まると思う。だから、アルバム曲と言っても通すのはだいぶ難しくなるとは思う。」

「社長、逆に、私の方は楽ということですか。」

「正直に言うけれど、明日夏ちゃんの場合、アルバムの曲数分だけいい曲を集めることの方が、逆に大変になると思う。」

「はい、分かりました。もらったメロディーを少しでもいい曲にするように、私も作詞を全力で頑張ります。」

「期待しているよ。頑張って。」

「でも、明日夏の全力って・・・。」

「橘さん、酷い。」

「ごめん、ごめん、頑張って。」

「はい、頑張ります。でも尚ちゃん、お兄ちゃんが作曲した曲を、私が先に歌うことになっても大丈夫?」

「もちろんです。兄のためになりますから。」

「さすが、ブラコン。」

「そうじゃありません。」

「明日夏、やきもちを焼くとすれば、尚より美香の方じゃないかな。」

「えっ、ミサちゃんは、ロックシンガーとして、作曲者が誰かより、曲の良さにこだわるんじゃないかな。」

「それはそうなんだけど、少年だけは違うかもしれないわよ。」

「そうかなー。」

「でも、久美、ミサちゃんの全米デビューの曲を担当する人たちを聞いたと思うけれど、レベルが違いすぎて、僕たちの出る幕は全然ない感じだよね。」

「社長の言う通りです。私も見たときびっくりしました。」

「悟や亜美の言うことはわかるわ。レジェンド級から新進の若手までそろえているし。」

「ミサちゃん、難しい曲も難なく歌えるから、若手は独創的なメロディーを作るんじゃないかな。僕はそれが結構楽しみなんだけどもね。」

「難しいからいいというものでもないけど、そうね、すごく独創的な曲が来るかもね。」

「ミサちゃん、大丈夫かな。」

「美香なら、大丈夫。」

「明日夏先輩が歌について美香先輩の心配をするのは僭越です。」

「はーい。」


 一方、誠たちの方も人が集まり始めていた。

「湘南君、こんばんは。早いねー。」

「セローさん、こんばんは。家から妹のスーツケースを運んだので、先に来ていました。」

「そう言えば、『トリプレット』が追加で出演するんだったねー。妹さん、すごいことだよー。」

「有難うございます。パラダイス興行のみなさんは、先ほど全員無事に手荷物検査を通って行ったみたいです。」

「それは良かったよー。急に決まったアニサマに行けなかったから、明後日は久しぶりに明日夏ちゃんの生歌が聴けるよー。」

「明日夏さん、アニサマでも成長していましたから、僕も楽しみです。」

「本当は、会社を辞めてでも行こうかどうか悩んだけれど、結局、辞めなかった。TO失格だよー。」

「そんなことはありません。そのために会社を止めてしまう方が、明日夏さんに精神的な負担をかけると思います。出演が急に決まったのですから、しかたがありません。」

「湘南君にそう言ってもらえるとホッとするよー。」


 集合時間になるとパスカル、アキ、コッコがやって来た。

「よっ。」

「みんな、こんばんは。」

「パスカルちゃん、湘南ちゃん、この前のアキちゃんが送ってくれた写真、良かったね。今回もネタを期待しているよ。」

「勝手に期待されても困る。」

「あの時は、パスカルさんが変なノリでしたから。」

「じゃあ、パスカルちゃんに期待かな。ところで、ラッキーさんは?」

「ラッキーさんは、関空からです。」

「広島からだと関空の方が近いからね。」

「ただ、月曜日は間に合わないそうで、有休を使うそうです。」

「まあ、海外遠征だからな。俺も有休はまだだいぶ残っているから月曜日は有休をとった。学生の諸君は頑張って月曜日から勉強してくれたまえ。」

「コッコさんと僕はまだ夏休みですので、授業があるのはアキさんだけです。」

「そうなんだ。大変だな。」

「大丈夫。一番若いから。まあ、ユミちゃんがいるとさすがにかなわないけどね。」

「月曜日の朝、制服とかスーツケースとかは大丈夫?」

「うん、学校に必要なものは持ってきている。スーツケースは、空港から宅急便で自宅に送ればいいって、湘南が。だから心配いらない。」

「そうか。なら良かった。」

「湘南、妹子もそうするの?」

「妹のスーツケースは僕がついでに運んで帰ります。」

「まあ、一泊だから俺たちの荷物は小さいしな。」

「飛行機会社は違うけど、同じ時間の飛行機だったよね。みんな、空港で見かけても迷惑をかけちゃだめよ。」

「アキちゃん、分かってるって。」

「分かっているよー。」

「まあ、あっちは女ばかりだからつまらんし。」

「もちろん、湘南と妹子は別だけど。」

「そりゃそうだ。それじゃあ、チェックインカウンターに行くか。」

「レッツゴー!」「ほい。」「はいー。」「はい。」

カウンターに向かいながらコッコがパスカルと誠に話しかける。

「明日の晩は、パスカルちゃんと湘南ちゃんが同室なんだって。夜中にお邪魔するから、よろしくね。」

「いや、今日は深夜便だから、明日の晩はライブにそなえてゆっくり寝るから。」

「またまた、老夫婦みたいなことを。」

「俺たちを夫婦にしない。」

「俺たち・・・・。」

「いや、もう。分かった。勝手にして。」

「でもツインが使えたから、宿泊代が安くすんで助かったわ。」

「高校生だからな。もし、コッコがそっちの部屋を出たら、連絡してくれよ。」

「分かった。寝てなかったら連絡する。」

「頼む。」

「コッコさん、たぶんオートロックだと思いますが、アキさんが寝ているようなら、部屋を出るときドアの鍵を確認して下さい。」

「湘南は心配性だな。分かっているって。腐ってはいても一応女だし。」

「コッコ、自分で言わない。」


 出国の手続きを済ませた後、パラダイスの一行は一度、ゲートの前に向かった。

「とりあえず、搭乗する飛行機のゲートに向かって、そこからは自由時間にする。」

「ねえねえ、尚ちゃん、ミサちゃんたちは?」

「美香先輩は、昼の便で出発して、もう到着しているということです。」

「それなら、とりあえず安心だね。」

「何で安心なんです。」

「もし、私が到着できなかったら、ミサちゃんに私の歌も歌ってもらおう。」

「お客さんは喜ぶかもしれませんが、出演料の計算が合わなくて、主催者が困りますよ。」

「そうね。明日夏の4曲分のギャラじゃ、美香はワンコーラスも歌えない。」

「尚ちゃんと橘さん、厳しい。」

「社長、ラウンジは使えないんですよね。」

「亜美ちゃん、ごめんなさい。エコノミーだから無理かな。」

「ただ聞いただけですので、気にしないで下さい。海外のイベントに出演できるだけで、夢のようです。」

「そう言ってもらえると嬉しい。」

「美香先輩はビジネスクラスに乗れると言って喜んでいました。」

「リーダー、それはすごく意外です。」

「ですよね。聞いたら、ファーストクラス以外乗ったことがなかったそうで、仕事に行くという感じが嬉しいそうです。」

「まあ、ミサさんはそうでなくちゃという感じです。」

「うちも、みんなが頑張れば、次はビジネスに乗るのも夢ではないと思う。」

「でも、俺だけビジネスという訳にも行かねーな。」

「大丈夫、その時は、『トリプレット』で稼いだお金で、みんなでビジネスに乗せてもらうよ。」

「えっ、おう。そっ、そうだなみんなでビジネスで行こうな。」

「由香、そのためにも今回のイベント頑張ろうね。」

「おっ、おう。」

「私なんか、ファーストもビジネスもエコノミーも乗ったことがないから楽しみ。」

「はいはい、旅客機の中ではふざけすぎないで下さいね。」

「分かってるよー。はしゃぎすぎるとスチュワーデスさんに追い出されちゃうんだよね。」

「キャビンアテンドさんです。」

「でも、尚ちゃん、何で知ってるの?」

「夏の海の時の後で、調べたからです。」

「お兄ちゃんといっしょに?」

「一応、私だけで調べました。」

「そうなんだ。さすが尚ちゃんのお兄ちゃんの妹だね。」

一行がゲートに到着した。

「出発の30分前にこのゲートに集合ということで大丈夫かな。」

「大丈夫だぜ。」

「一応、ゲートが変わることがあるので、モニターには注意してください。」

「羽田じゃめったにないけど、そうだね。そういう場合は新しいゲートに久美、ここに僕が来るので、30分前までにどちらかに来てくれればいい。」

「分かりました。そうしましょう。あと、明日夏先輩には私が付いていこうと思いますから大丈夫です。」

「尚ちゃん、申し訳ないけど、そうしてくれると助かる。」「尚、有難う。」「これで、安心できるな。」「リーダー、大変でしょうけれど、お願いします。」

「何、何、みんな。私が道に迷うとでも?」

「はしゃいで、時間を忘れるとかです。」

「尚ちゃん、酷い。でも、それはありうるか。」

「今までに何回ありますか?」

「うーん、回数までは覚えていない。」

悟が解散を告げる

「それじゃあ、一度解散で、出発30分前までにここに。」

明日夏と尚美、由香と亜美、悟と久美が対になって、時間をつぶしに向かった。


 誠たち5人がカウンターでチェックインを済ませた。

「あまり混んでいなさそうだったわね。」

「おう、固まって席が取れたからな。」

「女性二人と男性三人かな。」

「いや、パスカル、湘南と私だ。」

「コッコさんはアキさんの隣に座って下さい。」

「真ん中に座ってじゃましたりしないから、安心して大丈夫。アキちゃんも大丈夫だよね。」

「うん、セローが隣でも大丈夫だよ。基本寝ているだけだし、アニメ『ジュニア』の話とかもできるし。」

「おっ、さすがはアキちゃん。」

「僕は、明日夏ちゃん以外の女の人の隣に座るのはいやだよー。」

「もう、めんどくせーやつだな。」

「アキちゃん、ショックじゃない?」

「セローは、一途なんだなと思うだけ。いるよ、そういう人も。でも、セロー、明日夏ちゃんに変なことをしちゃだめだからね。」

「変なことってー?」

「この前、ミサちゃんにあったようなこと。」

「しないよー。」

「まあ、分かってるけどさ。」

「席も決まったことだし、出国手続きの方に進むよ。」

「了解!」

 そして、保安検査を通って出国手続きを済ませた。

「ここまでくれば安心です。」

「あとは飛行機に乗るだけね。」

「おう、それじゃあ、集合は出発時刻の30分前にここで。」

「パスカルさん、ゲートで集まった方が良くないですか?」

「ここから出発ゲートは近いし、出発前は混んで分かりにくくなるから、ここにしようと思う。」

「分かりました。一時解散して何かあったら、SNSで連絡することにしましょう。」

「おう。それでは一時解散。」

「それじゃあ、みんな、またね。」

 アキとコッコはいっしょに、男性3人はバラバラに辺りを探索した。


 尚美と明日夏が一度解散した後、行くところを探していた。

「明日夏先輩、免税店は閉まっているところが多そうですね。コーヒーショップでも行きましょうか?」

「社長と橘さんの後をつけるというのは。」

「全く興味がないとは言いませんが、やってはいけないことはやってはいけないです。」

「さすが、尚ちゃんのお兄ちゃんの妹。」

「実際、そういうところは兄の影響かもしれません。」

「ケーキでも食べようか。」

「寝る前ですけど。」

「うーん、じゃあ、お菓子を買って食べよう。」

「ケーキとあまり変わらない気が。」

「きのこの山とか。もしかして、尚ちゃんはたけのこの里派?」

「どっちでも大丈夫です。先輩はこだわりがあるのですか?」

「今は、きのこの山かな。」

「どういうときが、たけのこの里派になるんですか?」

「うーん、好きな人と食べる時かな。」

「じゃあ、私は好きじゃないんですね。」

「いや、女の子じゃだめなのかもしれないな。」

「なるほど。アニメキャラのポスターの前で、たけのこの里を食べているんですね。」

「さすが、尚ちゃん。分かっていらっしゃる。」

「とりあえず、売店に行きましょう。」

売店できのこの山を買った後、隅の窓際の椅子に座った。

「ふー、ここならだれにも見られていないからマスクを外せるね。」

「そうですね。」

二人はマスクを外し、きのこの山を食べたり、シンガポールでの話をしたりしながら、時折り飛行機が離着陸する暗い外を見ていた。明日夏が尚美に話しかけても答えがなかったので、横を向くと尚美は寝ていた。辺りにはだれもいなかった。

「尚ちゃん、寝ちゃったか。まだ中学生だから、寝れるときは寝ておいた方がいいよね。・・・・ところで、尚ちゃんのお兄ちゃん、さっきはパスポートを見つけてくれて有難う。」

柱で見えない5メートルぐらい離れたところで、誠はパソコンを使って曲の手直しをしていた。窓で反射して見えないことも確認していたので驚いて返事をした。

「あっ、はい。」

「えっ、本当にいた。」

「当てずっぽうに言っただけですか?」

「何となく、近くで尚ちゃんを見守っている気がしたからだよ。」

「明日夏さんも、いつも尚の面倒を見てくれて有難うございます。」

「あー、でも、どちかというと、世話になっているのはこっちだけど。」

「いえ、明日夏さんがいて、安心できるから尚が寝ることができるんだと思います。」

「そうなのか。ところで、さっき言っていた、アイドルのために作っているという曲を、私にも聞かせてくれないか。」

「まだ、製作途中で、もう少し変更しようと思っているものですが。」

「うん、それでもいいよ。」

「分かりました。そっちに行ってもいいですか。」

「構わないよ。」

誠が尚美をはさんで席に座る。正面の窓の外では暗い中を飛行機や自動車が移動していた。

「イヤフォンをお持ちですか?」

「いま付いているので、大丈夫だよ。」

「いつ買ったか覚えていないぐらい古いものですが、何となく手放せずに使っています。」

「そうなんだ・・・」

誠がイヤフォンをハンカチで拭いて、明日夏に渡す。明日夏がイヤフォンを見つめた後、装着して、オーケーのサインを出す。

「それでは、流します。」

曲を聞き終わると、明日夏が感想を言う。

「なんか、二人用の曲みたいだけど。」

「はい、メンバーが一人加わって二人のユニットになる予定です。」

「なるほど。それじゃあ、それを意識して聴くから、もう一回聴かせてくれる?」

「はい、了解です。」

結局、3回ぐらい曲を流した。

「どうでした。」

「楽しい雰囲気が出ているよ。あと、良くまとまっていると思う。」

「有難うございます。サビの高音の部分は、もう少し元気良くしようと思っています。」

「ふーん。もしかすると、高音部分を新しいメンバーが歌うの?」

「その通りです。ユミさんと呼んでいますが、小学5年生です。」

「それはまた、なんで。」

「今年の夏に海で知り合った子です。アキさんと一緒にビーチボールとかオタ芸とかで遊んでいたら、ユニットを組むことになりました。」

「アキさんか・・・・・。」

「ユミさんのお母さんがマリさんと言うのですが、学生の頃に声楽をやっていて、二人ともマリさんに歌を習ってレベルアップ中です。そういえば、パスカルさん、友達のプロデューサーなんですが、そのお母さんも含めて三人ユニットも構成するつもりのようです。」

「あー、パスカルさんって、あのバールさんね。」

「そうですが、あれは完全創作ですから。」

「うん、その辺りは私も分かっている。なんと言っても、うちの姉が腐女子だからな。でも、仲がいい友達ができて良かったな。」

「ちょうど、役割を補完しあっている感じです。」

「ところで、完成した曲の作詞は誰が担当するか決まっているの?」

「いえ、うちのグループに作詞できる人がいなくて困っているところです。」

「それじゃあ、私が担当しよう。」

「それは、とても嬉しいですが、契約とか大丈夫ですか?」

「そうか、それは社長に確認しないといけないかな。」

「でも、社長さんなら明日夏さんのためになるならば、何とかしてくれると思います。たぶん、名前は変えることになるとは思いますが。」

「マー、尚ちゃんのお兄ちゃんの言う通りだな。とりあえず、歌詞と作詞者としての名前を考えておくよ。名前、何がいいかな。いっそのこと、男性の名前にするかな。」

「そうですね、正体を隠すにはそれもいいと思います。」

「でもこんなことばかり考えていると、尚ちゃんに、名前だけ考えて歌詞を考えるのを忘れないで下さいね、って言われそうだな。」

「ははははは、そうですね。」

「でも、良く寝ているな、尚ちゃん。今は私がいるから大丈夫だけど、一人のとき寝過ごしたりしないのかな。あー、いつもはお兄ちゃんがいるから大丈夫なのか。」

「明日夏さんがいるから安心して寝ているというのもあると思いますが、でも、たぶん、集合の10分前に鳴る目覚まし時計をポケットに入れていると思います。」

明日夏が尚美の服のポケットから時計を取り出す。

「えーと、これかな。」

「そうみたいですね。」

「集合の15分前にアラームが鳴るようになっている。」

「海外で仕事ですから、普段より余裕を見ているのかもしれません。」

「なるほど。睡眠の邪魔だから止めておこう。」

「えっ、いや、まあ、いいですが。」

「尚ちゃんのお兄ちゃんは私を信用してくれるのか。」

「その時間までは、僕も後ろに居ようとは思います。」

「もしかすると、尚ちゃんのお兄ちゃんもアラームをかけてあるのか?」

「はい、一応かけてあります。集合の10分前ですが。」

「なるほど。ところで、このイヤフォンを買った覚えがないということだったが、誰かからプレゼントされたということのはないのか?」

「誰かから?親とかですか?うーーーん。」

「女の子からとか?」

「それは絶対にないと思います。」

「そっ、そうか。言い切るな。」

「そんな、アニメの幼馴染的な話は、一回もなかったです。」

「そうなのか。」

明日夏と尚美の間にあるお菓子の箱を見て言う。

「明日夏さんは、きのこの山派なんですね。」

「そう言えば、尚ちゃんのお兄ちゃんは、たけのこの里派だったな。」

「それは、尚から聞いたのですか?」

「そうかもしれない。」

「一応、持っていたりします。」

誠がたけのこの里を見せる。

「きのこの山とたけのこの里、少し交換しないか。」

「はい、喜んで。でも大丈夫ですか。」

「まあ、尚ちゃんのお兄ちゃんだから大丈夫だろう。」

「これで、不毛な戦争をしなくてすみますね。」

「そうだな。世の中もそうあって欲しいものだ。」

きのこの山とたけのこの里を交換して食べる。

「きのこの山の方がパリってしていますね。」

「たけのこの里はしっとりした味だ。」

「明日夏さんの歌には、きのこの山の方が合いますね。」

「そっ、そうか。相変わらず、分からないことを言うな。」

「すみません。明日夏さん、作詞がしたいということは、詩を書いたりするんですか。」

「たまにな。見るか?」

「いいんですか?」

「作詞のための曲を提供してくれるぐらいだから、構わないよ。」

明日夏が歌詞のために書きとめている小さなノートを渡す。

「なかなか、ユニークで面白いですね。」

「おお、分かるか。」

「はい。明日夏さんやアイドルユニットの歌には使えそうです。」

「でも、ミサちゃんの歌には無理そうだな。」

「そうですね。ロックシンガーとしての歌へのこだわりは非常に強そうです。ただ、鈴木さんには、それを言う権利はあると思います。」

「鈴木さん?あー、本名の方か。」

「はい、鈴木さんがそう呼べと。尚の兄だからファンになってはいけないということです。あまり近づくなということだと思います。」

「ふふふふふ、相変わらずと言うか。私も作詞家として、ミサちゃんに歌ってもらえそうな歌詞を作りたいと考えているから、練習のためにとりあえずでいいから、マー君もロックの曲の方もお願いできるかな。」

「マー君・・・。誠だからですか。なんか懐かしい響きです。そう呼んでもらえるのはとっても嬉しいですが、誰かに聞かれると明日夏さんに良くないんじゃないでしょうか。」

「そうか。それじゃあ、そう呼ぶのは、尚ちゃんと3人だけの時だけにするよ。」

「有難うございます。それで、ロックの曲ですが、デスデーモンズ用の曲を考えています。社長さんも本当はロックの楽曲の方が詳しそうですし。」

「それじゃあ、思いっきり女々しい曲にしてくれ。」

「女々しいパンクロックですか。」

「ああ、そうだ。デスデーモンズをイメージするとその方が歌詞が付けやすい。」

「分かりました。その方向で作曲してみます。」

「うん、楽しみにしているよ。」

「でも、もう明日夏さんたちの集合10分前ですね。」

「えっ、もうそんなか。」

「それじゃあ、僕は柱の後ろに隠れて座っています。」

「その方がいいかな。それじゃあ、曲をお願いね。」

「はい、頑張ります。」

誠が柱の後ろに移動した。見えなくなったことを確認した明日夏が、スマフォで寝ている尚美の写真を撮った。そのシャッター音で尚美は目を覚ました。尚美は起きると、すぐに時計を確認した。明日夏が尚美に声をかける。

「おはよう。」

「あっ、明日夏先輩、おはようございます、って夜ですよね。でも、もう集合8分前。15分前に鳴るようにアラームをかけたのに。・・・・あれ、アラームが止めてある。」

「故障したのかな?」

「時計が入っているポケットが違います。明日夏先輩が止めたんですよね。」

「バレちゃったか。尚ちゃんを少しでも長く寝させてあげようという親ごころからなんだよ。」

「もう、めんどくさい人ですね。とりあえず行きましょう。」

「了解。」

明日夏と尚美がゲートに向けて出発する。明日夏は前を向いたまま片手を挙げた。誠も明日夏からは見えないと思ったが、それに答えて片手を挙げた。

「でも、何でアラームをかけているって分かったんですか?」

「尚ちゃんなら、そうするだろうと思って。すべてはお見通しなんだよ。ふふふふふ。」

「そうですか。あっ、社長と橘さんが前を歩いていますね。」

「本当だね。でも、なんか女社長と部下みたいだね。」

「うーーん、本当にそんな感じですね。」

「でも、それがうちの社長のいいところだよ。」

「そうですね。橘さんの方はもうお酒を飲んでいそうですね。」

「それが橘さんの問題なところかな。」

「あっ、由香先輩と亜美先輩は反対側からやって来ていますね。」

「これで、無事全員そろったね。」

「はい、良かったです。アラームを明日夏さんが止めちゃいましたから、もし明日夏さんが寝たら大変なことになるところでした。」

「それは心配いらない。」

「何でですか?」

「尚ちゃんのお兄ちゃんが後ろで見張っていたから。」

「そうなんですね。申し訳ないことをしました。」

「尚ちゃんは中学生だから気にすることはないよ。それに、尚ちゃんを見れる位置にいた方が尚ちゃんのお兄ちゃんも安心すると思う。たぶん、まだ、後の柱の陰からこっちを見ている気がする。」

尚美が振り返ると、誠は一度柱の裏に隠れたが、出てきて手を振っていた。尚美も手を振り返した。ゲートに到着すると、また、手を振りあって、誠は急いで自分の集合場所に向かって行った。

「明日夏さんの言う通りでした。」

ゲートの前に6人全員が集まった。

「5分前。みんな偉いね。」

「明日夏には尚が付いていたから安心だったわね。」

「橘さんにも社長がついているので安心でした。」

「生意気なことを。でも明日夏、何でニヤニヤしているの?」

「えっ、あっ、ニヤニヤしていますか。尚ちゃんが寝ちゃって、私が起きていないと寝過ごしちゃうところだったんですよ。」

「私がかけていたアラームを、明日夏さんが勝手に解除するからです。」

「でも、尚ちゃんの寝顔、すごく可愛かったですよ。見てみますか。」

4人が明日夏のスマフォを覗き込む。

「尚ちゃん、寝ていると本当に天使のようだね。」「寝ているとホントね。」「寝ていると本当だぜ。」「寝ていると本当ですね。」

「何か、みんな酷い。」


 誠が自分たちの集合場所に到着した。関空へ戻るラッキーを含めて他の5人はそろっていたが、誠が少し遅れることはSNSで連絡してあったので、落ち着いていた。

「遅れて申し訳ありません。」

「妹子を見守っていたんじゃ仕方がないわよ。」

「俺も、社長さんと橘さんを見たぞ。雰囲気はどっちが社長か分からなかったけど。」

「パラダイスの方々は、6人がゲートに集合していましたから大丈夫だと思います。」

「それなら、明後日のライブも安心ということだね。」

「本当に明後日が楽しみだよー。」

「それじゃあ、もう搭乗が始まっているから、ゲートに急ぐか。」

「オーケー。」

ゲートに到着すると、さっき尚美たちが集まったゲートと同じだった。

「あれ、この便、全日空とシンガポール航空の共同運航便です。」

「湘南、なにそれ。」

「全日空とシンガポール航空と二つの便があるようでも、実際は一つの飛行機で行くということです。」

「そうなんだ。えっ、ということは、パラダイス興行の人たちと一緒ということ?」

「そういうことになります。」

「それは、すごい。」

「明日夏ちゃんと同じ飛行機ー。」

「みんな、パラダイス興行の方々に迷惑をかけないようにだね。もし、見かけても普通にしているように。」

「パスカルには言われたくないわよ。」

「まあ、セローも気を付けてな。」

「大丈夫だよー。」

「パスカル、このメンバーは大丈夫だよ。」

「一番危ないのは、男性グループがいた時のコッコさんぐらいだと思います。」

「まあ、湘南ちゃんの言う通りだ。」

「だから、コッコ、そこは否定しないと。」

「ネタの前には人間性など無意味だ。」

「コッコ、カッコいいと思って言ったのかもしれないけど、カッコ良くないから。」

「アキちゃんは、初めのころはもっと性悪女で面白かったのに。パスカルと湘南のせいで、普通の可愛い子に変わってきて、何かつまんなくなった。アキちゃんのためには良かったのかもしれないけどな。」

「何それ。うーん、でも、初めは二人はチョロいやつで利用してやろうと考えていたから、まあそうなのかな。」

「ミイラ取りがミイラになったというやつだな。」

「普通と意味が逆だけど。」

「湘南、二人でなんか怖い話をしている気がするが。」

「気にしないで、飛行機に乗りましょう。」

「そうだな。」

搭乗券を確認するゲートを通り、5人は飛行機に搭乗した。


 飛行機の中は空席が目立っていた。パラダイス興行一行の席は、前が窓際から亜美、由香、尚美、後ろが明日夏、橘、悟である。メニューを見ながら久美が喜ぶ。

「おっ、やった。ただ酒が飲める。」

「久美、ほどほどにね。」

「大丈夫。明日は明日夏と『トリプレット』に仕事がないから。悟と私は今日のイベントが終わった後に打ち合わせがあるけど、そこまでホテルでゆっくりできるし。」

「それは、そうだけど。」

「社長、マイク、持ってきていないですよね。」

「それは大丈夫。でも、誠君たちも乗っているはずだから、こちらがみっともないところを見せないようにしないと。」

「えっ、尚ちゃんが便が違うと言っていましたけど。全日空って。」

前席の尚美が説明する。

「すみません、明日夏先輩。乗るときに分かったのですが、この便は共同運航便で、シンガポール航空の客も全日空のお客も乗っているみたいです。」

「へー、そうなんだ。」

「でも、兄たちのことは心配しなくて大丈夫だと思います。万が一、何かありましたら私に言ってください。」

「大丈夫、それは分かっているよ。どっちかと言うと、橘さんが心配なだけ。」

「まあ、それも大丈夫だとは思います。」

「分かったわよ。他にもエンジョイアニメーションに行くお客さんが乗っているから、自重することにするわよ。」

「そうそう、その通りだよ、久美。」


 誠たちは、前にパスカル、誠、セロー、後ろにコッコとアキである。

「あれだ。この位置も二人を後ろから観察できるから悪くないな。」

「そうなの?まあ、明日もあるから、とっとと寝るからいいけど。」

「僕たちもすぐに寝ますから、コッコさんが期待しているようなネタは出てこないと思います。」

「大丈夫、二人が機内食を食べるだけでも、お腹一杯になれる。」

「何が大丈夫か分かんないわよ。」

「おっ、でも、お酒は無料みたいだな。」

「えっ、そうなの?それはついてるな。」

「何、コッコはBLよりお酒なの?」

「うーん、それ迷うところな。」

「パスカルも飲みすぎないのよ。体に良くないし。」

「おっ、湘南ちゃん、パスカルちゃんをアキちゃんに取られちゃうよ。」

「要りません。」「はい、僕も要りません。」

「二人とも酷いな。パスカルちゃんの気持ちを考えてやれよ。」

「コッコが余計なことを言うからでしょう。」

「マネージメント能力や写真を撮る能力は必要です。」

「私も、プロデューサーとしての能力は必要。」

「パスカルちゃん、良かったな。アキちゃんと湘南ちゃんに必要とされていて。」

「まあ、そうだな。」

「そう言えば、『ユナイテッドアローズ』の曲を作ったら歌詞を付けてくれるという人が見つかりましたので、オリジナル曲の制作に向けて頑張ろうと思います。」

「へー、湘南の知り合い?」

「平田社長の知り合いです。」

「そうなんだ。やっぱり、本当のオリジナル曲という感じがしていいよね。間に合うなら、3曲のうち1曲をそっちに差し替えようよ。」

「3曲とも『アイドルライン』のカバーよりはいいと思うけど、まずは来月のユナイテッドアローズを無事にデビューさせることが先だな。」

「分かっている。できたらという感じ。」

「おう、そうだな。」

 その後、飛行機が離陸し、飲み物と軽食が出され、出された客から食べ始めていた。

「リーダー、機内食、微妙ですね。」

「空気が薄いので、味覚が落ちるということもあるみたいですね。」

「なるほど、そうなんですね。」

「リーダー、こんなに遅い時間に食べ物はいらないし、見たところ席が空いているようなんで、俺、空いているところに座りに行きます。リーダーと亜美はゆっくりしていて下さい。」

「あー、共同運航便だからですか。分かりました。到着の前に戻ってきてください。」

「えっ、あー、はい。」

「あと、マスクは外さないようにして下さい。」

「了解。」

「それでは、いってらっしゃい。」

「行ってくるぜ。」

由香が空いている席の方に向かった。亜美が話しかける。

「由香、もしかすると、窓際が良かったんでしょうか。」

「うーん、それに近い感じだと思います。」

「言ってくれれば、席、替わったのに。」

「飛行機の中ですし、それほど心配はいらないと思います。」

「それも、そうですね。」

一方後ろの席では。

「お姉ちゃん、ワイン追加で。おい、悟、飲め。私の酒が飲めないのか!」

「いや、飲んでいるよ。それより、客室乗務員の方にお姉ちゃんはさすがにやめてくれ。会社がバレるとみっともない。」

「分かった。でも、飲むのが遅い。だからお前はずっと一人なんだよ。」

「橘さん、それは関係ないような。」

「おー、明日夏か。本当にお前もすごくなった。海外ライブに呼ばれるんだもんな。頑張れよ。」

「はい、頑張ります。でも、海外でライブをできるのは、私の歌の実力じゃなくて、アニメの人気によるものです。歌の実力は橘さんの方がはるかに上です。」

「明日夏ちゃん、今のところはその通りだよ。」

「はい。」

「でも、だんだんと歌の実力でも呼ばれるようになろうね。」

「はい、もちろんそれを目指していきます。」

「そうだね。明日夏ちゃんもどんどん大人になっているんだ。」

「へへへへへ。」

「ちょっと、トイレ行ってくる。」

「橘さん、大丈夫ですか?いっしょに行きますか?」

「明日夏ちゃん、心配はいらない。いつものことだから。まあ、起きたら二日酔いだろうけど、夕方までには治ると思うよ。」

「それならいいですが。」

しかし、久美はなかなか帰ってこなかった。


 誠たちの席では、コッコはワインと徹夜で漫画を描いていた疲れからか、眠りに落ちていた。セローがトイレに立ち、誠の隣の通路側の席が空いていた。

「キャビンアテンド様、あの、ワイン、お願いします。」

「あのパスカルさん、酒粕パスカルさんに戻ってますよ。」

「今回はプロデューサーとして行くんじゃないから構わない。それに、俺は昔からどんなに飲んでも二日酔いにならない。」

「最初に会ったときもそうでしたね。アルコールを分解する酵素もアセトアルデヒドを分解する酵素も豊富なんでしょうね。」

「何だか良く分からないが、その通りだ。だから安心してくれ。」

「でも、それを飲んだら、寝ましょう。」

「分かったよ。」

後ろでアキが、「コッコが起きていたらニヤニヤしただろうな」と思う中、通路側から誠に声がかかった。

「おう、少年じゃないか。元気か?」

誠が振り向くとセローがいた席に橘が腰を下ろした。

「よーし、少年、飲むか?」

「いえ、僕はまだ19歳ですから。」

「そう言えば、そうだったな。」

「だいたい、少年って呼んでいるじゃないですか。」

「それは意味が違うけどな。」

「あの橘さん、お酒なら私が頂きます。」

「どこかで見たことある顔だな。えーと。」

「パスカルと言います。」

「おー、そうだった、そうだった。よし、飲もうぜ。」

「はい。思いっきり飲みましょう。」

「いいこと言うね。あっ、お姉ちゃん、ワインお願い。」

「橘さん、お姉ちゃんと呼ぶのは止めましょう。もう寝ているお客さんもいるようですので、静かに話して下さい。」

「やっぱり、悟みたいなことを言うな。」

「いえ、一般常識を言っただけです。」

「分かったよ。」

久美がパスカルの方を向く。

「君、どんどん飲もう。」

「どんどん飲みましょう。乾杯。」「乾杯。」

「おっ、君、いい飲みっぷりじゃないか。」

「橘さんこそ。さすが、ロックシンガーです。」

「おっ、私がロックシンガーだったことを知っているのか。そうか、そういえば君は、私のファンと言って、明日夏を困らせていたやつだな。」

「はい。実は橘さんのCDを持っているのですが、サインして頂けますか。」

「本当か?もちろん、いいよ。」

パスカルがCDを二枚出す。

「おっ、アンナの方も持っているのか。」

「パラダイス興行の時に出したCDの紹介記事に、二十歳の時にもアンナ名義でCDを出していることが書いてありましたから。」

「なるほど。サインをするのはいいが、書くものはあるか。」

「僕が油性マジックを持っています。」

誠が油性マジックペンを橘に渡すと、橘がCDのジャケットにサインをする。

「久しぶりだな、サインをするのは。まあ、そんな数を書いたわけじゃないから、あまり上手じゃないぞ。」

「はい、橘さんは歌う人と思っていますから、その方がしっくりきます。橘さんの歌を知ってから、いやなことがあると、橘さんの歌を聞いて癒されています。」

「えっ、私の歌で癒されるのか?それは変わっているな。」

「僕より大変な人がいるって感じが伝わってきて。」

「そうか。まあ、そうか。」

「それに、橘さんの歌には逆境を跳ね返そうとする力があります。」

「有難う。それじゃあ、もう一杯行くか。お姉ちゃんはいけないんだったな。」

「キャビンアテンダントさんを呼ぶボタンを押します。ただ、寝ている人も増えてきていますので、できるだけ静かな声でお願いします。」

「分かった。」

キャビンアテンダントが持ってきたワインで乾杯する。

「乾杯。」「乾杯。」

「うちは、子供ばかりで飲める奴がいなくてなー。」

「こっちは、セローさんも飲めるのですが、いなくなってしまいました。」

セローは久美が来てからすぐにトイレから戻ってきたが、他の人が座って誠とパスカルと話しているのを見て、空席を探しに行ってしまった。

「そうか。」

「昔の橘さんのバンドの写真を見ますか。古本屋で大学の時とパラダイス興行の時の音楽雑誌を買って、スマフォに写真で納めてきました。」

パスカルがスマフォを見せる。

「これは、私たちが二十歳の時のやつか。」

「その通りです。」

「みんな若いな。」

「はい。」

前席のアキがパスカルに言う。

「私にも見せて。」

「おう。野性的な感じがするなかなかの美人だぜ。」

「本当に美人って感じ。ミサちゃんといい勝負かもしれない。」

アキからスマフォを受け取った誠も同意する。

「橘さんはきちんとすればすごい美人なんだよって、尚が言ってましたが、本当なんですね。」

「何だ尚は、きちんとすればって。まあ、美香には。」

誠が言葉を遮る。

「橘さん、大河内さんの名前を間違えています。ミサさんです。」

「えっ、少年は・・・・。あっ、そうだな。さすが少年だ。えーと、何て言えばいいんだ。私にはミサみたいな可愛さはないな。」

「それにしても、あれだけ歌も上手くて美人だったのに、あまり売れなかったのは、橘さんの素行に問題があったんじゃないですか。」

「まあ、少年、そう言うな。すぐにカッとくるたちだったしな。」

「プロデューサー泣かせだったんでしょうね。」

「少年は真面目で悟に似ていると思っていたけど、結構毒舌だな。」

「いえいえ、音楽の能力的には、社長さんの足元にも及びません。」

「そうか。ところで少年、明日夏、ミサ、亜美の中なら誰がいい。」

「三人とも、それぞれいいところがあると思います。明日夏さんの少し癖がある高くて可愛い声は特徴的です。歌を選ぶ必要はありますが、本当の意味で聴いている人たちを癒してくれる歌が歌えると思います。ミサさんはオールマイティーです。すごく綺麗な声ですし、パワー、スピード、テクニック、表現とも、橘さんの二十歳ぐらいのレベルはあると思いました。でも、そういうもので表せない気持ちを伝える力は、橘さんの域には達していません。亜美さんは、倍音の多い低い声が心に響きます。高音の歌声にあまりメリットがない感じがしますので、曲は工夫する必要はありますし、表現はもうすこしのところがありますが、これからが楽しみな歌手だと思います。」

「なるほど、悟が気に入るわけだ。だが今は歌の話はしていない。恋人にするならば、三人のうちどれがいい。」

「どれがいいって、それは三人に失礼です。」

「少年が選んでくれたら、師匠の私から恋人になるように言ってやるが。」

「いくら歌の師匠でも、さすがにそんな無茶はきかないでしょう。」

「うーん、三人の中だと明日夏が一番聞かないだろうな。ああ見えても芯がやたら固い。」

「そうなんですね。それを聞けただけでも良かったです。」

パスカルが尋ねる。

「逆に3人の中では、だれが橘さんの言うことを一番聞きそうなんですか?」

「ミサかな。」

「えーー、そうなんですか。僕なんかはどうですか?」

「うーん、ミサは音楽が分からないと無理だ。」

「残念。」

「でも、大河内さんも亜美さんも明日夏さんと同じで、いくら橘さんが言うことでもそういう無茶なことは聞かないと思います。」

「ミサは、歌のために恋人が必要と言ったら、少しは本気にしていたみたいだった。」

「大河内さんの歌は、あの歳の歌手では最高ですので、焦ることはないと思います。男性と付き合うにしても、大河内さんが自分の意思で選んだ人と付き合うべきで、周りが余計なことをしてはいけないと思います。」

「ミサは本当に必死に練習しているけど、ミサの中では不安が一杯で、かなり焦っているところがあるんだよ。」

「確かに思考に幼いところもありますから、必要以上に焦ったりするかもしれません。ミサさんのために僕が何かできれば嬉しいですが、ミサさんの場合、レベルが高すぎて、僕にできることはなさそうです。」

「思考が幼いか。だったら、二人で大人になることはできるだろう。」

「人の不安や焦りをいいことに、自分の思い通りにしようとするのは、悪人がすることです。」

「はっきり言うな。だが、ミサは高校まで引きこもりで、本当に経験が不足しているんだよ。恋愛や失恋を経験しなくて、ロックは歌えないだろう。男は歌の糧なんだよ。」

「でも、それで失敗したのが橘さんなんですよね。」

「うっ、やっぱり、それが一番の原因か・・・。」

「それだけではなくて、すぐにカッとなるところなんかもそうですが、すべてが感情で動きすぎるのではないでしょうか。」

「感情を表現するのがロックシンガーだから。」

「その通りです。歌うときは思いっきり橘さんの感情を表現して下さい。橘さんの歌の感情表現は本当に上手だと思います。でも、普段は抑えることも必要です。」

「悟もそんなこと言っていたな。それができれば苦労はない。」

「悟。社長さんのことですか?」

「そう。でも、少年とミサなら恋愛が上手くいかなくても、ミサが私みたいにはならないだろう。あくどいことはしなそうだから。」

「やっぱり、あくどい人もいるわけですね。」

「そうだな。・・・・そうだな。もちろん、全員じゃなかったけど・・・・。」

「その辺りは、周りの人が気を付けて欲しいと思いますが。」

「少年がそばに行って、気を付けてあげればいいんじゃないか。」

「尚も気を付けているようですが、大河内さんの場合、ご両親や溝口エイジェンシーの方々がチェックしていると思います。橘さんは、歌以外に関しては、明日夏さんと『トリプレット』のメンバーを見てあげるのが第一だと思います。」

「そうだな。ミサのことはレッスン以外は、私がとやかく言うことじゃないのかもな。確かに、明日夏は海外ライブ、尚たちなんてドームでファーストワンマン・・・」

誠が言葉を遮る。

「橘さん。言ってはいけないことは言ってはいけません。ちょっと飲みすぎのようですから、社長さんを呼んできます。とりあえず、自分のこと以外、何もしゃべらないで下さい。事務所の信用に係わります。」

「はーーい。」

「パスカルさん、アキさん、ちょっと行ってきます。申し訳ないですが、ここで聞いたことは他には話さないで下さい。」

「俺は良く聞こえなかったよ。」「分かった。」

誠はパラダイス興行の一行を探しに行った。

「あの、橘さん。俺は、橘さんの歌、大好きですよ。」

「ラスカル、有難う。」

「パスカルです。まあ、乾杯しましょう。」

「おお、乾杯。」「乾杯。」


 誠が悟たちを探していると、それに気が付いた明日夏がマスクを外して手を挙げた。誠が、その席の方に行った。明日夏が尋ねる。

「もしかして、橘さんのこと?」

「その通りです。」

「誠君、久美は、今どうしているの?」

「橘さんがこちらに来てかなりの量を飲んでいます。それは構わないのですが、まだ秘密にしなくてはいけないようなことを話し出していますので、大変申し訳ありませんが、連れて帰った方がいいと思います。」

「そうですか。ごめんなさい。久美が戻らないとは思っていたけど、どこかで勝手に寝ているのかと思っていました。すぐに連れて帰ります。」

「お願いします。」

「社長、私も行きます。尚ちゃんのお兄ちゃん、ごめんなさい。あと、知らせてくれて有難う。橘さん、ストレスがたまっているのかも知れないけど、本当はいい人だから。」

「はい、僕もそれはよく分かっています。それより急ぎましょう。」

「分かりました。」


 悟、明日夏、誠が久美の方にやってくるのを、パスカルが気が付いた。

「あっ、社長さん。この度は、あの。」

「ご迷惑をかけたのは久美の方と分かっていますから、大丈夫です。本当にごめんなさい。久美は今連れて帰ります。」

パスカルがCDを見せながら言う。

「迷惑だなんて。あの、橘さん、今日はCDにサインしてくれて有難うございます。一生の宝にします。」

「おう、私のサインぐらい、いつでも書いてやる。」

「有難うございます。」

悟は「あれは久美が出した2枚のCDか。こんなに酔っぱらって、よっぽど嬉しかったのか、久美も。」と思った。悟の顔を見て、明日夏が言う。

「社長、別に嬉しくなくても、橘さん、このぐらいは酔いますよ。」

「えっ、まあ、そうだね。」

橘が明日夏の方を見て叫ぶ。

「明日夏!お前は、すごいチャンスを得たんだから。頑張れよ。」

「はい、分かっています。頑張ります。」

悟が肩で久美を支え、明日夏が後ろからカバーする。

「みなさん、久美のこと有難うございました。それでは失礼します。」

「じゃあ、みんな、またね。」

「お疲れ様です。」「おやすみなさい。」

「悟も、ラスカルぐらい飲めるようになれ。」

「分かった。分かったから、行こう。」

三人が自分の席に戻って行った。


 橘が帰った後、社長が来てから前席で隠れていたアキが誠を呼んだ。

「本当に絶対に誰にも言わないけど、『トリプレット』のファーストワンマンライブってドームなんだ。」

誠は「噂話程度でも少し話した方が、アキさんが黙っていてくれるかな。」と思い、小声で尋ねる。

「本当に、絶対に秘密でお願いできますか。」

「もちろん。死んでも誰にも言わない。」

「はい、4月初めに所沢ドームでファーストワンマンライブを開催する計画が進んでいるということです。」

「どのぐらいお客さんが入るの?」

「フルで3万人ぐらいでしょうか。」

「それじゃあ、ミサちゃんよりすごいのか。でも、妹子、これから大変よね。大丈夫、湘南がついていなくても?」

「すごいスタッフの方々がライブのサポートをするようですので、僕に出る幕はないです。平田社長さんも出る幕がないとおっしゃっていたぐらいですから。僕ができることは、尚の話し相手ぐらいだと思います。」

「そうなんだ。主催はパラダイス興行じゃないんだ。」

「はい、パラダイス興行だと普通は200人ぐらいで、最大でも1000人ぐらいって言っていました。今回はヘルツレコードが中心になるみたいです。」

「私たちのワンマンの箱が200人ぐらいよね。」

「その通りです。ですので、パスカルさんがいい会場を見つけられないようでしたら、社長さんに聞いてみようと思っています。」

「本当に?」

「はい、今作曲している曲も、送ってくれれば、手直しや編曲とかを手伝ってくれるとおっしゃっていました。」

「そうなんだ。かなり心強いわね。」

「はい。でも、それなりの曲にしてから送りたいので、曲をもう一度見直しているところです。」

「橘さんが言っていた、明日夏ちゃん、ミサちゃん、亜美ちゃんから恋人を選べるとすると、湘南は本当は誰を選ぶの?オタクの明日夏ちゃん、それとも美人のミサちゃん、やっぱり若い亜美ちゃん。」

「だれも選びません。橘さんにも言いましたが、そういうことを言うのは三人にとっても失礼です。みなさん、それぞれの想いがあるのですから。」

「でも、湘南としては三人の誰とでも結婚できる。」

「えーと、僕の方は・・・・」

誠は、三人それぞれから好きと言われる場面を想像してみた。

「はい、その通りです。」

「いま、三人から告白される場面を想像した?」

「あっ、はい。」

「きもい。」

「えー、アキさん酷い。」

「冗談よ。真剣に答えようとしたんでしょう。でも、結局、湘南の結婚相手は、妹子が探してきたり決めたりすることになるのかもね?」

「やっぱり、そうなるんでしょうか。」

「だ・か・ら・自分でやらなくちゃだめでしょう。」

「アキさんの言う通りですね。まあ、今のところは恋人ができそうな状況の心配をするなんて杞憂ですが。」

「杞憂が今のところで済めばいいわね。」

「アキさん、厳しい。」

二人が笑った後、アキがパスカルとコッコを見る。

「もう二人とも寝ちゃったわね。セローは戻ってこないし。」

「どこかで寝ているのかもしれませんね。」

「そうね。それじゃあ、私ももう寝るわ。」

「そうですね。それではまた明日。」

「うん、また明日。いつも有難うね。」

「はい、曲の準備、がんばります。おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」

この後、機内が暗くなり、映画を見ている乗客もいたが、多くの乗客が眠りについた。

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