明日夏INパラダイス

@Ed_Straker

第1章 明日夏、ステージに立つ

第1話 デビューイベント

 これから始まるこの話は、アニソン歌手(アニメの主題歌を歌う歌手)の主人公、神田明日夏とその友人たちが、周囲との衝突やトラブルを乗り越えながら人間として成長していく過程を描いた感動のドラマというものではなく、単に若い女の子たちの日常と恋心に関するどうでもよい話であり、適当に読んで欲しい。話はまず、明日夏のデビューシングル『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』の最初のリリースイベントの前日に、明日夏が自宅のお風呂場で湯船につかっているところから始まる。

「なっ、なんでお風呂場から?」

いきなり主人公が説明文に突っ込まないでね。目覚まし時計が3つ鳴るところからという案もあったんだけど、この話がアニメ化されたとき、アニメの視聴を決めると言われている最初の3分をよりキャッチーにするためなんだ。名付けて、最初からクライマックス作戦。そういうことだから、お願い、我慢してね。

「お風呂場のシーンが、この話のクライマックスなの?」

そのぐらい、軽くて薄いお話なのだけれど、薄いと言えば、挿絵が入るとすれば、今日の風呂場の湯煙は濃いけれど、話が進むたびに挿絵の湯煙が薄くなっていく予定。それで、読者を逃がさない!

「なんじゃそりゃ。」

それでは、1月初旬のある金曜日の夜から話を始めるよ。

「ああっ、ごまかした。でも分かった。ページがもったいないから、話を始めて。」


「みなさん、こんにちは、私は神田明日夏です。この4月から放送が始まったアニメ『タイピング』の主題歌『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』でヘルツレコードからデビューさせて頂きました。所属事務所はパラダイス興行です。これからも、どうぞよろしくお願いします。うーん、この挨拶、平凡で受けが悪いか?」

明日夏は、お風呂の中で自己紹介の練習をしながら首をかしげているが、練習で言っている通り、芸名には本名を使っていて、所属事務所はパラダイス興行である。それで、この小説のタイトルが『明日夏 IN パラダイス』となる。短く略すときは『あす☆ぱら』でお願いしたい。

「それじゃあ、もう少しインパクトを付けてみるかな。うーん。てめえら、今日はよく来てくれたな。ああっ!俺は、今度『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』でデビューする神田明日夏というもんだ。今後ともよろしくな。何?そのナンパなタイトルは何だってか?知るか!そんなことクソ社長に聞け。そんなことより、今日は俺の歌を聞きに来てくれたんだろう!そんじゃじ早速歌うぞ!耳をかっぽじって良く聴きやがれ!・・・あはははは、これじゃお酒を飲んでマイクを握った橘さんだ。」

 橘さんとは、明日夏のマネージャー件ボイストレーナーの橘久美のことである。昔はロックシンガーをやっていて、過去にインディーズのレーベルからCDデビューしたもののあまり売れず、現在、ロックシンガーは休業中である。そして、大学時代にボーカルをしていたバンド『ファイブサターンズ』のメンバーが社長をしているパラダイス興行で仕事をしている。久美もやはり、現在入浴中である。

「あのね!」

明日夏ちゃん、話しが進まなくなるから、説明文に突っ込まないでね。

「わかったわよ。」

久美も明日の明日夏のイベントについて悩んでいるようです。

「明日は明日夏の初めてのリリースイベント。準備は悟とチェックしたから大丈夫だと思うけど。でも、明日の朝にもう一度、事務所から持っていく持ち物のチェックリストの確認をしないと・・・・。悟は150人は来るって言っているけど、本当にそんなにお客さんは集まるんだろうか。100人、いえ、70人来ればなんとかなると思うけれど。」

自分がデビューした時を思い出して、心配で弱気になる久美ではあるが、自分のほっぺたを叩きながら気を取り直す。

「明日夏 、最初は素人同然でどうなるかと思ったけど、メジャーで最大手のヘルツレコードでのデビューをオーディションで勝ち取って。悟、今じゃ金の亡者みたいになっちゃたけど、素質を見抜く目があるということよね。私も、悟の足を引っ張らないようにして、事務所が続けられるようにしないと。」


 悟というのが、パラダイス興業の社長の平田悟である。ファイブサターンズでは、悟はベースを担当していた。悟はまだ事務所に残って経営改善に向けて仕事をしている。

「僕は入浴中じゃないの?」

いや、あの、社長さんも説明文に突っ込まないで下さい。一応、腐女子向けのストーリーではないので。

「そうか、そうだよね。」

パラダイス興行は会社と言っても、正社員は悟と久美だけで、グッズの通信販売などの諸々の仕事は、売れないロックバンドのメンバーがアルバイトとして担当している。事務所の広さは、机4つと応接セットが置いてある事務室が1つと、練習用の防音が施されたスタジオ兼会議室が一つあるだけである。悟は経営改善のために新しいアイドルユニットの構想を練っているところである。

「明日夏ちゃん、久美の細かい指導にもめげずによく頑張ったな。うちじゃ初めてのメジャーからのデビュー。上手くなるとは思ってたけど、あんなに上手になったのは久美の頑張りのおかげか。でも、一番頑張ったのはあの二人の仲を取り持っている僕だけど。うん、間違いない。明日夏ちゃんには会社のためにも頑張ってもらわないと。やっぱり、インディーズのロックバンドだけだと経営的に苦しいしな。」

悟はデモテープを聴き、履歴書を見ながら、アイドルグループをプロデュースする案を練っている。二名の目途は着いたのであるが、まだリーダーを任せられる子が見つかっていない状況だった。

「大手と違って、あまりプロデュースにお金がかけられない。大手に対抗するためには、少人数ながらも、個性的でレベルが高いグループにしないと。ダンスの切れがすごい子と声がハスキーで歌が上手な子は見つかったけれど、存在をアピールできるリーダがなかなかいない。明日夏ちゃんならアピールできるけど、他のメンバーを率いるという感じではないし、明日夏の場合は一人で歌わせた方が良さが出るし・・・」

悟は28才男性であるため、深夜、仕事以外にも様々なことをしていると思うが、ここでは省略する。

「ありがとう。」

いえいえ、お互い様です。


 明日夏はまだ明日のスピーチの練習をしていた。

「もっと、ソフトに行ってみようか。やっほー!こんにちは!明日夏だよー!神田明日夏!神田明神の神田に、明日(あした)の明日(あす)に、季節の夏って書くんだよ。アニメの歌を歌う、夏のようなホットなお姉さんなんだよ。良い子のみんなは、私のデビューシングル『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』を聴きに来てくれたんだよね。そうだよね。えっ、聞こえないよ。もっと、大きな声でお返事して!有難う!みんな良い子。それじゃあ、早速歌っちゃおうかな。いくよー、みんなもいっしょに歌ってね!うーーん、これじゃ、教育テレビの歌のお姉さんか。もっと初々しく行ってみようかな。みっみっなあ。みんなー。みんなー。・・・・・かっ神田明日夏 です。あの、あの、今日は、私のデッデビューシングル・・・・これじゃあ、だめな子すぎるか。うーん。」


 ちょうどそのころ、辻堂のとあるサラリーマンの家庭で、妹が兄の部屋に行き、部屋の入り口で兄に話しかけていた。

「お兄ちゃん。お母さんがお風呂に入りなさいって。」

「尚は入ったのかい?」

「まだだよ。」

「じゃあ、先に入って。明日は、神田明日夏のデビューシングルのリリースイベントがあって、その準備で忙しいんだ。その曲、 『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』というんだけれど、すごいんだ。一回聞いただけで、波動砲に撃たれたような感じだった。」

「波動砲?」

「ごめん、かなり昔のアニメの強力な兵器だ。尚にはソーラレイで撃たれたって言った方が分かるかな。」

「ソーラレイ?」

「コロニーレーザー。」

「コロニーレーザー?」

「何て言ったらいいんだろう。まあ、強力な兵器にやられた感じかな。」

「GBUー43みたいな感じ?」

「GBUー43?」

「MOAB。」

「MOAB?」

「あだ名が「全ての爆弾の母』、燃料気化爆弾で強力な爆風で吹き飛ばす感じ。」

「爆風で吹き飛ぶというより、可愛い声の中にある芯のようなものに貫かれる感じ。」

「じゃあ、GBUー57みたいな感じ。」

「GBUー57?」

「MOP、大型貫通爆弾、あのシン怪獣映画にでてきたやつ。」

「うん、そんな感じだ。尚は物知りだな。」

「ううん、お兄ちゃんの方がすごいよ。」

「そんなことはない。尚はお兄ちゃんの自慢の妹だよ。」

「そんなー。」

岩村誠の妹の岩村尚美は嬉しさを隠しながら答えた。兄の誠は都内の大学に通う大学1年生で、性格は真面目でまっすぐなのだが、眼鏡をかけていて、丸めたポスターを数本差したリュックがよく似合う、アニメによく出てくるオタクよりは多少ましかなという風体をしている。はっきり言って、誠という名前はあまり似合っていない。妹の尚美も眼鏡をかけていて外見は一見パッとしないが、とても頭が良さそうに見える中学1年生である。尚美が話しを戻す。

「あれ、何の話をしてたんだっけ。」

「神田明日夏。」

「そっか・・・。可愛いの?」

「それもそうだけど、それより歌の雰囲気かな。応援して、もっとみんなに聴いてもらえるようにしたい。絶対にそうしたいって感じなんだ。」

「ふーん、そうなんだ・・・。」

「まあ、尚にはあまり関係ないかもしれないけど。」

小声で言い返す。

「関係ないって・・・。」

「それより遅くなるよ。尚は早くお風呂に入ってきなよ。」

「うっうん。わかった。お兄ちゃんもあまり無理はしないようにね。」

「ああ。」

机の方を向いて答えた兄を見ながら、尚美はお風呂に向かった。脱衣所で服を脱いだ後、体を洗ってお風呂につかった。湯船につかりながらつぶやく。

「お兄ちゃん、あんなのがいいのか。それとも、本当に歌だけなのかな。」

そして、お風呂場で、歌を口ずさんだ。

「私だって、音楽の成績はいいんだけど・・・でも、やっぱりプロとはレベルが違うかな。」


 明日夏はまだ、挨拶について考えていた。

「暗い感じはどうだろう。みなさん。・・・・神田明日夏です。・・・・今日は、・・・・、お寒い中、・・・・お集まり・・・・下さり・・・・。うーん、このキャラでずうっと通すのは大変そうだな。逆にギャグっぽくは?一人だから漫才ぽくはできないか。皆さん、今日は太陽からの日差しがガンガンに照りつける中を、お集まりくださり大変有難うございます。これじゃあ、会場がもっとく寒くなって凍り付いてしまいそう。」

顔を半分お風呂の湯に付けて、ブクブクする明日夏 だが、すぐに気を取り直していた。

「やっぱり、おしゃべりは力まず普通で、あとは歌でがんばろう。それが私らしいし、それしかないよね。」

明日夏は、湯船で歌詞やダンスの振りを再確認した後、お風呂を出て、部屋に戻った。髪をとかして、お肌の手入れをしてから床についた。すぐには眠れそうになかった。部屋にはカーテンの隙間から月明かりが差し込み、その光がアニメ「タイピング」主題歌の3つのCDに当たっていた。通常盤、期間限定生産盤、初回生産限定盤である。期間限定生産版はアニメ版とも呼ばれ、CDジャケットにはアニメの主役の直人と美穂が描かれていた。そのCDジャケットを見ながら

「直人みたいなカッコいいお客さん、来てくれるかな。そんなに世間は甘くないかもね。それより、明日はプロの歌手としてお客さんの前で歌えるんだな。」

小学校のころ、家から少し離れた海辺の公園で、歌手になると言って、同学年の子供を前に歌っていたことを思い出した。

「今から考えると、みんなが忘れたいジャイアンのリサイタルだったかもね。そんなことより明日は早いし、早く寝ないと・・・」

とつぶやいて、目を閉じた。そして、直人を想像しながら、

「直人が一人、直人が二人、直人が三人・・・」

と直人を数え始めた。そして、直人を1千4百人ぐらい数えた後、明日夏 はようやく眠りに就くことができた。

 久美はお風呂から出ると、シャツや護身のために始めたキックボクシングのための服を全自動洗濯機に放り込んで洗濯を始めた。そして、洗濯を終わるまでの間、音楽を聴いていた。普段ならば、リラックスするためにロックを聴くことが多かったが、このときは明日夏の歌を真剣に聴いていた。


 悟は2時をまわったころ、動画サイトや資料を見るのを止めて、コスパがいいのでいつも選んでいるハイボールを飲みながら会社のソファーに横になった。

「明日は、明日夏ちゃんのリリースイベントだから少し早く寝るか。明日夏ちゃんの歌も良かったし、アニメ自体も人気が出たから、明日は絶対いけるはず。持ち前の夏ようなオーラもプラスされるし。久美もその辺は明日夏ちゃんから見習えばいいんだけれどもね。と言っても、久美から負のオーラを取ったら、久美じゃなくなちゃうか。ははははは。」


 尚美は、お風呂の中で考え事をしていた。

「でもお兄ちゃん、準備って、何を準備するんだろう。イベント、握手会なのかな?あんな女と握手するのか。それともサイン会かな。一緒に行ければいいんだけれど。」

尚美はお風呂を出たあと、誠の部屋に寄って兄に話しかけた。

「お兄ちゃん、お風呂出たよ。」

誠は、机の方を向いたまま答える。

「ああ。」

「早く入りなよ。」

「うん、明日早いから、そうするよ。」

「お兄ちゃん、明日、一人で大丈夫?」

「大丈夫だよ。」

「そう?私が付いて行ってあげようか。」

誠が振り向いて答える。

「尚は。そんなに僕が頼りないか?まあ、確かに尚ほどはしっかりしてないかもしれないけど。でも、さすがに、もう大学生だし大丈夫だよ。」

「そう。」

「そうか。尚、心配かけてごめんね。」

「ううん、それはいいけど。じゃあ、私は寝るね。」

「そうだね。もういい時間だ。じゃあ、おやすみなさい。」

「おやすみなさい。お兄ちゃんも早く風呂に入って寝てね。」

「了解。」

尚美は部屋を出た。廊下を曲がるときに、兄の部屋をチラッと見て、自分の部屋に向かった。

 誠は曲の合間で応援するプランや明日持っていく小道具をまとめてから、お風呂に入り、すぐに床についた。明日夏の歌を間近で聴くことができる期待で少し落ち着くことができなかったが、

「少しでも明日夏さんが売れるようにしないと。」

と思いながら床についた。


 翌朝、誠の部屋で目覚ましベルが鳴った。誠はサッと起き目覚ましを止めると、身支度を手際よく整え、昨晩準備した荷物を背負って静かに玄関に向かった。玄関のドアを開けようとしたときに、後ろから尚美の声がした。

「お兄ちゃん、もう行くの?」

直美はパジャマ姿だった。

「ああ、始発に乗るんだ。」

「始発で?イベント、そんなに朝早くから始まるの?」

「いや、午後からだけど。」

「それなのに、こんなに早く行くの?」

「場所取りとか。準備とか。」

「そうなんだ。朝食は?」

「まだだけど、ごめん、尚、始発に乗り遅れちゃう。」

「・・・・ごめん、お兄ちゃん、いってらっしゃい。」

「ああ、行ってくる。」

誠はドタドタと小走りで駅に向かった。背中のバッグにはまだポスターはささってはいなかった。尚美は閉まった玄関のドアを見ていた。誠が新宿に到着したのは、6時を少し回ったところだった。駅は夜を新宿で過ごして帰る人や、長距離の旅行に向かう人で閑散とはしていなかった。誠は駅から出ると会場がある建物にまっすぐ向かっていった。


 朝8時半ごろに、久美がパラダイス興行の事務所にやってきた。

「お早う、悟。」

「ああ、久美。お早う。徹夜?」

「いや、ちゃんと寝たよ。」

「ソファーで?」

「まあ、そうだけど。なかなか難しい。アイドルユニットの人選。」

「まあね。そんなに簡単だったら、どこの事務所も苦労しないでしょ。朝ごはんは?」

「まだだけど。」

「パンと牛乳を買ってきたけど食べる?」

「ああ、ありがとう。お金は払うよ。」

「そう。じゃあ、320円。」

「はい。」

そう言って、悟がお金を渡した。二人はソファーに座ってパンと牛乳で朝食を食べ始めた。悟が机の置時計を見る。

「今日は少し早いね。」

「うん。明日夏が来る前に、今日の準備をしておかないと。出発前に明日夏の歌の確認もしたいし。」

「そっか。相変わらず真面目だね、久美は。」

「いやー、本当にメジャーだしね。」

「ああ、うまく行って事務所の経営が楽になるといい。」

「私もメジャーの担当者とコネができるかもしれないから、頑張らないと。」

「まだ諦めてないんだよね。」

「当り前よ。夢を諦めてたまるもんですか。」

「まあ、事務所に余裕ができたら応援するよ。」

「そのときは、お願いね。悟はベースどうするの。」

「僕は久美みたいに上手じゃなかったし。今はプロデュースする方が面白い。」

「そうなんだ。てっきり、お金にしか興味がないのかと思っていた。」

「事務所が軌道に乗るまでは仕方がない。」

「まあ、そうね。じゃあ頑張って。アイドルユニットのプロデュース。」

「あっ、ああ?」

「やっぱり、男としては若い子の方がいいわよね。」

「そんな考えは微塵もないよ。基本、音楽性やダンスなんかの能力で選んでるよ。」

「あれ、珍しく悟が怒った。図星かな。」

「久美は、全く。」


 明日夏もいつもより早く事務所にやってきた。

「お早うございます。社長さんと橘さんも早いんですね。」

久美と悟が答える。

「明日夏のデビューシングルの初めてのリリースイベントだから、気合をいれなくちゃ。」

「うちじゃ初めてのメジャーデビュー、頼みますね、明日夏ちゃん。」

「はい社長、橘さん、精いっぱいがんばってきます。」

久美が明日夏に尋ねる。

「どう?緊張していない?」

「昨晩、橘さんに鍛えられた歌で勝負することに決めたから大丈夫です。」

「うん、まあ、なんとか人に聴かせられるぐらいにはなったわね。・・・えっ、何、不思議そうな顔をして?」

「橘さんなら、まだまだと言われると思った。」

「まだまだと言えば、私だってそう。終わりはないわよ。今日はお客さんに直接聴いてもらえるという意味では、プロの歌手の第一歩。でも、練習通りやれば絶対大丈夫。」

「なんか橘さんが優しいと、逆に不安になっちゃう。」

「なによ、それ。」

悟が話に入る。

「明日夏ちゃんの気持ちもわかる。」

「悟まで、もう。」

「でも、明日夏ちゃん、久美はああ見えても、凄い面倒見が良くて優しいんだよ。」

「分かっています。何時間でも練習に付き合ってくれて。感謝しています。ちょっと怖いときもあるけど。」

「かなり、怖いときもあるけど。」

明日夏と悟が苦笑した。久美が答える。

「なに、悟。キックボクシングで鍛えた私のパンチ受けてみる。」

明日夏と悟が爆笑した。それを見た久美が追い打ちをかける。

「パンチじゃ足りないようね、じゃあキックだわ。」

「それじゃ、本当に死んじゃう。」

悟はそう答えながら、また明日夏と爆笑する。

「もう。」

「ねっ、明日夏ちゃん。これも緊張をほぐすための久美の優しさなんだよ。」

「そっ、そうですね。」

と3回目の爆笑をしていると、時計を見た久美が言う。

「はいはい、明日夏、笑うのはそこまでにして。これから、イベント前の最後の歌の練習!」

明日夏も笑いを止めて答える。

「はい、わかりました。」

明日夏が久美を見つめているので、久美が尋ねる。

「どうしたの?」

「橘さんが元に戻って安心しました。」

明日夏と久美は、練習室に入っていった。悟は少し笑いながら自分の机の方に戻って、事務処理の仕事を再開した。


 話は、誠がイベント会場の建物の前に到着した、まだ朝早い時間まで戻る。スマフォの地図を見ながら到着した誠がつぶやく。

「よし、ここだな。」

店の前にはまだ誰もいないはずと思ったが、建物の脇の少し段になっているところに座って寝ている人がいた。イベントのために並ぶとするとその辺りのはずなので、その人のそばに行った。酒臭かった。脇にチューハイの空缶が置いてあった。どうしようかと思ったが、悟が話しかけた。

「あの、終電がなくなっちゃった人ですか、もう始発は動いていますよ。」

悟はお酒を飲んで、終電を逃した人だと思ったのである。誠の声で起きたその男は眠そうに答えた。

「あっ、ああ。有難う。」

その男は、誠を見て話を続ける。

「でも、俺、終電に乗り遅れたわけじゃないんだ。」

「そうなんですか。」

「今日はこの店で明日夏ちゃん、神田明日夏というアニソン歌手のデビューシングルのリリースイベントがあるんだ。」

「あっ、はい。」

「いやー、明日夏ちゃんの歌を聞いたときはすごかった。可愛さの衝撃が走った。こんな衝撃は、去年のミサちゃんのカッコよさの衝撃以来だ。」

誠は「この人、明日夏さんのファンなのか。」と思いながら答える。

「そうですか。」

「で、昨日仕事が終わったら、いても立っても居られなくなちゃって、ここまで来てしまっていた。」

「でも、徹夜で待つのは禁止ですよ。」

「そうだね。あーそうか、君も明日夏ちゃんのイベントに来たんだ。ごめん。君の言う通りだ。徹夜は禁止だから1番は君に譲るよ。俺は後ろに下がる。」

誠は「呑兵衛で変わってはいるが、悪い人ではなさそうだな。」と思った。それで聞き直した。

「昨日から、並んでいたんですか。」

「うん、少しでも早く会いたくて。」

「そうですか。」

誠は自分も頑張ったけれど、なんとなくこの男性に負けているような気がした。

「徹夜は禁止ですが、僕は店の人じゃないから、そのままでいいですよ。」

「えっ、ありがとう。じゃあ今日はいっしょに応援しよう。じゃあ君も一杯やるかい。酎ハイならまだカバンの中にある。」

「僕は大学生ですが、まだ未成年ですので。」

「そうか残念だな。では一人で乾杯するか。」

「一応、酔っぱらっていると会場に入れませんよ。」

「うーん、そうだな。」

男がスマフォで時間を確認した。

「まだ6時だし、これで最後にする。約束するよ。明日夏ちゃんの初のリリースイベントの成功を祈って、乾杯!」

誠が男に紙を渡す。

「あの、これ。」

「これはコールブックか。準備してきたんだ。」

「どう思います。」

「ちょっと待って。」

男はコールを入れながら歌を口ずさんだ。

「うん、いいんじゃないか。」

「そうですか。有難うございます。」

男が表紙を見て言う。

「ハンドル名は湘南オタクというのか。」

「ハンドル名と言うのは?」

「あーごめん、掲示板とかで使っている名前のことだ。」

「なるほど。はい、僕のSNSの名前は湘南オタクです。」

「ハンドル名、そうか最近は使わないよな。湘南君、よろしく。俺のSNSの名前はパスカルだ。」

「パスカルさん。えーっと、ありました。フォローしていいですか。」

「問題ないよ。俺もいいか。」

「はい、もちろんです。」

「明日夏ちゃんいいよね。刺さるよね。恋愛で近づいていくときのワクワク感と切なさが。」

「はい、刺さります。」

「まあ、俺は片思い以外の恋愛はしたことがないんだけれどもね。」

「はい、僕もです。」

二人の前の道を車が行き過ぎた。

「それでも、こんな子とこんな恋愛したいみたいな。まあ、絶対に無理だけど。」

「いっしょにしないで下さいと言いたいところですが、パスカルさんの言う通りです。」

二人の前の道を車が2台行き過ぎた。パスカルが話を戻す。

「気を取り直そう。君のさっきのコールブックを見直してみるかな。」

「はい、お願いします。」

パスカルが再度コールの案を見て歌を口ずさみながら、チェックを入れていた。

「このタイミングでこの掛け声は早くないか。一拍ためたいような。」

「なるほどです。」

「実際は、ライブで聴いてみないとわからないところがあるから、今日はこれでやってみて、ライブが終わったあと修正案を考える方がいいかもな。」

「はい、そうしましょう。パスカルさんは、アニソン歌手のオタク長いんですか。」

「それほどでもない。まだ10年ぐらいかな。」

「僕の場合、アニメオタクは中学からですが、アニソン歌手のオタクは明日夏さんから始める感じです。」

「断言できる。明日夏ちゃんの歌は、可愛さではこの10年間で最強の衝撃だった。」

「そうですか。だから前日からいても立っても居られなくなっていたわけですか。」

「あー、それはいつもだけれど。ミサちゃんのときもそうだったし。まあ、せっかちなんだな。」

「そうなんですか。僕も明日夏さんの歌は、聴いた歌の中では人生で最も刺さりました。」

「だから始発で来たの?」

「いえ、僕も、何かイベントがあるときにはいつも始発です。やっぱりせっかちなんですね。」

二人とも笑みを浮かべる。

「まあ、そうだな。でも、本当に早く聴きたいな、生で。」

「はい。午後が待ち遠しいです。」

それからしばらく、誠はパソコンをパスカルはスマフォを見たり、音楽を聴いたりしていた。9時を過ぎたころ、二人に声がかかった。

「あのー、ここ、明日夏ちゃんのイベントの列ですか。」

パスカルと誠は見上げた。そこには明日夏の衣装と似た服を着た高校生ぐらいの女の子が立っていた。二人が答えないため、その女の子が再び尋ねた。

「あのー、ここは神田明日夏ちゃんのイベントの待機列ですか。」

パスカルが挙動不審に答える。

「えっ、あっ、その、えーと、あの、その通りであります。私たちは、神田明日夏様のイベントのために並んでいるところであります。」

「そう有難う。じゃあ、ここで待っていればいいのね。」

「はい、そう思います。でも、こんな朝早くから。」

少し笑いながら答える。

「朝早くからって、お二人さんの方が早いですよね。」

「僕たちは他にやることもないですから。そうだよなー、湘南。」

「えっ、はい。その通りです。」

「今日はバイトのお店を休んだから、私もやることはないの。」

「お店と申しますと。」

「メイド喫茶でバイトしているの。」

「そうでありますか。それは、それは。でも高校生のようにも見えますが。」

「はい、東都女学院高校です。」

「お嬢様学校でいらっしゃいますね。」

「私はお嬢様じゃないけど、メイド喫茶でバイトしていることがバレるとやばいかも。」

「そっ、そうでありますよね。でも、また、何故にメイド喫茶で。」

「アイドルに憧れているからかな。」

「そうでありますか。」

「お店で歌を歌って披露したりできるし。」

「なるほど。プロの歌手で元メイド喫茶の店員さんという方もいらっしゃいましたね。」

「そう。良く知っているわね。」

「一応、このオタクを10年近くやっていますので。」

「そうなんだ。今度その経験を聞きたいな。お店、ビートエンジェルスって言うの。良かったら遊びに来て。」

そういいながらお店の名刺を渡す。

「はい、もちろんです。アキちゃんと言う名前なんですね。名刺、なくしても大丈夫なように写真で撮っておきます。」

そう言いながら、スマフォで名刺を撮影した。

「お名前は?」

「パスカルと言います。」

「パスカルは、もしかして、サラリーマン?」

「はい、そうであります。」

「へー、さすが頼もしい。」

「えっ、本当ですか?有難うございます。」

誠は妹以外の女子と話したことがほとんどないため話に入れず、二人の話を聞いていたが、

「パスカルさんは、予想した通り、女子に対してはチョロいやつだな。」

と苦笑いしていた。そのとき、アキが誠に話しかけた。

「そっちの君、湘南というの?おとなしそうな感じだけど。はい、これ私の名刺。」

「あっ、有難うございます。アキさん・・・・・」

誠は自分で「アキさん」と言ったとき、過去に聞いたことがあるような気がした。アキが続ける。

「大学生?」

「はい、大学1年生です。」

「受験が終わって羨ましい。大学聞いていい?」

「えーと、あまり有名ではないですが、大岡山工業大学です。」

「国立の?」

「はい、国立の?」

「へー、頭いいんだ。」

誠は大学を知っていてくれたことに感激した。

「良く知っていますね。」

「オタクなら誰でも知っているよ。アニメの大学のモデルになっているし。悪役の場合が多いけれど。あとは、学生にオタクが多いから、お店に来るお客さんもいるわよ。」

「その通りです。」

「明日夏ちゃんのどこが気に入ったの。可愛いところ?」

「いえ、自分でもわからないのですが、歌だと思います。歌に衝撃を受けました。」

「そうか、私もそう。あの可愛さは見習わなくちゃと思って。」

「歌手志望でしたね。」

「うん、歌えるアイドル。」

「明日夏ちゃんの歌、アキさんから見ても凄かったですか。」

「アキでいいわよ。もう何というか、グリプス2で撃たれたみたいだった。」

「コロニーレーザー!?」

「そうそう。」

「すごい。僕は波動砲で撃たれた感じでした。」

「エネルギー充填120%!」

「対閃光対ショック防御」

「セーフティロック解除」

「波動砲発射」

二人は倒れたふりをしたあと、起き上がった。誠が感心して言う。

「アキさん、本当にオタクなんですね。」

「自慢じゃないけれど。お兄さんたちもそうだよね。お店のメイドにはゲームオタやいろんなアニメのオタクが一杯いるんで、是非、遊びに来て。」

「はい、喜んで。絶対行きます。」

誠も案外チョロかった。


 パラダイス事務所では、練習を終えた明日夏と久美が練習室から出てきた。悟が二人に話しかける。

「どう?調子は。」

「うん、大丈夫かな。十分行ける。」

「そうか良かった。」

明日夏も答える。

「有難うございます。」

「出発まであと1時間ぐらい。明日夏ちゃんと久美はタクシーで行って。僕はバイトの治とポスターを持って会社のバンで行く。」

「分かりました。」「了解。」

「少し早いけど、昼食はどうする。今日はおごるよ。」

久美が答える。

「カップラーメンはいやよ。」

「あのね、いくら僕でも、明日夏ちゃんの最初のイベントの日にカップラーメンはないよ。」

「この世で一番おいしいものが、カップラーメンと思っていると思った。」

「いや、カップ焼きそばとかレトルトカレーとか、美味しいものはたくさんある。」

「ほら、そんなものばかり食べている。」

「冗談だよ。明日夏ちゃん、どんなものがいい。」

「軽いものがいいです。」

「それじゃあ、サンドイッチにするか。美味しい店を知っている。」

「本当ですか。有難うございます。」

「それじゃあ、注文するよ。」

悟はそう言って電話をかけた。明日夏が言う。

「私、紅茶をいれます。」

「えっ、今日はいいわよ。私がいれる。」

「大丈夫です。橘さん座ってて下さい。なんかしないと、やっぱり落ち着かないです。」

悟が注文の電話を終える。

「それじゃあ、お願いしようかな。明日夏ちゃんがいれた紅茶も飲んでみたい。」

「分かりました、社長。頑張って入れます。」

久美が念のため注意する。

「じゃあ、やけどしないように気を付けてね。」

「はい、了解です。」

明日夏は部屋を出て、廊下にある給湯室に向かった。悟が久美に話しかける。

「明日夏ちゃんのイベントと同じ時間に、向かいのショッピングセンターで、大河内ミサちゃんがイベントをするそうだ。」

「えっ。あの業界最大手の溝口エイジェンシーの大河内ミサ?」

「そう。」

「大河内がイベントをするのに気が付かなかったの?」

「それが発表が昨日だったんだ。売れているからイベントを追加するということで。」

「土曜日だというのに、よくあの会場が空いていたわね。」

「本当は元から決まっていて、事務所で情報を抑えていただけかもしれない。」

「野外とは言え1000は入る広場よ。あの事務所だからできることよね。」

「その通りだね。残念ながら。」

「因縁の対決になるのかな。」

「明日夏、もう気にしていないと思うけど、どうかな。」

「よく分からないけど、明日夏の歌もあの時よりはずっと良くなってはいるわ。」

「さすがは、久美。」

「それに、ジャンルが違うので気にする必要はないとは思う。」

「ただ、もう一つ心配なのは大河内さんの方は会場までパレードをするという話なんだ。」

「それは、店の前で明日夏を待っているお客さんが取られるかもしれないということ?」

「ああ。正直、同じロックシンガーとして、久美はミサちゃんをどう思う。」

「明日夏と同じ19歳なんだよね。若手の歌手じゃ一番上手いと思う。あの外見であの上手さだと、他の若い女性ロックシンガーが少し可愛そうなぐらい。」

「僕もそう思う。それでお客が減った時の明日夏ちゃんが少し心配。でも、まだ始まったばかりとか言って、明日夏ちゃんを励ましてね。」

「わかった。まかせて。でも、ついていないわね。」

「呪われているのかな。」

「どっちが?」

「二人ともか。」

「まあね。そうかもね。でも最善は尽くすわ。」

「久美らしい。明日夏ちゃんにはいつ話せばいいと思う。」

「隠すこともないんじゃない。適当な時でいいと思う」

「わかった、任せる。」

明日夏が戻ってきた。紅茶の入ったカップをテーブルに置きながら尋ねた。

「二人で何を話していたんですか。」

「どうやって、お客さんを集めようかって作戦。」

「出発前にインスタとツイッターに投稿する予定ですが、他にやっておくことはありますか?」

悟が答える。

「笑顔の練習かな。明日夏ちゃんの魅力は歌と笑顔だと思うよ。」

「よくわかりませんが、わかりました。こんな感じですか。」

明日夏が微笑む。

「うーん、もう少し。」

「えー、こんな感じですか。」

「もう一歩。」

「こんな感じですか。」

「いや、最初の笑顔がいいかな。」

「もう、社長、馬鹿にしているでしょう。」

「悟のことだから、リラックスさせようとしたんじゃない。」

「そうですね。社長、有難うございます。」

「いや、最初の笑顔が可愛いかったから、からかってみたという感じかな。」

「もういいです。」

「ごめんごめん。あー、でも、もういい時間だ、サンドイッチと紅茶で昼食を取って出発だ。」

「ごまかされたようですが、はい、社長、了解です。」

昼食を取りながら、久美が明日夏に注意事項を再度確認していた。社長はそそくさと昼食を取ると、サンドイッチが入っていた袋を持って立ち上がった。

「ごちそうさま。」

久美が答える。

「早いわね。」

「もう、治がくる時間だから。」

「そのサンドイッチは治の分か。やっぱり社長は気が利かないとか。」

「治はバンの中で食べることになると思うけど。」

「そういえば、私たちも昔は朝昼晩をあのバンの中で食べたわね・・・あっ、じゃあ行ってらっしゃい。」

「うん。明日夏ちゃんをよろしくね。」

「了解。」


 10時になると店が開店し、誠はCDを購入してCDとイベント参加券をも受け取り、店の前の正式な待機列に案内されてそのままの順番で並んだ。誠はパスカルが3枚のCDを購入したのを見て尋ねる。

「観賞用、保存用、拡散用ですか?」

「別にそういうわけではないんだけれど、通販でも5枚ぐらい買う時もあるし。」

「さすが、サラリーマンですね。」

「売り上げに貢献したいし。他に使うところもないし。」

「酒代は?」

「安酒だよ。」

「僕も早く卒業して、パスカルさんみたいにCDを何枚でも買えるようになりたいです。」

アキが諭す。

「湘南、もっと、高いところを目指しなさいよ。」

「例えば、どんなです。」

「会社起こして、私のスポンサーになるとか。」

「そうか、そうすれば、明日夏さんと仕事の話ができるかもしれません。しかし、そんな不純な動機は良くないですね。」

「だから明日夏ちゃんじゃなくて私の。私はそのぐらいの不純な動機なら許すよ。」

「えっ、アキさんの?うーん、えー。考えておきます。」

「お願いね。それに明日夏ちゃんの方は、大手のヘルツレコード会社よ。売り出しの予算は多いはずだから、湘南が心配しなくても大丈夫。」

「それもそうですね。スポンサーになるにしても大会社にしないと無理そうですね。」

「そうそう。」

アキがパスカルの方を向く。

「じゃあ、パスカルも偉くなってね。」

「えっ、はい。」

「二人とも頑張ってね。」

「はい。」「はい。」

 11時をすぎると、店の待機列に少しづつではあるがお客さんが並び始めた。4番目に来た人は少し背が高いがなんとなくキモイ男性である。イヤフォンを外してアキに尋ねた。

「あーー、ここは、神田明日夏ちゃんのイベントの列でしょうか。」

「はい、そうです。」

「あーー、有難うございますー。」

そういうと、男はイヤホンを付けて音楽を聞き出した。3人は顔を見合わせて、話しかけるかどうか迷ったが、男は自分の世界に入ってしまったようなので、そっとしておくことにした。次に、カップルがやってきて、列の最後の男に話しかけた。

「あの、ここは神田明日夏さんのイベントの列でしょうか。」

男が音楽を聞いて答えなかったので、アキを飛ばして誠に尋ねた。

「あの、ここは神田明日夏さんのイベントの列でよろしいでしょうか。」

「はい、その通りです。」

「有難うございます。」

連れの女性に向かって言う。

「ここで大丈夫って。ここで待ってよう。」

「えーこんなところで、2時間以上待つの?」

「もっと後でいいんじゃない。」

「このイベントは先着順で会場に入れるから、絶対早い方がいいって。この位置なら最前だよ。」

「何で、一番いいの?」

「うん?」

「だって、最善って一番良いって意味でしょう?」

「ごめん。そうじゃなくて、最前列、一番前の列っていう意味だよ。」

「あー、そうか。」

「絶対、迫力あるから。」

パスカルが横からフォローする。

「最前、最高っすよ。そうだろう、湘南。」

「はい、最前しか勝ちません。」

「湘南。分かっているじゃないか。だから始発か。」

「はい。もちろんです。」

カップルの男性が答える。

「有難うございます。ねっ、あの方々もおっしゃっているでしょう。」

「真治がいいなら仕方がないから待つけど。終わったら埋め合わせしてよ。」

「わかった。わかった。」

その後もイベントの参加者がやってきては列に並び始めた。


 悟と治が店の事務室で店のイベント担当者と打ち合わせを始めた。悟が話始める。

「これが今日の予定になっています。」

「開場が13時、開演が13時30分。はい、予定通りです。チケットの回収やお客さんの案内は我々が担当します。」

「直筆サイン入りポスターのお渡し会で、サインを書いたポスターを230枚ほど持ってきました。」

担当がFAXを見ながら答える。

「はい、連絡通りチケットは最大200枚の予定で配布しますので、それで大丈夫です。」

「控室はもう使えますでしょうか。」

「はい、今日はパラダイスさんが最初ですので、空いています。自由にお使いになって下さい。」

「あと店頭にサイン入りポスターを貼りたいのですが。」

「ポスターは店頭に貼ってありますが、サイン入りならばその上に貼って下さい。」

「了解です。」

「他には何かりますか。」

「いえ、特には。」

「向かいで溝口エイジェンシーの大河内ミサさんが同じ時間にイベントをするみたいですが、明日夏さんのCDも、もう100は出ましたので、店としては問題はありません。明日夏さんの次のCDが出るようでしたら、また是非うちでもイベントをお願いします。」

「もう100出ましたか。少し安心しました。私も大河内さんのことを今朝知って心配していたのですが、良かったです。はい、頑張っていきます。」

「では、明日夏さんのイベントの担当はこの秋田です。何かありましたら、何でもお申し付けください。」

「分かりました。秋田さん、よろしくお願いします。」

「はい、平田さん、よろしくお願いします。」

悟と治は駐車場のバンに戻り、サイン入りポスターを会場に運び、会場の用意を始めた。

 明日夏と久美もタクシーで会場に向かっていた。

「私も、社長さんのバンでも良かったんですが。」

「まあ、悟の見栄でしょう。セミプロのロックバンドじゃあるまいし、メジャーのアーティストがバンに乗って行くわけには、という感じじゃないの。」

「そうですか。」

「大学のころ、夏休みとか春休みに、悟の運転のバンに乗って、地方のライブハウスに演奏に良く行ったものよ。」

「社長さん、運転が好きなんでしょうか。」

「どうだろう。俺がやらなきゃと思っているだけかもしれない。徹夜で神戸まで行って、みんなでバンで仮眠して、夜から演奏とか。そして、また徹夜で東京に帰ってくる。」

「大変でしたね。」

「今から思うと、楽しかったけれどもね。」

「他の皆さんはいまどうされたのですか。」

「音楽はやめたみたいだけど、よく分からない。」

久美は答えを濁して、今日の予定の話に切り替えた。


 12時ごろヘルツレコード・エンターテイメントのイベント担当の社員が会場にやってきた。販促イベントで歌手が歌うときにカラオケを流すのは、普通はレコード会社の役割である。悟に挨拶をする。

「パラダイス興行さんですか。ヘルツレコード・エンターテイメントの遠藤です。本日のミキシングを担当します。」

「パラダイス興行の平田です。今日はよろしくお願いします。えーと、曲順表はこれになります。」

「有難うございます。途中のMCは1曲目の後ですね。あっ、本部長。」

遠藤が見た方向を見ると、スーツを来た中年の男性が向かってきた。

「パラダイス興行さん?こんにちは。ヘルツレコードの第2音楽事業本部で本部長をやっている森永というものです。」

ヘルツレコードの正式名、株式会社ヘルツレコード・エンターテイメントは音楽に関しては、クラシックを扱う第1音楽事業部、国内のポップミュージックを扱う第2音楽事業部、バンドや海外音楽などを第3音楽事業部から構成されていた。第2音楽事業部の森永は、アニメ音楽に関する投資を積極的に進める旗振り役を務めていた。

「お顔はいつもお写真で拝見しております。森永様、今日はわざわざお越しいただき大変有難うございます。」

「実を言うと、大河内君のイベントを見に来たんだが、隣でもうちの事業部の歌手がデビュー最初のイベントをするという話を聞いて見に来たんだ。ところで、君は?」

「これは大変失礼致しました。平田悟と申します。パラダイス興行という小さな音楽事務所で代表を務めています。」

「パラダイス興行?確かロックバンドの事務所じゃなかったっけ。第3事業部にいたときに名前を聞いたことがあるけど。」

「名前を知って頂いていて感激であります。はい、今でもロックバンドのプロデュースが事業の中心です。残念ながら、ヘルツレコード様で扱って頂けるようなレベルのバンドはありませんが。」

「今回の、神田、えーと。」

「神田明日夏です。」

「そうそう、オーディションで立ち会って、人となりは印象的だったんだが、すまん。」

「大丈夫です。第2音楽事業部だけで100以上のアーティストやグループが在籍されていますし、アニソンでは少し前にデビューした大河内さんの陰に隠れていますので。」

「神田さんの歌は、印象が強く、陰に隠れるようなものじゃなかったけど。でも、ロックじゃないよね。」

「はい、うちでは初めてのポップなアニソンで、そして初めてヘルツレコード様のオーディションに受かった形になります。歌は本当にしっかりしていますので、今日はぜひ生でお聴きになってみて下さい。」

「わかった、そうするつもりだよ。」

「有難うございます。」

「それで、私は何時ごろ来ればいい?」

「13時30分から始まりますので、そのあたりに来ていただければと思います。」

「そうか、ちょうど時間が重なっているのか。まあいいや、最初にこっちを少し聞いて戻ることにするよ。」

「よろしくお願いします。」

「うん。このあたりでうちのCDを扱っている店の店長さんと話してくるので。13時30分ごろにまた。」

「承知しました。お待ちしております。」


久美から悟に電話があった。

「悟、あと5分で着く。」

「わかった。一応安全のために治と出迎える。」

「うん、何かあったら私が対処するから、悟は明日夏をお願い。」

「いくらキックボクシングができるからと言って、それは逆だよ。」

「まあ、明日夏の安全を最優先に、そのとき判断しましょう。」

「了解。」

電話を切った悟が遠藤に留守をお願いする。

「遠藤さん、行ってきます。治、明日夏ちゃんを迎えに行くよ。」

「はい。」

悟と治が店舗の前に立っていると、タクシーが到着した。久美、続いて明日夏がタクシーから降りる。先頭が久美、次に明日夏、その後ろに悟と治が続いて店に入った。4人は店員が待たせていたエレベーターに乗り込んだ。

 店の前の待機列からも、4人が店に入っていくところを見ることができた。待機列のファンの一人が叫んだ。

「あっ、明日夏ちゃんだ。」

周りのみんなが店の入り口を見た。店に入って見えなくなったころ、パスカルが誠に話しかけた。

「本物の明日夏ちゃんだ。可愛かった。」

「そうですね。」

「感動がないやつだな。」

「そんなことはありません。」

「言葉が出ないというやつか。」

「少し違うのですが、存在感がありますね。」

アキも言う。

「やっぱり本物はオーラが違うわね。」

パスカルが答える。

「そうそう。輝いている感じ。」

「私も、あんな風になれるかな。」

「うーん。」

「何よ。うーんって。」

「うーん、頑張りしだいかな。頑張ればなれるよ。」

「有難う。湘南はどう思う。」

誠は明日夏を見て期待を膨らませていた。

「えっ、まだアキさんの歌とか聞いたことがないですから。」

「湘南は正直なのね。こんど聴きに来てよ。」

「あっ、はい。」

パスカルが言う。

「僕が店に連れていきます。」

「本当?有難う。」

「湘南、アキちゃんのお店に行くぞ。」

「えーと、時間がありましたら。」

「時間は作るものだ。」

「とりあえず、明日夏さんの一連のイベントが終わったらにしたいと思います。」

「なるほど。それはそうだな。」

アキが尋ねる。

「もっと早くと言いたいところだけれど、パスカルと湘南は明日夏ちゃんのイベントを全通(全てのイベントに参加すること)するの?」

誠が答える。

「はい。もちろん全通する予定です。パスカルさんは?」

「ミサちゃんのイベントもできるだけ参加する予定だから。でも、できるだけ参加する。」

アキがそれを聞いてあきらめる。

「そうか。じゃあしょうがないか。」

パスカルはアキの答えが少し意外だった。

「アキちゃん、オタクの心がわかるんですね。」

「まあ私もそういうことするから。」

「そうですか。わかりました、イベントのシリーズが終わったら湘南を連れて絶対に行きますね。」

「待っているわ。」

アキが列を見て言う。

「まだ1時間以上あるのに、列がだいぶ長くなったわね。」

数をざっと数えた、誠が答える。

「もう100人以上は並んでいますね。」

「すごい。ここの箱200人だったから入れない人が出てきそうね。」

パスカルがアキに答える。

「それはない。」

「なんで?」

「向かいのショッピングセンターで、同じ時間にミサちゃんがリリースイベントをするから、普通の客は向こうに取られる。」

「さっきから言っているミサちゃんって、もしかして、大河内ミサ?」

「そうだよ。」

「今日はミサちゃんの方に行かなくてもいいの?」

「今日は明日夏ちゃんのファンだから。」

「ああ、いわゆる、DD(誰でも大好き)というやつね?」

「失礼な。誰でもいいというわけではない。声優を含めて6人ぐらいしか推していない。」

「別に悪いとは言っていないわよ。私を7人目に加えてくれれば。」

「分かった。8人目に加える。」

「7人目は?」

「湘南。」

アキが笑いながら答える。

「パスカルさんそっちだったの?そうじゃないかとは思っていたけど。」

誠が答える。

「パスカルさん、冗談は。」

「いや、冗談ではなく。僕の若い時を見ているようで。」

「えー、ぼく就職するとこんな感じになるんですか。」

「そうだ。」

アキも同意する。

「そうかもね。」

「そうなのか・・・」

遠くから音楽が聞こえ始めた。それを聞いたパスカルが言う。

「ミサちゃんの新曲だ。」

「イベントの宣伝ですか。」

「ショッピングセンターまでパレードをすると書いてあったので、そうだと思う。」

ミサがオープンカーの中で立ち上がり、手を振りながらこちらの方にやってきた。曲に合わせて声が聞こえてきた。

「寒い中、みんな集まってくれて有難う。こんにちは。大河内ミサです。ミサの新曲『Uninnocent』が先週発売されました。もう聴いてもらえたでしょうか?もう聴いたという人もまだの人も、今日はこの先のグロリアルショッピングセンターで生で私の歌が聴けます。一生懸命歌いますので、ミサの歌を聴きに来て下さい。よろしくお願いします。」

オープンカーは、誠たちがいる場所の手前の交差点で右折して、誠たちがいる方とは反対側のショッピングセンター正面口に到着した。

「これから、ミサはステージの準備をするので、イベントに参加したい方はこの入口から入って、ショッピングセンターの中庭で待ってて下さい」

オープンカーについてきた熱心なファンが、

「はーい!」

と返事をしていた。ミサはそのまま車に座り、手をふりながらショッピングセンターを半周回って、誠たちからそれほど離れていない通用口の前で止まった。車のドアの両側にガードマンが付くとミサが車を降りて、通用口からショッピングセンターの中に入っていった。歩きながらミサが、隣のマネージャーに話しかける。

「溝口さん、向かいの店のあの行列は何かわかりますか?」

「パラダイス興行という聞いたことがない事務所の神田明日夏というアニソン歌手がリリースイベントをするって営業の人が言っていたけど、ミサちゃんの方が全然格上だから、ミサちゃんが気にする必要はないわよ。」

「そうなんですか。神田明日夏、こんなに早くデビューできたんだ。」


 アキがパスカルに言う。

「すごいね。お客さんがぞろぞろと。」

「ショッピングセンターの中庭を使うから、野外だけれど1000は入る。」

「1000か・・・」

少し心配になる誠だった。アキが励ますように返事をする。

「ミサちゃんすごく美人で歌も上手だけれど、私は明日夏の歌の方が親近感があって心惹かれる感じがする。」

誠が意を得たりという感じで同意する。

「はい、そう、そうですよね。」

「可愛い歌の中に誰にも負けないパワーが秘められているもの。」

「僕もそう思いました。さすが、アキさんが歌を歌っていると言うのも伊達じゃないんですね。」

「有難う。」

パスカルが言う。

「僕はどちらも好きだけど。」

「まあ確かにミサちゃん歌のテクニックとか完璧だし、美人でスタイルも良くてカッコいいもんね。それも分かる。」

誠が言う。

「パスカルさんの場合は、6人が好きなようですけれど。」

「ううん、私が入るから7人。あーっとごめん、湘南を含めて8人ね。それで、歌はともかく一番かわいいのは誰?」

「えっ、それはもちろん。」

「私よね。でも、明日夏ちゃんとミサちゃんには負けるか。」

「いえ、もちろん、湘南です。」

「あはは。そうね。さすがパスカルお目が高いわ。」

誠が答える。

「二人ともで僕をネタにして。でもいいです。二人が明日夏ちゃんを推してくれているので、それだけで。」

「聞くまでもないけれど、湘南はどっちが可愛いと思う。」

「どっちと言いますのは、アキさんと明日夏さんですか?」

「えっ、湘南が空気読んだの?」

「違うんじゃないか。湘南には、ミサちゃんは眼中にない。許せないやつだが。」

「そうじゃなくて大河内さんは、ここで初めて名前を聞いたぐらいですから研究不足で判断できません。アキさんとパスカルさんがそこまで上手というのならば、今後の参考のために調べておきます。」

「研究不足って、湘南らしい答えだな。」

「じゃあ、明日夏ちゃんと私って、さすがに無理か。」

「えーと、二人とも可愛いんじゃないでしょうか。」

「適当な答えね。それでいいの、明日夏ちゃんに対してそれでいいの?可愛いと思っていないの?」

「明日夏さんの歌は大好きです。本当の本当に。」

「それはそうだけど。」

「はい。」

「あーーーそうか、わかったわ!可愛さでは、3次元は2次元には敵わないというやつね。」

「別にそういうわけでも。」

「気にしなくてもいいのよ。私もそうだから。3次元の男ではやっぱりカッコよさが物足りない。」

「そうなんですか。アキさんについては、分かる気もしますが。」

「でしょう!さすがは湘南。」

パスカルが言う。

「認めたくないものだな。オタクゆえの過ちと言うものを。」

「もう、間違っているのはそっちだよ。コックピットだけを狙えるか。」

アキが持っていたペンライトでパスカルのお腹を押す。誠が感心する。

「アキさん、さすが容赦ないですね。」


 1時少し前に店員が店の前に出てきた。

「これから地下のイベント会場までご案内します。イベントが始まりましたら、写真や動画の撮影、録音は禁止となっていますので、ご了解願います。また、座る順番も前方右から順番に詰めて座ってください。よろしくお願いします。それでは先頭の方から付いてきてください。」

「よし、いくぞ!湘南。」

「はい。」

「あっ、二人とも待ってよ。もう。」

アキが地面に置いていた荷物を持って二人に続いた。背の高い男は黙って続いた。カップルの男が連れに言う。

「やっと入れる。ごめんね。」

「ううん、二人でいれればどこでも楽しい。それに、プロの歌手の歌を近くで聴くのは初めてで楽しみ。」

「じゃあ行こう。」

「うん。」

客たちは、整列し、会場入り口でチケットを渡すと、まるで訓練された兵士のように整然と順番に椅子に座っていった。


 控室に入った後、簡単な打ち合わせをして、リハーサルを終えた明日夏も控室に戻っていた。久美が確認する。

「本番は、35分後。リハーサルも大丈夫だった。」

「有難うございます。」

悟が情報を伝える。

「イベントの最初の方、第2音楽事業本部長の森永さんが見に来るかもしれない。」

久美が聞く。

「えっ、何で森永さんが?」

「まあ、向かいの大河内ミサの様子を見るついでのようだけれど。」

「そうか。そうよね。でも、チャンスよね。」

明日夏が尋ねる。

「何でチャンスなんですか?」

「歌手を売り出すためには、宣伝費がいるの。本部長はその予算を左右できる力を持っているから。」

「そうなんですか。」

「そうなんですかじゃないわよ。」

「私は橘さんの教えにしたがって、精いっぱい歌うだけです。」

「そう言ってくれるのは嬉しいけれど。」

悟が久美を止める。

「まあ、久美、それが明日夏ちゃんのいいところだから。そっちの方は二人で何とかしよう。」

「そうだけど、せっかく歌も良くなったんだから。チャンスはチャンス。」

「あんまり言って明日夏ちゃんがあがっても何だよ。」

「それもそうね。悟の言う通りかも。」

「大丈夫です。私、あがらないたちですから。」

「そう言えば、そうだったね。ヘルツレコードのオーディションの面接でも、物怖じしていなかったということみたいだし。久美なんて、ライブはすごい勢いなのに、オーディションの面接だと、生まれたての小鹿のようになっちゃうし。」

「本当ですか。見てみたいです。」

「うっ、うるさいわね。二人とも。でも、悟の言うことももっともか。今日は明日夏が最初にお客さんの前に出るイベントだし、思いっきりできれば、それでいいかもね。」

「はい、橘さん、思いっきりやってきます。見ていてください。」

悟と久美が答える。

「僕は、ライブ中に写真を撮らないといけないけど、歌は耳に入るから、がんばって。」

「でも、なんか緊張してきた。」

「久美が緊張してどうする。」

「森永さん、私のヘルツレコードのオーディション時に審査員にいたからなー。落ちたし、いろいろ言われたし。」

「まあ大丈夫、向こうは覚えていないよ。」

「それもそうね。すごい数のオーディションをこなしているわよね。じゃあ、私、ステージの方を見てくるから。明日夏は休んでいて。」

久美はそう言うと、水を持ってステージの方に出て行った。


 久美が出てくるのを見て、会場で座っていたパスカルが誠とアキの方を向いて話しかけた。

「人が出てきた。係りの人みたいだ。」

「もうすぐ始まるんですね。」

「水を持っているからマネージャーさんかな。さすがに美人ね。」

「アキちゃんの言う通りだな。うん、このマネージャーさんも推せるな。」

「パスカルさんは、えーと9人目ですか。」

「さすがパスカル、DDの鏡ね。」

「それほどでもないよ。」

「別に誉めているわけじゃないけど、まあ、私も推してくれると言うし、いいかな。」

「はい、迷惑をかけなければいいんじゃないでしょうか。」


 久美は、机の上に水を置いて、床の上に不要なものがないか確認して、客席を確認した。200人入る部屋に、8、9割の席が埋まっているの見て言葉が漏れた。

「すごい。」

安心するのと同時に自分と比べて複雑な感情がこみ上げてきた。ため息が出た。客席の後ろの方に顔を向けると、森永事業本部長と店長が立って話しているのが見えた。久美の方を見てはいなかったが、その方向に向かって会釈をした後、

「がんばろう。」

と自分に言い聞かせるように小声で言った後、控室に戻っていった。明日夏と悟に報告する。

「8、9割入っている。」

「8、9割ですか。でも、あまり心配しても仕方がないです。私は集中して歌うだけですよね。橘さん。」

「心配って?お客さんが多くてあがるということ?」

「そうじゃなくて、満席にならなかったってダメですよね。まだデビューが早かったんでしょうか。」

「何を言っているの。150人以上の・・・」

悟が話に割り込む。

「これだけ入れば大丈夫。それに一杯になるということは、せっかく来たのに、明日夏ちゃんの歌を聞けなくなるお客さんも出るということだよ。8、9割ぐらいがちょうどいい。」

「あー、それもそうですね。せっかく来たのに入れないんじゃ申し訳ないです。社長さんを信じて頑張ります。橘さんもついていますし。」

「そうそう、これから上昇気流に乗っていこう。大河内ミサちゃんだって追い越せる。」

「それはさすがに無理かも。やっぱり外見的に差がありすぎます。ははははは。」

「確かにミサちゃんは、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んで、脚が長くて、すごく美人だけど、外見が今二つでも目を閉じて歌を聴くと、別の世界が広がって、聴いている人が感動できて、すごい人気がある歌手だっている。心配することはないよ。」

久美が口を挟む。

「ちょっと、悟。それあんまりフォローになっていない。さっきのフォローは良かったのに。明日夏、ごめんね、こんな社長で。」

「久美、そういう意味で言ったんじゃないよ。」

「わかっているけど。悟は音楽はわかっても、女の子の心は分かっていない。女の子は繊細なの。」

「繊細か。繊細。」

「こっちを向いて言うんじゃない。女の子って言ったでしょう。」

「はい。」

久美が明日夏に向って言う。

「明日夏はすごく可愛いから大丈夫。」

「そうそう。明日夏ちゃん、可愛さならミサちゃんに負けてはいない。」

明日夏が答える。

「すみません、気を使わせちゃって。大丈夫です。精一杯歌ってきます。」

店の係りから声がかかる。

「神田明日夏さん、そろそろ時間です。準備の方はどうですか。」

橘が明日夏に尋ねる。

「どう、準備OK?」

「はい、いつでも行けます。」

「わかった。」

橘が店の係りの人に答える。

「はい、神田明日夏はいつでも大丈夫です。」

「わかりました、これから開始します。」

係りの人がアナウンスを始める。

「ご来場の皆様、長らくお待たせしました。開演のお時間となりました。これから神田明日夏のデビューシングル『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』、長いタイトルですが、『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』のリリースイベントを始めさせて頂きたいと思います。イベントを始める前に、注意事項を述べさせて頂きます。カメラ、ビデオ、携帯などによる撮影・録画・録音は禁止とさせて頂きます。周りの方の迷惑にならないよう、楽しんで頂ければと思います。その他、分からないことがありましたら、係の者にお尋ねください。それでは、間もなく、神田明日夏さんの最初のリリースイベントを開始します。」

あまり上がらない明日夏ではあるが、さすがに心臓が高鳴ってきた。久美が明日夏に言う。

「じゃあ、行ってらっしゃい。頑張って。」

「はい。」

 スマフォを見ていたパスカルは、係員の声とともにスマフォをポケットにしまい、顔をあげた。誠は、パソコンでコールブックの案を見返していたが、係員の声で電源を切って鞄にしまった。後ろの大学生ぐらいの女性のファンと話していたアキは、前を向いて二人に話しかける。

「いよいよ始まるね。」

「いやー、緊張するよ。」

「パスカルが緊張してどうするの。」

「ぼくも、緊張します。」

「まあね、湘南はわかる。私も、新人の明日夏ちゃんがどんなステージにするか見ておかないと。」

「アキさんも研究熱心ですね。でも、明日夏さんも緊張するのでしょうか。」

「うーん、どうだろう。明日夏ちゃんの事務所、聞いたことがないけど、メジャーレコードでデビューするぐらいだから、普通の人でないことは確かだけど。」

「普通じゃないんですか。」

「それはそうよ。オーディションとか何回も勝ち抜いてきたんだろうし。」

「歌手になるのは、本当に大変そうですね。」

「うん、ライバルがたくさんいるし。私の場合、一応ちゃんとした事務所を狙っているから、今のところ事務所のオーディションだって受からない。」

「そうですか。」

「だから、私も応援してね。」

「明日夏さん、そうは感じませんでしたが、頑張ってきたんですね。じゃあ、頑張って応援しないと。」

「私もね。」

「あっ、はい。」

 明日夏が控室からステージの方に向かい、ステージ中央で正面を向いた。スポットライトが少しまぶしかった。客席から歓声が上がった。客席を見ると、リハーサルのときと違い、席には多数のお客さんが座っていた。空席も本部長のことも気にする余裕はなかった。

「みなさん、こんにちは。神田明日夏です。今日は、私のデビューシングル『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』のリリースイベントにお集まり頂き、大変ありがとうございます。ミニライブと、その後に特典会としてサイン入りポスターのお渡し会を開催させて頂きますので、最後までお付き合いのほど、よろしくお願いします。」

明日夏が会場を見て微笑む。

「さて、硬い挨拶はこれぐらいにしましょう。でも、店の人にも言われちゃったけど『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』って長いタイトル名ですよね。でも、覚えやすいタイトルなので、是非、覚えてから帰ってください。」

観客が明日夏に向かってCDを見せながら、「知っている!」と答えた。

「知ってるって?そうか、ここにいるのはCDを買ってくれた方ばかりでした。本当に、有難うねー。えっ、間が抜けているって?それは言えるかもしれないけど、こう見えても私、お客さんの前で歌うのは初めてだから、緊張しているのよ。」

会場から「頑張れ!」という声がかかる。

「有難うございます。CDもたくさん聴いて頂きたいですが、やっぱり生歌は違うというところ見せたいと思います。えへん。タンカを切ってしまいましたが、後でCDの方がいいじゃんと言われないようにしないと。でも、みんなも私の生歌を聴きたいよね?」

会場から「おー。」とか「はい。」のような掛け声がかかる。

「ありがとう。それじゃあ、まずは、駆けつけ1曲、私のデビューシングルのタイトル曲、『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』を歌いたいと思います。みんな、聞く準備はできているかな?」

会場から歓声が上がる。

「それでは、ミュージックスタート!」

会場に間奏が流れ始める。


朝の光で輝く君がまぶしくて

いいことがありそうな予感がするの

えー、宿題なんて知らないよ。前の授業で寝てたのか

放課後、資料整理だって

でもでも、宿題を忘れたもう一人

罰なのに。罰なのに。いい加減な神様有難う。

・・・・


 久美はステージの袖で、やはり心配でドキドキしながら明日夏を見ていた。社長は写真を撮っていないときは指を動かしリズムを取りご機嫌に明日夏の曲を聴いていた。初ステージのためまだ応援の声は少なく、こぶしを上げるものや、手を振るものなどバラバラな感じだった。誠は応援の声を出しながら、自分のコールブックの確認をしていた。パスカルも誠の案に従って応援していた。アキはパスカルと誠に追随して3人が揃って応援していたため、目立っていた。

「はーい、はーい、はいはいはい。」

アキは応援の声を出しながらも、明日夏のパフォーマンスから何か吸収できることはないかと集中して見ていた。背の高い男は、3人の応援になんとなく追随していた。カップルの二人は、手拍子をとりながら楽しそうに歌を聴いていた。

 曲が終わった。最後のポーズを決めながらも、明日夏はトラブルなく歌い終えたので、少しほっとしていた。ステージ袖をチラッと見ると、久美がうなずいていたので安心した。

「神田明日夏で『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』をお届けしました。お客さんの前で歌う人生で初めての曲。かなり緊張したけれど、何とか無事に歌い終えたと思います。皆さん、いかがでした。」

会場から「良かったよ。」「感動した。」「可愛い。」「まあまあかな。」などの声が上がる。誠は黙っていたが、パスカルとアキは陽気に、

「明日夏ちゃん、最高!有難う。」「有難う!」

と声をかけていた。明日夏は右や左の観客席を見ながら答えた。

「有難うございます。有難うございます。みなさん、有難うございます。えーと、聞こえた範囲では、一番厳しい評価でも、まあまあかなということで安心しました。」

客席から笑い声が聞こえた。

「あと、歌っている間に応援してくれて有難うね。歌っている間も、みんなの応援の声が聞こえていました。やっぱり、みんなからの応援で勇気がもらえる。この楽曲はアニメ『タイピング』の主題歌になっています。みんな見てる?」

会場から「見てる!」との声があがる。

「有難う。もちろん私も見ているよ。ちらっとタイトルを見るとダイビングみたいな感じだけど、違うの、タイピング。タイプ入力の速さ正確さを競う大会のお話なんだ。商業高校の学生さんや職業を持った人まで、いろんな人が参加していて、それぞれに人間模様があって、本当に面白い。私の推しキャラは直人。男性側のメインの選手。えっ、ミーハーだって。まあ、すごいイケメンだし、性格が暗いところもあるけど、暗い過去を背負っているところも可愛いし。昨日の夜、なかなか寝付けなくて、直人が一人、直人が二人って感じで、直人を千人以上数えちゃった。」

場内から笑いが起きる。

「えっ、変わってるって。うん、よく言われる。昔から男子向けのアニメやアニメソングが好きで、変わっているって。でも最近は少年漫画を読んでいる女の子も多いよ。本当に。ところでこのアニメ、可愛い女の子のキャラがいっぱい出てくるけど、みんなは誰推し?」

いろいろな名前が返ってきた。

「推しが結構分散しているわね。私は女の子の中では由香里ちゃんかな。ツンデレなところがいい。私もちょっとツンデレやってみようか。行くよ。みんなのことなんて、何とも思ってないんだからね。」

少しだけ笑いが起きた。

「ごめん、滑った。ツンデレの道は険しい。それでは滑ったところで、2曲続けて歌いたいと思います。まずは『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』のカップリング曲から1曲『一人だけのモーニングコーヒー』と、その後、ラスト1曲は・・・」

会場には「えー」という声が響いた。

「有難うございます。ラスト1曲は、カバー曲で『君色シグナル』です。」

こんどは「おー」という声が響いた。

「それでは歌います。『一人だけのモーニングコーヒー』」


 隣のショッピングセンターの中庭では、ミサもイベントを始めていた。

「みんな待たせてごめん。ヘルツレコードの大河内ミサです。みんな待った?えっ、今来たところって。みんな優しいのね。はい、それじゃあミサのセカンドシングル『Uninnocent』のリリースイベントを始めるよ。その前にミサと初対面という人はいるかな。おい、そのへん、嘘を付かない。ファーストシングルのころからいるじゃない。でも、いつも来てくれて有難う。では本当に初めてという方、初めまして、大河内ミサです。私のことはミサって呼んで下さい。そのままじゃんって。その通りだけど、ミサって名前、可愛いのにカッコいいでしょう。ミサはアニメソングの歌手をやっていて、アニメの主題歌の中でもロック系のカッコいい曲を歌わせてもらっています。昨年の冬にアニソンコンテストの全国大会で優勝して、その秋にヘルツレコードから『Fly!Fly!Fly!』でデビューしました。戦闘機が空を飛んでいるような緊迫感とスピード感がある歌です。アニソンコンテストのときは、まだ高校生だったんだけど、今は戦闘機が空で戦っているような目まぐるしい生活をしています。今回のセカンドシングルでは、アニメ『全ての罪は霧の中へ』の主題歌『Uninnocent』を担当させて頂きます。『Uninnocent』は、バラード調のゆっくりした曲だけど、カッコいい歌だから是非覚えていってね。男女の恋愛の感情を歌う歌だけど、ミサはまだ恋愛をしたことがないから、アニメを見て勉強して歌っています。えっ、うそだって?残念ながらホントなんだよ。私もこのアニメのキャラクターみたいな恋愛がしてみたいです。そのためには、まだまだ自分を磨く必要があるので、これからもより歌が上手になるように頑張ります。ところで、みんなどこから来たの?火星?いやいや、まだ火星に人は住んでいないよ。北海道から?本当?わざわざ来てくれて有難うね。まずは『Fly!Fly!Fly!』のカップリング曲から『Danger Wings』を歌います。えーって。大丈夫大丈夫、『Uninnocent』も後の方でちゃんと歌うから。それではお届けします。大河内ミサで『Danger Wings』。」


 明日夏が歌い終わった。本部長と店長が部屋から出ていった。

「皆さん、『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』のカップリング曲『一人だけのモーニングコーヒー』とカバー曲で『君色シグナル』を聴いて頂きました。もちろん、お客さんの前で歌うのはこれが初めてです。皆さん、どうでした。」

客席から賞賛やネタの評価が聞こえてきた。

「有難うございます。」

ステージ袖の方を見て尋ねる。

「お師匠、どうでした。」

久美は急に振られたので驚いたが、指でOKのサインを出した。

「実は、私のマネージャさんは、私の歌の先生も兼任してます。すごく歌がうまくて、歌のトレーニングをしてもらっています。厳しかったりすることもありますが、少しでも追いつけるように、これからも歌にダンスに精進して行きますので、皆様の応援の方、よろしくお願いします。」

会場から「分かった。」「応援するよ。」という声がかかる。パスカルがつぶやく。

「マネージャーさん、歌の指導もしているのか。元歌手だったりするのかな。」

「有難うございます。ライブパートはこれでおしまいになりますが、この後サイン入りポスターお渡し会になります。昨日、1枚1枚サインを書きました。それで、今ちょっとだけ手が痛かったりしますが、人気がある方は1日1000枚とか普通に書かなくてはいけないそうで、サインを書くのも精進していきたいと思います。ぜひ、サイン入りポスター、受け取って頂ければと思います。それじゃあ、またねー。」

 ステージ袖に戻った明日夏に、誠、久美が声をかける。

「お疲れ様。良かったよ。」

「急に話しを振るからびっくりしちゃった。うん、全然問題なかった。最初にしては上出来。」

「有難うございます。」

「じゃあ、ポスターお渡し会の準備しちゃうから、休んでいて。」

「治、行くぞ。」

「はい。明日夏ちゃんさすがでした。」

明日夏が頭を下げながら答える。

「治さん、手伝ってもらって有難うございます。」


 ステージ上で悟と治が準備を開始した。客席ではアキがパスカルに話しかける。

「すごいね。明日夏ちゃん最初のステージなのに堂々としていて。」

パスカルが答える。

「堂々としている中に、少し初々しさがあって良かった。」

「そうね。でも2人の応援、揃っていたけど練習してきたの?」

「湘南がコールブックを作ってきたから。これ。」

パスカルがアキに誠のコールブックの案を渡す。

「へー、よくできてるじゃん。湘南、これ一人で作ったの。」

「・・・・」

「おい、湘南。」

「えっ、はい。」

「何してたの?」

「あっ、アキさん。えーと、明日夏さんの所属事務所がパラダイス興行と言っていたので調べていたんです。」

「そうなの。ところで、このコールブック、湘南一人で作ったの。」

「はい。」

「まだ、ある?」

「はい。」

「もらっていい?」

「もちろんです。」

「前もってもらえれば、私もいっしょに応援したのに。」

「ごめんなさい。これまだ最終版じゃなくて、今日帰って修正します。」

「そう、さすがね。こんどアキのも作ってくれない。」

ちょっと間の後、誠が答える。

「わかりました。明日夏さんのリリースイベントが終わりましたら、お店に伺って作成します。」

「絶対よ。約束よ。」

「はい。」

「ありがとう。いい人ね、湘南。」

「いえ。それよりアキさん、この情報に興味ありますか。」

そう言って、誠がノートパソコンのパラダイス興行のホームページが映った画面を見せる。

「えっ?ちょっと。あるある。ある。」

 ちょうどそのとき、店員のアナウンスが始まった。

「準備が終わったようですので、座席1列目の方、ステージ向かって右側から順番に並んでください。」

パスカルが声をかける。

「アキちゃん、レディーファーストで僕と順番代わるよ。いいよな、湘南。」

「僕は歌が聴ければいいので、順番はどうでもいいです。」

「湘南、サンキュー。あとこの情報も有難う。私が明日夏ちゃんの最初のイベントの最初のお客さんになるわけね。記念になるわ。」


 ステージには机と椅子が設置され、机の上にはポスターが多数置かれていた。ポスターお渡し会の手順は、向かって右側に並んだ列の先頭からイベント参加券を店の係員に渡し、ステージ上でポスターを受け取りながら出演者と少し話をした後に、左からステージを降りるというふうである。普通の客が持つ参加券は1枚であるが、複数の参加券を持っている場合は、前回の列の最後にまた並ぶことになる。それ以外の、参加券をすべて使った客は会場から出ていくことになっている。

 ステージ脇から、明日夏と久美が出てきた。明日夏は机の後ろ側の中央に久美はその右脇に立った。治は客の後ろに立ち、時計を見ながら話が長い客の肩を叩く役を務めるが、今はステージの向かって左脇にいた。明日夏がアナウンスを始める。

「お待たせしました。今から、サイン入りポスターお渡し会を始めたいと思います。昨日、一生懸命サインを書きましたので、是非、受け取って下さい。まだサインを書きなれていないため、1枚1枚違ったサインのように見えますが、それぞれのサインのオリジナル性が高いということで許して下さればと思います。でも、この『二人っきりなんて夢みたい。でも、夢じゃない。』のポスター、どうですか?」

会場から「可愛い」「カッコいい。」「まあまあかな。」と言う声が上がる。

「有難うございます。肯定的な意見が多かったと思います。さすが、プロが写真を撮った写真ですので、本物よりかなり良く写っていると思います。是非、部屋などに飾って下さればと思います。」

 アキが係員に参加券を渡し、指示にしたがって明日夏の前に進んだ。明日夏は、アキの動きを見ていた。

「明日夏ちゃんの歌、感激しました。どうしたら、そんなに上手くなれるんでしょうか。」

「やっぱり、歌の練習を頑張るしかないです。毎日の努力の積み重ねが大切です。」

久美が隣で苦笑していた。

「その通りですよね。私も頑張ります。今日は有難うございました。」

「こちらこそ、有難うございます。」

明日夏は小さく手を振って見送る。誠の心臓は高鳴っていた。誠が明日夏の前に進んだ。明日夏は誠を見つめていた。誠は準備していたことを話す。

「今日は歌を聴けて良かったでした。CDより千倍良かったです。」

「あっ有難うございます。」

「次のイベントにも来ます。」

「えーと、どちらからいらしているんですか。」

「辻堂です。」

「えっそうですか。遠くから有難うございます。」

「有難うございました。」

誠はそれだけ言ってステージから降りていった。明日夏は去っていく誠を少しだけ目で追った。誠は、もらったポスターをリュックサックに挿して会場を後にした。出口にアキが待っていた。

「リリースイベントの最後のイベントには来るから、またね。」

「はい、また。」

そう言ってそれぞれ帰路についた。会場の中では、パスカルが明日夏の前に進んでいた。

「マネージャーさん、すごく綺麗で一目でファンになってしまいました。」

「えっ、はい、そうですか。それはどうも。」

「歌の師匠ということは、歌が上手なんですか。」

「はい、プロの歌手をやっていましたから。」

「CDを検索したいので、マネージャーさんの名前を教えてもらえませんか。」

明日夏が困ったように久美の方を見る。久美が答える。

「お客様、これは神田明日夏のイベントですので。明日夏のCDのお話でお願いします。」

「分かりました。自分で何とか探してみます。今日は有難うございました。また来ます。」

「有難うございます。」

パスカルは久美の顔を見ながらステージから降りた。次に、背の高い男が明日夏の前に進んだ。

「明日夏ちゃん、今日は本当によかったよー。」

「有難うございます。」

「明日夏ちゃん、すごく可愛くて、こんなに楽しかったことは初めてだよー。」

「有難うございます。」

「また、イベントに来るよー。」

「はい、またお待ちしています。」

次は、カップルの女性の方が前に進んだ。

「明日夏ちゃん、初めてプロの歌手の生歌を近くで聴けて感激しています。」

「有難うございます。」

「その衣装がとっても素敵なのですが、どこで売っているのですか。」

「原宿のエンジェリーというお店です。」

「有難う。こんど行ってみます。」

「きっと、似合う服があると思います。」

次は男性の方。連れの女性を気にして、抑え気味である。

「アニメの主題歌がすごく気に入っています。ところで、直人で一番いいところは?」

「えーとイケメンなところかな。」

「やっぱりそうなっちゃうんですね。」

「現実は違うかも知れないけど、アニメの世界では。」

「そうですね。今日は楽しかったでした。では、また。」

「有難うございます。」

このような調子で1巡目が終わり、複数枚のCDを買った客から再度、ステージ向かう。5名ほどが列に並び、先頭はパスカルである。

「明日夏ちゃん、さっきはごめんなさい。マネージャーさんがあまりにも美人で。」

「有難うございます。私も嬉しいです。」

「明日夏ちゃんも宿題を良く忘れたりするんですか。」

「えっ、まあまあ。」

「だから、歌に実感がこもるんですね。」

「あー、そうかもしれないです。」

「納得しました。また来ます。」

「有難うございます。」

このような感じで5人による2巡目が終わり、3巡目に入る。2名が列に並び、先頭はやはりパスカルである。

「去年のアニソンコンテストの東京大会の時より、ずっと上手になっている思いますが、やはり橘さんのおかげですか。」

「えー、あれ聴いていたんですか。」

「はい、会場にいました。」

「ここまで来れたのは橘さんのおかげと思います。でも、東京予選のことは忘れてくれると嬉しいです。」

「分かりました。忘れました。有難うございました。」

「有難うございました。」

最後の客が明日夏の前に立った。

「いつもどんな音楽を聞いているの?」

「好きなアニメの歌が多いです。あとは、ボカロ(初音ミクなどの曲)も聴きます。」

「今のお勧めは?」

「えーと、大河内ミサさんの『Fly!Fly!Fly!』です。」

「私もその曲大好きです。どうも有難うございました。」

「有難うございました。」

 最後の客へポスターを渡し、イベントが終了した。久美がほっとしている明日夏に話しかける。

「明日夏、お疲れ様。」

「橘さんこそ、お疲れ様です。」

店員から久美に明日夏の写真撮影の依頼があった。

「記録とSNSへアップするため、明日夏さんの写真撮影をお願いします。」

「承知しました。明日夏、ステージの上でポーズを取ってもらえる。」

「はい。了解です。」

店員が、ステージの上の机を、上に載せているものはそのままで、ステージの脇へどかした。そして、明日夏がポーズを取りながら、店員が写真の撮影を初めた。久美と悟がそれを見ながら話しをしていた。

「本部長さん、1曲聴いて大河内さんの方に行くと言っていたけど、結局最後まで聴いていたよ。」

「本当に?いい印象を持ってくれるといいんだけど。」

「それは大丈夫。お客さんが盛り上がって、会場の雰囲気も良かったし。」

「それにしても、明日夏、お店の写真でポーズ取りすぎよね。」

「まあ、いいじゃないか。サービス精神が旺盛なんだよ。」

「見てて可愛いしね。」

「そんなおばさんくさいことは言わない。再デビューをしたいんなら。」

「そうね。でも、明日夏が活躍してくれるのは、正直嬉しい。」

「経営だけじゃなく、嬉しいのは僕もだな。ははは、僕もおやじくさいな。」

「お互いしょうがないわ。」

「そうだな。」

明日夏の撮影が終わって、悟が明日夏を話しかける。

「じゃ引き上げるか。明日夏ちゃん、帰りはバンに同乗でいいかい?」

「もちろんと言うか、そっちの方がいいです。荷物運び手伝います。」

「そういうわけにも行かないので、控室で久美と待ってて。治と運び終わったら呼ぶから。」

「分かりました。」

 悟と治が店から台車を借りて荷物をバンに運び始めた。久美が明日夏に話しかける。

「どうだった、初めてのイベント。」

「ライブの方は思いっきりできました。ただ、ポスターお渡し会の方は、なんか、有難うございます、ばっかり言っていた気がします。もう少し気の利いたことが言えれば。」

「有難うでいいのよ。明日夏にとってはたくさんのお客さんだけど、お客さんにとっては、たった一人の明日夏だから。目を見てしっかりと真摯に話すことが大切よ。」

「分かりました。あと、知っているような人がいたり、アニソンコンテストの東京予選のことを知っているお客さんもいて、普段から見られていることに注意しないといけないと思いました。」

「それは、そうね。」

「とりあえず反省はそれぐらいにして、事務所に帰ったら、悟がケーキを買ってきたみたいだから、お祝いしましょう。」

「はい。有難うございます。」

「悟、そういうところはまめだから。でも、その後で、練習室で今日の歌の反省ね。」

「うへっ、はい。」

少しして、悟が二人に呼びかけた。

「じゃあ、帰ろう。」

「了解。」「はい。」

4人は古いバンに乗り、事務所への帰路についた。


 一方のミサのイベントも終了した。こちらは5曲とプロの司会者を交えてのトークから構成される特典会のない宣伝のためのイベントだった。終わったあとで、控室で森永本部長がミサに声をかける。

「あー、ミサ君、こんにちは。今日もお客さんが一杯だったね。」

「あっ森永本部長さん、こんにちは。」

「今日の歌の調子はどうだった。」

「はい、まだまだレベルアップをしたいですが、問題なく歌えたと思います。是非、私の歌の感想を伺わせて下さい。」

「うっううん、ごめん。最後の1曲は聴けたけど。本当は最初から聴くつもりで来たんだけど、うちのCDを扱っているあちこちの店の店長さんと話していて、遅れてしまった。」

「そうですか。本部長さんは、お忙しい方ですから仕方がありません。」

「今度のうちの事業部のライブでじっくり聴くよ。」

「はい、3曲歌う予定です。デビューして半年でさいたまスーパーアリーナで最高のバンドの演奏で歌えるなんて幸せです。」

「うん、楽しみにしているよ。溝口社長がいらしているという話で、できれば話がしたいんだけど。」

「はい、溝口さん、溝口社長を呼び出してもらえますか?」

「向かった方が早いと思いますので、森永様、私についてきて頂けますか。」

「はい、お願いします。それじゃあ、ミサ君、また今度。」

「はい、今日はお越しいただき有難うございました。」

 溝口エイジェンシーは、溝口社長が興した芸能事務所で、登録している芸能人は俳優から歌手まで200人を超え、テレビで活躍する有名芸能人も多数所属する日本最大級の芸能事務所である。溝口社長は60歳を超えているが、現場に出て活動をしている。

「溝口社長、ヘルツレコードの森永です。大河内さんのイベントにお越しと伺ってご挨拶に参りました。」

「ごれはどうも、ご丁寧に。」

「大河内さんを、当社にご推薦いただき有難うございます。」

「ああ、大河内は真面目によくやっているよ。本当に熱心に。ただ、タイアップなしで歌だけで稼げるようになるかどうかは、これからだが。こちらとしては、将来の収益の柱にするため、積極的に投資していく予定だ。」

「はい、こちらの事業部としましても、アニメソングとロックに関して、事業部の中心の歌手にすべく、ミサ君をプロモーションしていく予定です。事業部内では夏にアルバムを出す方針が決まっています。これからも、ご協力をお願いします。」

「こちらこそです。」


 森永は溝口社長と別れ、タクシーに乗った後、広報課を携帯電話で呼び出した。

「誰かがいればと思ったら、高田課長、土曜日なのに来ているのか。すまんが、森永だ。」

「本部長、大丈夫です。それに、そういう本部長も今日は外回りですよね。いま広報は事業部のライブの計画が佳境ですから。」

「そうそう、それで聴きたいことがあったんだ。あと一人、1曲を入れることはできる?」

「1曲ぐらいならば大丈夫です。今日は、大河内ミサのイベントの様子を見に行っていらしたんでしたっけ。でも、大河内はもう3曲入っていますよ。」

「ああ、それは知っている。大河内の件じゃなく、別に神田明日夏を出そうと思う。」

「神田明日夏?あの社長のごり押しで、うちの事業部から今月デビューしたあの神田ですか。」

「ごり押しっていうほどではなかったけれど、そういえば社長の強い推薦はあったね。社長は元々ヘルツ電子の人だから、本社からの指示かもしれないけど。」

「今回の件も、社長からですか?」

「いや、そうじゃないよ。大河内のイベントをやっているショッピングセンターの向かい店で神田がリリースイベントをやっているということで見てきたんだけど、なかなか良かったよ。」

「本当ですか。」

「歌自体はまだまだのところもあるけど、声と話し方、そして歌を含めた雰囲気が全部明るくてマッチしていて、聴いている客を引き付ける力はあると思う。」

「本部長がおっしゃるなら間違いないと思います。いやー良かったです、変なのじゃなくて。わかりました、若手ということで大河内の直前に入れておこうと思います。」

「まだ向こうの事務所には連絡していないけど、それもお願いできるかな。」

「了解です。荒木に担当させます。」

「じゃあ、頼んだよ。」

「はい、それでは失礼します。」

森永は電話を切るとタクシーの座席に深く座りなおした。


 さて、この章のエンディングは、皆さんがお待ちかね?のミサとアキの入浴シーンである。ミサは一番のお気に入りのプレイリストの音楽を聴きながら大きなお風呂に入っていた。

「えーー、私も?私、一応、清純派ロックシンガーなんだけど。」

「美香、清純派ロックシンガーなんてこの世に存在してはいけないんだよ。」

橘さん、説明文への応援、有難うございます。話しを続けます。

「今日のリリースイベント、会場は一杯でお客さんの反応も良かったから、とりあえず一安心だけど、こういう歌を聴いちゃうと、私じゃ、まだまだかな。」

聴いている曲がサビに差し掛かる。

「このサビに入る前、すごくいいな。これからサビに入るぞという感じで、気持ちが盛り上がる。思わずこぶしに力が入って、ガッツポーズしちゃうもんね。さすがアンナさんって感じ。やっぱり、私じゃまだまだ敵わないかな。溝口社長が決めたカッコいいロック歌手のキャラをたくさんの人の前で演じるのは疲れるけど、やっぱりこんな風にカッコよく歌えるロックシンガーになりたい。ううん絶対になる。そのためには、もっと練習しないと。」

ミサは、自分でいまひとつと思うところを湯船で歌ってみたりしていたが、今日のイベントで少し気になったことがあった。

「そう言えば本部長さん、なんか隠しているみたいだった。たぶん神田明日夏のイベントに行っていたんだよね。顔と雰囲気はすごく可愛いから、会社の人たちは売れると思っているんでしょうね。それも分かんないことはないかな。魚肉ソーセージか。もう1年ぐらい前になるけど、あれから歌は上達したのかな。ううん、今は人のことより自分のこと。音楽を一杯聴いて、歌って。あとギターの練習もしなくちゃ。」

 アキもお風呂で今日の反省をしていた。

「このラノベの中で、どうせ私は色物なのよね。」

このラノベは日常系ですので色物は存在しません。それに、高校生を色物にはしませんから大丈夫です。軽度の色物は清純派なのにスタイルが良いミサちゃんにお願いする予定です。

「えーー、酷い作者。」

日常系を壊さない範囲ですのでミサちゃんも心配しないで下さい。それでは、話しを続けます。

「明日夏ちゃん、やっぱり貫禄あった。あれがプロの貫禄か。話し声も通るし。19歳らしいから3歳違いか。私もあと3年で、明日夏ちゃんのようになれるのかな。でも、パスカルと湘南、いい感じでチョロかったわね。それに、湘南がみかけに似合わず几帳面で。あのコールブック、よく考えて作ってあるわ。いや、あれがオタクの本領というものかもね。ふっふっふっ。せいぜい利用させてもらうわ。でも私が上手くいけば、トップアイドルのデビュー前からの知り合いということで、あいつらにとっても悪い話ではないはず。それより、パラダイス興行のアイドルのオーディションの準備をしないと。履歴書と志望理由書、あとデモテープの用意よね。アイドルの志望理由って難しいわよね。私なんて、そこにアイドルがあるからアイドルをしたいって感じだし。みんなをハッピーにしたいとかなんだろうけど、適当に尾ひれを付けないと。何がいいかな。アイドル好きの友達が死んだとか?死ぬ前に、アイドルになった私を応援したかったって?だから絶対にアイドルにならなくてはいけないとか。そうだ、パスカルと湘南を死んだことにするか。あははははは。」

こうして、神田明日夏の最初のイベントの一日が終わっていった。

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