第42話 ハートリンクス始動

 蔵王スキー場から帰ってきた翌朝、朝食を食べた後、尚美が作成した『ハートリンクス』のイメージチェンジに関する資料をいっしょに手直ししてから、誠は尚美を渋谷駅まで送った。

「尚、昨日の今日で疲れていない?」

「大丈夫。お兄ちゃんは?」

「疲れていないことはないけど大丈夫だよ。今日は、社長にお願いされたパラダイス興行の引っ越しの手伝いのバイトをする予定。」

「あっそうか。明日事務所の引っ越しか。」

「年末はできなかったから、正月早々になったみたい。」

「年末は明日夏先輩のワンマンライブがあったからか。」

「でも、僕の仕事は箱詰めやラベル貼りだけで、運搬は明日業者にお願いするみたいだから大丈夫だよ。広い事務所じゃないし。」

「本当は私の事務所だし、手伝いたいんだけど・・・。」

「心配しなくても大丈夫。尚が来る頃には終わっているよ。それに尚には仕事もあるから気にしないでいい。尚が来る頃には、社長さんといっしょに『デスデーモンズ』と橘さんの曲の話をしていると思う。」

「でも、無理はしないでね。」

「分かっている。」

尚美は渋谷からタクシーに乗って溝口エイジェンシーに向かい、誠は徒歩でパラダイス興行に向かった。


 溝口エイジェンシーの社長のところにソニックレコード第2事業本部の森永事業本部長が正月の挨拶にやってきた。

「溝口社長、溝口マネージャー、明けましておめでとうございます。」

「明けましておめでとう。森永さんの所は大会社なんだからまだ休みなんだろうけど、あいさつ回りとは大変だね。」

「いえ、ヘルツレコードの中でも特に我々の事業部は、溝口エイジェンシーのような芸能事務所の皆さんのお力があって、初めて成り立つものですから。今年も溝口社長や溝口エイジェンシーの皆様には、本当にお世話になります。」

「いやいや、こちらもヘルツレコードさんにはお世話になりっぱなしだから。今年も一つよろしくお願いするよ。」

「かしこまりました。それでお電話でうかがいました『ハートリングス』のイメージチェンジの件を詳しくお聞かせ下さい。」

「元日からすまなかったね。善は急げというから。」

「社長のおっしゃる通りです。」

「元日に新春の番組を見ていて、うちの『ハートリングス』が出てきたんだが、ちょっと浮いているかなと思ったんだよ。彼女たちは頑張っているようなんだけど。」

「メンバーのタレント性は、さすが溝口エイジェンシーさんが選んだだけのことがあると、こちらの事業部でも評価しています。CDの販促イベントにも真面目に取り組んでいるとの話は上がってきていますが、CDや配信の売り上げがそれについて行っていないのも、大変失礼ながら確かだと思います。」

「こちらで企画している所沢ドームでのワンマンライブの売り上げもさっぱりの状態だ。まあ、前のユニットの不祥事の穴埋めで、彼女たちにドームは酷だったのかもしれないが。」

「溝口社長にお世話になりました『トリプレット』の土曜日夜のワンマンライブのチケットがほぼ完売になりまして、日曜夜の『ハートリングス』さんのライブの前に『トリプレット』の追加公演を入れることも可能ではありますが。」

「そう、『トリプレット』完売したの!それは良かった。まあ、追加講演の件は近々議論させてもらうことにして、『ハートリングス』は夏にヘルツレコードさんからデビューさせてもらったのに、このままではいかんなと思って、テコ入れすることを考えているんだ。」

「それはこちらとして大変有難いお話です。」

「正月の同じ番組に出ていた星野君の進言もあって、『ハートリングス』の現在の戦隊系のイメージをやめて、オーソドックスなアイドルグループにチェンジして、今までよりも強力にプロモートするつもりだ。」

「そのために、弊社も楽曲の販売などで、今まで以上にプロモートして欲しいということですね。」

「その通りだ。二社で協力してプロモートして若い男性への露出を大幅に増やす。」

「社長のお考えは分かりますが、具体的にはどのようにされるおつもりなのでしょうか。」

「それについては、『ハートリングス』の新しいプロデューサーから説明させよう。実を言うと詳細を聞くのは僕も今日が初めてなんだ。」

「承知しました。」

溝口社長が溝口マネージャーに声をかける。

「呼んで来てくれ。」

「かしこまりました。」

溝口マネージャーが振袖に着替えた尚美を連れて入ってくる。

「森永事業本部長、明けましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。今年もよろしくお願い致します。」

「星野さん、明けましておめでとう。今年もよろしくね。今、社長にもお話ししたけれど、春のワンマンライブのチケットはほとんど売り切れになったよ。」

「本当ですか。有難うございます。それもこれも、森永さんと溝口社長のお力だと思います。3人で相談して、パフォーマンスをさらに研ぎ澄ましていきます。」

「『トリプレット』は本当に上り調子だから、今年も頑張ってね。それにしても、星野さんの振袖姿、本当に可愛いですね。今日は溝口エイジェンシーに来たかいがありました。」

「有難うございます。そう言ってもらえると嬉しいです。可愛いと言えば元旦の亜美先輩の振袖姿も見せたかったです。すごく可愛かったです。」

「蒲田さんもそんなことを言っていましたね。来年はテレビ局まで見に行こうかな。」

「はい、大歓迎です。是非お願いします。」

「分かりました。楽しみにしています。」

森永が溝口社長の方を向く。

「それで溝口社長、『ハートリングス』の新しいプロデューサーというのはどなたが務めるんですか?」

「君、そういうことで、時代の流れについていくことができるのかね。」

「そっ、それは、常に流行を作りだしてきた溝口社長には敵わないと思いますが。」

「人を見る目も心配になるよ。」

「申し訳あり・・・・・・。えっ、と申しますと、星野さんが『ハートリングス』の新しいプロデューサーということですか。」

「その通りだよ。」

「森永事業本部長、鎌田さんにはお話ししてあったのですが、勝手に話を進めて申し訳ありません。」

「溝口社長直々のお話だからそれは構わないけど。」

「そうだね。森永さんにも話を通さなくてはいけなかったね。星野君にそんなに負荷をかけるつもりはないんだ。もし、ヘルツレコードの方で説明が必要なら、僕がそちらに行くよ。」

「有難うございます。私からの説明で大丈夫だと思います。」

「よろしく頼むよ。それでは、星野君、説明を頼む。」

「溝口社長、かしこまりました。資料を配布しますのでお取り下さい。」


 溝口マネージャーが持ってきた資料を配布する。

「うむ。」

森永がページをめくりながら尚美に尋ねる。

「有難う。これは星野さんが作られたんですか?」

「大学生の兄にも見てもらいましたが、そうです。」

「そうですか。良くまとまっていますね。」

「有難うございます。説明を始めます。溝口社長がおっしゃられたように、『ハートリングス』のメンバーはアイドルとして非常に高いレベルにあると考えられます。特に、ハートレッドさんはこの年齢の芸能人の中では男性から見て最も魅力的な美人と言って差し支えないと思います。」

「うちの事業部の若いものもそう言っている。」

「グリーンさんの思いやりのありそうな可愛いさ、ブールさんの委員長タイプの厳格な雰囲気、イエローさんの猪突猛進の元気さ、ブラックさんの無口で暗い中に見せる笑顔の可愛さも十分、見ている人を引き付けることができます。」

「星野さんの言う通りです。ただ、それをどうやってまとめるかですが。」

「はい、私としましては、奇をてらわず、ハートレッドさんを中心にオーソドックスなアイドルユニットとして推していこうと思います。」

「なるほど。」

「次のページが新しい衣装の案を合成させた写真です。白を基調に、アクセントとなる場所や髪飾りに個々の色を使っています。」

写真を見た後に溝口社長が尋ねる。

「星野君、ユニット名は『ハートリンクス』に変更するが、メンバーの名前はそのままということ?」

「はい、ユニット名はイメージチェンジしたことを分かりやすくするために少しだけ変えようと思います。レッド、イエローのようなメンバー名は呼びやすいのでそのままにしようと思っています。」

「ユニット名を『ハートリングス』から『ハートリンクス』に少しだけ変えたということ自体が話題になりそうですね。」

「はい。アイドル『ハートリンクス』が変身して、戦隊『ハートリングス』になるという設定にしますので、テレビ番組の内容によっては『ハートリングス』を復活させることもあるかと思います。」

「確かにレッド君の衣装は若い人にはこっちの方が受けるだろうね。人気はレッド君に集中しそうかな。」

「はい、レッドさんが50%、グリーンさんが20%、ブルー、イエロー、ブラックさんが10%というふうに考えています。」

「まあ、そんなものだろうね。どう、森永さん?」

「明日の会議で報告しますが、『ハートリンクス』さんのプロデュースの主担当は溝口エイジェンシーですので、イメージチェンジに異論が出ることはないと思います。音楽関係のプロモートを強化することの結論は予算の都合がありますので多少お待ち下さい。このイメージでどんな曲にするかも考えないといけませんし。」

「CDの話はともかく、曲の方はイメージチェンジに使うために、パラダイス興業の方で用意してきました。溝口エイジェンシーの方でユニットのプロモーションのためにこの曲を使ってビデオを制作して無料で配信する予定ですが、もしCD化するならば著作権に関する契約も、いつものもので大丈夫です。」

「分かりました。どんな曲か聴かせてもらえますか。」

「はい。昨日仮歌を録音しましたので聞いてみて下さい。楽譜が最後のページにあります。曲名はユニット名と同じ『ハートリンクス』です。」

尚美が仮歌を流す。曲が終わり森永が感想を述べる。

「歌詞も曲も奇をてらわずオーソドックスにまとまっていますが、『ハートリンクス』のイメージチェンジを知ってもらうには良い曲だと思います。」

「有難うございます。」

「『ハートリンクス』はいつ発表する予定ですか?」

「1月8日のテレビ番組の中で発表する予定です。」

「それはまた急ですね。」

「4月のワンマンまであまり時間がありませんので、損失を少なくするために少しでも急ごうと思いました。」

「分かりました。それで、『ハートリンクス』も良い曲とは思いますが、アイドルの曲にしては少しインパクトが不足しているようにも思います。カップリングやアルバムに入れるには良いと思いますが、シングルで出す曲についてはまた相談させて下さい。こちらも急いで検討します。」

「有難うございます。」

「僕も曲はいいと思うけど、このレッド君のパートを歌っているのは、もしかして大河内君なの?」

「はい、昨日、パラダイス興行にいらしていたときに仮歌を歌って頂きました。レッドさんのパートがミサ先輩、グリーンさんが明日夏先輩、イエローさんが橘さん、ブラックさんが亜美先輩、ブルーさんが私となっています。」

「驚いた。大河内君がこんな可愛く歌えるんだね。」

「本当は、もっと色っぽくとお願いしたのですが。」

「ははははは、さすがにそれは無理だったか。」

「それが社長、英語の歌ならばかなりセクシーに歌えますので、アメリカでのショーの実演では衣装を含めて。もっと驚かれると思います。」

「そうなのかね。それは楽しみにしておくよ。私の方はこれでいいと思う。」

「私はレッドさんの仮歌はパラダイス興業所属の歌手の誰かと思っていました。でも、橘さんが元気そうで良かったです。」

「ミサ先輩の写真集がヘルツレコードの子会社制作中で、その中に橘さんの歌も入っていますから是非聴いてみて下さい。」

「そういえばそうでしたね。はい、サンプルは来ると思いますので聴いてみます。」

「森永さんの方もOKということでいいかね?」

「はい。」

「そういうことだから、星野君、今井君と協力してよろしく頼む。」

「かしこまりました。早速『ハートリンクス』の皆さんと『ハートリンクス』の練習に取り掛かります。」


 尚美が礼をして社長室を出て、普通の服に着替えて『ハートリングス』が集まっているレンタルスタジオに向かった。

「ハートリングスの皆さん、溝口社長と森永事業本部長の決済は得られました。」

ハートレッドが答える。

「プロデューサー、有難うございます。今、仮歌を繰り返し聴いて、曲のイメージをつかんでいるところです。この後、個別練習を始めます。」

「有難うございます。歌いにくいところなどがありましたら言って下さい。まだ修正は可能です。あと、衣装についても要望があればできるだけ取り入れますので言って下さい。」

「はい。歌に関する要望はパート練習が始まったら私の方でまとめて連絡します。みんな、衣装の方に何かある。私はいいと思ったけど。」

「今回はユニットを覚えてもらうために、基本は全員同じ衣装で、レッドさんが一番映えるように作ってあります。今後はそれぞれが違う衣装を着ることも考えていきます。」

「まあ、俺に黄色の造花が似合わない気もするが、そういうことなら構わない。」

「イエロー、女の子なんだから絶対似合うって。」

「うん、私もそう思う。」

「意外に似合うんじゃないかな。」

「レッド、グリーン、有難う。ブルー、意外は余計だ。」

笑い声が起きた。

「イエローさんはスレンダーですから、普通に話せばドレスは似合うと思います。」

「プロデューサー、普通に話せばも余計だ。」

笑い声が起きた。

「イエローさんが好きなスポーティーな衣装も考えますので、どんな衣装が良いか考えておいて下さい。」

「分かりました。」

「やっぱり僕が一番似合わないと思う。」

「ブラックさん、そんなことは絶対にありません。振り付けはもうすぐ出来上がりますが、この歌の一番のチャームポイントはレッドさんが色っぽく『私とハートをリンクしよう』というところですが、次は間奏でグリーンさんがブラックさんの手を引いて二人でダンスをするところです。」

「ブラック、頑張ろう。」

「グリーン、分かった。脚を引っ張らないようにする。」

「ブラック、手と脚を間違えることはないよ。」

また、笑い声が起きた。

「私は色っぽくか。」

「レッドなら大丈夫だよ。最初に会ったとき、女の俺でも色っぽいって思ったぜ。」

「イエローの言う通り、レッド、私もそう思ったわよ。」

「イエロー、ブルー、有難う。確かにそう言われるときがあるから、外から見たらそうなのかもね。」

「レッド、色っぽい表情!」

レッドが色っぽい表情で言う。

「私とハートをリンクしよう。」

周りから「おー。」という歓声が漏れた。

「さすが、レッド。」

「だな。」

「レッド、さすがです。」

「ブルー、イエロー、グリーン、有難う。」

「皆さん、それぞれに同じようなセリフがありますので、頑張って下さいね。」

「みんなでハートをリンクするよ。」

「俺とハートをリンクしようぜ。」

「私とハートをリンクして下さい。」

「ほら、ブラックも。」

「僕とハートをリンク・・・・して。」

「ブラック、ナイス。」

「ブラック、よく頑張った。」

「ブラックが一番可愛いかもだぜ。」

「ブラック、いっしょに頑張ろう。」

「うん、分かった。」

「そう言えば、うちの由香先輩からレッドさんもダンスが上手と聞いていますが、それは抑えて、優雅に舞って下さい。」

「まあ、由香さんには敵わないですが、プロデューサー、分かりました。他に何かありますか?」

「今は特にありませんが、森永事業本部長がもう少しインパクトがある曲を用意するということですので、楽しみにしていて下さい。」

「森永事業本部長さんが直々にですか?」

「はい。事業本部長も、みなさん一人一人のレベルが非常に高く、活躍を期待しているとおっしゃっていました。」

「有難うございます。それならば、急いで、この曲をマスターしようと思います。」

「有難うございます。」

「それじゃあ、みんな、これから仮歌を聞いた後、個々に歌って曲を覚えるよ。」

「了解。」「分かったぜ。」「はい。」「うん。」

尚美と今井がスタジオから出て、待合室で話す。

「今井プロデューサー、メンバー全員、本当にいい雰囲気で頑張っています。やっぱり、皆さん、こういう普通の可愛いアイドルになりたかったんだと思います。」

「そうでしょうね。雰囲気は大切ですので、本当に良かったです。私が社長に言い出せれば良かったんでしょうけれど。」

「私の方が背負っているものが軽いだけです。」

「星野さんは何でもできそうですからね。それで私がしなくてはいけないことですが、新しい衣装の手配、7日土曜日のプロモーションビデオと写真の撮影、その前の練習室や移動手段の確保、8日の番組の交渉、番組終了後のメディアによる広報、ホームページの変更については準備を進めています。他に何かありますでしょうか。」

「有難うございます。さすがです。練習は明日と明後日はパラダイス興行で行いますので、その二日分の練習室は不要です。8日の後にヘルツレコードと打合せが必要だと思いますので、その準備をお願いします。」

「承知しました。時間はプロデューサーの放課後で『トリプレット』の出演がないときになりますね。」

「はい、その通りです。すみません。もう一つ。この後、みんなで昼食をとろうと思いますが、時間がもったいないですのでここで食べましょう。スタッフの分を含めて、お弁当の手配をお願いできますか。」

「承知しました。」

尚美は、溝口エイジェンシーのボイストレーナーと歌い方の相談をした後、『ハートリンクス』やそのスタッフと一緒に遅い昼食をとった。その後、歌の指導をそのボイストレーナーに任せて、パラダイス興行に向かった。


 昼少し前、亜美は秋葉原のアニメグッズを売っている店に入ろうとしていた。

「1、2、3日と来れなくて、やっと来れた。でももう福袋はないだろうな。」

亜美はとりあえず『プラズマイレブン』の売り場に向かった。売り場で『プラズマイレブン』のグッズを見ていると後ろから小さな声で呼び止められた。

「亜美ちゃん。」

亜美が振り向くと、マスクをしていたが誰だかはっきりと分かった。

「明日夏さん。おはようございます。明日夏さんもとうとう『プラズマイレブン』の良さが分かったんですか。嬉しいです。でも照美はだめですよ。」

「そうじゃなくて、亜美ちゃんが見えたから。」

「そうなんですか。でも、この高円寺君、カッコいいでしょう。」

「そうじゃなくて、マスクをしなくちゃだめでしょう。」

「リーダーじゃないですから大丈夫ですよ。それにここには『トリプレット』のファンはいなさそうですし。」

「でも、行き帰りとかが秋葉原じゃ目立つよ。」

「明日夏さんと違って、私はどこでもいそうな顔をしていますし。」

「そうだけど。」

「明日夏さん、そこは否定して下さい。」

「亜美ちゃんのいいところは、やっぱり綺麗に響く歌だよね。」

「はい。ですので、ここで歌いださない限り大丈夫です。」

「そうか。」

そのとき小学校高学年の男の子から声がかかった。

「お姉さん、『トリプレット』の亜美ちゃん?」

「えっ、そうだけど。」

「今日はなおみちゃんは?」

亜美はいつものことなので気にしていなかった。

「ごめんね。リーダーは打ち合わせに出ていてここにはいないの。でも、名前を教えてくれれば、リーダーに君の名前で君が応援してるって伝えておくよ。」

「名前は渉。でも、なおみちゃんに伝えなくていい。」

「えっ、何で?」

「なおみちゃん、時々目が少し怖いから。」

「うーん。リーダーは怖い時もあるけど、メンバーやスタッフのことを考えていてすごい優しいんだよ。」

「そうなんだ。亜美ちゃんはなおみちゃんが大好きなんだ。」

「うん。大好きだよ。」

「照美君となおみちゃんとどっちが好き?」

「照美君と?もしかすると渉君、私の配信を見ているの?」

「うん。いつも見ている。」

「本当に!有難う。でも、リーダーと照美は比べられないかな。両方好き。」

「そうなんだ。でも、僕は亜美ちゃんが一番大好き。」

「えっ。そう。有難う。お姉さんのどこが好き?歌?」

「『プラズマイレブン』に詳しいところと、背が高くないのにスタイルがすごいところ!」

「そうなの。私も渉君の正直なところが大好き。」

明日夏は「おいおいおい、この子、大丈夫か。」と思いながら周りを見ると、小さな男の子が集まってきていて、いろいろ声がかかった。

「僕も『亜美の歌ってみたチャンネル』をいつも見ている。」

「亜美ちゃん、大好き。」

「亜美ちゃん、すごい。」

亜美が予想外の展開に戸惑っていたため、明日夏は「この子たち、自分が危ないことを分かっていない。」と思いながらも、事態を収集しようと語りかける。

「お姉ちゃんは、亜美ちゃんのマネージャーなんだけど、みんな亜美ちゃんの配信を見ていてくれて有難う。」

一人の男の子が明日夏の顔をじっと見る。

「これ明日夏じゃない?」

「明日夏って?」

「第6回に出ていたじゃない。同じ事務所の先輩とかいうやつ。」

「ふーん。でも、テレビじゃぜんぜんみないな。」

「たぶん、売れていないんだろ。」

「だから、亜美ちゃんのマネージャーをやっているのか。」

「そうかも。」

明日夏は「近頃の小学生は礼儀を知らない」と思いながら聞いていた。

「それで、マネージャーさん、何?」

「亜美ちゃん、今日の夕方にテレビ出演があって、もう時間がないから行かなくちゃいけないんだけど。」

「うん、知っているよ。歌ってみたで言ってたから。生だし絶対見るよ。」

「分かってくれて有難う。それじゃあ、みんなの名前をメモしておくから、次の亜美ちゃんの配信で亜美ちゃんから呼んでもらうね。」

「本当に。マネージャーさん有難う。」

明日夏が一人一人に読み上げて欲しい名前をメモした。

「それじゃあ。亜美ちゃん、一言。」

「みんな、私を応援してくれて有難う。みんなの名前は次の配信で読み上げるね。これからも頑張るから応援してね。」

「分かった。」

明日夏と亜美がその場を離れ、明日夏が様子を見ていた店の責任者に挨拶する。

「大変申し訳ありません。小学生ばかりだったので、『トリプレット』の柴田亜美が油断してマスクをしていなかったため、こんな事態になってしまって。」

「お客様が大人だったら声をかける人がいても一人とかでしょうから、何とかするのですが、小学生ばかりでしたのでこちらも油断してしまいました。」

「有難うございます。こちらも注意するように致します。」

「明日夏さん、亜美さん、お二人の活躍は店の売り上げに直結しますので、お手伝いできることがありましたら、是非、私、阿部まで連絡して下さい。」

「有難うございます。」

明日夏が名刺を受け取り、亜美が明日夏からもらったマスクをして店から出た。


 店を出て歩きながら話す。

「明日夏さん、驚きました。私、こんなの初めてです。」

「小学生の男子に囲まれるのが?」

「それもそうですが、ファンの人に囲まれるのがです。」

「嬉しかった?」

「少し。でも、変な意味じゃないですよ。」

「これに懲りたら、次からは注意しないと。」

「はい、小学生がいるところではマスクをするようにします。」

「そうだね。あの少年たち、飛んで火にいる夏の虫になるところだった。」

「あの明日夏さん、何か誤解しているようですが、私、3次元は徹君に一途ですから安心して下さい。」

「それはそれで問題だけど。」

「法律は守ります。悪いことは絶対にしません。」

「お姉さんといっしょにイイことしよう、なんて言っちゃ・・・・・。」

「明日夏さん、どうしたんですか?」

「『私といっしょにイイことしよう』」

「何ですか。明日夏さん、とうとう頭がおかしくなったんですか?」

「亜美ちゃん、どんどん尚ちゃんみたいになってるね。」

「そうですね。すみません。」

「曲のタイトルだよ。」

「曲のタイトルですか。分からなくはないですが、そのタイトルじゃ、明日夏さんにもミサさんにも『トリプレット』にも使えないんじゃないですか。」

「尚ちゃんがプロデュースをするユニットのためだよ。」

「えーと、『ハートリングス』じゃなくて・・・・。」

「『ハートリンクス』。」

「なるほど。でも、ハートレッドさんには似合いますが、他の4人にはイメージに合わないような気がします。」

「それじゃあ、小学生がたくさん聴いているようだし、亜美ちゃんの配信用の曲で『お姉さんといっしょにイイことしよう!』。」

「社長が即却下すると思います。」

「アキさんとやらに歌ってもらうのは?」

「湘南二尉とパスカル一尉が却下すると思います。」

「あの二人、意外と固いからね。でも、元の性悪女の方がプロのアイドルになれたんじゃないかな、アキさんとやらは。」

「明日夏さんは曹長に恨みでもあるんですか?」

「ないけどさ。ちょっとそう思っただけ。やっぱり、『ハートリンクス』用かな。」

「まあ、プロのアイドルはきわどい歌詞の曲も歌わないことはないですからね。」

「ハートブルーさんは困っている人を助ける、ハートイエローさんはスポーツ、ハートグリーンさんは親の手伝い、ハートブラックさんは学校でいじめている人を静かに懲らしめるイイこと。」

「ハートレッドさんはあいまいにするんですね。それなら行けるかもしれませんね。」

「よし、今回は作詞を先行させてみよう。」

「今までは曲が先でしたからね。作曲は誰に頼むんですか?」

「私が頼める作曲家はマー君しかいないから。」

「その歌詞、二尉には荷が重そうですから、社長に紹介してもらったらどうですか?」

「いや、マー君の実力を試す。」

「面白そうではありますけど。」

「でしょう。今日帰ったら、早速作詞しよう。」

「この話は後にして、これからどうするか決めないと。」

「亜美ちゃんはどのぐらい時間があるの。」

「2時間ぐらいは。」

「それなら、亜美ちゃんもマスクをすれば大丈夫だから、本店の方に行ってみようか。」

「了解です。私も新しいグッズをあまり確認できなかったですので、行きたいです。でも、私も芸能人になってしまったんでしょうか。」

「亜美ちゃんの配信を見ている人にはそうなんじゃないかな。」

「リーダーみたいに地味な優等生に変身できないか試してみようかな。」

「亜美ちゃんには、地味はともかく、優等生は難しいかもしれない。」

「それは明日夏さんもそうですよ。」

「それじゃあ、亜美ちゃん、勝負してみる?」

「どちらが、優等生、優秀OLになれるかという勝負ですか?」

「そう。」

「はい、受けて立ちます。」

「今度はちゃんと決着をつけよう。昨年秋の『タイピングワールド』の大会では失格になっちゃったから。」

「あれは、明日夏さんが練習室に乱入してくるからいけないんです。」

「いいや、亜美ちゃんが尚ちゃんの力を借りるのが悪い。」

「『トリプレット』は一心同体なんです。明日夏さんは、『タイピング』の主題歌を歌っているんですから、遠慮すべきです。」

「あの時は単なる一般人だよ。だって何の優遇措置も受けていないし。」

「そうですけど。一般常識として。」

「オタクに一般常識は通用しない。それに亜美ちゃんだってそうじゃん。」

「マリさんに常識ある人と思われれば、明日夏さんに何と思われても大丈夫です。」

「なるほど。」

「明日夏さんにはいないんですか?一般常識がある人と思われたい人は。」

「うーん、いないかな。それより、本店に急ごう。」

「了解です。」

明日夏と亜美は秋葉原のアニメグッズの店を回り昼食をとった。その後、明日夏は作詞のために自宅に戻り、亜美は集合場所のパラダイス興業に向かった。


 尚美がパラダイス興行に到着すると、由香と亜美は事務所にいて、二人だけで話していた。

「由香先輩、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。亜美先輩、こんにちは。」

「おう、リーダ、明けましておめでとう。今年もよろしくだぜ。」

「リーダー、こんにちは。」

「社長と橘さんは?あと・・・」

「社長と橘さんと二尉は、新しい事務所に必要なものをバンで買いに行きました。」

「有難うございます。」

尚美が、棚の中に何もなく、段ボールが積まれた部屋を見回した。

「すっかり片付いていますね。」

「やっぱり、さびしいぜ。」

「そうですね。練習室ではいっぱい練習しましたからね。でも、新しい練習室は大きくなるそうですから、由香先輩はもっとダイナミックに動けますね。」

「おう、そうだな。それで、リーダー、スキーはどうだった。」

「楽しかったです。美香先輩の歌もすごかったでした。」

「あんま、ダンスをするって感じじゃなかったてな。もったいないけど。」

「美香先輩、MVの方では取り入れてみるみたいですよ。」

「それは楽しみだな。しかし、亜美がスノボで骨折しなくて良かったぜ。」

「ミサさん、リーダー、明日夏さんとは別のコースを滑っていたから大丈夫だよ。」

「というと、明日夏さんはミサさんやリーダーといっしょに滑っていたのか?」

「うん、小さい時にはよく父親に連れられてよく行ったって。母親はバレーだって。」

「バレーはそうだったな。明日夏さんも、いろいろあるんだよな。」

「それで、由香の方はどうだった。」

「楽しかったが、詳しく聞きたいか?」

「やめとくか。」

「まあな。でも昨日と今日は、豊と『ハートリンクス』のダンスを考えていた。一応はできたから、レッドたちにやってもらってから考える。」

「もし豊さんがいた方が良ければ、所定の金額は払えますが、どうしますか?」

「大丈夫か?」

「明日からのダンスの練習はパラダイス興行の新練習室で行いますし、その場でインストラクターとして振舞ってもらえれば構いません。」

「なるほど。」

「溝口エイジェンシーの秘密厳守の厳しさはうちの比ではないので、情報が漏れることはないと思います。」

「まあ、そうかもしれないけど、やめておく。」

「由香、それはハートレッドさんがいるからか?」

「まあ、レッド、ブラックとリーダーがいるからかな。」

「ブラック?」

「練習すれば、ダンスがかなり上手になると思う。」

「由香先輩、レッドさんが一番上手ですが、皆さんそれなりに上手です。」

「まあ、あのユニットは何万人から選ばれているから、そうだよな。それじゃあ、やっぱりなしだ。」

「分かりました。」

「その代わり、リーダー、5人分のビデオは撮ってきたから、それで各自練習はできる。」

「有難うございます。それではそのビデオを送って下さい。溝口エイジェンシーのダンスのインストラクターに送って練習を手伝ってもらいます。」

「分かった。」

「何もないですが、最後に練習しませんか。」

「おう。」「分かりました。」

3人が練習室に入ろうとすると、悟たちが帰ってきた。

「社長、橘さん、お兄ちゃん、おかえりなさい。」

「みんなそろって練習?」

「はい、最後にと思いまして。音楽は出せないですが。」

「マイクアンプは無理だけど、カラオケはパソコンとブルートゥーススピーカーで出すことができるよ。曲は?」

「お兄ちゃん有難う。曲は『私のパスをスルーしないで』と『一直線』。」

「新曲はまだなんだね。」

「うん。それはアニメが始まってからみたい。」

「分かった。準備する。」

「有難う。」


 誠が準備している間、亜美が尚美に話しかける。

「きょう午前中、秋葉原に行ったのですが、小学生の男の子に囲まれて大変でした。」

「亜美、それは夢の中の話なんじゃないか。」

「本当だよ。『プラズマイレブン』のグッズ売り場での話で、明日夏さんも居たから聞いてもいいよ。」

「亜美さん、マスクをしていなかったんですか。」

「はい、今までこういうことがなかったですから。その場では明日夏さんに貰ってなんとかなりました。これからは人の集まるところではマスクをするようにします。」

「そうですね。その方が安全だと思います。」

「分かりました。それで、その男の子たちがみんな私のチャンネルを見ていると言ってくれて、嬉しかったです。」

「やっぱり、亜美、午前中、寝てたんだろう。」

「だから本当だって。それでリーダー、その様子を見ていた明日夏さんが『ハートリンクス』のために『私といっしょにイイことしよう』というタイトルで作詞をするから、二尉に作曲してもらうと言っていました。」

「亜美、お前、小学生に、お姉さんといっしょにイイことしよう、なんて言っていないだろうな。」

「言っていないよ。明日夏さんの妄想から生まれたタイトルだよ。」

「僕もそうだと思うよ。」

「社長、有難うございます。」

「うーーん。」

「尚ちゃんどうしたの?」

「森永事業本部長が、『ハートリンクス』という曲は少しインパクトが足りないとおっしゃっていまして、確かに『私といっしょにイイことしよう』というタイトルはインパクトがありそうだとは思うのですが・・・。」

「リーダー、タイトルはあれですが、困っている人を助けたり、スポーツをしたり、親の手伝いをしたりするイイことになるそうです。」

「まあ、明日夏ちゃんならそうだろうね。少し安心した。」

「そう言えば、ハートレッドさんは、あいまいな感じにしたいとは言っていました。」

「それもアイドル用の曲として、コンセプトは分かるかな。」

「明日夏も、それぐらいのことを考え付くぐらいには成長したということか。やっと、中学生ぐらいにはなったんだな。」

「橘さん、何で中学生なんですか。」

「亜美ちゃん、それは聞かない方がいい。」

「私が高校生の時に『私といっしょにイイことしよう』を本来の意味で使ったからだ。」

「社長、やっぱり聞かない方が良かったです。」

「それで少年、作曲はするのか?」

「はい、明日夏さんのご指名なら作曲しても良いのですが、急でなければヘルツレコードか社長経由でプロの作曲家にお願いした方が良いのではないかとも思います。」

「そうかもしれないけど・・・・。もし作曲するとすればどんな感じにする?」

「やっぱり、曲はコメディータッチだと思います。」

「うん、そうだと思う。」

「明日夏さんは、この歌詞で二尉の実力を試すと言っていました。」

「何だ、明日夏の分際で偉そうだな。」

「明日夏さん、想像よりきわどい歌詞にするのかな。」

「明日夏がか。まあ、それならそれで楽しみだ。」

「メジャーの『ハートリンクス』さんですので、担当したい本当のプロの作曲家はたくさんいると思います。」

「それはそうだね。うちのロックバンドとは違う。」

「僕の実力を試す、ような感じで曲を作るのはどうかと思いますし、プロの方に作曲してもらった方が明日夏さんのためになるのではないでしょうか。」

「そういう考え方もあるね。」

「明日夏さんには、パラダイスのロックバンドや作詞練習用の曲ならばいくらでも作りますと伝えて下さい。」

「誠君の考えは分かった。」

「有難うございます。それで、尚、練習のために音楽を流す準備はできたよ。」

「お兄ちゃん、有難う。由香先輩、亜美先輩、練習開始です。」

「了解だぜ。」「はい。」


 尚美たちは、『私のパスをスルーしないで』と『一直線』の練習が終了すると、ハイヤーでテレビ局に向かった。誠と悟が『デスデーモンズ』用の女々しいロックの検討を始めた。

「それじゃあ、『デスデーモンズ』のための曲を仕上げようか。」

「はい。」

「まずは『嫌いって言われた』から。」

「はい。」

「『嫌いって言われた。嫌いって言われた。俺のことなんて大嫌いって。』のところだけど、一番強く歌うけど、一番女々しくないといけないから。」

「はい。」

「転調をAマイナーじゃなくて、別のものにしてみようか。」

「分かりました。何パターンか作ってみます。」

悟と誠は2時間ぐらいかけて、『デスデーモンズ』のための女々しいロック曲『嫌いって言われた』と『忘れないで下さい』をおよそ仕上げた。

「後は、『デスデーモンズ』に歌ってもらってから考えることにしよう。」

「分かりました。」

「しかし、悟、少年、歌詞が聴くに堪えない女々しさだな。悪い曲ではないが、こんなもので売れるか?」

「歌詞は明日夏ちゃんだけど、曲が売れるかどうか事前に分かれば、音楽事務所の社長は苦労しないよ。それに曲だけじゃなくて歌い方にもよるし。」

「それはそうだな。」

「次は橘さんも女々しい曲にしてみます?意外と売れるかもしれませんよ。」

「こら、少年。勝手なことを言いやがって。」

「誠君の言うことも分かるけど、久美が、こんな歌、歌えるか!と言って、ステージから降りてしまうから、無理だろうね。」

「分かりました。歌いたくない曲を作るわけにはいかないですからね。」

「少年、その通りだ。」

「しかし、今の時代は便利だね。クラッシックから民族楽器までいろいろな楽器をすぐに組み合わせることができる。」

「はい。昔はバンドメンバー全員がこもって曲を作っていたんですか?」

「うん、そうだった。1か月ぐらい、毎日集まっていた。」

「それはそれで楽しそうです。」

「まあ、久美は酔いつぶれていて、4人で作ることも多かったけど。」

「悟、余計なことは言わない。」

「分かった。久美は音楽の方向性は変えないんだよね。」

「もちろん、そのつもり。」

「そうですか。橘さんの弟子の美香さんはアメリカデビューに向けて、いろいろな方向性を試しているようですが。」

「ほう、どんなだ。」

「お正月のスキー場の別荘で見たアメリカでのレストランでのショーの練習では、静かな歌から、セクシーな歌まで歌っていました。衣装では、袴からバニーガールの衣装まで着ていましたし。」

「あの美香がバニーガール。少年も見たのか。」

「はい。明日夏さん、亜美さん、尚の他にパスカルさん、アキさん、ラッキーさん、コッコさんと別荘の管理人の里子さんがいました。美香さんの英語の歌の迫力がすごくて驚きました。衣装は無理していないか心配になりましたが。」

「無理しているか。他に思うところはないのか。」

「アメリカの競争は激しいから必死なんだろうな。応援しなくちゃと思いました。」

「どう応援する。」

「美香さんのアメリカでのライブに行こうと5人で相談しています。」

「ラスカルたちとか。」

「はい。」

「それじゃ、足りない。」

「それでは、どう応援すればいいでしょうか?」

「誠君、それは聞かない方がいい。」

「美香を抱いてやれ。それが一番の応援だ。」

「あのですね・・・・。はあ、社長、やっぱり、橘さんの曲は方向性を変えないで考えた方が良さそうです。」

「それしかないみたいだね。」

「橘さん、曲のコンセプトとかありますか。」

「おい、少年、勝手に話を変えるな。」

「久美、今回の再デビューには一千万円ぐらいかける予定なんだから、もっと真剣に。」

「一千万円!・・・そんなにかけるのか?」

「うん。久美の年齢的に、たぶんこれがラストチャンスになると思う。だから僕としても勝負をかけるつもり。」

「そうだな。それじゃあ頑張らないとか。でも、一千万円、大丈夫か?」

「失敗しても会社がつぶれることはない。まあ、また借金はできるかな。」

「でも、明日夏と『トリプレット』のおかげか。」

「もちろんそれはあるけど、貯めてきた貯金を全部使う。」

「分かった。曲は妥協しないが、衣装の方は妥協しよう。美香にならってバニーガールでも何でも着てやる。」

「いや、久美にその需要はないと思う。」

「それなら、水着でも。」

「いや、久美、だから。」

「皮ジャンでお腹を出す衣装ならば需要はあるようには思います。」

「そうだね。それは誠君の言う通りだ。」

「そういう服を着ているロック歌手はいっぱいるからな。」

「また、ダイエットが必要となるかもしれませんが。」

「うー、少年って、意外と鬼畜なんだよな。」

「あと、海岸でのライブなら、ホットパンツも大丈夫だと思います。」

「何だ少年。もしかして、美香より私の方がいいのか。それなら初めからそう言えば。」

「そういうわけでなく、パラダイス興行のために、どうすれば橘さんが売れるか考えているだけです。」

「久美、誠君はそうだと思うよ。」

「つまらない男だな。美香も何で・・・。」

「それで、橘さんが新しい曲をイメージするとどんな感じですか。」

「曲のイメージか?」

「はい、橘さんが歌う新しい曲のイメージです。お酒はなしで。」

「男はあってもいいのか?」

「多少は。」

「やっぱり、負けないとか、立て立つんだ久美とか、陽はまた昇るとか、正々堂々と勝負だとか、あの男は私のものとか、浮気は許さないとかかな。」

「社長さん、やっぱり、WeというよりはIなんでしょうね。」

「そんな感じがいいと思う。」

「『立つんだ、私」、『The Sun Rises』、『You Are Mine』みたいな感じでしょうか。」

「うん。『勝つと思え。思って勝て』、『静かな夜を蹴散らせ』、『逃がさない』とかな。」

「いいですね。作詞は橘さんがするんですよね。」

「久美、どうする?」

「うーん、作詞するのはいいけど、売れない実績だけが積みあがっているからな。」

「とすると、明日夏ちゃんに頼むか、外注するかだな。」

「明日夏さんにお願いしてみて、無理そうだったら、外注ではどうでしょうか?」

「そうだね。そうしようか。明日夏ちゃんに話してみるよ。」

「アルバムにするならば、静かな曲も欲しいところですか。」

「そうだけどね。久美、静かな曲で歌ってみたい曲はある?」

「ない。」

「橘さん、トレーニングしているときはすごく上手ですよ。静かな歌も。」

「自分の歌として歌いたくないというだけだ。」

「分かりました。とりあえず、橘さんの希望する方向で考えましょう。」

「そうだね。」

「社長、レコード会社の目途はついているんですか?」

「インディーズなら何社か。」

「分かりました。今は配信やサブスクリプションの時代ですからね。ワンマンライブの方は?」

「リリースが決まったら1000の箱を予約するつもり。半年前の予約が必要だから。」

「さすがです。」

「悟、1000はさすがに無茶じゃ。」

「勝負をかける。」

「橘さん、頑張りましょう。」

「ラストチャンスだもんね。」

「本当のラストではないとは思います。だだ、大勝負に出ることができるのは今回が最後かもしれません。」

「誠君のいう通り。」

「分かった。」


 3人で久美の曲の話をしていると、尚美がミサを連れて帰ってきた。

「社長、橘さん、ただいま。」

「誠、久美先輩、ヒラっち、今晩は。この場所が今日が最後というのを尚から聞いて、見に来ました。」

「いらっしゃい。」「いらっしゃい。」「美香さん、いらっしゃい。尚、それじゃあ帰ろうか。」

「誠、もう帰っちゃうの?」

「すみません。妹が明日も早いので。」

「そうか、それじゃあ仕方がないか。残念。あっ、そうだ。誠、曲の感想、細かいところまで有難うね。」

「少しでも役に立つと嬉しいです。」

「そう言えば、誠は大学院はアメリカで勉強したいんだって?」

「はい。そういう希望はありますが、学費が日本の数倍はしますし、単なる夢だけで終わるかもしれません。」

「大丈夫。その時は私がバイトを考えるから、いつでも相談して。どんなバイトがいいかな。何でもいいけど、コンピュータに関することでも、音楽アシスタントとかかな。」

「美香、全米をまわって体力を使うんだから、全身マッサージがいいんじゃないか。」

「あの、橘さん。」

「誠がそれがいいならそれでもいいけど、無理のないように考えるよ。」

「ご心配、有難うございます。その件は別にして、本当に困ったことがあったら言って下さい。僕にできることなら、何でもお手伝いします。」

「アメリカまで来てくれるの?」

「必要ならば行きます。」

「有難う。本当に困ったらお願いするかも。」

「はい、大丈夫です。それでは、僕たちはこれで失礼しようと思います。」

「うん、誠、尚、またね。」

「美香先輩、社長、橘さん、今日はこれで失礼します。」

「うん。尚ちゃんはまた明日かな。誠君もまた。」

「二人とも、またな。」


 誠と尚美が事務所を出て行った。ミサが悟に話しかける。

「年末、お正月といそがしくて、ここに来ることができなかったから、今日来て、片付いているので、本当に驚きました。」

「誠君に手伝ってもらって3人で片付けたけど、荷物があまりなかったから、今日の午前中だけで終わったかな。」

「この事務所、何年ぐらい使ったんですか。」

「大学を卒業してからだから、8年ぐらいかな。」

「事務所は広くなるんですよね。」

「練習室は2つになって広くなるけど、他はあまり変わらないかな。日本に帰るときがあったら、いつでも遊びに来てね。」

「はい。有難うございます。」

「ところで、美香、少年の前でバニーガールの姿で歌ったんだって。どうだった反応は?」

「どうってことないですよ。誠は変わらないし。今もそうだったでしょう。」

「でも、美香が困ったらアメリカまで行くと言っているし、アメリカのライブにも行くみたいだけど。」

「それは、私が頑張っているって思っているから。」

「やっぱり、少年には直接的に言わないとだめかもな。」

「道玄坂のホテルに泊ってバックバンドをやった帰りに、今度は二人でそのホテルに行こうかと言っても、良い返事はもらえなかったし。」

「・・・・・・・。」

「私が冗談ぽく言ったのがいけなかったのかもしれないですが。」

「あの野郎。」

「久美、誠君は悪気があってしていることじゃないから、説教しようとかしないように。」

「説教はいらん。殴ってやろうか。」

「久美先輩!」

「ごめん。少年を殴っていいのは美香だけだな。」

「誠君はアメリカまで行くと言っているぐらいだから、ミサちゃんが好きじゃないということはないと思うよ。」

「はい、私もそう思っています。」

「よーし、美香、ロック歌手ならこういうときは歌うのが一番だ。」

「私も歌いたくなってきました。」

「どうしようか。伴奏をかける機材がないんだけど。」

「美香、アカペラで大丈夫だよな。」

「はい。」


 3人が練習室に入って、美香が『I Have Nothing』、『Bottomless power』、『Undefeated』、『I Will Always Love You』の4曲を歌った。

「久美先輩、本当に少し気持ちが落ち着きました。」

「そうか、それは良かった。それにしても、美香の歌もだいぶロックになってきた。」

「本当ですか?」

「本当だ。この私が保証する。」

「有難うございます。」

「いや、英語の歌、本当に上手だと思います。これほど上手に歌える人は日本人の歌手にはいないんじゃないかと思います。」

「それはそう。英語の歌じゃ、私は美香に全然かなわない。」

「ヒラっち、久美先輩、有難うございます。」

「美香が頑張っていることは良く分かったから、引き続き頑張れよ。」

「はい、そのつもりです。」


 美香がリムジンで自宅へ帰って行った。悟が久美に話しかける。

「さて、今日はもう仕事ができないから、まだ早いけど帰るかな。」

「私は少し歌ってから帰る。」

「ここで歌えるのが最後だから?」

「それもある。ここでいっぱい練習したから。でも、それより、『Undefeated』でまだ美香に負けるわけにはいかない。」

「それもそうか。それじゃあ、何か食べるものを買ってくるよ。」

「ビールもね。」

「分かった。冷蔵庫がないけど、窓を開けてそばに置いておけば温まらないしね。それじゃあ行ってくる。」

結局、久美は悟のアンプなしのベースの伴奏で夜明けまで歌い、その後ソファーや余った段ボールを床に敷いて、引っ越し業者が来るまで寝ていた。


 さて、ここでアニメグッズショップで明日夏と亜美が話していた、11月に行われたゲーム『タイピングワールド』の全国大会での話をしよう。藤田先生役の池谷が司会進行を、恵梨香先輩役の坂田がアシスタントを、ヘルツ電子の小島が解説者を務める。大会の様子は動画配信サイトから全国に配信されていた。

「みなさんこんにちは、アニメ『タイピング』で藤田先生の役を演じた池谷浩一です。」

「こんにちは、同じく恵梨香先輩の役を演じた坂田陽子です。」

「こんにちは、ヘルツ電子『タイピングワールド』開発主任の小島信彦です。」

「陽子ちゃん、小島さん、いよいよアニメ『タイピング』の世界を実現のもとしたゲーム『タイピングワールド』の大会が始まります。」

「池谷さん、本当に楽しみにしていました。小島さん、ゲーム『タイピングワールド』の機能を使って、インターネットに接続すれば誰でもこの大会に参加することができるんですよね。」

「はい、その通りです。タイピング時間はゲーム機の方で測りますので、ネットワークの遅延の差があっても公正にタイピング速度の競争ができるようになっています。」

「小島さん、システムの解説、有難うございます。そして、優勝者、入賞者には賞品としてどこにも売っていないこの大会で勝たないともらえないアニメ『タイピング』のオリジナルグッズがもらえます。」

「本当にここでしか手に入らないんです。アニメ『タイピング』のファンならば絶対に欲しいですよね。」

「陽子ちゃん、そのためにみなさん必死にタイピングを練習してきたみたいです。」

「それは嬉しい限りです。」

「日本のコンピューターリテラシーの向上に大きく貢献できたと思っています。」

「小島さん、それは、さすがに言い過ぎでは。」

「ゲームの売り上げは想定以上でしたし、ゲームをしている方々のタイピングの成績も向上していますので、それは断言できます。」

「そうですか。私も日本人全員がこのゲームをすると良いと思いました。」

「陽子ちゃん、有難うございます。」

「それでは、ここで大会をスタートしたいと思います。」

「まずは大会にエントリーです。ゲーム機をインターネットにつないで、ゲームを立ち上げて、メニューから『大会参加』を選択して、参加条件の許諾のOKを選択するだけです。それでは今から約5分間、登録を受け付けます。スタート。」

「どんどん、登録者数が増えていますね。」

「そうですね。1000人を越えました。」

「さらに増えています。えーと、この方の住所はブエノスアイレス。本当に全世界から参加者が集まっています。」

「日本語ですので、国内に限られるかと思ったのですが、そんなことはなかったでした。パリから参加されている方もいらっしゃるようです。」

「小島さん、2000人を越えました。どうですか。」

「はい、このゲームがこんなに愛されていると知って、嬉しい限りです。」

「本当ですね。登録者がどんどん増えています。4000人を越えました。」

登録開始から5分が経過した。

「さて、登録開始から5分が過ぎました。このあたりで登録を締め切らせて頂きたいと思います。」

「はい。ただいま、登録を締め切りました。」

「最終的な参加者は?」

「6342人です。」

「6000人もの方が大会に参加頂けるんですね。有難うございます。」

「小島さん、どうですか。」

「はい、6000人もの方に参加して頂いて、大きな顔で大会と言うことができます。これが10人ぐらいだったら、小会だろうと言われるところでした。」

「・・・・・・・それでは、大会の競技方法について説明したいと思います。陽子ちゃん、お願いします。」

「分かりました。時間がくると問題が画面に自動的に表示されます。制限時間内に、表示された通りにタイピングして、タイピングが終わりましたら、Enterキーを3回押して下さい。表示されてEnterキーを3回押すまでの時間が計測されます。各ゲーム機で入力結果を採点した点数とその時間がヘルツ電子のサーバーに送られ、結果が集計され順位が決まります。」

「なるほど、それは簡単ですね。」

「予選は各ステージで競技が3回行われます。ファーストステージは各回から100人の参加者が次のステージに進むことができます。」

「2回失敗しても、最後の1回の成績が良ければ次のステージに進むことができるわけですね。」

「その通りです。ですので、セカンドステージに進むことができるのは100かける3で300人となります。そして、セカンドステージは各回10人ずつ選ばれ、決勝戦に進むことができます。」

「決勝戦は30人で行われるわけですね。」

「はい、その通りです。惜しくも予選落ちした方にも、抽選でここでしかもらえない素敵なプレゼントがありますので、楽しみにして下さい。」

「それは嬉しいですね。」

「それでは、予選を始める前に練習を1回行いたいと思います。池谷さんの合図の後に問題が表示されますので、表示されたらタイピングを始めて、入力が終わりましたら、Enterキーを3回以上押して終了を確認して下さい。」

「分かりました。それでは始めたいと思います。練習始め。」


 問題が表示されると、参加者がタイピングを開始した。制限時間が過ぎて少ししたところで司会者が話し始める。

「小島さん、システムは大丈夫でしたか?」

「はい、途中でネットワークが切れた方もいらっしゃいますが、ほとんどのゲーム機からデータが無事に収集できました。」

「有難うございます。大丈夫のようですね。」

「それでは予選ファーストステージ第1回目を開始したいと思います。」

「その前に、是非、恵梨香先輩からのエールをお願いします。」

「分かりました・・・。みんな、今まで本当に良く頑張って練習してきたことは、私が一番良く分かっているから。この大会で自分の実力を出し切ることだけを考えてね。それじゃあ、私もいっしょに参加するから、予選ファーストステージ、お互い頑張ろうね。」

「有難うございます。これで、みなさん頑張る気になったと思います。でも、陽子ちゃんもいっしょにやるんですね。」

「はい。私の入力状況が放送されます。」

「そうですか。それは楽しみです。」

「それでは始めますが、池谷さんが合図を出して、問題が表示され次第、タイピングを開始して下さいね。」

「予選ファーストステージ第1回目開始!」

問題が表示されると参加者がタイピングを開始した。制限時間が来て、司会者が話し始める。

「参加者の方の画面には順位が表示されていると思いますが、100位までの方がこの回でファーストステージを通過したことになります。」

「この回でファーストステージを通過された方は、残された2回に参加する必要がありませんのでご注意下さい。」

「さて、予選通過者を見ていきたいと思います。」

「1位は『打倒明日夏さん』さん、2位は『アスオ』さん、3位は『恵梨香は僕の嫁』さん、4位は『恵梨香の隣』さん、5位は『明日夏に負けない』さんです。5人とも早くて正確ですが、特に『打倒明日夏さん』さんが頭一つ抜けている感じです。」

「でも、すごいタイピングの速さですね。」

「はい。上位の方は私の2倍以上の速さで、私はファーストステージを突破できそうもありません。それでも、問題を見てもらうために参加というか問題に挑戦しますが。」

「ちょっと待って下さい。」

「どうしたんですか、小島さん。」

「『アスオ』ってアニソン歌手の神田明日夏さんのアカウント名じゃないでしょうか。」

「そう言えば、春のイベントではそうだったかもしれません。ちょっと、チャットで連絡してみましょうか。」

「はい。」

大会事務局:アスオさんは神田明日夏さんですか?

アスオ:はいその通りです

「アスオさんは、そうだと言っています。」

「そうだとすると、デバッグモードは使っていませんよね。」

アスオ:製品版ですからデバッグモードは付いていません

アスオ:そう言われるかもしれないと思って今の私の様子はパラダイス興業の公式チャンネルから生放送しています

アスオ:録画も見れますので見て下さい

「そうなんですね。今、事務局に確認してもらいます。」

「春のイベントでこの大会に絶対参加する。勝てるものなら勝ってみろと大見得を切っていましたからね。」

「でも、2位みたいですね。」

「あの宣言で打倒明日夏さんを目指す人は多かったですからね。『打倒明日夏さん』さんがその筆頭ですか。」

「しかし、明日夏さんは親指シフトのキーボードを使っていたはずです。それを上回るのはかなり大変だと思いますが。」

「チャットで聞いてみますね。」

事務局:『打倒明日夏さん』さんはどんなキーボードを使っているんですか

打倒明日夏さん:ステノワードです

打倒明日夏さん:リーダーのお兄さんにお願いしてゲーム機につなげてもらいました

アスオ:今は実力をセーブしていた

打倒明日夏さん:それは私もです

アスオ:次は負けない

打倒明日夏さん:明日夏さんには負けません

「えーと、あの、二人で喧嘩するのは止めて下さいね。」

「小島さん、ステノワードってご存じですか?」

「あまり詳しくは知りませんが、テレビの字幕をリアルタイムでつける方が使っているキーボードだと思います。基本は10本の指に対応する10個のキーで入力します。」

「指とキーボードのキーを1対1で対応させてしまうんですね。それはすごいです。」

「事務局がアスオさんが不正はしていないことは確認したようです。」

「分かりました。それでは、ファーストステージ第2回目に進みたいと思います。」


 明日夏は「『打倒明日夏さん』って亜美ちゃんじゃないか。リーダーのお兄さんと言っていたから、マー君がステノ何とかというキーボードをつなげたのかもしれない。」と思いながら、ファーストステージの2回の間を使って明日夏が亜美にSNSで連絡する。

明日夏:『打倒明日夏さん』って亜美ちゃんでしょう

亜美:その通りです

明日夏:マー君にステノ何とかというのをつないでもらったの?

亜美:はい。ステノワードです。

明日夏:キーが10個だけというキーボードがあるんだね

亜美:補助に他のキーも付いていますが主に打つのは10個です

明日夏:なるほど。それでどこにいるの

亜美:練習室です

亜美:リーダーといっしょにいます

明日夏:何だ隣にいるのか

亜美:はい

明日夏:もしかして尚ちゃんも参戦しているの

亜美:はい

亜美:リーダーも1回でファーストステージは通過しました

明日夏:名前は5位の『明日夏に負けない』なの

亜美:違います。5位までには入っていません

明日夏:ふふふふふ、中学生には無理ということか

亜美:リーダーが実力を発揮するのは決勝戦です

明日夏:そうなの?

亜美:私は練習で一度も勝てなかったでした

明日夏:なるほど楽しみにしておこう


 ファーストステージが終わった。

「さて、ファーストステージが終わりました。5位までを見ると3位に『直人は私の婿』さんが新たに食い込みました。」

「名前からしてトップ3名は女性ですね。」

「そのようですね。男性陣にも頑張ってほしいところです。」

「私は上位全部を女性で占めて欲しいです。」

「そうですか。それではセカンドステージに進む前に、惜しくもセカンドステージに進むことができなかった皆さんの中から抽選で3名様にプレゼントを送りたいと思います。」

「プレゼントは特製の大型缶バッジとなります。これが実物です。」

「陽子ちゃん、大きいですね。」

「はい、直径は約30センチあります。」

「それはすごいですね。」

「はい。」

「それでは抽選を始めます。惜しくもセカンドステージに進むことができなかった方の名前が高速で表示されています。陽子ちゃんがボタンを押すと動きが止まって、抽選の勝者が決まります。それではお願いします。」

坂田が3回ボタンを押して、抽選の勝者が決まる。

「『令和ライダー』さん、『明日夏ちゃん大好き』さん、『FPU命』さん、おめでとうございます。事務局から商品を送らせていただきたいと思います。」

「惜しくもセカンドステージを突破できなかった方も、大会の最中に重要な発表がありますので、是非最後まで見て下さい。アニメ『タイピング』2期の新キャラも公開されます。」

「それはすごいですね。それでは、セカンドステージに進みたいと思います。」

「要領はファーストステージと同じで、セカンドステージでは10人ずつ合計30人が選ばれ、決勝戦が行われます。」

「みなさん、準備はいいですか。それでは、セカンドステージ第1回目を陽子ちゃんの掛け声でスタートしたいと思います。」

「はい。それでは、セカンドステージ第1回目スタート。」


 セカンドステージの3回の競技が終わった。

「さて、セカンドステージが終了しました。セカンドステージを勝ち抜いて決勝に進むのはこの30名です。」

画面にリストが表示されました。

「1位は『アスオ』さん、2位は『打倒明日夏さん』、3位は『恵梨香の隣』、4位は『薫は俺の嫁』さん、5位は『キャラデザ最高』さんです。」

「1位と2位が入れ替わりました。二人とも1回目で勝ち抜けて、入力ミスは0、修正は2回、タイピング時間が百万分の1秒差です。」

「修正が2回でミスが0回というのはすごいですね。それで、タイプ時間が百万分の1秒とか、互角と言っていいでしょう。」

「ちょっと二人にチャットしてみましょう。」

恵梨香:『アスオ』さん、『打倒明日夏さん』さん、意気込みを聞かせて下さい

アスオ:直人の特製フィギュアは他の誰にも渡さない

打倒明日夏さん:それは私もです

アスオ:小学生の弟の浩人(ひろと)で我慢しなさい

打倒明日夏さん:だって浩人のフィギュアないじゃないですか

アスオ:事務局さん、浩人の特製フィギュアも作って下さい

アスオ:そうすれば世界は平和になります

恵梨香:あの、それはいろいろ無理みたいです

打倒明日夏さん:それなら明日夏さんに負けるわけにはいきません

アスオ:分かった勝負だ

打倒明日夏さん:望むところです

「二人ともすごい意気込みのようですね。」

「さて、いよいよ決勝戦ですね。」

「いえ、池谷さん。決勝戦に進む前に、アニメ『タイピング』第二期、『タイピング ページ2』に関するお知らせがあります。」

「ほう、それは楽しみです。」

「この画像を見て下さい。」

「これは『タイピング ページ2』のキービジュアルですね。」

「その通りです。みんな一つ大きくなった姿がまぶしいです。」

「私はあまり変わりませんが、恵梨香先輩は大学生ですか。」

「そうです。でも度々部活に顔を出しますので、楽しみにしていて下さいね。」

「直人君の右隣に見たことがない生徒がいますね。」

「新入部員の鏡原ひとみちゃんです。直人君とどんな関係になるでしょうか、楽しみにしていて下さい。」

「声優さんは発表されているんですか。」

「藁澤香里さんです。」

「あの可愛い声で大人気の。それは楽しみです。」

「もうアフレコも始まっています。是非、楽しみにしていて下さい。」

「はい、楽しみにしたいと思います。」

「次に、決勝戦の賞品をご紹介したいと思います。この30個の中から決勝で上位の参加者から順番に選んでいくことができます。」

「『アスオ』さんこと神田明日夏さんとそのライバルの『打倒明日夏さん』さんは、この1つしかない直人の特製フィギュアを狙っているんですね。」

「はい、両者の激しい争いが予想されますね。しかし、プレゼントはこの賞品だけじゃないんです。」

「他にプレゼントが?」

「はい、私が夏に撮影した写真集を決勝戦参加者全員にプレゼントします。」

「余ったんですか。」

「余ったなんてことはありません。このために用意したんです。」

「いっそのこと、参加者全員に配っては?」

「そんなには余っていません。」

「やっぱり余っているんですね。」

「作りすぎただけです。沖縄の海で撮影した写真も入っています。」

「水着写真も入っているんですか?」

「はい、その通りです。」

「それは楽しみです。それでは決勝戦に進みましょう。」

「あまり楽しみじゃないみたいですが、まあいいです。決勝戦は1回、ランダムな文字列が表示されますのでそれを入力していきます。間違いを入力することは許されず、修正して入力し直すことが必要です。」

「今までの文章はかな漢字変換の予測によって差が出てしまいますが、ランダムな文字列ではその差は出ませんね。」

「はい。どんな文章入力でもこの文より遅くなることはないと思います。ランダムな文字列を入力するのは本当に大変なんです。記号まで含めて正確なタッチタイピングが絶対に必要なんです。」

「そうですか。本当の実力が試せますね。」

「はい。それで最初に入力を終えた参加者から1位、2位と順位を付けていきます。制限時間までに終わらなかった場合は、入力を完了した文字数で順位を付けます。」

「決勝戦の参加者の表の右の欄には、10秒ごとに入力した文字数が表示されますので、戦いの様子を肌身で感じることができます。」

「私の結果はこの隅に表示されます。」

「恵梨香先輩にも頑張ってほしいものです。」

「かなり無理とは思いますが、全力は尽くします。」

「頑張って下さい。それでは泣いても笑っても1回だけ、決勝戦に進みたいと思います。」

「小島さん、準備は大丈夫ですか。」

「はい、大丈夫です。」

「それでは決勝戦、スタート。」


 ゲーム機にランダムな文字列が表示され、それを決勝戦参加者が入力していく。

「入力が始まったようです。でも、『アスオ』さん、『打倒明日夏さん』ともに予選より入力が遅くなっています。小島さん、それは予想した通りですか?」

「入力速度が1/3ぐらいになると思うのですが、『相模湾の妹』という方が、前のステージとタイピング速度が変わらないようですね。」

「本当ですね。他の人の3倍ぐらいの速さです。」

「速度も落ちずに入力を続けています。もう、3分の2の入力が終わってしまいました。」

「これは予想外です。人間わざとは思えないのですが。」

「あれ、・・・入力が止まってしまいました。」

「何かあったんでしょうか。いっしょに『アスオ』さんと『打倒明日夏さん』さんの入力も止まっています。」

「そうですね。」

池谷が技術スタッフに確認する。

「技術スタッフの話では、3人ともインターネットとの接続が切れているそうです。それで、パラダイス興業の生放送も止まっているということです。」

「一分間以上接続がないと失格になってしまうのですが。」

「はい。今、3人とも失格になったそうです。」

「そうですか。少し残念です。」

「ただ、競技は続いています。今、先頭の参加者は半分の入力が終わりました。」

「上位のみなさんの入力スピードはかなり近いですね。」

「はい、抜きつ抜かれつの接戦で、面白くなってきました。」


 少しして決勝戦の制限時間となった。

「はい、決勝戦が無事に終わりました。本当に接戦となりました。」

「5位までの順位を発表します。1位は『明日夏に負けない』さん、2位は『薫は俺の嫁』さん、3位は『恵梨香の隣』さん、4位は『キャラデザ最高』さん、『花粉症がつらい』さんです。」

「それでは、順番に賞品を選んでいってもらいます。事務局の方、参加者との連絡をお願いします。」

「『アスオ』さん、チャットルームには戻っているようですね。」

「ちょっと、様子を聞いてみましょうか?」

恵梨香:アスオさんどうされたのですか

アスオ:ちょっとした事故でイーサネットケーブルが抜けてしまいました

恵梨香:残念ながら失格となってしまいました

アスオ:はい分かっています

アスオ:次回頑張ります

恵梨香:有難うございます

「どうやら、事故でネットワークケーブルが抜けてしまったようです。」

「3人同時だったんですが、3人同じ部屋にいらしたんですかね。」

「そうかもしれません。」

「まあ、失格になりましたので、余計な詮索は止めましょう。それでは、プレゼントが決まったようですので、上位5位まで発表します。」

「はい、1位の『明日夏に負けない』さんは直人の特製フィギュア、2位は『薫は俺の嫁』さんは薫の特製フィギュア、3位は『恵梨香の隣』さんは恵梨香の特製フィギュア、4位は『キャラデザ最高』は原画セット、『花粉症がつらい』さんは陽子ちゃんのサイン入り恵梨香先輩のポスターです。」

「みんなすごいプレゼントです。」

「でも、それよりもっともっとすごいプレゼントが、決勝に参加した全員にプレゼントされるんですからね。」

「そうでしたね。さて、楽しい時間を過ごしてきましたが、この大会はこれで終了となります。次回もあるんですよね。」

「はい、その通りなのですが、その話の前に追加でもう一つお知らせがあるようです。」

「そうですか。2期に関することですか。」

「その通りです。『タイピング ページ2』の主題歌を歌うのは神田明日夏さんに決まりました。曲名は『恋もDX』です。」

「神田明日夏さん、おめでとうございます。」

「『恋もDX』、今風のタイトルです。」

「どんな曲か楽しみです。神田さんに意気込みを聞いてみましょうか。」

「はい。」

恵梨香:『アスオ』さんこと神田明日夏さん、意気込みをお願いできますか

アスオ:私の最推しの直人がいるアニメ『タイピング』の主題歌を1期、2期と歌うことができて大変光栄です

アスオ:今日、特製フィギュアを獲得することはできませんでしたが、少しでも直人の役に立てるように頑張って練習して歌いたいと思います

恵梨香:有難うございます

アスオ:ゲーム『タイピングワールド』についても詳しくは話せませんが、もっと自然な会話ができるように姉も私も頑張っていますので、ご期待下さい

恵梨香:ご活躍を期待しています

「明日夏さんらしくない、きちんとしたコメントですね。」

「池谷さん酷いですね。明日夏さんは今年の1月にデビューしたばかりですから、だんだんと成長しているのだと思います。」

「そうですね。みんなで成長していきたいです。それで小島さん、ゲーム『タイピングワールド』の方もまだまだ成長するんですね。」

「言語モデルをゲーム機のハードウエアが許すギリギリまで拡張して、訓練し直しているところです。」

「そうなんですね。それも楽しみです。陽子ちゃん、それでは次回大会について情報をお願いします。」

「はい、次回大会の開催日は決まっていませんが、来年の5月に開催することを予定しています。さらに、素晴らしい賞品をご用意しますので、是非、皆様ご参加下さい。詳細は決まり次第お伝えしますので、『タイピングワールド』または『タイピング』のオームページをご覧下さい。」

「5月の第2回大会、大変楽しみにしたいと思います。それでは、『タイピングワールド』第1回タイピング大会を終えたいと思います。みなさん、ご参加、ご視聴、大変ありがとうございました。」

「みなさん、有難うございました。『タイピング 2ページ』もよろしくお願いします。』

「有難うございます。『タイピングワールド』もコンテンツ追加などを行っていきますので、是非、楽しみにしていて下さい。」

「有難うございました。またみなさんと会える時を楽しみにしています。」


 生放送が終わって池谷がスタッフに聞く。

「僕も、陽子ちゃんも聞いていなかったけど、もしかして、明日夏さんの件は筋書きがあったの?明日夏さんは決勝戦で失格になって、最後に二期の主題歌を担当するというお知らせもあったから。」

「いえ、それが筋書きではなくて、主題歌を担当することの発表は、大会の状況を見てプロデューサーとヘルツレコードの担当者が相談の上、急に差し込んだということです。」

「なるほど。他の二人は何だったか分かる?ネットが明日夏さんと同時に切れたけど。」

「明日夏さんから連絡があったのですが、二人は明日夏さんと同じ事務所の『トリプレット』の星野なおみさんと柴田亜美さんということです。柴田が直人のファンということで、特製フィギュアを絶対に勝ち取ろうとしていたようです。こちらとの契約になかったので名前は出しませんでした。」

「皆さんタレントさんだったのか。それにしても3人とも、タイピングがすごく速かったね。特に決勝戦の一人は3倍の速さだった。」

「はい、プロデューサーによれば、パラダイス興業は特徴的というか、少し変わったタレントが多いことで有名な事務所なんだそうです。」

「なるほど、そんな感じだね。社長さんの趣味なのかな。」


 決勝戦が始まったパラダイス興行の事務室では明日夏が必死にタイピングをしていた。

「この『相模湾の妹』って、尚ちゃんかな。それにしても、どんどん引き離されていく。」

ランダムな文字列で明日夏が入力に苦労する一方、『相模湾の妹』は一定速度で入力を続け、差はひらくいっぽうだった。

「こんなに速く入力できるわけはないよ。何かインチキしてるんじゃないのか。」

明日夏が立ち上がって、練習室に行く。

「尚ちゃん!何かインチキしているでしょう。」

尚美が入力しながら答える。

「していませんよ。ちゃんと入力しています。」

「でも、なにそのキーボード。4行4列の16個キーが二組みある。」

「兄に製作してもらいました。」

「マー君に!でも、キーの上に1から9、AからFまで書いてあるけど。」

「はい、16進数です。両手で1回に8ビット、2回で16ビットの入力が可能です。」

「もしかして、ユニコードを直接入力しているの?」

「その通りです。予測は使えないので普通の文章では速くないですが、ランダムな文字列でも速度は変わりません。」

「うー、ちょっと見せて。」

事務所では普段は無線LANを使っていたが、このときは確実に通信するために床にイーサネットケーブルを這わせていた。明日夏が尚のところに行こうとしたとき、そのケーブルに明日夏の脚が引っかかり、ルーターが引っ張られ、電源ケーブルが抜けてしまった。

「あっ!」

「明日夏さん、通信が止まっています!」

「先輩!早くつながないと失格になってしまいます。」

「分かってる。」

明日夏がルーターのところに行くと、電源の他に外れたケーブルが何本かあった。明日夏は、抜けたのは電源だけじゃないかもしれないと想い、とりあえず外れているケーブルをすべてつないだ。ルーターが立ち上がるまで、時間が少しかかった。

「これでよし。尚ちゃん、通信は回復した?」

「だめです。まだ、止まったままです。」

「えー、ケーブルは全部入れたのに。もう一度さし直してみる。・・・・・尚ちゃん、どう?」

「だめです。」

「うー、何でだろう。もう一度、ルーターを立ち上げ直す?」

「待ってて下さい。ルーターの再起動に時間がかかってそれじゃあ絶対に失格になります。」

「こんな時に、マー君がいてくれれば。」

「とりあえず、外部につながるケーブルと、明日夏さんと私のゲーム機に繋がるケーブルだけをつないで、あとは全部抜いてみましょう。」

「分かった。これとこれだけ刺して、あとは抜けばいいかな。・・・・・どう?」

「えーと。はい、今つながりました。」

(著者注:全部刺したとき、経路にループができたため接続できなかったのである。)

「やった!」

「でも、もう大会は失格になっています。」

「えーーーーー。」

「えーーーーー。」

「仕方がありません。」

「もう、明日夏さんがいけないんですよ。」

「ケーブルを床に這わせる方がいけないんだよ。ケーブルに足が引っ掛かって転ぶと危ないから絶対にダメとマー君が言っていたから、私はしていない。」

「そうなんですね。兄がそう言っていたんですか。はい、明日夏先輩の言う通りです。短時間だからと油断したからいけなかったんです。申し訳ありません。」

「そう言われると、勝手に入ってきた私もいけないんだけど。次回、頑張ろうか。」

「はい、有難うございます。」

「亜美ちゃん、次回、もし浩人の特製フィギュアがあったら直人とどっちがいい?」

「うーーん、迷うけど、浩人でもいいかな。」

「そうなると、パラダイス興業も、より平和になるね。」

「世界から比べれば、今でも十分平和ですよ。それで、明日夏先輩、『恋もDX』に関してコメントが求められているみたいです。」

「尚ちゃん、適当に答えておいて。」

尚美が明日夏のゲーム機に移動しながら聞く。

「はい。答えるために聞きたいのですが、お姉さんといっしょにやっているゲームプログラムに関して何か進展はありますか?」

「もっと自然にキャラクターと会話できるように改良しているよ。」

「有難うございます。それでは、適宜答えておきます。」

「亜美ちゃん、ケーキ買ってこよう。」

「はい、行きましょう。次回、浩人の特製フィギュアができるといいな。」

「そうだね。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る