第43話 藤崎アイシャ

 翌日の1月5日の昼過ぎ、明日夏が事務所にやってきた。

「『ハートリンクス』さんのための『私といっしょにイイことしよう』の歌詞がだいたいできたから、社長と橘さんに見てもらおう。何て言うかな。橘さんにはちょっと物足りないかも。」

明日夏が事務所のドアを開ける。

「社長、橘さん、こんにちは。」

しかし、事務所の中は空だった。空と言っても人がいないだけというわけではなく、机、椅子、機材一式が何も置いていなかった。

「えっ、ここだよね。」

明日夏が部屋の前の表示を確認する。

「うん、絶対ここだ。でも、何もない。どうしたんだろう。スキーに行く前には絶対あったのに。事務所の中だけ異世界に転移したとか。それなら、社長は盾で橘さんが剣士かな・・・・。」

そのとき尚美が部屋に入ってきた。

「明日夏さん、こんにちは。」

「尚ちゃん!良かった。尚ちゃんは無事だ。でも、尚ちゃん、大変だよ。事務所がなくなって、社長も橘さんもいないの。もしかして、事務所ごと異世界転移したの?それなら、今から後を追わなくちゃ。でも、どうやって。」

「そんなアニメみたいなことはありません。社長も橘さんもこの世界にいます。」

「良かった。でも、社長さんたちどうしたの?もしかして夜逃げ?最近は私も頑張っていたのに。それとも少しお金ができたから、悪い業者に目を付けられて、大きな借金を背負わされたとか?社長、人がいいから。」

「明日夏先輩、少し落ち着いて下さい。」

「これじゃあ落ち着いていられないよ。よし、分かった。私も二十歳になったから脱ぐ。それで事務所が救えるなら喜んで。」

「この事務所で脱いで売れるのは亜美先輩だけです。」

「亜美ちゃんは、まだ高校生だからだめだよね。どうしよう。」

「あの、明日夏先輩は人の話を全然聞かないんですか?」

「うん、それは小学生のときからずうっと言われているよ。すごいでしょう。」

「威張ることではないですが、社長が年末に言った言葉を覚えていないのですか?」

「年末はワンマンのことしか頭になかったから。」

「そう言えばそうでしたね。事務所は引っ越しました。」

「そうなの。それなら早く言ってくれればいいのに。」

「ですから、年末に社長が言いました。」

「そうなんだ。それでどこに引っ越したの?」

「上です。」

「上?山の上ということ?まあ、その方がお金がかからないから仕方がないか。山の上なら、ヤッホーって叫べるかな。」

「アッホーと帰ってきますよ。」

「それじゃあ、リア充を恨んだ私だよ。」

「あの時は、兄が取りなしてくれたから良かったですが、気を付けて下さいね。」

「分かっているよ。もうしない。どんなだか分かったし。それじゃあ、今から新しい事務所がある山のふもとまで行こう。ロープウエイとかあるんだよね。まさか、歌手は体力だとか言って、毎日、山の上まで登らされるとか。」

「山の上とは言っていません。この建物の一つ上の階です。階段で行きましょう。」

「そうなの。分かった。」

明日夏と尚美は階段を1階分上がって、新しい事務所に到着した。

「あっ、社長、橘さん、こんにちは。良かった、異世界に行ってなくて。」

「異世界・・・?とりあえず、明日夏ちゃん、こんにちは。」

「明日夏、本当に下の階にいたの?」

「えーと。」

「はい、その通りです。下の階で慌てていました。」

「明日夏らしいと言えば明日夏らしいけど。尚に明日夏が歌詞を見せに事務所に来ると伝えたら、明日夏は下の階と間違える可能性があるからと言って見に行ってくれたからいいけど、あれだけ言ったのに本当にいたの?」

「へへへへへ、尚ちゃん有難う。」

「過ぎたことは仕方がないから、明日夏ちゃん、新しい事務所を案内するね。練習室も新しくなっているから。」

「社長、有難うございます。新型モビルスーツを受領した気分です。」

「それは良かった。練習室が二つになった。こっちはバンド用。歌の練習もここでできる。」

「今までの練習室とあまり変わりませんね。」

「少しだけ広くなっているけど、その通り。こっちはさらに広くて、アイドルユニットのダンスが練習できるぐらいの広さの部屋。歌の練習はこっちでもできるよ。今は、由香ちゃんと溝口エイジェンシーのインストラクターが『ハートリンクス』さんに振り付けを教えているところ。」

「すごい、3面が鏡になっている。なるほど、これでアイドルさんたちに脂汗を出させて集めるんだね。」

「ガマの油じゃないんですから(江戸時代にガマ蛙を鏡の部屋に入れ油汗を出させて薬として売っていた。『ガマの油売り』で検索)。ダンスの練習で自分の姿を見るためです。」

「でも、アイドルの汗って売れない?」

「売れるかもしれませんが、衛生上問題がありそうです。そう言うなら、まずは明日夏さんがこの部屋に入って、汗を出して売ってみます?」

「うーん、やっぱりやめておこうか。ごめんなさい。」

「いえ、大丈夫です。」

「あと、この部屋から生配信ができるようになっている。」

「亜美ちゃん用ですね。」

「必要なら、明日夏ちゃんも使っていいよ。」

「明日できることは明日からやろう。『神田明日夏の明日から』チャンネルですね。」

「尚ちゃん、あれは冗談だから。それよりは、橘さんの『今夜もロックを聴きながら久美と一杯』チャンネルがいいんじゃないかな。」

「明日夏、それ、もしかしてお酒が経費で落とせるのか。」

「社長、どうですか?」

「できるかもしれないけど。」

「落とせるならやる。」

「じゃあ、考えておくよ。」

「橘さんの押しに弱い社長、可愛い。」

「明日夏ちゃん、大人をからかわない。事務室のものは下から持ってきたものばかりだから、あまり変わらないかな。誠君に手伝ってもらって午前中には終了した。」

「午前中にマー君、来ていたんだ。」

「はい。午後からは、別の引っ越しの手伝いがあると言って帰りましたが、夜に渋谷駅で待ち合わせしています。」

「1日に引っ越しの手伝いが2件か。マー君も大変だね。」

「午後の手伝いは設置まで引っ越し会社がやってくれて、インターネットや家電の設定だけで、心配は要らないそうです。」

「それは良かった。それじゃあ、歌詞を社長と橘さんに見てもらって、帰る前に尚ちゃんに渡すから、マー君に曲を付けるようにお願いしてね。」

「『ハートリンクス』さんの『私といっしょにイイことしよう』ですか。とりあえずは兄に聞いてみてもいいですが・・・。」

「それにしても、由香ちゃん、ダンスの指導をしていて、すごいね。」

「ダンサーとして、アイドルにダンスを指導する仕事も重要と言っていましたから、張り切ってやっています。」

「『ハートリンクス』の作詞家として挨拶してこようかな。」

「はい、お願いします。ただし、溝口エイジェンシーの方は上の人からの指示には従う素直な方が多いですので、さっきのガマの油売りみたいな冗談は言わないで下さいね。」

「言ったらやってくれるの?」

「はい、その可能性がありますから、絶対に言わないで下さいね。」

「なるほど。」

「絶対ですからね。一生懸命やっている方たちですから、本当に怒りますよ。」

「分かった。約束する。でも、尚ちゃん、ますますマー君に似てきたね。」

「そうですか。有難うございます。」


 明日夏と尚美が練習室に入った。尚が由香に話しかける。

「由香先輩、様子はどうですか?」

「大丈夫。さすが、溝口エイジェンシーで選ばれたことはある。予習もしてきているし、亜美に教えるよりは全然簡単だぜ。」

「そうですか、それは良かったです。申し訳ありませんが、皆さん集まって下さい。」

「はい。」

『ハートリンクス』のメンバーが尚美と明日夏の前に集まって来た。

「こちらが、『ハートリンクス』の作詞を担当した秋山充年こと神田明日夏先輩です。」

「神田明日夏です。よろしくお願いします。作詞家としては秋山充年と名乗っています。」

「有難うございます。『ハートリンクス』のリーダー兼センター、ハートレッドこと秋葉里奈です。」

「『ハートリンクス』の学級委員、ハートブルーこと古村真理です。」

「『ハートリンクス』の体育会系女子、ハートイエローこと志村小百合です。」

「『ハートリンクス』のマスコット女子、ハートグリーンこと西野花音です。」

「『ハートリンクス』の根暗女子、ハートブラックこと須賀桜です。」

「有難うございます。もし歌いにくいところがありましたら、メロディーの変更を伴わない修正は可能ですので、何でもおっしゃって下さい。」

「有難うございます。初めてお会いしますが、私たちの特徴を生かした、とても良い歌詞で変更が必要なところはありません。」

「とりあえず、次の曲の歌詞も用意してみているのですが、見てみますか?初稿ですので修正はいくらでも大丈夫です。」

「次の曲の用意もしているんですか?」

「ヘルツレコードが『ハートリンクス』のために本格的に動き出すまで、こちらで曲を準備してはと思って用意しました。」

「パラダイス興業さんは、動きが速いんですね。」

「はい、全部でこれだけの音楽事務所ですから、小回りはききます。」

「それも、今日からだいぶ大きくなってこれだけ。」

「そうなんですね。歌詞ですか、是非、見せて下さい。」

「分かりました。タイトルは『私といっしょにイイことしよう』です。」

「・・・・・・。」

「あの、森永事業本部長の『ハートリンクス』に対する意見がもう少しインパクトが必要ということでしたので、考えました。私もまだ見ていないのですが、明日夏先輩は信用して大丈夫だと思います。」

「分かりました。」

6人が明日夏が作った歌詞を見る。尚美がハートレッドに聞く。

「私は大丈夫と思いましたが、レッドさんはいかがですか。」

「私がセリフで4回『ねえ、私といっしょにイイことしよう』って言うんですね。」

「その通りです。いろいろな言い方で言ってもらう必要がありそうです。」

「分かりました。そこは自分で考えますので、まとまったら明日夏さんにご相談します。それで、みんなはどう?」

「俺は大丈夫。というよりもう少しきわどい方が良くないですか。スポーツでも、海で水着で泳ぐとか。」

「私も、イエローの意見に賛成です。」

「ブルー、サンキュー。でも、ブルーのは難しいな。」

「うん。私のはそのままでもいいかもしれないです。」

「私は、親の手伝いはあまりしませんが、大丈夫です。でも、図書館で二人で勉強なんていうのはどうですか?」

「僕は大丈夫です。」

「コンセプトを認めて頂いて有難うございます。早速、皆さんの意見を参考に歌詞を書き換えてみます。それでは、私は失礼します。」

レッドが挨拶をして、全員が頭を下げる。

「有難うございました。」


 明日夏と尚美が練習室を出た。

「本当に素直な子たちだね。」

「人間ですから内面的にはいろいろあるかもしれませんが、うちに所属している女性タレントに比べれば、ずっと素直だと思います。」

「そうかもしれないね。社長、社長も『ハートリンクス』さんと話したんですか?」

「悟、鼻の下を伸ばして話していたよ。」

「橘さん本当ですか。」

「うそだよ。久美の言うことを信用しないで。でも、みなさん礼儀正しくて、さすが溝口エイジェンシーはタレントの教育をしっかりやっていると思ったけど。」

「レッドちゃんと話している時の社長の顔を見てみたかった。でも、うちはそういう教育をしないんですか?」

「できる人がいない。」

「やっぱり、橘さんには無理か。」

「こら、明日夏。」

「でも、明日夏ちゃん、うちのタレントは失礼過ぎなければ、後は実力で勝負した方がいいんじゃないかと思っている。練習室も増えたし、明日夏ちゃんもしっかり練習してね。」

「ダコール。それで社長、新しい歌の歌詞の件ですか、『ハートリンクス』さんのアイディアを取り入れた歌詞に直した後に、チェックをお願いしてもいいですか。」

「今日は他の仕事は後回しにできるから、大丈夫。」

「有難うございます。それじゃあ、近くの喫茶店に行ってくる。尚ちゃんはどうする?」

「ここで見ていても邪魔でしょうから、ご一緒します。」

「行こう、行こう。」


 誠はパラダイス興業の引っ越しの手伝いの後、パラダイス興業が用意した弁当を食べ、藤崎アイシャの引っ越しの手伝いをするために、マリの家に向かっていた。マンションの玄関に到着すると、オートロックのインターフォンでマリの家を呼び出す。

「もしもし、岩田誠です。」

「ユミです。湘南兄さん、いらっしゃい。」

「ユミちゃん、こんにちは。ユミちゃん一人?」

「うん、徹は同じマンションの女の子のうちに遊びに行っている。ママはスーパーのレジが混んでいて遅れているみたい。でも、すぐに戻るから中に入って待っててって言ってた。それに、いとこのアイシャ姉さんがいて私ひとりじゃないから、遠慮しなくてもいいよ。」

「分かりました。」

ドアが開いて1階のマリの家の方に向かうと、ユミが玄関を開けて顔を出して手を振っていた。誠はその玄関の前まで進んだ。ユミが小さな声で言う。

「アイシャ姉さんには気を付けてね。」

誠も小声で返す。

「はい。おかしなことは言わないようにします。」

そして大きな声で挨拶をする。

「岩田誠です。今日は引っ越しのお手伝いに来ました。お邪魔します。」

ユミが誠を連れてリビングに向かう。そして、誠にそこにいたアイシャを紹介する。

「この人が、いとこの藤崎アイシャ姉さん。」

「初めまして、藤崎さん、僕は岩田誠と言います。」

「岩田君、こんにちは、藤崎アイシャです。今日は私の部屋のネットワークや家電の設定を手伝ってくれるということで、大変有難うございます。」

「その他、力仕事とか、できることがありましたら何でもしますので言って下さい。」

「湘南兄さん、力はアイシャ姉さんの方があるから心配しなくても大丈夫だよ。」

「こら、美咲。」

「湘南兄さん、悪いけど、ママが帰ってくるまでここで待ってて。」

「分かりました。」

「それで、湘南兄さん、曲はできた?」

「はい、編曲はだいたい終わりました。聴いてみますか?」

「うん、お願い。」

「1番はアキさんがメインで、2番はユミさんがメインで歌うようにしてあります。」

誠がDTMソフトを立ち上げて、編曲が終わった新曲をかける。

「岩田君はDTMをするんですね。作曲したんですか?」

「これは有名なアイドルの曲を編曲しただけです。作曲をしないことはないですが、音楽大学でヴァイオリンを習おうとしている藤崎さんから見れば、お恥ずかしい限りです。」

「私は作曲とか編曲は無理かな。でも、元気になれそうな曲ね。」

「有難うございます。」

「美咲ちゃん、この曲は学校で使うの?」

「そうじゃなくて、アキ姉さんがリーダーをやっている『ユナイテッドアローズ』という地下アイドルユニットで使う曲だよ。」

「アキ姉さんって?」

ユミがアキのチェキ写真を見せながら話す。

「女子高生の地下アイドル。ステージで歌ったりして、お客さんとこんな感じのチェキ写真を撮ってお金をもらうの。」

アイシャの顔が曇る。

「岩田君は女子高校生に地下アイドルをやらせているのですか?」

「そう言われると、そう言うことになります。」

アイシャが誠のほっぺたを叩く。

「岩田君には恥というものがないの。女子高校生にこんなカッコをさせて、変なおやじと一緒に写真を撮らせて、お金を儲けようなんて。」

「でも。」

再度、アイシャが誠のほっぺたを叩く。

「口答えしない。両手を出して。」

「はい?」

誠が両手を出すとアイシャが誠の両手に手錠をかける。

「岩田君が止めないなら、この子の高校に連絡して止めさせる。」

「それは止めて下さい。下手をすると、アキさんが退学になります。」

「私は正しいことをするだけ。退学になるようなことをするのが悪い。今のうちに更正した方がいい。」

誠が土下座をする。

「アイシャさんの言うことは分かります。でも、僕はどんな責めも受けますから、アキさんの学校に言うことは止めて下さい。」

「そこまでするって、岩田君、本当はその子が好きなの?」

「そう言うわけではないのですが、アキさんは地下アイドルからメジャーのアイドルになろうと一生懸命頑張っていて、そういうのを見ると応援したくなるんです。」

「メジャーのアイドルになるためなの?私もソロヴァイオリニストになるためには何でもする覚悟をしているから、そういうものなの?」

「はい。」

「アイシャ姉さん、いつもの悪い癖だよ。全然大丈夫だから、落ち着いて。私もアキ姉さんと一緒に地下アイドルをやっているんだよ。」

「もしかすると、さっき聞こえたユミという名前が?」

「地下アイドルでの私の名前。アキ姉さんとの写真も見てよ。全然普通でしょう。」

ユミがアキと二人の写真を見せる。

「岩田、美咲ちゃんまで。このけだもの。アキとかいう女子高校生はともかく、お前は絶対に許さない。」

また、アイシャが誠のほっぺたを叩く。

誠は「3回目、現実は異世界より厳しいということか。」と思いながら、前を見るとユミが湘南の前に立っていた。

「だから、アイシャ姉さん違うの。私たちが湘南兄さんにお願いして曲を用意してもらっているの。」

「美咲ちゃん、あなたはこの男に騙されているのよ。それじゃあ、美咲ちゃんが地下アイドルをやっていることを、パパやママは知っているの?」

「知っているよ。ママなんか、ワンマンライブの時なんか一緒に出演したんだから。」

「そうなの?」

「あの、アイシャさん、『ユナイテッドアローズ』のワンマンライブのビデオをご覧になりますか?」

「湘南兄さん、それがいい。アイシャ姉さん、パパの大きなテレビが置いてあるAV(オーディオビジュアル)ルームに行こう。」

「分かった。」

誠がワンマンライブのビデオを飛ばし飛ばし見せる。

「これがアキ姉さん。これが私。撮影したのはパパ。このビデオを撮るために、パパは高いビデオカメラを買ったんだよ。」

「へー、演奏は生バンドなんだ。」

「普段はMIDI音源なのですが、この時はワンマンライブですので、特別に生バンドにしました。知り合いの事務所で用意してもらいました。」

「そうなんだ。・・・あっ、真理子おばさん。」

「あの失礼ですが、マリさんをおばさんと呼ぶのは、マリさんが気を落とすので止めた方がいいです。真理子さんの方がいいと思います。」

「それはそうね。私も子供じゃなくなったから、気を付けるわ。」

誠は手錠を外してもらい、これで一件落着と思って安心したが。

「それじゃあ、アイシャ姉さんは湘南兄さんにお詫びしないと。」

「えっ、それは・・・・。」

「湘南兄さんに手錠をかけて暴力を振るったんだから、アイシャ姉さん、言葉だけでは十分じゃないと思うよ。」

「それじゃあ、どうすればいいの。」

「こういうときは体でお詫びするんじゃないかな。アイシャ姉さんはもう子供じゃないんだから、普通。」

「・・・・・・。」

「あの、ユミちゃん、ドラマの影響かもしれませんが、まだ小学生ですし、冗談でもそういう発言はしてはいけません。」

「冗談じゃないよ。それに湘南兄さん、私は子役志望だよ。役でお母さんが酷いことをされて、私がママーと言いながら泣く場面があるかもしれないし。だから、そんな言葉ぐらい平気にならないと。」

「それはそうですが、フィクションと現実をいっしょにしてはいけません。」

「アイシャ姉さん、現実は湘南お兄さんが訴えれば、アイシャ姉さんが暴行罪で警察に捕まるんだよ。高校は退学、ちゃんとした音楽大学への進学も絶対に無理になるんだから、ソロヴァイオリニストになるのも絶対に無理になっちゃうんだよ。私は見たままのことを証言するだけだし。」

「それは、美咲ちゃんの・・・。」

「私は正しいことをするだけ。退学になるようなことをするのが悪い。今のうちに更正した方がいい。」

「・・・・・・。」

アイシャが誠の方を見る。

「岩田君・・・。」

「大丈夫ですよ。僕は誰にも言ったりしません。それに藤崎さんは18歳未満ですから、そういうことをしたら、僕の方が逮捕されます。」

「湘南兄さんの言う通り。体でお詫びしておけば、湘南兄さんの気が変わって今のことを誰かに言ったら、湘南さんが逮捕されるから、お互いの秘密は絶対に守られる。」

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

ユミが突然つぶやいた。

「あっ、ママが帰ってきた。」

ユミにはマリの足音が分かったのである。すぐに玄関の扉が開いた。誠は「助かった。」と思いながら、リビングの方に向かった。

「あら、湘南さんどうしたの、その顔。もしかして、アイシャちゃんにぶたれた。」

「うん。湘南兄さんは何も悪くないのに、アイシャ姉さんが叩いた。」

「あーーー。」

「あの僕から説明します。」

湘南がいきさつをできるだけ正確に説明した。

「藤崎さん、ユミさん、今の説明で大丈夫でしょうか。」

「大丈夫だと思う。」「大丈夫。」

「有難うございます。僕の説明で合っていると思います。」

「湘南さん、有難う。アイシャちゃん、暴力を振るっちゃったならしょうがないわね。湘南さんの気がいつ変わるか分からないし、ユミちゃんが言う通り体でお詫びしておいた方が、アイシャちゃんの将来が安心かな。パパのステレオが置いてある部屋なら防音が効いていて部屋の外に音が漏れないから、そこを使うのがいいと思う。」

「・・・・・・・・。」

「あの、マリさん。」

「それじゃあ、アイシャちゃんが昨日使った客間の布団を自分で運んで。」

アイシャは誠を睨んだ後、黙って客間から布団を持ってAVルームに向かった。

「そうね。お互いのため、証拠のビデオを撮った方がいいかな。ビデオカメラはパパの部屋にあるから、湘南さんいっしょに来て。」

誠は「マリさん、AVルームのAVの意味を間違えていませんか。」と思いながら答える。

「あの、マリさん、」

マリが誠の言葉を途中でさえぎって言う。

「湘南さん、とりあえず来て。」

「分かりました。」

仕方なく正志さんの部屋に行くと、マリが扉を閉めて誠に話しかける。

「湘南さん、ごめんなさい。でももう少し付き合って。」

「はい?」

「ユミちゃんが何でそんなことを言い出したのか分からないけど、アイシャちゃん、悪い子じゃないんだけど、昔から先に手を出しちゃうところがあって、それを治すためにはいい機会かなと思って。」

「そうなんですね。安心しました。アイシャさんが、僕を叩いたのもアイシャさんの正義感からだったと思います。」

「兄弟が上も下も男だからかな、あんな風になったのは。」

「そうかもしれませんが、マリさん、あまりやりすぎるとこっちが犯罪になりますから、注意が必要ですよ。」

「分かってる。でも、今は湘南さんだったから良かったけど、もしアイシャちゃんが外で暴力をふるったら、ヴァイオリニストになる夢は、本当にそこで終わってしまうから。」

「プロのミュージシャンになるなら、今は暴力は絶対にいけない時代ですね。」

「だから今のうちにちゃんと分かってもらわないと。」

「分かりました。マリさんの指示に従います。」

「有難う。それじゃあビデオカメラの準備をお願い。」

「了解です。」


 ビデオの準備が終わり、誠たちがAVルームに向かおうとするとき、ついてきたユミをマリが止める。

「ユミちゃんはここにいて。」

「どうせママは途中で止めるんでしょう。それならいっしょに行く。」

「でもユミちゃんがいると、途中で止めることがアイシャちゃんにバレちゃうじゃない。」

「湘南兄さんならともかく、アイシャ姉さんにはバレないから大丈夫。それに私なら絶対に止めないし。」

「ユミちゃんはもう。」

「アキ姉さんのことを学校に言って退学させようとしたり、湘南兄さんを3回も思いっきり叩いて、ちょっと許せない。そのぐらいがいい薬。」

「まあ湘南さんのほっぺた、こんなにはれているもんね。湘南さんはどっちがいい?」

「どっちがいいって?」

「途中で止めないほうがいい?」

「止めて下さい。バレないとしても犯罪行為をするつもりはないです。」

「アイシャちゃんって美人でしょう。」

「はい、マリさんに似て美人だとは思います。」

「あら、湘南さん、私を誘惑するの。」

「ママ、馬鹿なことは言わないで。」

「ごめんなさい。」

「この間、マリさんが言っていた、アイシャさんはマリさんに似ているということが本当だと分かりました。」

「うん、本当に良く似ているとは言われていたのよ。それで、湘南さんがアイシャちゃんと本気で結婚する気があるなら止めないわよ。ライバルの方には申し訳ないけど。」

「僕はともかく、アイシャさんには選ぶ権利がありますから。」

「ママ、お見合いを勧めるおばさんみたいだよ。」

「ああ、よくドラマで出てくる人ね。でも若い人をくっつけるのは面白いわね。」

「とりあえず今は、アイシャさんに暴力をやめさせるのが優先です。」

「分かったわ。」

AVルームに入ると、アイシャは布団の中に横になっていた。そばにアイシャの服が畳んで置いてあった。アイシャが誠の方を睨みながら尋ねる。

「岩田君は経験があるの?」

「何の経験ですか?」

「その、エッ、エッチに決まっているでしょう。」

「全くないです。」

「そう。まあ、そういう感じよね・・・。私はこんなことでヴァイオリニストを諦めたりしないわ。もう服は着ていないし、岩田君も服を脱いでこっちに来て。あと、早く二人は出て行って。」

マリは「アイシャちゃんは本当に気が強いわね。でも、私が高校生の時もこんなものかもしれない。」と思いながら見ていた。誠はさすがに限界と思い、アイシャに本当のことを話す。

「藤崎さん、実はこれ、芝居です。藤崎さんは先に手を出して暴力を振るうことが多いとのことで、それをすると冗談じゃなくて、本当にヴァイオリニストになれなくなってしまいます。それで、そうならないために、暴力を振るうとどうなるか分かってもらう必要があるためやったことです。」

「・・・・・・・。」

「湘南兄さん、もう言っちゃうの、つまんない。」

「でも、それが湘南さんらしいかな。まあ、二人で布団に入るところぐらいまで見たかったけど。」

「ママ、アイシャ姉さんも高校生なんだから、さすがにキスぐらいまでならいいんじゃない。」

「ユミ、アイシャちゃんと湘南さんって本当は相性が良さそうだから、二人とも途中で止まらなくなる可能性があるわよ。」

「それならそれでいいけど、そういうものなの?」

「そう。」

「だから、私がいるの?」

「その通り。だからユミちゃんも油断しないこと。」

「分かった。」

「あの、マリさん・・・・。」

ちょっと恥ずかしそうな顔をしているアイシャのそばに誠が行って話しかける。

「あの、藤崎さん、もし良かったら、ヴァイオリンを弾いてもらえないでしょうか。藤崎さんの演奏を聴いてみたくて。それですべてなしということで。」

「岩田君が聴きたいなら聴かせてあげる。・・・・それじゃあ、準備してくる。」

アイシャが急に起き上がる。

「それはダメです。」

「えっ。」

アイシャが自分の体の方を見て、また布団をかぶる。

「見た?」

「正直に言います。少し見えました。」

アイシャが布団を抱えて起き上がり、誠のほっぺたを叩く。今日、4回目である。

「湘南さん、湘南さんは悪くないけど、今の場合は、嘘でも見えませんでした、というべきなのよ。」

「湘南兄さん、正直だから。」

「そうね。仕方がないわね。」


 誠がビデオカメラの後片付けをするためにAVルームを出ていき、3人で布団を片づけた。そして、アイシャがヴァイオリンを持ってAVルームに集まった。アイシャと誠が相談して、誠がコンピューターから音を出しながら、アイシャがヴァイオリンの調弦をした。誠とアイシャが曲の紹介をする。

「オーケストラはMIDI音源になりますが、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲」

「第5番第1楽章を演奏します。」

3人が拍手をして演奏が始まる。無事に演奏が終わり、誠が感想を述べる。

「演奏が正確で上手なのはもちろんですが、ヴァイオリンの音色がすごく暖かくて、優しく包まれているような感じがします。」

「もしかして意外?体が大きい方がそう言う音になりやすいのは確かだけど、岩田君が私のヴァイオリンの音色を分かってくれて本当に嬉しい。この音色を出すためにすごく努力しているの。有難う。私のこと呼ぶの、アイシャでいいよ。私も誠君って呼ぶから。」

「分かりました。アイシャさんが高校生なのにこれだけ上手と言うことは、本当に練習をきちんとしているんだと思います。」

「うん、1日5~6時間は練習している。」

「すごいです。」

「でも、他のことはあまり何もできないんだけど。」

「それは本当。アイシャ姉さん、料理もあまり上手じゃないし。」

「美咲だってそうでしょう。」

「私はまだ小学生。アイシャ姉さんは高校生。」

「アイシャさんの目標は東京芸大ですから、大学に合格するまではそれでいいんじゃないでしょうか。」

「本当に?それじゃあ、誠君、それまで私ができないことは誠君がやってくれる?」

「はい、できることは喜んでお手伝いします。」

「有難う。何となく『ユナイテッドアローズ』の中の誠君が分かってきた。」

「アイシャちゃん、たぶん、それ合っていると思う。」

「ですよね。それじゃあ、誠君、こんな後で申し訳ないけど、うちの家電とネットワークの設定をお願い。」

「はい、初めからそのつもりでしたから、喜んで。」

「そうだ、アイシャちゃん、いい機会だから、行く前に本当に暴力は止めるって、ここで私たちと湘南さんに誓って。」

「真理子さん、分かりました。でも誠君。誠君は私がぶっても誰かに言ったりは絶対にしないよね。」

「はい。そんなことでアイシャさんのヴァイオリニストの夢を壊したくはないですし、僕も、アイシャさんのヴァイオリンの演奏をまた聴きたいです。」

「有難う。それでは、誠君、真理子さん、美咲ちゃんに誓います。私は絶対に誠君以外の人には暴力を振るいません。」

「えーと、僕を信用してくれているということですね。」

「そうだよ。」

「それで、これからアイシャさんのワンルームマンションに出発しようと思いますが、マリさんもいっしょにお願いできますか?」

「アイシャちゃんのワンルームマンション、ここから歩いて5分ぐらいだから、二人で行ってきて。私はそろそろ夕食の支度をしないといけないし。」

「アイシャさんと僕を二人にして、アイシャさんの心配はしないんですか?」

「湘南さんの心配?アイシャちゃんも、そう何度もぶたないんじゃない。」

「湘南兄さん、今のを見ていれば皆しない。」

「そうですか・・・・。」

「私も信用しているから大丈夫だけど、心配なら両手を出して。」

「はい?」

両手を出すと、アイシャが手錠をかける。

「これで誠君が二人っきりの部屋で私を見ても、自分の理性が飛んでしまうことを心配しなくても済むでしょう?」

「本当はアイシャ姉さんの方が、手錠が必要そうだけど。」

「あの、湘南さんは大丈夫なの?」

誠が手を動かしながら答える。

「マリさん、ご心配ありがとうございます。少しやりにくいですが、手がこれだけ動ければ作業に大きな問題はないので、大丈夫です。」

「そういう意味じゃないんだけど。まあ行ってらっしゃい。でも、外では手錠は何かで隠した方がいいわよ。」

「そうね。そんなに寒くないから、私のマフラーを使って。」

アイシャが誠の手にマフラーを掛ける。

「それじゃあ、行ってきます。」

「行ってきます。」


 誠とアイシャが行った後、ユミがマリに話しかける。

「ママが湘南兄さんとアイシャ姉さんの相性がいいと言った意味が分かった。」

「アイシャちゃんが、布団を躊躇なく運んでいたからだけど。湘南さんがアイシャちゃんの演奏に協力しているところを見て、本当にお似合いって思った。」

「アイシャ姉さん、ママと同じで面食いじゃないんだね。」

「私もイケメンは好きだけど、人はそれだけじゃないから。」

「私は面食い。」

「パパに似たのかな。」

「ママ、自信過剰。」

「でも、いろいろ面倒なことにはなりそうね。」

「そう?面白くなりそうだけど。」

「湘南さん、結構モテるのよ。」

「面食いじゃない人も多いということ?」

「湘南さん、イケメンじゃないけど、可愛い顔しているし。」

「ママの趣味が分からない。アキ姉さんも湘南兄さんを男性として好きという感じでもないけど。」

「今はそうね。仲間という感じよね。」

「でも、少ししたらアイシャ姉さんのマンションに行ってみようか。」

「ユミ、二人の邪魔をしちゃだめよ。」

「湘南兄さんなら、自分が何もしていない証拠のビデオとか撮っていそうだけど。」

「それはそうね。」


 アイシャのワンルームマンションに到着した。

「手錠は外すね。」

「大丈夫ですか?」

「あれは、誠君がそのほうが来やすいだろうと思ったからやっただけ。」

「有難うございます。やはり、こっちの方が作業がしやすいです。」

誠はインターネットや家電の設定を開始し、無事に終了した。

「WiFiのSSIDとパスワードはこれです。コンピュータとスマフォに設定してみて下さい。」

「はい。」

アイシャがインターネットに繋がっていることを確認する。

「両方ともインターネットは繋がっている。大丈夫。」

「スマフォを見せて下さい。」

「何で。」

「申し訳ないです。それでは、4Gを切って、WiFiで接続しているかどうか確認して下さい。」

「言いたいことは分かるけど、難しいからやって。スマフォを渡す代わりに、誠君のスマフォもロックを解除して貸して。」

「分かりました。」

誠が自分のスマフォのロックを解除してアイシャに渡した後、アイシャのスマフォを受け取り、確認をする。

「確認終了です。設定は大丈夫です。」

「岩田尚美は妹かな。アキ、コッコは『ユナイテッドアローズ』の仲間ね。ユミは美咲ちゃんか。それで、このナンシーとか鈴木美香って誰?」

「えーと。」

「誰?」

「鈴木さんは幼馴染で。ナンシーさんはその仕事仲間です。」

「ふーん。幼馴染ね。いくつからの?」

「3歳からです。あの、もう返して下さい。」

「同じ学年?」

「はい、その通りです。」

「なるほど。美咲ちゃんのため、誠君が本当に怪しい人間じゃないかどうか確認したかっただけ。でも、変なことを書いていないようだから返す。」

「有難うございます。」

「SNSのアドレスを交換してくれる?」

「分かりました。」

誠とアイシャがSNSを交換する。

「それにしても、コンピュータと音楽の話ばっかりだったわね。」

「はい。大学での専門と趣味ですから。」

「そうなんだ。でも、今度、鈴木さんに会わせて。」

「何でですか?」

「誠君の身辺調査。」

「僕のことなら構わないですが、鈴木さんは別の人格を持った人間ですから、勝手にOKするわけにはいきません。」

「それじゃあ、誠君が全裸を見た女が会いたがっていると鈴木さんに言って。それで、会いたいと言ったらでいいから。」

「いや・・・。」

「でも、事実でしょう。」

「それはそうですが。・・・・・分かりました。ヴァイオリニストとして会うならば、会う機会を作ってみます。」

「ということは、鈴木さんも音楽をやっているの?」

「はい。ロックのヴォーカルとギターです。」

「なるほど。誠君はそういうカッコいい女が好きなの?。」

「カッコ良いとか、悪いとかではなくて、音楽仲間ということです。」

「私たちも音楽仲間ということでいい?」

「はい、それはもちろん。アイシャさんみたいにヴァイオリンが弾ける方と仲間というのは恐縮ですが。」

「それは気にしないで。それじゃあ、音楽仲間で。」

「分かりました。それで真理子さんの家に戻る前に少しだけ注意をしますので聞いてください。」

「何?」

「ここの扉はオートロックで、扉を閉めると鍵がかかりますので、外に出るときは絶対に鍵を忘れずに持って出て下さい。万が一のため、鍵の一つは真理子さんの家に預けておくといいと思います。」

「3つあるから、もう一つは誠君が持っていて。」

「あの、僕が持って心配とかないんですか。」

「何かあったときに、その方が安心。」

「・・・・・。あとは、玄関まで人が来たらドアを急に開けたりしないで、インターフォンやチェーンを使って相手を確認してから開けるようにして下さい。」

「めんどくさいけど、分かった。」

「できれば、両親の方にお願いして、一人住まいの方のための警備会社の遠隔セキュリティーシステムを導入するといいと思います。そのウェブサイトのURLは後で送ります。」

「分かった。お父さんと相談してみる。」

「あと、これはアラームですので、何かあった時に鳴らして下さい。」

「変わった形?」

「圧空式のもので、電気式より音が大きいです。」

「もらえるの?」

「はい。」

「私のことが心配なのね。分かった。持っててあげる。」

「玄関のドアを開けるときは、玄関先でも持ってて下さいね。」

「分かってる。宅配業者の恰好で犯罪をする人もいるもんね。」

「はい。ですので、宅配はできるだけ宅配ボックスに置くように指示して下さい。」

「分かった。でも、誠君がそんなに私のことが心配なら、ここに泊ってもいいよ。」

「あの、そういうわけには行きませんから。」

「手錠をすれば、大丈夫じゃない。」

「僕が手錠をして、ここに泊るんですか。」

「そう。」

「分かりました。アイシャさんのストーカーが現れたら、そうします。」

「有難う。それで、明後日の土曜日に、ヴァイオリンの先生のところに初めて行くんだけど、東京は道が複雑そうだから、案内してくれないかな。」

「了解です。レッスンは何時からですか?」

「10時から。」

「分かりました。時間は調べてメッセージで連絡します。」

「有難う。あと、その後、もし時間が空いていたら東京を案内してくれない?」

「僕でいいんですか?」

「うん、僕でいい。外見が私には釣り合っていない気もするけど、誠君、信用だけはできるから。」

「有難うございます。あと、もし翌日の日曜日があいているなら、アキさんとユミさんが出る『ユナイテッドアローズ』のライブを見ることができますけど?」

「ユミって美咲ちゃんね。見たいけど、ごめんなさい。日曜日はお母さんが来るから、その相手をしないと。」

「はい、そちらが優先ですね。ライブは予約が必要なほどは混みませんので、アイシャさんが都合がいい時に参加しましょう。」

「了解。」

「それで、お母さんは、アイシャさんの様子を見に来るのですか?」

「そう。月に1回はお母さんかお父さんのどちらかが様子を見に来るって。」

「それは良かったです。」

「良かったって。」

「えーと、生活が荒れないかなと思って。」

「私が荒れた生活をしそう?」

「そういう意味ではなくて。」

「夢があるから大丈夫。でも、心配してくれているのね。」

「はい。それでは、マリさんの家に戻りましょうか。」

「うん。」


 誠とアイシャがマリの家に到着した。

「お帰りなさい、早かったのね。」

「はい。ネットは設定にトラブルと時間が無駄にかかる時がありますが、今回はそういうことはなかったでした。」

「そうなのね。まあいいけど。それで、アイシャちゃん、これからの食事代は姉からもらっているけど、家事を分担してくれるかな。」

「はい、分かっています。でも、料理は私一人で作らない方がいいと思いますので、真理子さんの手伝いをしようと思います。洗い物は一人でできます。掃除も簡単なことなら一人でできます。」

「分かった。それじゃあ、料理はユミと交代で手伝って。洗い物はパパとユミ、アイシャちゃんと徹が交代で。掃除はしなくていい。」

「分かりました。」

「徹をお風呂に入れることはできる?」

「はい、弟を入れていましたから大丈夫です。」

「それじゃあ、それもユミと交代でお願い。」

「分かりました。」

「有難う。すごく楽になる。でも、用事があったら言ってね。私がするから。」

「有難うございます。」

「私にも時間ができたから、湘南さん、私もダンスをもっと練習して、本格的にアイドルデビューかな。」

「分かりました。いっしょにパスカルさんと相談してみましょう。それとは別にして、3月にワンマンライブを開催する計画ですから、その準備もお願いします。」

「分かったわ。」

「真理子さん、本当にアイドルのステージにまた立つんですか?」

「そのつもり。とっても楽しいわよ。でもアイシャちゃんが出演すると私の人気がなくなっちゃうから、出るなら他で。」

「今のところ、出るつもりはありません。」

「そうね。私も高校生のころはそんな感じだったから、分かる。そうだ湘南さん、いっしょに夕食、食べていきますか?」

「夕食のお誘い有難うございます。でも、大変申し訳ありませんが、妹を迎えに渋谷に行かないといけませんので、またいつかの機会に。」

「そうだったわね。それじゃあ、アイシャちゃんの料理はまたの機会で。」

「はい。楽しみにしています。」

「アイシャちゃんは、それまでに腕を上げとかないと。」

「ヴァイオリンの練習の息抜きにちょうどいいかな。」

「でも、アイシャさんはこの1年間はヴァイオリンの練習を頑張って下さいね。」

「うん、分かっている。」

「それでは、僕はこれで失礼します。」

「明後日の約束忘れないでね。」

「ヴァイオリンの先生の所への案内ですよね。はい、ここに迎えに来ます。」

「休みの朝から真理子さんたちを邪魔しても悪いから、私の部屋でいいわよ。」

誠がマリの方を見る。

「いいんじゃない。」

「分かりました。土曜日の朝、アイシャさんのマンションに迎えに行きます。」

「有難う。」


 誠はマリの家を出て、渋谷に向かった。途中、尚美からメッセージが入った。

尚美:明日の夜は空いている?

誠:大丈夫、夜はだいたい空いている

尚美:パスカルさんとパラダイス興行でビデオの撮影をお願いしたいんだけど

誠:三佐のチャンネル?

尚美:詳しくは帰りに話すけど5人分の練習風景とかインタビューとか

誠:分かった。何時から

尚美:18時30分

誠:パスカルさんに聞いてみる

尚美:有難う


誠:パスカルさん、急に申し訳ないのですが、明日の夜、空いていますか?

パスカル:おう、夜は大丈夫だけど

誠:妹からの依頼で18時30分からパラダイス興行でビデオ撮影をお願いしたいそうなのですが

パスカル:ミーアちゃんのチャンネル?絶対にやる

誠:有難うございます

パスカル:良かった。信用を失っていなくて

誠:三佐ではないようですが、5人分の練習風景とかインタビューとか言っていました

パスカル:5人分?まあ何でもやるよ

誠:有難うございます

パスカル:ボーナスでジンバルを買ったからそれを使ってみる

誠:手持ちでもカメラを安定させられる装置ですね

パスカル:その通り。いっしょに動きながら録れる

誠:分かりました。それでは、18時10分にハチ公前でいいですか

パスカル:了解


誠:パスカルさんは大丈夫って。18時30分には事務所に行く

尚美:有難う


 明日夏は歌詞の修正が終わると、喫茶店からパラダイス興行に戻り、悟と久美に直した歌詞を見てもらっていた。

「私にはこういう歌詞、良くわからん。何というか、まどろっこしい。」

「久美にはそうかもしれないね。でも、明日夏ちゃん、この歌詞、良くできていると思うよ。BメロからCメロにかけて直接的になっていくところがいい。あと、この辺りは韻を踏んで繰り返せるといいけど。」

「分かりました。もう少し考えてみます。」

「1番に合わせて曲が付いたら、2番以降は調整が必要だから、今は1番を頑張って。」

「ダコール。」

明日夏が練習室を見て言う。

「『ハートリンクス』さんたちは、あれからずっと練習ですか?」

「そうだね。さすが、溝口エイジェンシーのタレントさんだけのことはある。由香ちゃんも、きちんと教えている。」

「由香ちゃんはダンサー志望で、私や亜美ちゃんより体力があるのは知ってるけど。」

「5人とも、明日夏よりは体力があるんじゃない。」

「なるほど、橘さん、ミサちゃんと言い、溝口エイジェンシーを日本一の芸能事務所にしている秘訣は所属タレントの体力ということですね。」

「タレントに体力は重要だけど。」

「それなら、山の上に事務所を移すというのは妙手かもしれない。」

「そんなことをして、明日夏はちゃんと朝に来れるの?」

「私はロープウエイで行きます。」

「それじゃあ、だめじゃん。」

「そうか。」

「明日夏ちゃん、溝口エイジェンシーさんには素質があるタレントさんがたくさん所属しているから、手を抜いたら追い越されてしまうからじゃないかな。」

「なるほど、そうか。」

「明日夏もおしゃべりしていないで、歌詞を直す。」

「はーい。」


 練習室の中から「由香さん、有難うございました。」という声が聞こえ、由香や『ハートリンクス』のメンバーと溝口エイジェンシーのインストラクターが練習室から出てきた。

「由香ちゃん、尚ちゃん、『ハートリンクス』の皆さんお疲れ様。」

「明日夏さん、こんにちは。でも、明日夏さんも、もうちょっとちゃんとやりましょう。」

「えーーーー、由香ちゃん、出てきてそうそう何それ。」

「『ハートリンクス』の皆さんを見てそう思いました。」

「最近は頑張っているって、橘さんも言ってたし。」

「まあ、明日夏の場合、プロとして普通になったというところかな。」

ハートレッドがフォローする。

「でも、明日夏さんは、何と言うか天才ですから。」

「レッドちゃん、有難う。由香ちゃん、ほら、分かる人は分かるんだよ。」

「明日夏さん、もしかするとレッドは明日夏さんを油断させて、追い越そうとしているのかもしれませんよ。」

「いえ、そんなことは絶対ないです。大河内ミサさんのワンマンライブでのトーク、あれは絶対常人ではまねできないです。」

「あっ、トークの話ね。」

「あと、二つの歌詞も私では思いつかないようなフレーズばかりですし、周りを暖かくする雰囲気も真似をするのは難しいです。」

「やっぱり、歌じゃないのね。でも、有難う。歌詞を褒められるのは嬉しい。」

「パラダイス興業に来るときは、是非、明日夏さんからそういうところを学びたいと思っています。」

「レッドちゃん、教えられるものではないけど、適当に学んでいいよ。」

「有難うございます。」

「そうですね。レッドさんが言うことも分かります。やっぱり、アイドルの方々はトークも重要ですからね。」

「平田社長、その通りです。あと私もレッドちゃんでお願いします。」

「レッドちゃん、了解です。」

「私もレッドでいい?」

「もちろん。ミサさんに歌のトレーニングできるというのは、すごい方だと思います。」

「有難う。でも、悟もレッドの前だと何か緊張しているように見えるけど。」

「やっぱり、レッドは美人だからか。」

「由香ちゃん、違うよ。レッドちゃんたちは、溝口エイジェンシーのメインアイドルユニットで、溝口社長に睨まれたら、この業界ではやっていけないからだよ。」

「でも、溝口エイジェンシーが、歌手として一番プッシュしているミサさんとも、だいぶ接し方が違う気がするけどな。」

「ミサちゃんは、うちの事務所の女性タレントと同じで、だいぶ個性的だから、・・・・・・」

「あまり女性的でないということか、社長。」

「まあ、そう言うこともできるかな。」

「橘さん、これはいっちょ、社長をしめないといけないかな。」

「そうね。久しぶりにパンチをお見舞いするか。」

「分かった。分かった。全員分のケーキを買ってくるから、許して。」

「今日はそれでいいかな。橘さんは?」

「まあ、それで勘弁しておくか。」

「有難う。それじゃあ、今から買ってくる。」

悟がケーキを買いに出て行った。レッドが驚いて聞く。

「あの、この事務所はいつもこんな感じなんですか?」

「今日は男性が社長一人だから。」

「なるほど。そう言われればそうですね。」

「だから、社長は他の男性バイトがいる方が気が楽そうにしている。」

「頼もしいバイトさんが来るんですか。」

「あんまり頼もしくないけど、確実に仕事をこなすパンクロックバンド『デスデーモンズ』のメンバーか、押しに弱いけど何でも解決するリーダの兄ちゃん。」

「リーダーのお兄さんというと、プロデューサーのお兄さん?」

「そうだよ。」

「確かに、何でも解決しそうですね。」

「レッドちゃん、まだ秘密にしているけど『ハートリンクス』を作曲した辻道歌というのは、尚ちゃんのお兄ちゃんなんだよ。」

「それはすごい。」

「『私といっしょにイイことしよう』の作曲もお願いする予定。」

「それなら、お会いして一言お礼を言いたいです。」

「それはいいよ。私から言っておくから。」

「プロデューサーのお兄さんなら、イケメンなんですか?」

「えーと・・・・・。」

「性格が良さそうな顔をしているぜ。」

「そうなんですね。」

「それで『ハートリンクス』の皆さん、明日の夜、ここで練習風景とコメントを撮る予定にしています。」

「MVではなくてですか?」

「はい、MVに関しては何も決まっていません。撮るとすればヘルツレコードが撮ると思います。」

「それは、そうですね。」

「それより前に、土曜日にスタジオで溝口エイジェンシーの方で、ユニットの広報用に『ハートリンクス』のビデオを撮影して動画サイトに載せる予定です。」

「土曜日ですね。承知しました。」

「そして、それとはまた別に普段の練習風景やコメントのビデオを撮ろうと思います。」

「尚ちゃん、もしかして、それはマー君とパスカルさんが撮るの?」

「はい。急なことで溝口エイジェンシーの撮影班の都合が付かないのでお願いしました。」

「マー君?パスカルさん?どなたです。」

「マー君は尚ちゃんのお兄さん。パスカルさんはマー君の友達の地下アイドルのプロデューサー。」

「地下アイドル!?」

「レッドちゃん、『ユナイテッドアローズ』は変なユニットじゃないから心配しなくても大丈夫。亜美ちゃんのチャンネルの撮影も二人にお願いすることがある。」

「分かりました。確かに、地下アイドルはピンキリですからね。」

「申し訳ないのですが、私がプロデューサーーであることはパスカルさんには秘密にしておきたいので、私を呼ぶときは、尚、尚ちゃん、星野さんでお願いします。」

「分かりました。星野さんと呼びます。それで、私たちはコメントを用意する必要がありますね。コメントは一人何秒ぐらいですか。」

「レッドさんが20秒、その他のメンバーは10秒ぐらいです。」

「承知しました。コメントは、こちらで準備しますので、プロデューサー、できたらチェックして下さい。」

「了解です。」

「やっぱり、何か『ハートリンクス』さんはすごいプロフェッショナルなアイドルユニットという感じがする。」

「だから明日夏さん、さっき言ったでしょう。俺も段取りの良さに驚きました。」

「そうだねー。でも、マー君が明日来るなら、歌詞はもう少し見てから、明日渡すかな。」

「はい、明日夏さんがその方が良ければ。」


 その後、悟が買ってきたケーキをおしゃべりをしながら食べた後、その日は解散となった。誠はほっぺたが腫れていることが分からないようにマスクをして、渋谷駅で尚美と待ち合わせ、いっしょに帰宅した。『ハートリンクス』は帰る道すがら、パラダイス興業について話していた。

「レッド、事務所の雰囲気がうちと全然違うね。」

「ブルーの言う通り。大学の部活の延長でできた音楽事務所と言っていたから、部活のような感じなのかも。」

「私もピリピリした感じがなくて、居心地が良かった。」

「まあ、グリーンにはそうだろうな。俺も、由香さんが意外に親切で良かった。もっと、怖い人かと思っていた。」

「由香さんはレッドの1歳上らしい。」

「姉御みたいでちょうど良かったと思う。私は、明日、プロデューサーのお兄さんに会えるのが楽しみ。」

「おっ、お兄ちゃんを誘惑しちゃうのか。レッド。」

「そんなことはしないけど、可愛がってもらえると嬉しい。あと、みんな失礼のないようにしないとだめよ。」

「それはそうだな。相手するのはレッドに任せる方がいいな。」

「分かんねーぞ。グリーンみたいなのが好みかも知れねーぞ。」

「えー、そうだったらどうしよう。」

「グリーン、妹の前だから変な心配は無用。」

「兄弟仲が良いそうだから、それはブラックの言う通りよ。それで、お兄さんに変なことをすると、プロデューサーがすごく怒るそうだから、気を付けないと。」

「分かっている。」

「とりあえず、みんなは明日までに10秒のコメントを3つ考えて来ること。」

「レッド、了解。」


 次の日も学校は冬休み期間中のため、『ハートリンクス』のメンバーは朝からパラダイス興業に来て練習を行っていた。18時に誠とパスカルが渋谷駅で落ち合った。

「パスカルさん、今日も10分前行動ですね。」

「湘南もな。」

「荷物半分持ちます。」

「悪いな。それじゃあ、こっちを持ってくれ。」

「了解です。」

「今日、誰を撮るか聞いていいか。」

「はい。ただ、次の日曜日の21時まで、絶対に秘密にしてもらえますでしょうか。パラダイス興行の信用に関わりますから。」

「おう、約束する。事務所の信用というからには、やっぱり外部の人なんだな。」

「はい、その通りです。アイドルユニット『ハートリンクス』に所属する5人です。」

「湘南、『ハートリンクス』じゃなく『ハートリングス』だろう。名前を間違えちゃ失礼だぞ。でも、『ハートリングス』ってマジか?」

「パスカルさん、あの、名前は『ハートリンクス』で間違っていないです。」

「あーなるほど、『ハートリングス』のパチモンの地下アイドルか。少し安心した。」

「パスカルさんは『ハートリングス』のこと、どう思いますか?」

「溝口エイジェンシーとヘルツレコードに所属していて、『アイドルライン』の正統な後継アイドルユニットなんだよな。」

「はい、そうだと思います。」

「メンバーは数万人から選ばれていて、レベルは高いんだろうけど、レンジャー系アイドルとしては元気が足りないというか。タックも今一つと言っていた。」

「そうなんですね。それで、溝口エイジェンシーが大幅にテコ入れをするそうです。」

「そうなんだ。人気が今一つと言っても、ワンマンライブが『トリプレット』の翌日の所沢ドームでの開催だから、俺たちがどうこう言えるユニットじゃないんだけどな。」

「そのテコ入れとして、『ハートリングス』から『ハートリンクス』に改名して、大幅にイメージチェンジをすることになったそうで、今からすることはそのお手伝いです。」

「マジか?」

「はい。溝口社長がその決定を1月1日に急に下して、8日の夜に発表することになり、その楽曲の世話をパラダイス興業が担当することになったんです。」

「1週間でイメージチェンジか。さすが、ワンマン社長だな。」

「正式なプロモーションビデオは溝口エイジェンシーの方で撮影するそうですが、パラダイス興業で行っている練習風景やコメントなどを撮影するスタッフが用意できないため、僕たちが呼ばれたわけです。」

「なるほど。メジャーのアイドルユニットか。練習風景の撮影と言っても責任重大だな。」

「そうだと思います。それと、平田社長の信用にかかわりますので、秘密厳守も。」

「おう、絶対に秘密は守る。」

「有難うございます。」


 二人がパラダイス興業の建物に到着して、エレベーターに乗る。誠が3階のボタンを押したのでパスカルが尋ねる。

「2階じゃないのか?」

「あっ、3階に引っ越しました。練習室が2つになってだいぶ広くなりました。」

「そうか、明日夏ちゃんに『トリプレット』を抱えているから、余裕はあるよな。」

「そうだと思います。」

「さすが平田社長だ。」

誠とパスカルがノックをして扉を開けると、『ハートリンクス』のメンバーがそれぞれの色のジャージ姿で並んでいた。それを見た二人が少し後ずさりをした。

「パスカルさんとマー君、いらっしゃい。後ずさりしなくていいから入って。」

「明日夏・・・・様、」

「パスカルさん、いつもの通り、明日夏ちゃんでいいよ。」

「明日夏ちゃん、了解です。失礼します。」

「失礼します。」

二人が部屋に入ると、『ハートリングス』のメンバーが挨拶を始める。

「こんにちは、『ハートリングス』のハートレッドです。今日は撮影、よろしくお願いします。」

「ハートブルーです。よろしくお願いします。」

「ハートイエローです。よろしくお願いします。」

「ハートグリーンです。よろしくお願いします。」

「ハートブラックです。よろしくお願いします。」

「地下アイドルユニット『ユナイテッドアローズ』のプロデューサー、撮影、ホームページ、販売、その他何でもやっている小沢健一と申します。パスカルとお呼び下さい。今日は撮影を担当します。」

「同じく『ユナイテッドアローズ』の音楽、技術を担当している岩田誠です。星野なおみの兄でもあります。あだ名は湘南ですが、何とでも好きにお呼び下ればと思います。今日は録音を担当させて頂きます。」

「パスカルさん、なんとなくいつもと態度が違う。」

「えーと、地下アイドルユニットプロデューサーとしては、メジャーのアイドルユニットの威光に押されてしまって。」

「うーん。でも、お兄ちゃんの態度も、明日夏先輩、美香先輩、『トリプレット』とも違う。一応全員メジャーなのに。」

「尚、明日夏さんはオタクとしての頂点に立つ方で応援しなくてはという感じ、美香さんは歌は尊敬できるけど幼い子供の感じで、『トリプレット』は妹の感じがするからだよ。」

「マー君、それでレッドさんたちは女の子という感じなの?」

「何と言ったらいいんでしょうか。いわゆるいい女というイメージでしょうか。」

「ほー。」「ふーん。」「兄ちゃん、それを言っちゃあおしまいよ。」

「でも、昨日の悟もそんな感じだったけどね。」

「橘さんの言う通り。」「そうでしたね。」「そうだったな。」

「客観的に見て、僕も誠君の言うことは分かるけれど。」

「なんと。」「社長もですか。」「社長も、それを言っちゃおしまいだな。」

「そんなことよりも、みんな、明日もあるんだから早く撮影を始めた方がいい。」

「社長がごまかした。」「ごまかしました。」「ごまかしていやがる。」

「まあまあまあ、皆さん。社長さんがおっしゃる通り撮影を始めましょう。」

「レッドちゃんの言う通り。パスカル君、僕も手伝うよ。」

「社長が逃げた。」「逃げました。」「逃げていやがるぜ。」

「それでは、平田社長、大変申し訳ありませんが、カメラでの撮影の担当お願いできますか。そうすれば、私がディレクターに専念できます。」

「了解。それじゃあ、パスカル君、カメラの使い方を教えてね。皆さん、それまで休んでいて下さい。」

パスカルと誠が機材の準備をした後、悟がカメラを取り付けたジンバルを持ち、誠がマイクを付けたブームポールを持った。練習のために、パスカルが立ち位置を指示したところに尚美が立ち、3人が動きながら、尚美をモデルにして撮影する。

「こんにちは、星野尚美です。今はうちの社長の練習のために、映像を撮影しています。普通の撮影と違って何か楽しいです。少し動くんですか?それでは、歩いてみます。社長が一生懸命撮っています。頑張って下さい。」

撮影が終了すると、映像をポータブルディスプレイに表示させて確認する。

「うん、映像、マイクレベルも大丈夫。」

「ジンバルを使っているからかな。あまりぶれていないで良かった。」

「平田社長、4Kで撮影していますので、少し引き気味で撮影すれば、後で手振れを補正することも可能です。」

「湘南、それはそうだが、今回のビデオは多少の手振れ感があってもいいかもしれない。」

「パスカルさんの言う通りですね。」

「それじゃあ、練習室にライトをセットしようか。あと、俺たちが写らないように正面以外の鏡は隠そう。」

「了解です。」

「僕も手伝うよ。」


 3人がセッティングを行うために練習室に移動した。レッドが明日夏に話しかける。

「明日夏さん、今も本当の部活みたいな感じがします。」

「うん、今日は特に3人が仲がいい感じがする。たぶん、レッドちゃんたちがいるからだろうけど。」

「芸能事務所なのに、初対面の女性が苦手なのかな。」

「ブルーちゃん、やっぱりマー君が言った通りいい女に弱いのかも。うちは芸能事務所というより音楽事務所だから。」

「確かに、私もパラダイス興業の皆さんは、性別を越えたアーティストか特別な能力者という感じがします。」

「能力者!ちょっと普通でない?」

「普通でないと言うならばそうですが、決して悪い意味ではなく。」

「でも、レッド、ミサ様を幼い子供のような感じと言うのはどうなの、と思いました。」

「グリーンはミサさんを神様のようにあがめているから、あの言葉はそう感じるかもね。」

「グリーンちゃん、マー君の言うことは外れていないかもしれない。ミサちゃん、歌はすごいけど、純真で周りを見ないで、危なっかしいところがあるんだよ。」

「ミサ様のお友達の明日夏さんが言うならばそうなのかもしれませんが。」

「あと、ワンマンで見せたミサちゃんと私の3歳の時の写真で真ん中に写っていた男の子は、実はマー君なんだよ。」

「えっ、そうなんですか。」

「本当に偶然なんだけど。迷子になって泣いているミサちゃんを慰めたりしていたみたい。だから、マー君にはその時の記憶がかすかに残っているのかも。」

「そうなんですね。」

「あっ、でもグリーンちゃん、この件は公開しないで。」

「はい、それは良く分かっています。」

「明日夏さん、そのあたりのことは心配しなくても、みんな口は硬いです。」

「皆さんは溝口エイジェンシー所属だから、そうだろうね。」


 3人が練習室から出てきた。パスカルが尋ねる。

「皆さんの『ハートリンクス』としてのコンセプトをお聞かせ願えますか?」

尚美が説明する。

「レッドは明るくみんなを引っ張る綺麗なお嬢様的リーダー、ブルーは学級委員長的にまとめる優等生、イエローはスポーツが得意でとても元気で天然な子、グリーンは明るくて可愛いマスコット的な女の子、ブラックは静かで黙々と仕事をこなす一方時々笑うと可愛い女の子です。」

「星野さん、有難うございます。そういうことでしたら、コメントを撮るときは、レッドさんは一人、ブルーさんとイエローさん、グリーンさんとブラックさんはペアで撮ろうと思います。」

ハートレッドが尚美を見る。

「はい、それがいいと思います。」

ハートレッドがパスカルに質問する。

「ディレクター、ペアの二人はそれに合うようにコメントを書いた方が良いでしょうか。」「はい、ペアで出ますので、その方がいいと思います。練習風景の撮影もその組で行おうと思います。我々が入ると5人全員で練習風景を撮影するのが無理なためです。その余っている時間でコメントを修正して下さい。」

「了解です。ディレクター、私のコメントはそのままでいいですか?」

「レッドさんは20秒ありますので、レッドさんを後ろから追いかける形で始まって、レッドさんが反転して迫って来るように撮ろうと思いますが、それに合わせてコメントを考えてもらえると嬉しいです。あともう一つ、最後に全員で円陣を組もうと思いますので、レッドさんにはそのときのコメントをお願いします。」

「ディレクター、了解です。」

「パスカルさん、ディレクターみたい。」

「有難うございます。明日夏ちゃん、地下アイドルのディレクションですが、いろいろ経験を積んでいるからだと思います。」

「なるほど。経験は大切ということか。」

「それでは練習風景の撮影から始めます。レッドさん、練習室にお願いします。」

「分かりました。」

「パスカルさん、音楽は無限ループで流します。」

「湘南、サンキュー。」


 ハートレッド、ハートブルーとハートイエロー、ハートグリーンとハートブラックの練習風景の撮影を無事に終えた。

「ディレクター、コメントの服装は今の服装と普段着とどちらがいいですか?」

「普段着でも大丈夫ですか。」

「撮影すると聞いていたから大丈夫です。」

「それでは、普段着にしましょう。」

「はい、それじゃあ、男性は部屋から出て行って。」

「明日夏ちゃん、了解です。」

誠、パスカル、悟が部屋の外に出た。

「パスカルさん、僕の撮影は大丈夫だった?」

「もちろん、大丈夫です。それにしても、パラダイス興業の社長も大変ですね。」

「正社員が久美と僕の2名だけだからね。」

「でも、楽しそうでいいです。」

「音楽は楽しいけど、金策は大変だったよ。この事務所の賃貸料だって毎月払わなくちゃいけないし。」

「山手線内ですからね。」

「何度、下北沢か吉祥寺に移そうと思ったか。でも、久美の再デビューを失敗したら、そうなるかもしれないけど。」

「社長、それを言っていいんですか。」

「久美の場合は、レコード会社に所属しているわけではないので、別に秘密にすることじゃないかな。」

「橘さん、再デビューするんですか。」

「その予定。」

「私も無給で手伝いますので、その時は言って下さい。」

「うん、お願いするかもしれない。その代わり『ユナイテッドアローズ』で手伝えることがあったら僕も手伝うよ。インディーズレコード会社の紹介ぐらいはできる。」

「有難うございます。是非、お願いします。」

「CDが難しくても、配信ができますね。」

「誠君の言う通り。サブスクリプションへの配信もできる。」

「湘南、夢が広がるな。」

「そうですね。」


 着替えが終わって、誠たちが中に入ると、『ハートリンクス』のメンバーは化粧を直していた。それが終わったところで、ハートレッドから練習室に入って撮影となった。

「社長と湘南、レッドさんが反転したら、だんだんと距離を詰められるようにゆっくり下がって下さい。」

「了解。」「了解です。」

レッドのコメント撮影が始まった。

「あれ、私の後をついてきたんだ?私の服装が変わったから?ユニット名も『ハートリンクス』に変わったけど、私は私、ハートレッドだよ。もっと近くに行っていい?君を元気づけたいから、私の歌を聴いてダンスを見て、私とハートをリンクしよう。」

「大丈夫だと思いますが、あと3回撮りましょう。」

ハートレッドの後、ハートブルーとハードイエローの撮影になった。

「私は『ハートリンクス』のハートブルー。」

「俺は『ハートリンクス』のハートイエローだぜ。」

「ユニット名は変わってもイエローはバカのままだから、安心して大丈夫。」

「何だよそれ。」

「事実だろう。」

「ハートブルーの高飛車も変わらないぜ。でも、みんな、よろしくな。」

「『ハートリンクス』をよろしくお願いします。」

撮影を終える。

「ディレクター、どうですか。」

「完璧です。そのまま、3回撮りましょう。」

「了解です。」

次は、ハートグリーンとハードブラックの撮影になった。

「私は『ハートリンクス』のハートグリーンです。」

「ハートブラック。」

「運動が得意でない私には『ハートリンクス』のイメージの方が似合ってて嬉しい。」

「・・・・・・。」

「ブラックちゃん、スマイル、スマイル。」

「・・・・・・・」

「ブラックちゃんのスマイル、可愛いでしょう。『ハートリンクス』になって可愛さ100倍、これからも、5人、よろしくお願いします。」

「お願いします。」

これをあと3回繰り返して撮影を終える。

「皆さん、すごかったでした。レベルが違います。今日は本当に有難うございます。」

「有難うございます。これから映像を確認しますので、少し待っていて下さい。」

「みなさん、こちらでお休み下さい。」

「分かりました。」

湘南とパスカルが映像と音声のデータをパソコンに移して確認する。確認し終えたところで、パスカルが『ハートリンクス』のメンバーに告げる。

「撮影した映像と音声の確認は終わりました。『ハートリンクス』の皆さん、もう帰宅しても大丈夫です。今日は本当にお疲れ様でした。」

『ハートリンクス』のメンバーが返事をする。

「有難うございました。それでは、失礼します。」

「湘南、ここで編集しちゃおうか。出来上がり4分ぐらいだから、それほど時間はかからない。それで、明日見てもらった方が早い。」

「僕は大丈夫ですが・・・・・。」

「お兄ちゃん、明日は休みだから大丈夫。編集しちゃおう。」

「分かった。」

レッドが尚美に話しかける。

「私も編集作業、見てから帰ります。」

「遅くなると思いますが大丈夫ですか?」

「家が近いですし、親に車で迎えに来てもらいますから。それに編集するところを見たことがなくて。うちの事務所では見れなさそうですから。」

「分かりました。」

ハートレッドが残りのメンバーに自分は残ることを告げると、4名が帰って行った。悟が誠に話しかける。

「誠君、僕も手伝えることがあれば手伝うよ。」

「それでは、コメント部分の字幕とエンドロールのために、ワープロで文字入力しておいて頂けますか。後で映像に入れ込みます。」

「了解した。」

「マー君、私も勉強のために見て行っていい?」

「もちろんですが、大丈夫ですか?」

「もう二十歳だし、心配しなくても大丈夫だよ。」

「分かりました。どうぞ。」

「有難う。」


 誠とパスカルの後ろで明日夏とハートレッドがいろいろ言うなか、誠がコンピュータを操作し、2時間ぐらいかけて編集作業が終了した。

「それでは通しで見てみます。」

「了解。」

誠が全画面表示にして、再生を始め、無事に終わる。

「いかがでしょうか?」

「俺は良いと思う。」

「私もみんなすごく魅力的に写っていると思います。パスカルさん、湘南さん、有難うございます。」

「おっ、おう。」「有難うございます。」

「社長、レッドちゃんに近寄られると、男子はグッと来ますよね。」

「まあ、そうだよね。」

「本当にいいビデオだと思うよ。さすがパスカルさん。いつもサングラスをかけて女の子を見ているだけのことはある。」

「明日夏ちゃん、からかわないで下さい。」

「ディレクターは、仕事のために、いつも女の子を見てるんですか。地下アイドルのプロデューサーも大変なんですね。」

「はっ、はい。その通りです。」

明日夏と誠が苦笑する。

「それでは、これで編集を終了します。後は所定のフォーマットに書き出すだけですので、これで帰られても大丈夫です。尚、あと10分ぐらい。」

「分かった。」

「湘南、すまん。」

「パスカルさんには、週末のライブの準備がありますよね。はい、後は大丈夫です。」

「そうか。それじゃあまた。」

「はい、またお願いします。」

パスカルが急いで帰宅していった。


 書き出しの待ち時間、明日夏が歌詞を書いた紙を誠に渡す。

「それでマー君、『私といっしょにイイことしよう』の作詞が終わったから、作曲をお願い。」

「僕が作曲しても構わないのですが、やっぱりヘルツレコード経由でプロの方にお願いしたほうが良いのではないでしょうか。」

「私の歌詞は作曲できない?」

「そう言うわけではなくて、やはりプロの作曲家にお願いしたほうが良い曲ができると思いますので、『ハートリンクス』さんのためにも、作詞家としての明日夏さんのためにもなると思います。」

「そうかもしれないけど。」

「もし、ヘルツレコードが却下して、社長経由でプロの作曲家の方を探しても見つからないようなら、僕が作曲しても構いません。」

「・・・・・。」

ハートレッドが誠を見つめながら言う。

「お兄さんが作曲した『ハートリンクス』、メンバー全員が歌いやすくて、それぞれの良さを引き出していました。」

「有難うございます。」

「だから、次の曲も是非お兄さんにお願いしたいです。ハートレッドのお・ね・が・い。ねっ。」

「わっ、分かりました。作曲してみます。」

「マー君、レッドちゃんだと即答で受けるの。何、私との違い。」

「一応、『ハートリンクス』のリーダーからの依頼だからです。」

「明日夏のお・ね・が・い、って言ったら受けてくれたの?」

「受けたかもしれません。」

「明日夏ちゃん。誠君も明日夏ちゃんのためを思って言ったのは間違いないから。そして、男性に有無を言わせず受け入れてもらえるところは、数万人から選ばれたハートレッドちゃんのすごいところじゃないかな。」

「納得いかないけど、実力の差ということか。」

「明日夏さん、社長も兄ちゃんも所詮はオスということですよ。いい女には敵わない。」

「由香ちゃんの言う通りだね。少し二人を見損なった。」

「明日夏ちゃん、厳しい。」

「申し訳ないです。でも、作曲には全力を尽くします。」

「明日夏、逆よ。明日夏も女を磨かなくてはだめということ。」

「うーん、そうか。」

「いえ、明日夏さんみたいな人が好きという人もいっぱいいますので、僕は明日夏さんが考える方向に進めばいいと思います。」

「マー君、うるさい。」

「すみません。」

「いや、ごめん。作曲、頑張って。その代わり変な曲を作ってきたら承知しないからね。」

「了解です。」

全員が苦笑した。そして、その後少しして、悟と久美以外は帰宅した。


 帰り道にパスカルは『ユナイテッドアローズ』のSNSのチャンネルで、春のワンマンライブの計画についてチャットしていた。

アキ:今日はあまり進んでいなかったのか

パスカル:ごめん。明日はちゃんと作業をする

アキ:今日はいそがしかったの?

パスカル:アイドルユニットの撮影をしていた

アキ:何、パスカル、浮気?

パスカル:違う

アキ:浮気は許さないわよ。どのユニット?

パスカル:秘密

アキ:言わないとお仕置きよ

パスカル:言えない。言えない。言えないんだー。

コッコ:なんか鬼の下っ端が首領の情報を質問されたときみたいだな

湘南:浮気ということはありません。平田社長からの依頼です

アキ:平田社長の?三佐のチャンネル?

湘南:『トリプレット』関係ではないのですが

アキ:パラダイス興業の新しいユニット?

湘南:日曜日の夜9時以降ならば少し話せます

アキ:湘南がそう言うならもう聞かない。大丈夫

パスカル:アキちゃん有難う

湘南:あと平田社長が、サブスクリプションへ配信してくれる会社を紹介するっておっしゃっていました

パスカル:おう言ってた言ってた

アキ:本当に!すごい

アキ:パスカル、そんな大事なことなら先に言いなさいよ

パスカル:ごめん

アキ:サブスクで配信か。夢みたい。二人とも有難うね

湘南:平田社長のお力です

パスカル:がんばるぞ

アキ:うん

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