一本の角瓶

 昭和三十二年、鮫島さめじま具重ともしげは死の淵にあった。華族に生まれ海軍中将まで務めた彼であったが、幾度の地獄を越えてきたその体も病には勝てず、遂には病床にし戦友達の靖国もとへ旅立つのを待つ身となっていたのである。

 終戦より十余年。焦土からの復興を見届け、今やその命には微塵の未練もなかった。元より、が居なければとうに南洋の果てで死んでいたはずの命である。

 ――いや、あの男を自分おのれが助けていなければ、か。

 もはや思うようには動かなくなった首をゆっくりともたげ、鮫島は部屋の隅の茶箪笥ちゃだんすを見上げた。そこには空になったサントリーウイスキーの角瓶がひとつ置かれており、妻の手で白い山茶花さざんかが一輪けられているのであった。




 忘れもしない昭和十年。鮫島が巡洋艦「最上もがみ」の艦長を務めていた時分である。

 当時の海軍には、高級士官に限っては帰艦時刻を守らぬこともやむなしという悪風が蔓延していた。多分に漏れず、鮫島もまた自身の遅刻のため短艇を待たせたり、自艦への招待客のために定期便を遅らせるといったことを平然と行っていた。

 ところが、あるとき、三十分ばかり遅らせた定期便で鮫島が客らとともに桟橋さんばしに降り立ったところ、帰艦のため定期便を待っていた士官の中から、顔を真っ赤にして彼に殴りかかってくる一人の男がいた。その男こそ、候補生時代の遠洋航海で始末書八枚の伝説を打ち立てた、大暴れ者の新米少尉、板倉いたくら光馬みつまであった。

 鮫島は彼を艦長室に呼び出し、狼藉ろうぜきの理由を問いただした。酒乱で知られる問題児の板倉だったが、酒の勢いだけで上官に殴りかかる男だとは鮫島には思えなかったのである。

 わけを聞かせてほしい、と鮫島が努めて穏やかな声で尋ねると、心のひもがほどけたのか、板倉青年はかねてからの不満の洗いざらいを打ち明けてくれた。高級士官の遅刻容認が許せなかったという彼の訴えは、強く鮫島の心を打つものであった。

 部下の模範となるべき上官が自ら規則をたがえることがあってはならない。鮫島は自身の不覚を恥じ入り、この彼の罪を不問とすることを決めた。

 鮫島は時の海軍次官長谷川はせがわ中将を訪ね、こたびの暴行の責めは己にあるとし、板倉の助命を嘆願した。長谷川は鮫島の態度にいたく感服し、かくして帰艦時刻厳守の通達が改めて全軍に布告されることとなった。

 この新米士官の首を繋いだことが、後に巡り巡って己の命を救うことになるとは、このときの鮫島には知るよしもなかった。




 時は移り大東亜戦争後期。鮫島は第八艦隊司令長官として、ブーゲンビル島ブインの守備隊司令の任にあった。

 日本より遥か五千キロの南、ブーゲンビル島に航空拠点を置いていた日本陸海軍は、アメリカ軍の猛攻撃にあえなく蹂躙じゅうりんされ、制空権、制海権を押さえられて今や全滅を待つばかりとなっていた。輸送ルートを寸断され文字通りの孤島と化したこの島で、鮫島の部隊もまた、猫のひたいほどのジャングルに追いやられ孤軍奮闘していたのである。

 海軍では潜水艦による物資補給作戦が立案されたが、敵の機雷や対潜部隊がぎっしりと待ち受ける海域を切り抜け、地獄の三丁目と呼ばれたブインに物資を送り届けるなど、並の潜水艦乗りにこなせる芸当ではない。事実、同様の補給作戦に向かった潜水艦は、次々と敵に撃沈され海の藻屑と消えていった。

 日に日に激しさを増す敵の攻撃、そして木の根をかじって露命を繋ぐほどの欠乏の中、鮫島もここを己の死地と覚悟していた。

 遠くラバウルからこの地を目指し出発した潜水艦は、もう何隻が沈められてしまっただろうか。最新鋭のレーダーを持つ敵の哨戒しょうかい機と、虎視眈々と待ち構える魚雷艇、そして幾重にも敷設された機雷原の中をかいくぐってここに辿り着くことなど出来るはずがない――常識的なふな乗りならば、誰もがそう考えておかしくなかった。

 だが、それでもは来た。夜間に潜航して日中に水上航走するという常識破りの方法で敵の目をあざむき、天然の暗礁あんしょう数多あまた散在する水道を越え、最後は味方の小型艇の捨て身の援護にも助けられて、遂に地獄の三丁目へと補給の号潜水艦を辿り着かせしめた。

 その潜水艦長こそ、八年前に鮫島が己への暴行を不問に付した、あの板倉光馬だったのだ。水雷学校を経て潜水艦の道一筋に転じた板倉は、持ち前の根性と機転を活かして多くの死線を生き延び、今や海軍屈指の操艦技術と実戦経験を持つひとかどの潜水艦長へと成長していたのである。

「八年前、長官をなぐった一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました」――。

 板倉から部隊の者を経て鮫島に渡された手紙には、往時の回想と感慨がしたためられていた。顔を合わせることは叶わなかったが、板倉は手紙のほか、寸志としてサントリーウイスキーの角瓶と煙草の包みを鮫島に差し入れてくれた。鮫島もまた感涙にむせび、手製のパイプ七本に返事の手紙を添えて彼に贈り、互いの武運長久を祈りあった。

 八年前のあの時、彼をゆるしていなかったら、己の命はきっとこの孤島で潰えていた。数奇な運命の巡り合わせを感じながら、鮫島は死力を振り絞って残存部隊を指揮し、遂に終戦の時までブインを守り抜いた。敗戦後、着の身着のままで内地への帰還を果たした彼の手には、一本のウイスキーの空瓶がしっかりと握られていた。




「板倉少佐がお見えになりましたよ」

 妻の声が病床の鮫島の耳を叩いた。まぶたを上げ、不自由な首を回すと、かまちには見舞いの品を携えた板倉の姿があった。戦後の軍事法廷で再会を果たして以来、十一年ぶりの懐かしい姿だった。

 鮫島はゆっくりと腕を持ち上げ、茶箪笥の上を指差した。歴戦の潜水艦長の目が驚きに見開かれた。

「閣下、その角瓶は、もしや……」

 満足に喋ることのできない鮫島にかわり、妻が板倉に告げた。貴官が命がけで届けてくれたこの角瓶だけは、手放すことが出来なかったのだと。

 鮫島が病床から微笑みかけると、板倉は男泣きに泣き崩れた。空瓶に活けられた真っ白な山茶花が、海に生きた武人おとこ達を優しく見下ろしていた。




 ⚓ ⚓ ⚓


参考文献

『どん亀艦長青春記―伊号不沈潜水艦長の記録』(板倉光馬, 1984, 光人社)

『伝説の潜水艦長―夫・板倉光馬の生涯』(板倉恭子・片岡紀明, 2007, 光人社)

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