闇サイド

芸能界の闇

「……こんなに悪くなってたなんて。どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか」


 わたしがようやく知らされた時には、彼の病状はもう手遅れだった。看護師の女性が傍らで見守る中、大病院の特等の個室のベッドの上から、彼は「よう」とゆっくり片手を挙げてわたしに笑いかけてきた。

 かつて豚と揶揄された彼の身体は、今や別人のように痩せ細っていたが、大物のくせしてやたらと人懐っこいその笑みは元気な頃と変わらないままだった。


「あちこちに引っ張りだこで大忙しのお前に、余計な心配させたくなくてな……。……摂理だよ。俺も年貢の納め時ってことだ」

「……そんな。早すぎですよ、先生」


 涙なんか見せてやるものかと思っていたのに、彼の目を見ると耐えきれず嗚咽が漏れた。メイクが崩れるのも気にせずわたしが目元を拭うと、「相変わらずヘタレだな、お前は」と彼のかすれた声が鼓膜を揺らした。


「なぁ、殺したいほど俺を憎んでる奴は、掃いて捨てるほど居たはずだが……それでも、誰も殺しには来なかった……。何でか分かるか。……どんなムカつく権力者も、放っとけばいつかは死ぬからだよ」


 彼は細くなった両腕をシーツの上で組み、にやりと笑って言った。自らの命が消えゆく話をしているというのに、その口元は、新曲や目新しい企画のネタを思いついた時のように、愉快そうに吊り上がっていた。


「……ここまで、よく保ったほうさ……。あれだけ贅沢に飲み食いしてきた割にはな……」

「先生……」


 彼に拾ってもらってからの半生が走馬灯のように脳裏に溢れ出し、わたしは気付けば震える足で彼のベッドに駆け寄っていた。

 ただのヘタレに過ぎなかったわたしを、彼がひとかどの芸能人に育て上げてくれた。世間の人が想像するような関係は一度もなかったけれど、わたしの人生の全てを作ってくれたのは他でもない彼だった。


「まだまだ十年でも二十年でも生きて、教えてくださいよ。ズルい生き方をもっとたくさん。わたし、まだまだ全然先生の汚さに染まりきってないですよ?」

「……お前はもう……俺がゲタを履かせなくても、自分の足で歩いていける」


 涙に滲むわたしの目をまっすぐ見て、彼はすっとわたしを指さしてくる。


「何をやる? 司会女王か? 芸能プロデューサーか?  お前なら、何でもできる……」


 彼と目を合わせたまま、わたしは泣きながら苦笑いして、小さく首を横に振った。

 ゲタを履かせてもらわなくても歩いていけるなんてウソだ。わたしがグループを卒業した頃から、彼が、その息のかかったテレビマンや広告マン、作曲家といった人達に、わたしの便宜を図るように伝えてくれていたことは、とっくに分かっていた。


「……わたしは」


 彼のお膳立てしてくれた道で成功するのも立派な恩返しだろう。だけど、わたしは、それとは違った形で恩に報いたかった。わたしを見つけて育ててくれた彼と、この世界への大きな恩に。


「わたしは……政治家になります。先生が一番教えてくれたのは、人心を掌握して票を集めることと……自分の住む世界を、自分の力で変えていくことだから」


 涙を拭ってわたしが言うと、彼は腕を下ろし、満足げに頷いてくれた。何もかも見通していたような余裕の笑みで。


「オーディションの時は中学生だったお前が、もう参議院に立候補できる歳とはな……。わかった、お前の信じる道で、何でもやってみろ……」


 彼の言葉が少しずつ小さくなっていく。わたしは吸い寄せられるようにベッドの傍らに膝をついていた。彼は今にも眠りに落ちそうなまぶたをそれでもゆっくりと上げ、続けてわたしに言った。


「俺のプロデューサー人生の最後に……お前のおかげで、いい夢を見させてもらった」

「わたしの方こそ……。素敵な夢を見させてくれて、ありがとうございました」


 わたしは涙声で彼の手を取った。グループ時代には何万人もの男性の手を握り続けてきたのに、そういえば、彼の手にじかに触れるのは初めてだった。


「芸能界の闇と俺は言われてきた……。だが、お前は光になれ……。汚い世界ばかりを見続けてきた俺と違って……お前は、その瞳に銀河の輝きを宿している」

「……先生、最後まで詩人なんですね」


 わたしの声は、かすれて弱りきった彼の声よりもずっと消え入りそうに震えていた。


「当たり前だろ……俺を誰だと……」


 それきり彼は瞼を閉じ、喋らなくなった。看護師が即座に、「お眠りになっただけです」と小さな声で註釈してくれたが、きっと今のが最後の会話になることは、わたしにも何となく分かっていた。

 誰よりおそれ敬われ、誰より忌み嫌われ、しかし誰より芸能の未来を願ってやまなかった偉人の寝顔に、わたしは決意を込めて語りかける。


「先生の意志はわたしが継ぎます。見ててください」


 そっと彼の手を放し、深く礼をして傍を離れる。

 名残惜しく病室を後にするわたしを、看護師があとから追いかけてきた。


「あの、選挙に出られるんですか。応援します」


 彼女に言われてわたしは立ち止まった。瞬間、全ての涙が、寂しさが、ここではないどこかへ追いやられていた。

 にこりと笑顔を作って、わたしは彼女の前に手を差し出した。反射的にというより、心と身体に深く刻み込まれた本能の動きが、わたしにそうさせていた。

 彼女の手を柔らかく握り、わたしはその目を見て会釈する。


「清き一票、よろしくお願いします」

「はい。頑張ってください」


 看護師に見送られて病院を出ると、初夏の風がわたしの肌を刺した。

 恩師との別れは切ないけれど、悲しむ時間があったら走り続けよう。彼の偉業にどこまで追いつくことが出来るかは分からないけれど、行けるところまで行ってやろう。

 わたしの力で、この国の芸能界の未来を輝かせてやるんだ。


 その気になったら連絡してくれと言われていた、与党の選挙対策委員の番号をスマホで呼び出す。電話の向こうからは、数秒と置かず「はい」と秘書の声が返ってきた。


「……例の件、お願いしようと思って」


 参院選は夏。未知の世界に飛び込むのは、ヘタレ上がりのわたしには怖いけれど、たぶんそんなに心配は要らない。選挙は少しばかり得意なんだ。


 新たな道に向かって歩き出すわたしの背中を、彼が力強く叩いてくれたような気がした。

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