ディレクターズ・カット版

名前闇市【ディレクターズ・カット版】

『次のニュースです。吉田よしだ良子りょうこさんの死去によって競売に掛かっていた名前「良子」の使用権が、本日、阪京はんきょう第三首都サード・キャピタルの名前オークションにて、異例の三十億ミリエンで落札され――』


 古いテレビの表示がザザッと乱れて止まる。けっ、と俺が悪態を吐いて見上げたの向こうでは、希望都市ライトピアのギラついた明かりが今夜もムカつくほどの眩しさで俺達の闇街を見下ろしている。


「聞いたかよ、タロカン。三十億だとよ。俺達が一生掛けても稼げねぇ金額を、名前一つに平気で出す金持ちバカがこの世にはいるってこった」


 やってられねぇよな、という毒吐きを込めて、俺は露店の店仕舞いに掛かるタロカンの野郎を見やる。奴は半分壊れたメガネを青白い指でくいっと押し上げ、ふっと口元を歪ませた。


「そうは仰いますけどね、あにさん。その手のやからが中産階級はおろか下層民にまで幅広く分布してるからこそ、僕達の商売も成り立つんじゃないですか」

「まあ、それは違いねぇがな」


 いつもの如く理屈っぽいタロカンの物言いに眉をひそめつつ、俺は納得して笑った。

 改正戸籍法の成立から四十年余り。人気の名前はいつだって高く売れる。中流や下層の分際で人並みの名前を欲しがるバカ共は、俺達にとってもだ。


「今日の売上あがり、五件で二千ミリエン。シケてやがんぜ」

「いいじゃないですか、今日は不良在庫の『雪之丞ゆきのじょう』がサバけたんですから」


 タロカンの野郎は相変わらず楽観的だ。分け前の百ミリエン札五枚を奴に押し付け、俺は自分の懐にやはり五百ミリエンを突っ込む。残りは場所ショバ代として上納に消えるカネだ。持つ者は際限なく肥え、持たざる者はいつまでも地を這うのがこの世界の道理ってものだ。

 砂嵐から復活しないテレビの電源コードを引っこ抜き、安酒でも食らって帰るかと俺は立ち上がった。

 その時、闇街の雑踏の中を何やら必死の様子で走ってきた一つの小さな人影が、ちょうど俺達の露店の前で、ずしゃっと派手に泥の中に転げた。見れば、それは白いワンピースを着た十代半ば程の小娘だった。

 お人好しのタロカンがすかさず助け起こしに掛かる。すると、娘はがばっと起き上がってヤツの顔を見るなり、「助けてっ」と弱々しい声で叫んだ。


「おいおい、ウチは児童相談所じゃねえぞ」


 ずいっとタロカンを押しのけて俺は娘の前にしゃがみ込む。娘の艶々つやつやした黒い髪は所々がほこりや泥にまみれ、水晶のように澄んだその目が、わらをもすがる勢いで俺達を見上げていた。

 人形のように整った娘の顔が焦りと恐れに歪んでいる。向こうからは、雑踏をかき分けて走ってくる数人分の足音。


「しゃーねえ、嬢ちゃん、来な」


 俺が娘の腕を掴み、その華奢な身体を抱え上げると、娘はひゃっと驚いた声を出した。ワンピースの裾から子供っぽいピンクの下着があらわになる。それを必死に手で隠す娘に、そんな場合かよと心の中で呆れつつ、俺は娘を抱えて裏路地へと駆け込んだ。

 居たぞ!追え!と、背後からお決まりの追手の声。


「タロカン、光学迷彩!」

「心得てますよ!」


 俺の後を付いて走りながら、ギーク野郎がスマホの画面を叩く。俺達が横道へ飛び込んだ瞬間、ヴオンと安っぽい音がして、壁に擬態した光学スクリーンが横道の入り口に立ち上がる。間抜けな黒服連中が何も気付かずその前を駆け過ぎていくのが、マジックミラーの要領で見透かせた。

 ふう、と一息ついた俺は、小娘を下ろし、すぐそばの自宅ねぐらへと案内した。タロカンと一緒に素直に付いてきた娘は、壊れかけの冷蔵庫から出してやった清潔な水を一口飲むと、「ありがとう」と小さな声で言った。

 ゴザイマスも言えねえのか、今時のガキは。俺はどっかと自分のベッドに腰を下ろし、大人の見本として先に名乗ってやることにする。


渡辺わたなべ 正義之獅子じゃすてぃすれおんだ。キラキラしててイイ名前だろ?」


 皮肉を込めて俺が言うと、娘は生意気にも苦笑いした。続けてタロカンの野郎が名乗る。


山田やまだ 太郎たろう勘助かんすけ来宙らいちゅうです」

「嬢ちゃんは? 名前なんてんだ」


 娘は水晶の瞳で俺達を見上げ、ぽつりと答えた。


「……レイコ。山本やまもとレイコ」

「レイコ? それだけか?」


 彼女がコクリと頷いた瞬間、この嬢ちゃんが黒服共から追われている理由に合点が行った。



□ □ □



「あの怖い人達が、施設に来て。名前を譲れ、って……」


 ぎしぎしと壊れかけの音を立てる椅子に、小さな身体をちょこんと預け、レイコは俺達に訥々とつとつと語った。その経緯いきさつは、概ね俺達の想像した通りの内容だった。

 正妻との間の子供に次々と先立たれたどこぞの金持ち野郎が、最後の跡取り候補として、かつての愛人の産んだ娘を貧民街から探し出して白羽の矢を立てた。そのシンデレラ様をレディに仕立て上げるにあたり、金持ち流のマトモな名前への改名が必要になったらしい。


「譲ってやりゃいいじゃねえか。命より名前が大事かよ?」


 半ばその胸中を分かった上で、ぎらりと俺が睨みつけて聞いてやると、レイコは案の定、目に涙を溜めて言った。


「お母さんが付けてくれた名前だから……。お母さんが私に残してくれたもの、他にないの」

「そうかよ。そいつは捨てられねえな」


 俺もこんな小娘をいじめてやる趣味はない。ふっと笑いかけて俺がベッドから立ち上がると、えっ、とレイコは目を見張った。

 外からドンドンと扉を叩く音。追手の気配には既に気付いていた。レイコを奥の部屋に逃がし、タロカンと頷きあって、俺は扉を開いた。


「何の用だ。善良な市民の眠りを邪魔しちゃいけねえぜ」

「とぼけるな。ここにあのガキを匿っていることは分かっている」


 黒光りする銃を俺達に向け、黒服の男達がすごむ。


「ガキの靴にGPSを仕込んでおいたからな。命が惜しくばあのガキを渡せ」

「はっ。おあつらえ向きに俺は名前商人でね。どうだ、お兄さん方、アイツの名前が欲しいなら俺が仲介してやってもいいぜ」

「なに?」


 俺はタロカンに目配せした。レイコの靴を脱がして本人を連れて逃げろと。だが、奴が動き掛けたとき、黒服の銃が火を噴いていた。


「!」


 威嚇と思しき銃弾がオンボロの床にめり込んで煙を上げる。レイコのひっと怯える声が奥から漏れた。

 ここで怯んだら負けだ。俺は黒服のリーダー格らしき男を鋭く睨みつけ、言った。


「レイコの名前の使用権と仲介手数料……しめて五千億ミリエンでどうだ」

「てめぇ、ふざけてんのか!」


 激昂した男が俺に銃口を向けてくる。引き金を引かれる前に飛び掛かる、と俺が身構えた、その瞬間。


「やめなさい!」


 りんとした女の声が外から響き、黒服達が一斉に銃を下げて向き直った。

 泥濘ぬかるみも気にせずつかつかと歩み寄ってきたのは、光沢のあるレディススーツに身を包み、スマホを手にした若い女だった。コイツが愛人の娘とやらか……。


「お父様はさっき息を引き取ったわ。今この瞬間から、グループ総帥の座は私のものよ」


 女の言葉に、黒服達がざわめきながらも「はっ」と返事をする。女は俺達をちらりと一瞥いちべつすると、「レイコちゃん、怖くないから出ていらっしゃい」と奥に向かって声を張った。

 レイコがおずおずと顔を覗かせたところで、女は改めて俺達に向き直り、すっと頭を下げた。


「この者達がご迷惑をお掛けして申し訳ありません。白間しろまグループ総帥、白間しろま 祈空海姫のありえるですわ」

「へっ。お噂通り、財閥総帥様のご芳名にしちゃ随分と庶民的であらせられるね」


 俺が口元を吊り上げると、女は「ええ」と皮肉めいた笑みを返してきた。


「あのジジイにとっては下賤な貧民の名前でも……私にとっては、死んだママが付けてくれた大事な名前なのよ」


 黒服達が何も言えずにいる中、女は俺達の横を通り過ぎてそっとレイコに歩み寄り、にこりと笑いかけていた。


「怖がらせてごめんね、レイコちゃん。あなたも自分の名前を大事にしてあげて。お姉さんとの約束よ」

「……うん」


 頷くレイコの頭を撫でて、別世界の住人はそのままきびすを返し、黒服達に守られて俺達の闇街を後にしたのだった。



□ □ □



あにさんもお人好しですよねえ。あの子を上手いことダマくらかして、名前転売しちまえばよかったのに。レイコですよレイコ。上手く売り捌けば一千万ミリエンは稼げましたよ」


 レイコを養護施設に送り届けた帰り道、タロカンの野郎がそんなことを言ってきたので、俺はこつりと奴の頭を小突いてやる。


「そんな阿漕あこぎな商売、正義之獅子じゃすてぃすれおん様の名がすたらぁ」


 東の空はうっすらと白み始めていた。別れ際のレイコのほっとした笑みを思い返し、俺は昨日の売上の五百ミリエンをポケットの中でくしゃりと握りしめた。


 この数年後、施設を出たレイコと俺が再会し、彼女に名前でなく名字の方の世話をしてやるのは、また別の物語である。

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