ディレクターズ・カット版
名前闇市【ディレクターズ・カット版】
『次のニュースです。
古いテレビの表示がザザッと乱れて止まる。けっ、と俺が悪態を吐いて見上げた壁の向こうでは、
「聞いたかよ、タロカン。三十億だとよ。俺達が一生掛けても稼げねぇ金額を、名前一つに平気で出す
やってられねぇよな、という毒吐きを込めて、俺は露店の店仕舞いに掛かるタロカンの野郎を見やる。奴は半分壊れたメガネを青白い指でくいっと押し上げ、ふっと口元を歪ませた。
「そうは仰いますけどね、
「まあ、それは違いねぇがな」
いつもの如く理屈っぽいタロカンの物言いに眉をひそめつつ、俺は納得して笑った。
改正戸籍法の成立から四十年余り。人気の名前はいつだって高く売れる。中流や下層の分際で人並みの名前を欲しがるバカ共は、俺達にとっても大事なお客様だ。
「今日の
「いいじゃないですか、今日は不良在庫の『
タロカンの野郎は相変わらず楽観的だ。分け前の百ミリエン札五枚を奴に押し付け、俺は自分の懐にやはり五百ミリエンを突っ込む。残りは
砂嵐から復活しないテレビの電源コードを引っこ抜き、安酒でも食らって帰るかと俺は立ち上がった。
その時、闇街の雑踏の中を何やら必死の様子で走ってきた一つの小さな人影が、ちょうど俺達の露店の前で、ずしゃっと派手に泥の中に転げた。見れば、それは白いワンピースを着た十代半ば程の小娘だった。
お人好しのタロカンがすかさず助け起こしに掛かる。すると、娘はがばっと起き上がってヤツの顔を見るなり、「助けてっ」と弱々しい声で叫んだ。
「おいおい、ウチは児童相談所じゃねえぞ」
ずいっとタロカンを押しのけて俺は娘の前にしゃがみ込む。娘の
人形のように整った娘の顔が焦りと恐れに歪んでいる。向こうからは、雑踏をかき分けて走ってくる数人分の足音。
「しゃーねえ、嬢ちゃん、来な」
俺が娘の腕を掴み、その華奢な身体を抱え上げると、娘はひゃっと驚いた声を出した。ワンピースの裾から子供っぽいピンクの下着が
居たぞ!追え!と、背後からお決まりの追手の声。
「タロカン、光学迷彩!」
「心得てますよ!」
俺の後を付いて走りながら、ギーク野郎がスマホの画面を叩く。俺達が横道へ飛び込んだ瞬間、ヴオンと安っぽい音がして、壁に擬態した光学スクリーンが横道の入り口に立ち上がる。間抜けな黒服連中が何も気付かずその前を駆け過ぎていくのが、マジックミラーの要領で見透かせた。
ふう、と一息ついた俺は、小娘を下ろし、すぐそばの
ゴザイマスも言えねえのか、今時のガキは。俺はどっかと自分のベッドに腰を下ろし、大人の見本として先に名乗ってやることにする。
「
皮肉を込めて俺が言うと、娘は生意気にも苦笑いした。続けてタロカンの野郎が名乗る。
「
「嬢ちゃんは? 名前なんてんだ」
娘は水晶の瞳で俺達を見上げ、ぽつりと答えた。
「……レイコ。
「レイコ? それだけか?」
彼女がコクリと頷いた瞬間、この嬢ちゃんが黒服共から追われている理由に合点が行った。
□ □ □
「あの怖い人達が、施設に来て。名前を譲れ、って……」
ぎしぎしと壊れかけの音を立てる椅子に、小さな身体をちょこんと預け、レイコは俺達に
正妻との間の子供に次々と先立たれたどこぞの金持ち野郎が、最後の跡取り候補として、かつての愛人の産んだ娘を貧民街から探し出して白羽の矢を立てた。そのシンデレラ様をレディに仕立て上げるにあたり、金持ち流のマトモな名前への改名が必要になったらしい。
「譲ってやりゃいいじゃねえか。命より名前が大事かよ?」
半ばその胸中を分かった上で、ぎらりと俺が睨みつけて聞いてやると、レイコは案の定、目に涙を溜めて言った。
「お母さんが付けてくれた名前だから……。お母さんが私に残してくれたもの、他にないの」
「そうかよ。そいつは捨てられねえな」
俺もこんな小娘をいじめてやる趣味はない。ふっと笑いかけて俺がベッドから立ち上がると、えっ、とレイコは目を見張った。
外からドンドンと扉を叩く音。追手の気配には既に気付いていた。レイコを奥の部屋に逃がし、タロカンと頷きあって、俺は扉を開いた。
「何の用だ。善良な市民の眠りを邪魔しちゃいけねえぜ」
「とぼけるな。ここにあのガキを匿っていることは分かっている」
黒光りする銃を俺達に向け、黒服の男達が
「ガキの靴にGPSを仕込んでおいたからな。命が惜しくばあのガキを渡せ」
「はっ。お
「なに?」
俺はタロカンに目配せした。レイコの靴を脱がして本人を連れて逃げろと。だが、奴が動き掛けたとき、黒服の銃が火を噴いていた。
「!」
威嚇と思しき銃弾がオンボロの床にめり込んで煙を上げる。レイコのひっと怯える声が奥から漏れた。
ここで怯んだら負けだ。俺は黒服のリーダー格らしき男を鋭く睨みつけ、言った。
「レイコの名前の使用権と仲介手数料……しめて五千億ミリエンでどうだ」
「てめぇ、ふざけてんのか!」
激昂した男が俺に銃口を向けてくる。引き金を引かれる前に飛び掛かる、と俺が身構えた、その瞬間。
「やめなさい!」
「お父様はさっき息を引き取ったわ。今この瞬間から、グループ総帥の座は私のものよ」
女の言葉に、黒服達がざわめきながらも「はっ」と返事をする。女は俺達をちらりと
レイコがおずおずと顔を覗かせたところで、女は改めて俺達に向き直り、すっと頭を下げた。
「この者達がご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
「へっ。お噂通り、財閥総帥様のご芳名にしちゃ随分と庶民的であらせられるね」
俺が口元を吊り上げると、女は「ええ」と皮肉めいた笑みを返してきた。
「あのジジイにとっては下賤な貧民の名前でも……私にとっては、死んだママが付けてくれた大事な名前なのよ」
黒服達が何も言えずにいる中、女は俺達の横を通り過ぎてそっとレイコに歩み寄り、にこりと笑いかけていた。
「怖がらせてごめんね、レイコちゃん。あなたも自分の名前を大事にしてあげて。お姉さんとの約束よ」
「……うん」
頷くレイコの頭を撫でて、別世界の住人はそのまま
□ □ □
「
レイコを養護施設に送り届けた帰り道、タロカンの野郎がそんなことを言ってきたので、俺はこつりと奴の頭を小突いてやる。
「そんな
東の空はうっすらと白み始めていた。別れ際のレイコのほっとした笑みを思い返し、俺は昨日の売上の五百ミリエンをポケットの中でくしゃりと握りしめた。
この数年後、施設を出たレイコと俺が再会し、彼女に名前でなく名字の方の世話をしてやるのは、また別の物語である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます