第44話 寝夢3
楓はどこかへ出掛ける様子で身支度をしていた。
「今日はどこへ行くんだ?」
特に予定が入っていなかった高見澤がきいた。
「悪夢の中で脅迫されているという人のところへ」
「それってうちの仕事なのか」
「最近頻発している夢遊病事件と関連があるのではないかと思います」
「睡眠中無意識で動き回ってビルから飛び降りたり、電車に跳ねられたりするやつだな」
「最近連続して発生しました」
「でも悪夢とか夢遊病とか精神科関連は怪奇事件捜査課の仕事じゃないと思うが」
「一般的にはそうですが、異常に増加しているのは妖気の仕業かも知れません。被害者は不思議に女優ばかりです」
「女優––––––なんで女優なんだろう。女優に恨みがある妖気なんているのかな」
「行って解明してきます。今日の相手は女優の春瀬あやかさんですよ。凄い美人で大人気です」
「なにっ、春瀬あやかだと!」
「マサさん、もしかしてファンですか?」
「それなら俺も行く!」
高見澤は春瀬あやかときいて、急にやる気を出した––––––どうやら高見澤の「推し」らしいのだ。
まあ、刑事にも多少の楽しみがないとね––––––
刑事が女優だから行くとか行かないとか、そんなことでいいのかと楓は思ったが、大目に見ることにした。
かくして楓は高見澤と二人で女優春瀬あやかを訪問することになった。
夢遊病という名称は大きな誤解である。
––––––なぜなら夢遊病者は夢をみていないのだから。
夢は一般にレム睡眠中に起こる。レム睡眠中には脳は活発な活動を行っており、急速眼球運動という睡眠中に眼が動く現象がみられる。過去の記憶を脳が反芻し、再整理の作業を行っていて、この状態で見る夢は覚醒後も記憶に残ることが多い。
これに対し、夢遊病はノンレム睡眠中に起こる。ノンレム睡眠は深い眠りであって夢は見ていない。夢遊病者は無意識のうちに体が動き、歩き回る。意識が覚醒していないのに肉体だけが覚醒した状態といえる。夢と違って覚醒後の記憶もない。
似たような現象に、大量にアルコール摂取した場合のブラックアウトがある––––––泥酔して意識がない状態で、それでも体は動いていて家に帰り着く。翌朝目覚めると自分がどうやって帰ってきたのか記憶がない––––––人間の体は無意識のうちに行動する能力を持っている。
夢魔と言う名称も夢遊病と同じく誤解を招く。
夢魔は、レム睡眠中の夢を操作することに留まらず、白昼夢、即ち幻覚を見させる力がある。意識、無意識を問わず、相手の精神を強制的に制御する力を持つ。
強力な夢魔の場合は、夢や幻覚で人を殺すことができる––––––夢や幻覚で見せられたことが現実になる。更に強力な夢魔は、同時に多数の意識を支配して、大量殺人を行う能力がある。相当強力な霊力の持ち主でないと、夢魔の精神攻撃を遮断することは困難で、夢魔に反撃して殺すことも難しい。夢魔という夢に限定した名称は過小評価であり、人の精神を侵略し征圧する最も質(たち)の悪い魔の一つなのだ。
楓は夢魔のことを少しは知っていたが、その名の通り夢を見させる魔だと思っていたし、その本当の恐ろしさがまだわかっていなかった。
被害者の女優、春瀬あやかは、五つ星ホテルの最上階の部屋にいた。
見晴らしのいい角部屋のスイートルームは一泊二十万円––––––最低賃金バイトの楓には縁遠い上流階級の世界だ。
売れっ子の春瀬あやかは普段超過密スケジュールに追われている。しかし、この数日間は毎晩悪夢に苛(さいな)まれ、仕事を全てキャンセルしてホテルに籠り切りだった。
高見澤と楓がホテルの部屋を訪れた時、春瀬あやかは青ざめた表情で、眼の下が痣(あざ)のように黒ずみ、疲労感を色濃く漂わせていた。メイクも何もしておらず、楓と高見澤を前にして、薄いピンクのネグリジェにスリッパの出で立ちで、落ち着かなく歩き回っていた––––––精神的に追い詰められていて、人がいてももう身なりや体裁をかまっている余裕さえないらしい。
「夢の中でその男が、『眠れるものなら眠って見ろ。それがお前の最後の眠りになるだろう』て脅かすので眼が覚めるのよ。眠ると死ぬって言うの。もう何日もほとんど寝ていなくて、瞼(まぶた)が鉛になったみたいに重い。でも目を瞑って眠りに入ると、必ずその男が現れて私を脅して寝かせないのよ。もう私は不眠で疲れ果てて狂い死しそうなの」
春瀬あやかは頭を掻きむしった。話し方や身振り手振りがいちいち大袈裟で演技っぽく見えるのは、染み付いた女優業のせいで、彼女にとっては自然なのだろう。
「ちょっと腰を落ち着けて私の眼を見てください」
歩き回って止まらない春瀬あやかを、楓は椅子に座らせた。
春瀬あやかは、手でほつれた髪をかき上げながら、楓の眼を見詰めた。
カラーコンタクトで黒い瞳になっている楓の眼はそれでもきらきら輝いた。
あ
瞬間、楓の脳裏に夢の中の男の姿が見えた。フードをかぶった男は、黒い仮面をつけていて、顔が見えなかった。鑿(のみ)で削ったような逆三角の尖った眼が不安を煽(あお)る。
「ふーむ、この男はあなたの記憶の中にいますね。フードをかぶっていて、黒い仮面をつけているように見えます」
「そうよ。その男よ!私の夢の中が見えるなんて、あなたはサイキックか何かなの?」
春瀬あやかはまた大きなアクションで驚きを表現した。
「霊感捜査の専門家です」
楓はしれっと答えた––––––相手を安心させるために、ただのバイトです、とは言わなかった。
「あの悪魔のような男。あの目つきの悪さ。もう何度も見ているから、目に焼き付いて忘れようにも忘れられないわ」
––––––確かに黒い仮面は悪魔のようにも見えた。
「記憶の中に隠れていて、眠るたびに夢の中に現れるようになっています」
「悪魔が私を呪(のろ)っているとしか思えない」
「この男を夢以外のところで見た覚えはありませんか」
「いいえ。夢でしか見たことがない」
「全く同一人物でなくても、似たところがある人とか」
「あんな気味が悪い男他にはいないわ」
「もし全く覚えがないなら、外挿された記憶です。何者かが何らかの意図を持って作られた記憶を植え付けたのだと思います。初期の浅い眠りの段階で回想されるように仕組まれています」
「いったい誰がなんのためにそんなことをするの?」
「何かで脅迫される覚えはないですか」
「私に恨みがある男や女は五万といるわよ––––––仕事でもプライベートでも。たくさんい過ぎて誰とも言えないわ」
「誰か霊感者とか占い師とかいませんか」
「占い師には見てもらったことがあるけれど、恨みを買うようなことはしていないわ。こちらはお客さんだし」
「だとすれば夢魔かも知れません––––––妖気の一種です」
「あー嫌だ。もしかしたらそういうのじゃないかと思っていた。妖気に取り憑かれたのなら、いったいどうすればいいの?」
春瀬あやかは泣きそうな顔になった––––––悲劇のヒロインのような悲壮感が漂う。
「一時的効果ですが、私の霊感でこの男の記憶を遠ざけます。そうすればしばらく眠れると思います」
そう言って楓は春瀬あやかに顔を近づけた。
鼻と唇が触れ合いそうな距離になり、高見澤は楓が春瀬あやかにキスするのかと思った。
その瞬間、春瀬あやかは意識を失って椅子の背にぐったりともたれ掛かった。
「大丈夫です。睡眠の妨げになっていた記憶自体を眠らせたので、いっぺんに深い眠りに入ってしまいました」
高見澤と楓は熟睡している春瀬あやかの体をベッドに運んだ。
「これでしばらく様子を見ましょう。どれくらい眠れるかわかりませんが、たとえ一時間でも眠れれば、こういう状態では十分効果があります」
「楓は何だか前より霊感力が強くなっているんじゃないか––––––夢の中の男が見えたり、その記憶を眠らせたり」
「いろいろな事件で霊感を使っているうちに、力が付いてきています。霊感も筋トレみたいにトレーニング次第で強化されるみたいです」
「捜査のためには大変役に立つ」
「マサさん、今はとりあえず眠っていますが、まだ何か起こりそうな気がしますから、ここで見張っていてください。私は夢の中のフードをかぶった仮面の男を探しに行ってみます。このあたりに潜んでいる可能性がありますので」
そう言って楓は部屋を出た。
楓はまず同じフロアを歩き回って、各部屋の様子を霊感で探った。部屋数が多いので結構時間が掛かった。しかし、手間を掛けたものの、夢の男に関する手掛かりは何も得られなかった。
このフロアにはいなさそう––––––
一通り見て回った楓は、エレベーターでロビー階に降りていった。ロビーにはフロントと大きなカフェがあり、人が多かった。見回して男を探す。
あっ
窓の外、車寄せのところから、ロビー内を覗き込んでいるフードの男が見えた。ポケットに手を入れて俯いた姿勢は、宿(すく)鼠(ね)そっくりだった。
向こうも楓に気がついたと見えて、急いで歩き去った。
楓はロビーの外へ飛び出したが、その時にはもう男の姿はなかった。
楓は直感で、ロビーの外にいた男は宿鼠のロルルルではなかったかと思った。その姿は仮面は付けていなかったが、春瀬あやかの悪夢の中に現れた男とそっくりだった。
でも大人しい宿鼠が夢で人を脅迫したりするかしら––––––
楓はどうも納得がいかなかった。
楓はまたエレベーターで最上階に上がった。
部屋に帰ると春瀬あやかが暴れていた。高見澤が春瀬あやかをはがいじめにしていて、女優は抵抗して高見澤の腕を振りほどこうとあがいている。
「マサさん、どうしたんですか?」
「眠っていたのに突然起き上がって、バルコニーから飛び降りようとしたんだ。間一髪のところでつかまえた」
開け放されたサッシの戸から風が吹き込んで、レースのカーテンが旗のようになびいていた。
春瀬あやかの眼は虚ろで正常に目覚めているようには見えなかった。
夢遊病だ––––––
楓は高見澤がはがいじめにしている春瀬あやかの頬を両手で包んで、虚ろな眼から彼女の意識を覗き込んだ––––––今度は何も見えなかった。
全く無意識で体だけが動いている––––––
その時急に、春瀬あやかは高見澤の腕から滑り落ちてその場にくずおれた。
「あれっ?どうした?」
「また眠りに戻ったようです」
夢の中の男が言っていたことは本当だった。「眠れるものなら眠って見ろ。それがお前の最後の眠りになるだろう」––––––春瀬あやかは眠りに入ると夢遊病状態になり、ホテルの最上階から飛び降りて自殺しようとするのだ。
楓が夢の中の男を霊感で遠ざけたものだから、邪魔がなくなった春瀬あやかは最後の眠りに入って、自殺を図ったのだ––––––楓は春瀬あやかを眠らせて助けようとしたのに、逆に危うく彼女を死に至らしめるところだった。
「このホテルでは安全を確保できないから、隔離病棟へ移そう」
「精神科ですか?」
「患者が勝手に外に飛び出したり、自傷行為をおこなったり、器物を壊したりできないように対応がされた保護室に入れる」
高見澤は病院の手配をし、眠っている春瀬あやかを救急車で移動させた。
専門医がいろいろな検査を行ったあと、強力な鎮静剤で春瀬あやかを完全に眠らせた時には、もう夜になっていた。
春瀬あやかは少なくとも絶対的に不足していた睡眠をとれている状態なので、目覚めた時には症状の改善が期待された。
楓は、改めて春瀬あやかに何が起こっているのかを考えた。
「マサさん、悪夢と夢遊病は違う要因からきていると思います。悪夢を遠ざけた時、夢遊病が発症して、命の危険を招きました。なんだか、悪夢と夢遊病が戦っているようなのです。背景はわかりませんが、これは春瀬あやかを巡った争いです。ホテルの玄関で宿鼠を見掛けました。悪夢のほうにはなぜか宿鼠が関与していると思います」
「宿鼠が春瀬あやかに危害を加えるとは思えないが」
「むしろ、危険な夢遊病から春瀬あやかを守ろうとしているような気がします」
「でもなぜ宿鼠が?」
「わかりません」
「宿鼠とコンタクトできるか?」
「占い師経由やってみます」
「まだ何が起こるかわからんから、俺は今晩は病院で待機する。春瀬あやかを守るのは俺しかいない。明朝は直接こちらに来てくれ」
––––––一度飛び降りそうなところを救ったせいで、すっかりその気になっている。
「マサさんは春瀬あやかのことになると嫌に熱心ですね」
「まあ推しだからな」
高見澤は頭を掻いた。
「じゃあ頑張って春瀬あやかを救って、彼女のヒーローになってくださいね」
楓はやたらと入れ込んでいる高見澤を好きにさせて、自分は帰宅することにした。
楓はその夜遅く、青い眼の占い師と話をすることができた。
「宿鼠に伝えておきます」
占い師はいつものように透き通った声で、快く引き受けてくれた。
楓は悪夢よりも、夢遊病を起こしているのが何者なのかが気になった––––––楓は悪夢の原因を霊感ですぐに見抜くことができたが、夢遊病の原因については何一つ手掛かりを見つけられていなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます