第9話 宿鼠1

 フードをかぶった男––––––宿(すく)鼠(ね)は人通りの多い夜の繁華街を背を丸めて歩いていた。小雨が降っていて道行く人々の色とりどりの傘がネオンとともに彩りを添える。宿鼠はフードをかぶっているだけで傘はさしていなかった。

 行きかう人々は、フードの中の顔が妖怪のそれであることに気づかない。

 灰褐色の肌に、クリっとした眼は前だけでなく左右も見えるように顔の横のほうにあって蛙の眼のような膜がある。下向きの三角形の鼻は小さな口の上にかぶさり、耳はないように見えるが、聞き耳を立てる時だけせり出してくる。口の中は真っ赤な妖怪。いつも手をポケットに入れているのは水かきがある手には指が三本しかないからだ。

 水栗鼠の妖怪、それが宿鼠である。

 宿鼠は後ろを気にしながら歩いていた。

 先程からずっと何者かにつけられている。

 何度か道を曲がって通りを変えたが、執拗な尾行者の気配は消えなかった。

 人間の姿をしているが人獣のような気がする。

 無論ただつけてきているのではない。人気(ひとけ)の無い所で襲ってくるつもりだ。その機会を与えないように、宿鼠はできるだけ人通りの多い通りを選んで歩いた。

 しかし、このまま歩き続けていても、いずれ時間とともに通りを歩く人は減っていく。敵はその時を待っている。

 命を狙われていると思うと、体が石のように強張(こわば)ってしまうのが宿鼠の習性だ––––––本能的に身を隠し動きを止めて敵をやり過ごす。しかし、ここでは隠れ場所もなかった。足が速くないので振り切るのは無理だろう。しかし、なんとか尾行者を撒(ま)いて逃げるしかもう選択肢は無さそうだった。

 やるなら人通りがある今のうちだ––––––

 それまで早足で歩いていた宿鼠は走り始めた。

 尾行者も走ってついてくる––––––三人だ。

 人混みが多い角を曲がり、一か八かで直ぐ細い路地に飛び込んで、建物の隙間に身を隠して気配を消した。宿鼠は忍者の如く、自らの気配を消すことができる。冬眠する時のように心臓と肺の動きを止めて、体が発する匂いさえも消し去る。

 追手は路地に身を潜めている宿鼠に気づかず、走り過ぎた。

 しばらく宿鼠は石になったように身動きせず、自分を狙っている者達が遠ざかるのを待った。

 十分長い間そこにじっとしていたが、臆病な宿鼠は通りに出ていきたくなかった。いったん走り去った敵は、見失った宿鼠を探し回っているに違いなかった。

 今度見つかったら二度と撒くことはできないだろう––––––

 宿鼠はマンホールの丸い鉄の蓋を外して、暗い穴の中に入り、内側からまた蓋を閉じた。宿鼠は暗闇でも目が見えるので、鉄梯子を伝って下に降りていった。何度か踊り場に来たが、そこからまた鉄梯子がついた竪穴があり、地中深くまで続いていた。

鉄梯子を降り切ったところには川が流れていた。それは地下の排水路で、所々に赤いランプがついていた。暗闇では宿鼠の眼も赤く光った。

 宿鼠は水流に逆らって水の中を歩いた。折からの雨のせいで流量はそこそこあって脹(ふく)ら脛(はぎ)まで水に浸ったが、歩行には差し支えなかった。流れで足をとられないように慎重に歩を進めた。

 ロルルル

 遠くに仲間の声が聞こえた。人間には聞こえない高周波。遠くにいてもお互いの位置を確認し合うことができる。

 リリルル

 フードの男も喉からその音を出して答えた。

 この地下の世界には宿鼠の仲間がいて、その声を聞くと心が安らぐ。危険が多い地上ではいつも宿鼠は緊張していて体が強張っているが、ここでは少し肩の力が抜ける。

 地下には仲間の共通の隠れ家がある。宿鼠は本能で暗闇でも方向感覚を失わない。今歩いているところは初めてだったが、隠れ家の方角はわかっている。宿鼠は仲間が待ってくれているその場所へ向かって歩いていった。

 しばらく排水路を歩くとごーっという音が頭上に聞こえ始めた。宿鼠は上の層に上がれるところを探した。水が滴り(したたり)落ちてくる竪穴があり、鉄梯子を濡れながら上った。

 地下排水路の層から上に上がるとそこには地下鉄が走っていた。線路から横方向に掘られたもう使用されていない線路補修用の区画があり、その奥に目立たない小さな鉄の扉があった。

 扉の前で宿鼠はもう一度音声で合図をした。

 鍵を開ける音がして、扉は内側に開いた。

「ロルルル!逢えてよかった」

 女の声だった––––––やはりフードをかぶっていた。

 宿鼠のロルルルは中に入って扉の鍵を掛け、フードを取った。その頭部には毛髪がなく、緑色の渦巻き紋様があった。

「何者かに追いかけられた」

 ロルルルはそう言って自分の鼻でリリルルの鼻に二、三度触れた––––––宿鼠の親愛の情を示す挨拶だ。

「あなたも!」

 女もフードを脱いで滑らかな頭部を顕わした。渦巻き紋様はピンク色だった。

 リリルルは優しい眼をしていた。

「三人いた。多分人獣だった」

「ルルロロが行方不明なの。誰かに連れ去られたみたい。襲われる直前に声が聞こえたけれど、それ以来連絡が途絶えているの」

 リリルルは怯(おび)えていた。

 追われていたのはフードの男だけではなかった。宿鼠達は狩られているのだ。

 異形の人外の世界は入り乱れ、狙われているのは人間だけでなく、妖怪もその標的になる。

「魔の影響はますます大きくなっている」

「暗黒界の者達がなぜ人間界に現れるようになったのでしょう」

「わからない。歴史的にもかつてなかったことだ」

「戦乱を呼ぶという月弥呼(つきみこ)が現れる前兆でしょうか」

「そうかも知れない。あるいはもう月弥呼はこの世界に来ているのかも知れない」

「占い師がそうでしょうか」

「何とも言えない。過去に月弥呼を見た者で今生きている者は、我々の手の届くところにはいない。占い師は確かに強い霊感力を持っているけれど、本当に月弥呼なのかどうかは確かめ様がない」

「眼が無い不知光(しらぬい)の巫女が誰彼無しに襲っているみたいです。まるで血に飢えた悪鬼のように」

「不知光の巫女は魔との戦いで眼を失った妖気だ。今も魔を滅ぼそうとしている。ただ眼が無いので、誰を敵と見做して降魔の杭を打ち込むかわからない」

「怖いわ。私達宿鼠は多くの妖気を宿していますから、不知光の巫女の調伏の対象になるのでないかしら」

「それはあり得ることだ––––––全く理不尽な話だけれど。不知光の巫女が最低限の分別があることを祈るしかない。それと今日とても気になることがあった––––––占い師のところで出逢った不思議な少女だ。眼無しの巫女にどこかが似ていた。しかもこの少女は光る眼を持っていた」

「自分の眼ではなくてですか?」

「どこで手に入れたかわからない」

「もしかして古き者達の『眼』でしょうか」

「そうかも知れない。外見は人間にしか見えないけれど、強い霊感力を持っている」

「ほんとに色んなことが同時に起こっていますね」

「あの少女が月弥呼である可能性はどうだろうか。楓という名前に何か思い当たることはあるかな?」

「その人はカエデというのですね」

「水神楓」

「水神ってもしや––––––」

 リリルルはロルルルの眼を見詰めた。

「そうか、ミズカミか」

「亜空間霊界の匂いがします」

「そうだな。だとすれば月弥呼とは別物かな」

「でも強力な霊力を持っているかも知れません」

「まさか我(わ)ではないだろうな」

「我(わ)は龍玉の年に現れますから、まだまだ先の話です」

「だとすると––––––」

「はい」

 水棲生物の宿鼠達には思い当たる節があった。

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