第60話 水妖2

 せっかく湘南に来ていて昼時になったので、高見澤は江の島界隈に名物の釜揚げしらす丼を食べに行った。

「私もお腹が空きました」

 ポケットの中で寝夢が訴えた。

 高見澤はしらすチップを買って小さくばらして寝夢に食べさせた。寝夢は長い口をヒュイッと伸ばして器用に食べた。

 春瀬あやかの夢遊病事件以来、高見澤は寝夢のことを気に入っていた。小さくてどこにでも入れられて、お腹が空いた時以外は口数が少なくて大人しい。そのくせ、妖怪や妖気に対しては、小さい体に似合わない力を発揮する––––––頼りになる小さな相棒だった。

 地元のこじんまりした食堂で、高見澤は釜揚げしらす丼を掻きこみながら、しらすチップをもぐもぐしている寝夢にきいた。

「うちの人魚姫はどうすればいいのかな」

「楓さんは大丈夫だと思います。普通なら全部魚になって魚人になります。人魚になったのは、楓さんには水妖の呪いが効いていない証拠です」

 寝夢はポケットの中から答えた––––––あまり心配していない様子だ。

「でも人魚のままじゃ困る」

「いつかわかりませんが、時間が経てば元に戻ると思います。もし急ぐなら、水妖を捕まえて殺せば半端な呪いも消えると思います」

「どうやって捕まえればいい?」

「水妖は液体になりますからウナギよりも捕まえにくいです。宿鼠が三人掛かりではがいじめにすれば、なんとか」

「水妖はどうすれば殺せるんだ?」

「このしらすチップみたいに乾燥させれば」

「なるほど」

「液体ですから銃で撃っても駄目です」

「じゃあ宿鼠に頼んでとっ捕まえて、しらす干しにして水妖丼にしてやろう」

「宿鼠には私から話しておきます」

「楓は携帯も持っていないから連絡さえできないな」

「大丈夫です。水の中なら宿鼠の五感がよく働きますから、連絡は取れると思います」

 ––––––水棲生物の宿鼠がこういう場合には頼りになりそうだった。


 楓は海の中をマアジの群れと一緒に泳いだ。

 水の中から見上げると水面に陽光がキラキラと乱反射して綺麗だった。魚達もキラキラ輝いていた。

 魚達と一緒に広い海を泳ぐのはそれだけで楽しかった。

 魚の群れは決して止まらず泳ぎ続ける。時々クイッと方向を変えるが、何処にいこうとしているのかわからない。ずっと沖合を回遊していてどこかに到着することはない。

 私は竜宮城を見つけに行かなきゃね––––––

 しばらくマアジ達と一緒に回遊した後、楓は群れを離れて、より深い海の底に潜っていった。

 水面に近い所には小魚の群れがたくさんいたが、水深が深くなると、魚の種類が変わり、群れよりも単独でうろついている魚が増えてきた。

 中には魚類とは思えない大型のものもいた。

 ワニの頭部を巨大化し長い首につけたような生物。牙が櫛のように並んだ長い口を持ち、巨体なのに四肢に相当する鰭(ひれ)があって驚くほどのスピードで泳ぐ––––––どうみても恐竜の一種の首長竜としか思えない。

 えっ

 こっちに来ないで!

 楓はまさか自分が標的になるとは思っていなかったのだが、首長竜は見るからに美味しそうな人魚に狙いを定めたと見えて、真っすぐに楓にむかってきた。

 楓は慌てて逃げ始めた。

 人魚の楓も早く泳ぐことができたが、首長竜はもっと早くて、じりじり距離を詰められた。十メートルを超える長大な体を揺するようにして迫ってくる。牙の長さが三十センチもあって、爬虫類系の心を持たない狂暴な顔が怖過ぎる。

 首長竜は口を大きく開いて楓の尾鰭に食いつこうとした。水中でもガチンと牙が噛み合う音がした––––––まるで夢の中で怪魚に追われた時とそっくりだった。ただ今回は夢ではなかった。

 楓は小回りが利くので、くるっと方向転換して首長竜の長い口をかわしたが、首長竜も大きく旋回してまた追って来る。

 誰か助けて!

 楓は水の中で叫んだ。

 その時、もう一匹の大きな生き物が横合いから首長竜に衝突してきた。重量のある大きな円盤型の体を持つ生き物、古代亀の帝(てい)亀(き)の体当たりを受けて、首長竜はたじろいだ。追いかけていた楓から目を離し、突然現れた敵に長大な牙で噛みついた。

 しかし、首長竜の強力な牙でも帝亀の甲羅には歯が立たなかった。首長竜が何度も甲羅を嚙み砕こうとしているうちに、帝亀は首長竜の首に噛みついた。首長竜は長い首を振って帝亀を振り払おうとしたが、一度喰いついた古代亀は離れなかった。

 首長竜は帝亀の歯が喰い込む痛み感じながら、ぐるっと首を回して、今度は帝亀の前脚に噛みついた。甲羅と違って鰭のようになっている古代亀の前脚には牙が通った。しかし、それでも古代亀は何が何でも喰いついた首を離さなかった。

 しばし大物同士の格闘が続き、お互いに傷つけあったが、どちらも決定的な勝ちを得られなかった。首長竜は攻撃力で勝ったが、帝亀は防御力で勝った。遂に首長竜は帝亀が喰えない相手と悟ったらしく、停戦の鳴き声を上げた。帝亀は首長竜が戦意を失ったと見て、首長竜の首を離した。首長竜は帝亀に背を向けて去っていった。

 古代生物同士の激闘––––––海の中はまるでジュラシックワールドだった。変異が起こっているのは陸の生物だけではなく、海の生態系にも異常が生じていた。

 楓を助けてくれた帝亀は、甲羅だけで五メートルはある緑色の大亀だった。

 帝亀は首長竜に噛まれた前脚に痛々しい傷を負っていた。

 楓は霊感で帝亀がたいへん知性が高い高等生物であることを知った。

「助けてくれてありがとうございました。私のために前脚にひどい怪我してしまって御免なさい」

 楓は奮闘してくれた古代亀に礼を言い、労(いたわ)った。

「暴れ者の首長竜を相手にするには甲羅がないとやっていけません。さっきのよりももっと大きい二十メートル超のもいますから、油断はできません」

 帝亀は落ち着きのある声で答えた。我慢強くて前脚の傷を気にする素振りも見せなかった。分厚い鎧のような甲羅が頼もしく、大きな頭部の前面ついている眼は優しげだった。

「海の中にあんな怪物がいるなんて想像もしませんでした。あなたもとても大きいですけれど」

「眠っていた古代の生き物が目覚め始めているのです。海の中では地上ではまだ知られていないことが起こりつつあります。その話はまたあとでしますから、まずは竜宮城へ行きましょう––––––想像しているのとは全然違うと思いますが」

 そう言うと帝亀は先に立って更に深い海へと潜っていった。

 四本の櫂(かい)のような脚でゆっくりと水を掻きながら悠々と進む帝亀は、海の主の風格があった。楓は帝亀から離れないようにぴったりあとについていった。

 浦島太郎は助けた亀に連れられて竜宮城に行ったのだが、楓は逆に亀に助けられた。

 海底の城はお伽(とぎ)噺(ばなし)の竜宮城のようなきらびやかな城ではなく、竜宮丸という沈没船だった。かなり傾いて着底していたが大きな破孔は見当たらず、大しけで横倒しになって浸水して沈没したようだった。

 帝亀は大き過ぎて船内に入れないので、楓一人で空いているハッチから中に入っていった。船室が大きな水槽のようになっており、一風変わった魚類が泳いでいた。密室になっている水槽には、水中に棲む妖気がたくさん漂っていた。

 楓はすぐにその正体を悟った。

 そこにいた奇妙な魚類は、水妖の呪いで魚に変えられた人間達で、漂っている妖気は、海難事故や自殺で海で死んだ人々の死霊だった。沈没船は魚人の水槽であり、死者の妖気の生(い)け簀(す)だった––––––水妖は、魚人の肉と死者の妖気を喰らって生きている妖怪なのだ。

 竜宮城の主が乙姫ではなくて水妖だったのは、余りにも落差が大き過ぎた。

「竜宮城がこんなところだとは思ってもみませんでした。これでは死刑囚の牢獄よりひどいです!」

 竜宮城の事実を知った楓は、怒りのやり場がなかった。

「皮肉な話ですが、これはこれで役に立っています。魚人達が竜宮城の外に出れば、あっという間に首長竜のような外敵の餌食になってしまいますので。外にいる魚達は常により大きな捕食者に襲われる危険に晒(さら)されているのです」

 帝亀は穏やかに諭(さと)した––––––自然界の厳しい現実だった。

「ここには人魚はいないのでしょうか」

「人魚はあなただけで、他は皆魚人です。ミズカミには水妖の呪いが効かないからです」

「眠っているうちに水妖にしてやられました」

「水妖は所詮ミズカミに太刀打ちできるような輩ではありません。今頃ミズカミの祟(たた)りを受けていると思いますよ」

 知恵者の帝亀は何もかも見透(みす)かしているようだった。

「さて、竜宮城以外にあなたに見せておきたいものがあります」

 帝亀はそう言うとまた先に立って泳ぎ始めた。海底に沿って更に深く降りていく。深海の海底は、赤や黄色や緑に発光する深海植物が繁茂していて、不思議な彩(いろどり)のある風景だった。楓は幻想的な深海の花園に心を奪われた。

 やがて帝亀はもう一段深い海溝に入っていった。海溝の底では深海植物が消え、異様な形をした岩がたくさん突き出ている荒れ果てた雰囲気の場所に来た。

「これが何だかわかりますか?」

 帝亀が岩の間を通り抜けながらきいた。

「なんだか生き物みたいな形ですね。半分海底に埋もれているような」

「その通りです。これなどはわかりやすいでしょう」

 帝亀はその中でもひと際高く聳えている岩のところで止まった。頭部があり手のようなものが突き出ている。

「まるで恐竜の上半身のように見えます」

「正にこれは恐竜です。ここに埋まっている古代生物達は眠っているだけで生きています。いずれ魔の妖気が十分強まった時には、目覚めて陸に上がっていくでしょう」

「ここにある岩は全部そうなんですか」

 奇怪な岩場は延々と続いていた。

「いずれ全てが目覚めます」

 楓は帝亀の話を聞いてぞっとした。さっきただ一匹の首長竜に追いかけられただけでも寿命が縮まる思いだったのに––––––

 楓は早く帰って高見澤に報告しなければならないと思った。

「一応見るべきものは見たと思いますから、竜宮城に帰りましょう。迎えが来るまで竜宮城の中にいてください。あの中に入れば安全ですから」

「私に迎えが来るのですか?」

「宿鼠達があなたを放ってはおかないでしょうから」

 帝亀は宿鼠のことを知っていた––––––古代亀は驚くほど長い間生きていて、恐ろしく知識が豊富なうえに、強力な霊感力を備えていた。

 海には首長竜や埋もれていて目覚めを待っている恐竜のような恐ろしい者達もいるが、帝亀のような優れた識者も存在した。

 神の遣(つか)いとなる動物にもいろいろあるが、楓は強くて優しくて見識のある帝亀こそ、神使(しんし)というに相応しい生き物だと思った。

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