第59話 水妖1

 楓はお風呂好きで、ぬるめのお湯で長い間温まっている。長いこと湯槽(ゆぶね)に浸(つ)かっているうちに、うとうと居眠りしてしまうこともある。

 毎晩の青狼人獣との戦いの疲れもあって瞼(まぶた)が重くなり、湯の中に異様な揺らめきが現れたのに、楓は気がつかなかった。

 水妖が楓の湯槽に侵入して呪いを掛けた時、楓は夢の中にいた。

 黄金の仏像のような女王ガルダラが、指で次々と風船を割っている。

 あたりを見回すと神社の祭りのようで、夜店がずらりと並んでいた。

 よく見ると風船にはなんとなく高見澤に似たモグラの絵が描いてある。

 楓も女王ガルダラの真似をすると、指先からニードルが飛び出して風船を破裂させることができた。

 私にもできるんだ––––––

 風船は割っても割ってもどんどん出てくる。ガルダラは片っ端から風船を割っていく。楓も負けずにガルダラと風船割りを競い合った。

 高見澤のモグラが次々と吹き飛ぶ。

 音を立てて弾けるのが楽しくて仕方がなかった。

 モグラが高見澤似なのが意味深だ。

 私って心の奥底でマサさんに恨みがあるのかな––––––

 最低賃金でこき使われているから、怨念が溜まってるのかな––––––

 そう思った時、ガルダラは巨大な鳥になって舞い上がった。

 楓は風船割りの手を止めて、空を見上げた。

 ガルダラは月と星空を覆ってしまうほど大きかった。

 楓はそれは夢ではなくて、眼がかつて見た記憶のような気がした。

 ガルダラは巨大な鳥になって飛んでいったが、気がつくと楓は小さな魚になっていた。

 風船割りの夜店は水中に沈み、楓は海の中にいた。

 キラキラ光るものが来ると思ったら、青い縞のある魚の群れだった。熱帯魚のようで見ているだけで綺麗だった。楓は一緒に泳いでみようと思って群れの中に入った。魚達は種類の違う楓が入ってきても驚かなかった。楓はうまく群れに溶け込んで、魚達についていくことができた。群れと一体になって水の中を滑るように泳ぐのは気持ちよかった––––––楓は水神というくらいで水とは相性がいいのだ。

 でも気がつくと後ろから巨大な化け物魚が追いかけてきていた。頭部がやたらと大きい。目つきがちょっと鮫に似ており、狂暴な歯が並んだ口を開けっぱなしにして迫ってくる。小魚の楓はひと呑みにされそうだった。

 食べられる!

 マサさん、助けて!

 楓は高見澤に助けを求めた。

 楓の声が聞こえたかのように、高見澤のモグラの風船がたくさん現れて怪魚の邪魔をしようとした。怪魚は風船に噛み付いて尖った歯で風船を破裂させた。

 モグラの高見澤はたちまちのうちに全滅し、怪魚を食い止められなかった。

 楓はまた追いかけられた。一生懸命力の限り泳いだが、とうとう追いつかれてしまった。

 怪魚は楓に喰いついた。

 もう駄目––––––

 その瞬間に目が覚めた。

 あ、夢だった––––––

 私お風呂の中で寝ちゃってたんだ––––––

 楓はほっとして湯槽から出ようとした。

 ところが足に力が入らなくて立てない。

 長く温もり過ぎて茹(ゆ)でガエルになったかな––––––

 あれ、何これ?

 気がついたらなんと下半身が魚になっていた。

 水妖の呪い!

 やられた––––––

 眠っているうちに水妖に侵入されたんだ。そう言えば、夜道を這(は)っている影を見たわね––––––

 迂闊(うかつ)に湯槽で眠ってしまったのがいけなかった。湯の中で眠っていた楓は、水妖にはおあつらえ向きの標的だった。

 こういう時はどうすればいいのかしら。マサさんじゃ役に立たないから、宿鼠に聞いてみるのかしら。でも宿鼠も水妖の呪いは解けないよね。困ったな––––––

 これといって名案は浮かばなかった。

 どうしよう。これじゃバイトにもいけないじゃない––––––

 楓は手を使って湯槽から這い出し、寝室の箪笥まで這っていって、水着のトップをつけた。

 ベッドの上で横になって鏡で見てみると、人魚になった楓は凄く可愛かった。

 そう言えば私、前から人魚になって見たかったのよね––––––

 水妖にまんまとしてやられたのに、楓は人魚になった自分の姿にまんざらでもなかった。


 朝、高見澤が刑事部屋にやってきた時、珍しく楓が来ていなかった。

 コンビニで買ってきたコーヒーの紙コップを机に置いて席に着くと、机が濡れているのに気付いた。

 あれ、誰が水をこぼしたのかな––––––

 と

 机を濡らしていた水からスイッと寝夢が現れた。

「おはようございます」

「なんだ寝夢か。液化して入ってきたのか」

「はい。私や宿鼠は水棲ですから」

「便利な体だな」

 ––––––警備上は問題だったが、なかなか防ぐ手はなさそうだった。

「それで今日はどうしたんだ?」

「楓さんが家に来て欲しいと言っています」

「おや、病気にでもなったのか?」

「元気ですが、見せたいものがあると」

「見せたいもの?」

 高見澤は訝(いぶか)しく思ったが、四の五の言わずに、パトカーで楓の家に行くことにした。

 深夜には何度も送ってきたが、昼間に楓のところに来るのは初めてだった。

「ちょっと待ってください。中から鍵を開けますから」

 賃貸アパートの二階の部屋の前に来ると、寝夢は流動体になってドアの隙間からスルリと中に入った––––––水棲生物にはドアというものがあまり意味をなさない。

 カシャッ

 寝夢が鍵を開けた音がした。

「どうぞ」

 高見澤は玄関に入ったが、楓は出てこなかった。

「おーい。来たぞ」

 高見澤は声を掛けた。

「マサさん、おはようございます。どうぞおあがりください」

 奥から楓の元気そうな声がした。

 高見澤が靴を脱いで中に入ると、楓はまだベッドで寝ていた。

「どうしたんだ?風邪でもひいたのか?」

「風邪じゃなくてこれです」

 楓は掛けていた布団をめくった。

「ジャーン!」

「うわっ!」

 高見澤は人魚になった楓を見て仰天した。

「どうしたんだ?コスプレか?」

「違います。ほんとに人魚です」

「ほんとに人魚?」

「水妖にやられました」

「ここにも水妖が出たのか」

「湯槽の中で眠ってしまって、気がついたらこうなっていました」

「いくら怪奇事件捜査課でも人魚のバイトは雇わないぞ」

「私が困っているのに、その言い方ひどいじゃないですか」

「いったいどうすりゃいいんだ」

「すぐにはいい手を思いつかないです。でもこれ可愛くないですか?」

 楓は片手で髪を持ち上げてベッドの上でポーズを取った。金色の鱗で金魚の人魚だった。

「可愛いのはいいけど、刑事部屋に水槽は置けないぞ」

「水槽じゃなくて広い海へ連れていってください」

「海へ行ってどうするんだ」

「人魚になって海で泳ぎたいと前から思っていました」

「全然事態を深刻に受け止めていないようだな」

「どうせなら湘南の海へ行きたいです」

「遊びじゃないんだぞ」

 そうは言ったものの仕方なく、高見澤はパトカーに人魚化した楓をのせて、湘南まで走った。寝夢も一緒についていった。

 砂浜が延々と続く七里ガ浜。東に稲村ケ崎、西に江の島が見え、更に遠くに富士が見える。季節に関わりなく多数のサーファーが海に入っている。天気がよく、湘南の海と空は爽やかで美しかった。

 高見澤は楓を抱いて、波打ち際に来た。

「波に乗って海に行きますから降ろしてください」

 高見澤に抱きついていた楓が言った。

「こうか」

 高見澤は靴を濡らして楓を波の中に降ろした。

 楓は引く波をうまく使って転がるようにして海に入った。

「じゃ、行ってきます」

 楓は水面から頭だけ出して手を振った。

「行ってきますって、これからどうするんだ」

「もちろん竜宮城を探しに行きます。人魚の王子様にも会ってみたいです。また明日見に来てください。何か海の秘密を発見しているかも知れません」

 そう言うと楓は頭からトプンと水に潜っていなくなった。

 高見澤は何かが間違っているような気がした。

 竜宮城って人魚姫じゃなくて浦島太郎だよな。あいつなんか勘違いしてるんじゃないか––––––

 それに人魚姫は人魚が人間になる話で、人間が人魚になるなんて逆だよな。楓は一人で嬉しそうに海に行ってしまったけれど、あんなので大丈夫なんだろうか––––––

 高見澤は、人魚事件の解決の糸口を見い出せず、もやもやしたまま渚から立ち去った。


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