第20話 泥人形1
亜空間になってしまった司政官の家を除いて山手の全域が奪還されたので、避難していた人々は住まいに戻ってきた。最後に白玉フルーツの巫女が功を立てたレストランは本来のカフェに戻り、蛸酢の巫女が掃討した洋館も飾りつけを一新してオープンしていた。人々の生活は平常に復した。
元通りになってしまうと、人々は何もなかったような気になって、恐ろしさを忘れてしまう。地震や災害と同じで、過ぎ去ればもう当分は起こらないと思いたいのが人情だ。
司政官の家だけは禁断の地になってしまったが、薄緑色の光に包まれた不思議な空間は、多くの人々が怖いもの見たさで訪れる観光スポットになってしまった。
試しに石を投げる人が後を絶たたず、投石禁止の立て札が立てられていたが、効き目はなかった––––––全く魔の恐ろしさがわかっていないのは困ったものである。
それでも幸か不幸か、司政官の家は沈黙していて、幼女巫女達を吹き飛ばした衝撃波が人々を襲ってくることはなかった。
楓は魔の拡大はまだ始まったばかりだと考えていたので、楽観的な社会の風潮は誤っていると思ったが、世の中全体としては、日々の生活は元通りになった。人々が安心して生活できる世の中にするのが、高見澤や楓の仕事だとすれば、その目的は一応達成されたといえる。
そういうことで世の中的にはまずまずだったが、個別の怪奇事件は相変わらず頻発していた。
何者かに殴打されて殺された通行人の泥まみれになった死体が、毎日のように見つかった。
一般人だけでなく、夜回りをしていた警官までもが殺された。警官の拳銃は数発発砲した形跡があったが、どこにも銃弾も弾痕も見当たらなかった。警官は確かに発砲したのだが、相手は素手で警官を殺していた––––––恐るべき腕力は人獣か妖怪の疑いが強かった。警官の死体もやはり泥まみれになっていた。
高見澤は死体が発見された地域が比較的近接しているので、犯人が現れそうなところを徒歩で巡回することにした。犯人を誘(おび)き出すにはパトカーだと目立ち過ぎで、徒歩で歩くのがよかった。
その夜高見澤は犯人に出くわさなかったが、事件はまた起こった。
空手の師範は道着を着て黒帯を締め、日課にしている夜のランニングに出た。人通りが少なくなった時間に裸足で走る。ジョギングではなく、相当なスピードで走り、時々左右の突きと肘打ちの動作を交えながらのトレーニングだ。
究極まで鍛えられた鋼のような肉体は、まるでマシンのようである。突きも蹴りも、素人相手ならただの一撃で倒す。空手の達人は夜道で誰に会おうが、怖いものはない。自分の体が全身これ凶器なのだ。
その空手の師範の進路を遮(さえぎ)った大きな人影があった。
師範は走るのを止めて歩いて相手に近づいた。
円筒形の頭部を持つ2メートル近い長身の泥人形だった。分厚い胴体で手足は丸太のように太い。感情のない白目だけの眼。それ以外は全身濃いグレーの泥色だった。
ウオーン
泥人形は吠えて師範に向かってきた。
相手の異様な姿には驚いたが、武道を極めた師範は平常心を失わなかった。
––––––空手は一撃必殺。相手の図体の大きさは関係ない。過去には牛と戦って勝った者もいる。師範にとっては、普段は禁じ手の殺人技を遠慮なく使えるいい機会だった。
相手の動きが鈍いので空手の猛者は落ち着いて構えた。
ウオーン
泥人形が長い両腕を振り上げて間合いに入ってきた瞬間、必殺のローキックが飛んだ。地味な技だが普通の人間なら足が脛(すね)からポキンと折れる。
ボスッ
太い泥の足は凹んだが、必殺のローキックの打撃を感じないのか、そのまま師範につかみかかってきた。師範は肘打ちで泥人形の重い腕を弾き返し、連続した中段突きと中段回し蹴りを見舞った––––––全てクリーンヒットし、泥が跳ね飛んだ。
しかし、効かない。
普通の人間ならもう倒れているはずだ。
師範は上段回し蹴りで頭部を狙いたかったが、泥人形は上背があり過ぎた。
泥人形の長い腕につかまれないように、素早い足さばきで体をかわしながら、更に中段突きと中段回し蹴りで泥人形を痛めつけた。
ヒットするごとに泥が飛び散り、白い胴着がたちまち泥まみれになった。しかし、泥人形はダメージを受けているようには見えなかった。
飛び膝蹴り––––––
師範の脳裏にノックアウト技がちらついた。
顎に喰らわせられれば––––––
師範は勝負に出た。
やっー
気合とともに、師範の体が宙に舞い、致命的な飛び膝蹴りが土人形の喉元にめり込んだ。
ウオーン
泥人形はのけぞって苦し気に咆えた。同時に懐に飛び込んだ師範に長い腕で抱きついてきた––––––ベアハッグだ。
師範は姿勢を低くしてするりとベアハッグを逃れたが、泥人形の長い腕が師範の首に巻き付いた。振り解(ほど)こうとしたが腕が顎に掛かかって抜けない。
泥人形は師範の首を片腕で自分の脇にがっちり抱え込んだ。
師範は突き放して逃れようとしたが、泥人形の腕力は万力のように強くて逃れられなかった。首をつかまれたまま拳で懸命にボディブローを見舞ったが効かない。足を持って倒そうとしたが倒れない。
空手家がプロレスラーと戦う時は、決してつかまれないように離れて戦う必要がある。泥人形は怪物的プロレスラーだったのだが、空手の師範はその懐に入り過ぎてつかまれてしまったのだ。
泥人形が丸太のように太い腕に力を込めた。
グキッ
頸椎が折れる音がして、師範の体は泥人形の腕に首を巻かれたまま、だらりと垂れ下がった。
泥人形は腕を離して師範の体を地面に落とした。師範はもう死体になっていて動かなかった。
ウオーン
泥人形はなぜか悲し気に聞こえる咆哮を上げて、ズシンズシンと足音を響かせて夜の街を歩き去った。
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