第43話 寝夢2

 動物の霊界(れいかい)獏(ばく)は水栗鼠の妖怪宿(すく)鼠(ね)と同様、水陸両用の動物で、体は肩より腰の部分が太く、滑らかな流線型をしている。象の鼻を短くしたような長く突き出た上唇が特徴的で、少し奥まった優し気でつぶらな瞳は大人しい性格を表している。イノシシのような足で速く走ることができるが、三本の指の間には水かきがある。尻尾はハート形で水を掻いたり舵取りにも使える。水の中にいることが多いので毛がなく、体全体がすべすべしている。

 宿(すく)鼠(ね)は数多くの妖気を体内に宿せるが、霊界獏は悪夢を呑み込むことができる。

 夢の正体は記憶である。記憶が脚色されて悪夢になる。嫌なこと危険なことの記憶は、自己防衛のために殊更根深く記憶槽に刻み込まれる。脳は自律的にその教訓を忘れないように、夢の中で思い出して反芻し再度記憶する。その過程が反復的な悪夢となって現れる––––––人は悪夢の原因に気づかないことが多いが、普通その大元は自分自身の記憶とそれに基づく思考である。

 妖力を持つ者はこの仕組みを悪用することができる。特にそれに長けているのが夢魔である。夢魔は記憶にない夢を外挿して悪夢を見させることもできるし、白昼に幻覚を見せることもできる。夢魔にもいろいろあって妖力の強さに違いがあるが、強力な夢魔は、悪夢や幻覚で人を殺すこともできる¬¬––––––最も悪質で手強い魔の一つである。

 一方、霊界獏には夢魔の夢と幻覚を使った悪戯や攻撃を無力化する力がある。よく獏は悪夢を喰うと言われるが、悪夢に限らず夢や幻覚を呑み込むことができる。暗黒界の強力な夢魔の攻撃を受けた時には数少ない守りになるので、霊界獏は亜空間霊界では大事にされている。

 夢の精霊は、この霊界獏の妖精で、稀に亜空間霊界に現れる。霊界獏よりも夢や幻覚を呑み込む力がずっと強く、より幅広い霊力を持っている––––––小さいけれど恐るべき力を秘めているのだ。


「霊界獏ならイノシシかもっと大きいくらいでしょう」

 リリルルはテーブルの上にちょこんと座っている寝夢(ネム)の滑らかな背中を撫ぜていた。

「小さいけれど霊力は獏よりも遥かに強いはずだ」

 物知りなロルルルは夢の精霊のことを知っていた。

「お腹が空きました」

 寝夢は少しうなだれた。

「果物が欲しいと言ってたわ」

「バナナを小さく刻んであげればいい。皮を付けたままでいい」

 リリルルは食物貯蔵庫からバナナを取り出して、ナイフで細かく刻んでテーブルに置いた。寝夢(ネム)は四つ足になり、食べる時だけ上唇を出してバナナを器用に口に運んだ。

「この食べ方は、やっぱり霊界獏の精霊ね」

「美味しいです」

 嬉しそうな寝夢の背中を、三人の宿鼠達は交代で撫ぜた––––––どうしても可愛くてすべすべなので撫でたくなってしまうのだ。

 強い霊感力を持つ寝夢は、宿鼠達が自分に危害を加えるような者達でないことを知っているので安心していた。水陸両用の霊界獏と水栗鼠の妖怪の宿鼠は近しい種族なのだ。

「夢の精霊が現れるということは、人間界に夢魔が現れたことの裏返しだろうな」

 ロルルルは寝夢を可愛がりながら、不吉なことを言った。

「まさか」

 リリルルはロルルルの言を疑った––––––夢魔はもう何千年も現れたことがなかった。

「本物の夢魔が現れると人間界以前に亜空間霊界で大騒ぎが起こるだろう。でも夢魔にもいろいろあるのだと思う。今人間界で起こっていることは、全て魔の出現の前兆のようなものだから」

「理由なく夢の精霊が人間界に現れることはないだろうね」

 ルルロロもロルルルと同じ考えだった。

「今人間界では奇妙なことが起こっている。夢の中で死ぬ人間が増えている。夢魔が仕掛けているとしか思えない。そこへ夢の精霊が現れた。偶然の一致とは思えない」

 ロルルルは人間界で起こっている怪奇事件と夢の精霊の出現を結び付けた。

「じゃあ誰かが夢の精霊を人間界に送り込んできたのかしら」

「そうかも知れないし、夢の精霊自身が、夢魔の居場所を感知できるのかも知れない」

 寝夢は宿鼠達の話を聞きながら、バナナを食べるのに一生懸命だった。口が小さいのでほんの少しずつしか食べられない。もぐもぐするのに忙しかった。

「あなたは人間界に何をしに来たの?」

 リリルルが口を動かしている寝夢にきいた。

 寝夢はバナナを呑み込んでから言った。

「わかりません。ミズカミに会えれば教えてくれると思います」

 寝夢はまたすぐ食べる作業に戻った。

「ミズカミ?」

 ロルルルは驚いた––––––水栗鼠の妖怪である宿鼠もミズカミとは縁が深い。

「水神楓さんのことかしら?」

 リリルルも驚いた。

「だとすると水神はやっぱりミズカミなのかな?」

 ルルロロも驚いた。

「楓さんは『眼』を持っているのに、その使い方もわかっていない。無論自分がミズカミだという自覚もない。それにミズカミならもっと霊力があるはずだ」

 ロルルルは未だに水神楓のことをよく理解できなかった––––––「眼」を持つ正体不明の少女、水神楓とミズカミがどうつながっているのか、宿鼠達には大きな謎だった。

「この子を楓さんのところへ連れていってあげればいいんじゃないかしら」

「そうすれば、ミズカミのこともいろいろ見えてくるかも知れない」

 リリルルとルルロロが言った。

「この人間界には既に魔の妖気が広がり、人獣も増えている。そこへ夢魔まで加わると混乱はますます深まる。夢魔と夢の精霊の到来は一つの転機になるだろう」

 ロルルルは深刻な口調で言って、バナナの一切れを自分の口に放り込んだ。

「私のバナナ取らないで!」

 寝夢が立ち上がって短い両手を振って抗議した––––––夢の精霊は小さい割には食い意地が張っているのだ。

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