第11話 はしたない 5
映画はディズニーなどを見てはいました。でも、やっぱりはじまってすぐ眠くなってしまいます。映画で好きなのは予告編で、これはとてもなにか一生懸命にこちらに訴えてくるので、がんばって見ます。本編はわけがわかりません。誰かが誰かに向ってなにかをしゃべっているばかり。
映画館はそもそも暗くなるし、予告やニュースがあって、それから二本立てで映画が上映されますが、二本の間にも予告とかニュースがあります。本編はほとんど寝て、予告だけ見るのです。予告だと目が醒めるのです。
ラジオと本が好きなのは、どちらも、すべてぼくに向ってくるからです。ぼくがいなければ成り立たないんじゃないかと思うぐらい、こっちに向ってくるので好きでした。
だから兄から映画に誘われても、大喜びというほどでもなく、コートを着せられて手袋をし、出掛けたのです。
「おまえ、足が遅いから」と自分の足のせいではなく、ぼくのせいにしてバスで駅に行きS線の電車に乗ったのでした。
日曜日だけ走る緑色の車両の先頭には「お買い物号」というマークがついていてカモメの絵が添えられているのです。おしゃれなマークを見てから先頭車両に乗るのが楽しみでした。
車両は床の板に染み込んだ油のニオイがして、座席を温めているヒーターのせいもあって妙に暑いのです。日曜日だと家族連れでギューギューなのですが、つり革に手が届かないので、兄につかまって大人たちの足の間に立つしかありません。
もしも、先頭車両で前を見る場所にいければ混雑は気になりません。踏切がぼくたちのために、つぎつぎと閉じていき、赤い点滅とけたたましい警告音が遠くからこちらに近づいてきます。鉄橋のあたりで待避した作業員たちを発見したりするのも楽しいですし、右から左からほかの線路が入り組んできて、高速のあみだくじのようなスリリングな光景に引き込まれます。
そしてなんといっても下り線とのすれ違い。運転士が手を少し挙げてこちらに合図しながら、警笛を鳴らしながらすれ違うと、窓ガラスがビリビリと震えて、とくにカーブのところなんかでは車輪が線路とキリキリとすごい音を立てて、楽しいのです。
いつの間にか高いところに来ていて、終点の駅へは左に大きくカーブしながら下っていきます。ここも好きで、右手にはガラス工場があり、回収された茶色や緑のガラス瓶が山となって、太陽を反射させてキラキラしているのを見たり、左手に巨大な円筒形のガスタンクが現われたりするのを、見慣れているはずなのに毎回、楽しく眺めていました。
さらに兄は市電に乗り換えました。S線の終点は大きな駅で国鉄と接続しているだけではなく、西側の出口からはトロリーバス、東側からは市電が出ていました。
国鉄に乗り換えて映画館のある繁華街へ行くこともできるのに、ちょっと時間はかかるのに市電を選んだのは、兄の足の問題というよりは、乗り物好きのぼくへの配慮だったのでしょう。
市電はゴトゴトと町中を車と一緒に走っていくのです。それはとてもスリリングで楽しいものです。赤信号で停止したり、自動車と競争しているような場面もあって、窓にかじりついていました。
ですから映画館の前に到着するまでに、ぼくはすでにたっぷり楽しんでいたのです。すっかり眠る準備完了なのです。
「黙っていたけど、もう一人、来るんだ」
兄が大きな看板に飾られた映画館の前でそう言って、なかなかチケットを買おうとしません。
「あ、来た。こっち、こっち」と兄はたくさんの人たちが行き交う繁華街に向って手を振っています。
ベージュ色のコート。丸い大きなボタンがついています。頭にはベレー帽。襟元に南国の野鳥を思わせる鮮やかなスカーフ。地味なのか派手なのか。美しく白い化粧、そして赤い唇。
「あっ」
ぼくは思わず下がってしまいました。
兄はやってきた女の人と軽く抱き合い、腕を組みました。
白っぽいワンピース。裾がひらひらしています。きっちりパーマをあてた髪。母も仕事で出るときは化粧をしているものの、彼女ほどしっかりと美しく仕上げているところは見たことがありません。まぶしいほどです。
「はじめまして」と彼女は笑顔で言いました。 はじめてじゃない。
よくそんな嘘がつけるものです。
彼女は小林美枝子の母親でした。
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