第56話 さようなら 4

「彼に教えてもしょうがないことよ」

 八千代の声は刺さるように冷たいです。

「なんにも知らないほうがいいってこともあるから」

「でも、彼は誰かに誘拐されたんですよ」

「だったら、どうしてこんなところをうろついていたのかしら。誰が誘拐したにせよ、私たちとは関係のないこと」

「背後になにかあるかもしれません」

「首を突っ込むと、こっちまで危なくなるじゃない。ハービーの件から、ただでさえ警察らしい連中が客に紛れ込んでいるっていうのに」

「あんな小物、それこそどうでもいいことじゃないですか。それより……」

「小物を操っている誰かがいるのよ」

「なんのために?」

「わかるはずがないわ。私たちは私たちの仕事に専念すること。余計なことには首を突っ込まない。でないと、こっちの身が危なくなるわ」

 ハービーとは誰なのか。なんの件なのか。ぼくにはわかりません。それが、以前、耕一の言っていたこの店でソ連に情報を売っていた米兵なのでしょうか。その人はソ連に亡命したのでしょうか。

「で、この人たちをどうするつもり?」

「さあ、どうしたものか……」

 八千代は長いシガレットホルダーに白い紙巻きタバコをつけると、近くにいた男がカチッと音を立ててライターをかざしてあげるのです。

 いがらっぽい中に、甘い香りが広がります。

 その横顔は美枝子に似ています。だけど、八千代には美枝子にあった素直で透き通った雰囲気がまるでありません。その化粧を剥いでも、きっとなにも出て来ないのではないでしょうか。仮面をつけた女なのです。

「私に任せていただけません?」

 先生が思いきった提案をしました。なにか強い気持ちがあることが伝わってきます。

「あなたに、なにが出来るって言うの?」

「考えがあるのです。行方がわからなくなったこの子の家族たちを、おびき出せるかも知れないでしょう?」

「騒ぎになることはお店も快く思わないでしょう。余計なことはしない方が身のためじゃないかしら?」

「でも彼らは、どうして突然姿を消したのでしょう。おかしいと思いませんか? あのあたりだけで、子どもが一人殺され、その家族は焼死して全滅しているんですよ。それにあなたの……」

 夫も不審な死を迎えている。

「小さな住宅街で続けてあれだけのことがあったのです。おかしいと思いませんか?」

「私たちには関係ないこと」

「あるかも知れないじゃないですか。だいたい俊君の家族が引っ越してきてから、おかしなことばかり起きているんです。この子はもしかしたら、事件の鍵を握っているのかもしれませんわ」

 先生の言葉にぼくは驚き、そして疑問だけが残るのです。ぼくたち家族が引っ越してきた? どこから? ぼくはあの町で生まれて育ったのです。友達もいます。妹も絵画教室に通っていたし。ずっとあそこに居たのです。あの町に。

「越してきたのは?」

「一九五九年です」

「ハービーが厚木基地に来たときね。確かに関係があるのかも知れないわね」

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