第57話 さようなら 5

「わかりません。それに、結局、俊君の家族が何者なのかは役所の記録などからはまったくわからないのです。転入届けより前に遡ることができません。そして転出届けは形式的に出ていますが、その行く先も辿れません。これだけのことができるのは……」

「だから、関わらない方がいいんじゃない?」

「ぼくは引っ越してないです!」

 やっと出たのはそのひと言でした。

「ぼくは、産まれたときからずっとあそこにいたんだ!」

 タクシーの運転手をしている父がいて、優しい母がいて、賢い兄がいて、かわいい妹がいたのです。近所には仲のいい村井繁雄君がいて美枝子がいて……。

 彼は誘拐されて新幹線の工事現場近くで遺体となって発見され、彼の家は焼失し家族は全員亡くなってしまったようです。

 それに美枝子たちだって引っ越してどこかへ行ってしまったらしい。

「俊君。それは違うわ」

 先生が怖い顔をしてぼくを睨みます。

「勘違いしているわ」

「子どもだからしょうがないのよ。記憶がいろいろ混じるんでしょう。小学校に入る前に別の町にいたとしても、そのぐらいの年齢の記憶はあてにならない」と八千代。

「いいや」と突然、ダンスフロアから声がしました。耕一です。

「その子に限って、記憶違いなどない」

 生きていた! 耕一が生きているなら、鬼に立ち向かえるかもしれません。

「どうしてそんなことが言えるの?」

 八千代がそちらへ向かっていきます。

 タバコの煙を漂わせながら。

「金田耕一。家族は朝鮮半島から渡ってきた。あなたたちは金儲けが上手で、あなたは大学まで行けた。学徒動員で南方へ行き捕虜になった。たしかブリスベンに送られてそこで終戦を迎えたのよね。帰国したら家族は空襲で全滅。お気の毒。タクシーの運転手とか探偵とか、わけのわからないことをして、大学へ戻れるというのに学業もせず。達磨船に棲みついて……」

「おれのことなんてどうだっていい」

 なぜ八千代が耕一のことをそんなに詳しく知っているのでしょうか。

「よくないわ。ブリスベンにいたんでしょ。そこでなにがあったのか話せる? 話せるわけないわよね」

「ただの捕虜だ」

「あなたはそこで教育を受けたはず。特別な教育よ。とてもいい立場だとアメリカ軍は考えたはず。だって、純粋な日本人ではないから、日本帝国に反感を持っていてもおかしくないでしょ。だけど国籍は完全な日本人。おまけに頭がいい。語学力もある。そういう人間を彼らが見逃すはずはない。しっかりと教育してから、日本に戻された……」

「なにもない。あんたたちがどう言おうと、おれはどっちの味方でもない」

 八千代は鼻から煙りを長く出しています。

「どうしてあの子に興味を持ったの? どうしてあの子に限って記憶違いはないなんて断言できるの?」

「そうよ。辻褄が合わないわ」と先生。「引っ越してきたことを覚えていないなんて」

「そっか」と八千代が言います。「この子、記憶を消されているのかもしれないわね」

「まさか」と耕一と先生がほとんど同時に言いました。

「東西どちらも、いまそういう研究をしていると聞いたことがある」

 八千代の言葉が響きます。

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