第55話 さようなら 3
美枝子の母です。あの日、一緒に映画を見に行ったときと同じように、美しく化粧をしていい香りがしています。服装は、そのままステージにでも立てそうなほどの深紅のドレス。すらりとした足。
「誰だ」と耕一がぼくの耳元で囁きます。
「美枝子のお母さん」
「克彦さんは元気かしら?」
兄のことです。
背後に低い排気音が響き、軽くサイドブレーキがかかる音がすると、カツカツと靴音をさせて黒っぽいスーツの男たちが三人、やってきました。若くてハンサム。黒い髪を油で丁寧に撫でつけて艶々しています。
「マダム。どうされました?」
「お客様よ。お連れしましょう」
「えっ、なんだ、お前ら」
一瞬でした。
耕一は男の誰かに背後から殴られて地面に崩れ落ち、ぼくは美枝子の母、小林八千江に腕を掴まれていました。
鬼のようにその指が腕に食い込んでいます。口が裂けて牙が出てきそう。食べられてしまう!
「やめろー」
男たちは二人がかりでぐったりした耕一を担いで階段を降りていきます。あれほど強かった耕一が簡単に倒されてしまったので、殺されてしまったのではないかと思いました。
鬼たち!
「さ、行きましょう」
もう一人の男に背後から抱えられ、足をバタつかせてもまったく緩むことなく、無理やり階段を下ろされるのです。
「やだよー」と叫んだとき、口になにか固い棒を噛ませられました。それで耕一を殴ったのです。
地獄へ続く階段でしょうか。
小林八千江は、兄の克彦に行方不明の夫のことを調べさせていました。そのお礼に映画と食事をご馳走してくれたはず。ですが、その夫は、あのぼくたちが凧揚げをして遊んでいた野原の下で、古いハシゴから転落して死亡したのでした。
この人が殺したのかもしれません。殺すために兄に調べさせたのでしょうか。
悪い人だ。この人たちは悪い鬼だ……。
おとなしくなったからか、口に押しつけられた棒を外してくれました。
不思議と声も出なければ、泣くことさえできないまま地下にある頑丈そうな木のドアから、店内に連れ込まれていました。
耳をふさがれたように、そこは外の音がまったく響いてこない別世界でした。
「まあ、俊君。どうしたの」
先生も、あでやかな緑のドレスに着替えていたのです。
この人たちはソ連に通じている。スパイ活動をしている人たち。
ダンスフロア。バーカウンター。いまは白っぽい蛍光灯の照らされてウソくさい雰囲気しかありません。これから開店なのです。
耕一はダンスフロアの隅にある頑丈そうな椅子に縛り付けられています。ぼくは、バーの近くにある別の椅子に縛り付けられました。足がそもそも床に届きません。背の部分が高くなっていて、それが壁に当たっています。少しぐらい暴れても椅子はびくともしません。
男たちはそのまま店の準備にかかります。
「ここまで来たなら、教えてあげないと」と先生。
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