第52話 おおあわて 10

 料理を運んでくるのは、キラキラとした赤や金のドレスを着た女性たちで、みな同じように髪の毛を耳の上あたりでくるっと丸めたりしていて、足元は切れ目が入っているので、ひらひらさせてすごい勢いで歩いています。そして男たちの客の前でビール瓶を栓抜きで気持ちよく開けていきます。

「その店には、おまえが言うようなスーツ組はいないぞ。おそらく、瑞穂埠頭の近くにあるボガティル商会の連中じゃないか」

「ボガティル? 聞いたことないな」

「東の連中の隠れ蓑だからな。ボガティルってのは、択捉島の単冠山(ひとかっぷやま)のロシア名だ。わかりやすいだろ。隠す気はないのさ」

「ゾルゲと関係あるのか?」

「あれとは別だ。いまじゃやつらは戦勝国だ。政治的な駆け引きでこのあたりに来ている。表向きは外交官だったり商社の社員だ」

「堂々と日本で?」

「なんでも表と裏があるだろ? 表向きの活動をする連中は、わかりやすくて便利な存在だ。もしやつらが、この子を探しているのだとすれば、わざわざ西側にもそのことを知らせていることになる。当然、俊君のことは西も知っている。少なくともアメリカは」

 耕一がため息をつきます。

 ぼくはたくさんの本を読んで知識を断片的に詰め込んだ状態で、理解できているわけではありません。ただ、耳に入る言葉、目についた文字などから、その記憶にいっきに飛んでいくこともあるのです。

「CIA。Central Intelligence Agency。中央情報局。アメリカのワシントンDCにある。一九四七年成立の国家安全保障法に基づいて、それまであったOSS、CIG、OPCを統合して設立された。現在の長官はジョン・マコーン。前任のアレン・ウェルシュ・ダレスは対キューバ作戦で失敗しケネディ大統領に解任されたが、現在もなお彼の部下たちは強い反共主義のもとに活動を続けている」

 ぼくは歌うようにそう口にしていました。気持ちがいいのです。頭がスッとします。

「便利だな」と耕一が、スープに入っているワンタンを掴んでいた箸を止めました。

「俊君。思ったことを口にするのはやめておいたほうがいい」

 以前、耕一に言われたのと同じことを毛筆にも言われました。

「ごめんなさい」

 黙って目の前のものを食べることにしました。

「すごいわ」とガル坊。「俊ちゃん、ほんとにすごい。あなた、天才よ」

 黙って食べるのです。ぼくにはそれしかないのです。

「で、今日はなんでこんなに賑やかなんだ」と耕一。

「今日は元宵節だから。お祝いをしている」

 元宵節(げんしょうせつ)は中国の小正月。漢の時代から続く祭り。提灯を飾り、湯圓(タンユェン)という餅を食べ、ランタンを飾ったり飛ばす。花火を浴びる祭りもある──。

 ランタン。赤いランタン……。妙な偶然です。

 思わず口を開きそうになっていました。

 耕一がぼくを見ています。でも、ぼくはなにも言いません。ただ、テーブルの上に湯圓らしき餅の入った皿を見つけて、それを指差しただけです。

「おお、わかるのか、お前。これは、元宵節の湯圓だ」

 毛筆が大げさに喜んでその皿をぼくの前に持ってきます。それほど食べたくはなかったのですが、一つ食べてみました。茹でたのか蒸したのか、しっとりとした柔かな餅が蜜をまとって口の中で広がりました。

 濃い味の料理のあとにはホッとする味でした。

 そのとき、店の表で大声がいくつも上がりました。

 毛筆はすぐ立ち上がり、中国の言葉で誰かに指図をします。誰かが毛筆に怒鳴り返しています。ぼくの頭の中には中国の言葉に関する知識はほとんどありません。無反応です。

「耕一。やつらが来たようだ。裏から逃げろ。クルマは置いていけ。バレているだろう」

「わかった。ありがとう」

 ぼくたちは、これまで食卓に向かっていた男たちが一斉に立ち上がって「わーっ」と声をあげて店の表へ向かっていく中、反対側に、つまり来た道へと戻っていくのです。

「これを着なさい」

 グレ太がバッグから服を取り出しました。またしても女の子の服です。それはもう嫌なのです。

「そうよ。やつらが探しているのは男の子。あんたは可愛い女の子になるの」

 人形じゃないのです。

「それがいい」

 耕一も賛同し、裏口近くまで来たところで、ぼくは着替えさせられたのでした。

「よかった。ぴったりだわ!」

 お下げ髪のカツラ。ピンクに白いレースが縁取られたワンピース。白い靴下。赤い靴。

「ちょっと、こうするわね」

 ガル坊が手でぼくの頬を擦ります。

 窓ガラスに映ったぼくは、まさに人形。頬にはピンク色の化粧品が塗られていました。

「睫毛がこんなに長いなんて、うらやましいわ」

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