第51話 おおあわて 9

 ケンカでも始まるのかと思ったのですが、その直後に耕一は毛筆の肩に手を回してパンパンと叩きました。毛筆も大きな手で耕一の頬をはさみ込み「元気にしていたか」と声をかけています。

「なにか喰うか?」

「いや。それより教えてほしい。ハーフェンハオスを見張っているのはどっちだ。東か西か」

「西だろ。軍や政府とは関わりがないのかもしれない。その筋からはなんの話も聞えてこない。このところ、そんな得体の知れないやつらが大勢、このあたりをうろついている。なにかマズイことでもあったんじゃないか?」

 耕一がぼくを見ました。

 そのマズイことはぼくなのです。

「噂にすぎないが、『赤いランタン』で活動していた米兵が東に亡命して、向こうで結婚して子どもまで作ったあげく、今度はアメリカに渡ったらしい」

「アメリカは許したのか?」

「らしい。なんか裏がある。それが去年かそこらの話で、それから少しずつ似たようなスーツの連中が増えてきてね。なにかやっている」

「お前、まだあのクルマ、乗ってるのか」

「いまもそれで来た」

 へへへと毛筆が笑っています。

「速いだろう」

「いまにもぶっ壊れそうだ」

「大丈夫だよ。事故は四回ぐらいだし、ちゃんと修理しているんだから」

「それが心配なんだよ」

「カミカゼタクシーをやっていたやつに言われたくないね。なんか食べるか?」

「ああ」

 長いテーブルについていた屈強な男たちが少しずつヅレてくれて、ぼくたちの座る場所を作ってくれるのですが、グレ太とガル坊は一人で三人分ぐらい幅を取るので、数人が皿を持ったままどこかへ移動していきました。

「なるほどな」

 毛筆は、ぼくをじっと見つめます。

「名前は?」

「壁野俊。壁紙の壁、野原の野、俊敏の俊」

「俊君か。なにが得意なんだ」

「得意なものは……」

「こいつ、船にある本をぜんぶ、二日で読みやがった」と耕一がエビを口にいっぱい入れながら横から入ってきました。

「マルクスからなにから、全部だ。『資本論』を一晩で読んだやつなんていないだろ」

「なるほど。俊君は、極秘扱いってわけだ」

「ごくひ?」

 浮かんだ文字は「極秘」。トップシークレット。ぼくが?

「スーパーナチュラル。超能力。なんでもいいけどな。俊君ってそういう子どもかもしれない。もしそうなら、東も西も、血眼になって探そうとしてもおかしくはない」

「『赤いランタン』にいた米兵と関係があるのかな。あそこは東だけどな」

「さあね」

 グレ太がぼくに饅頭を取ってくれました。それは肉まんではなく、中身はないのですが、ほんのり甘くて柔らかくておいしい。ご飯のようにして食べるようです。ガル坊が小さな皿に柔らかく煮込んだ肉や緑の細長い野菜などを炒めたものなどを適当によそってくれました。

 ニンニクが効いています。辛い。いや甘い。濃い味。そして不思議な香り。子どもの食べ物ではないような気もしますが、ぼくは食べました。とにかくお腹がすいていたのです。茶色いお茶も飲みました。

「これからどうするんだ」

「その店に行ってみるかな」

「店そのものは危険でもなんでもない。日本人が経営しているバーとクラブの中間みたいなところで、店には女も何人かいる。女たちはみんな東側に洗脳されているけど、西側の教育を少し受けていて、役に立つやつを見つけたら取り込んでいくって寸法だ」

 毛筆は熱心に耕一に話しています。

 周囲を見渡すと、お椀を伏せたような帽子を被っている男、糸のように目が細い男、馬のように顔の長い男、白くて長いヒゲを生やした年寄り、首も腕も太くてパンパンの若い男などなど、ぼくがこれまで見かけたことのないような男の人たちばかり。

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