第9話 はしたない 3

 父などはよくその一帯を「ああ、米軍住宅のところか」と言っていて、十年ほど前までアメリカ軍の施設があったそうです。

 施設跡にはかなり立派な鉄筋コンクリート造りで、鮮やかなレモンイエローのモルタルが吹き付けられた四階建ての団地が並んでいるのです。そのすぐ横に、美枝子らが住む市営住宅が見捨てられたようにあって、それは米軍施設のあった頃から施設の横にへばりついていたのです。

 ベニアのドアの横に、赤い郵便受けがあって、そこに学校の図画工作の時間に作ったピンクと黄色の鳥の形をした木製の表札がかかっていました。美枝子は手先が器用でした。その横には青い牛乳受けがあるものの、叩き潰されたように壊れていました。モノクロな住宅の中で、そこだけ不思議とカラフルなのです。

「牛乳、取ってないの?」

 どの家も、牛乳やヨーグルトや新聞が毎朝、届くのだとぼくは思っていたのです。父は経済的に大変そうなのに、新聞だけは四紙か五紙取っていて、ときどき記事を切り抜いたりしていました。

「牛乳、嫌いだもん」

 そんな嘘を彼女は言うのです。学校でテトラパックの牛乳が配られたとき、彼女はいつもおいしそうに飲んでいたのに。

 中に入ると、すぐに台所。その向こうに畳の部屋。洗濯物がいっぱい干してあります。

「こっち」

 泥だらけのぼくたちは、靴を脱いで、靴下も脱いで風呂場に行きました。白いタイル張りの壁、下のほうがコンクリートが剥き出しの狭い風呂場。浴槽はヒノキですが、かなり古いようで黒ずんでいます。なんの香りもしません。

 うちには洗濯機があります。でも、彼女に家にはありません。テレビもありません。

 スノコを壁に立て掛けたコンクリートの風呂場で足を洗って、服についた泥も落としました。けっきょく、靴下も服もズボンも洗うしかなく、ぼくたちは下着になって必死にタライで洗濯をしました。

「乾くかな」

「簡単には乾かないよ。でも、よく絞って水を切って、ちょっと風に当てておけばいいの。湿っているぐらいなら、着ているうちに乾いてくるから」と美枝子。

 濡れたままの服を着るのはいやだなあ、と思いつつ、いまは彼女の言うことを聞くしかありませんでした。

 二人とも、泥だらけで家に帰れば親に怒られるので、濡れているのはしょうがないとしても、泥はできるだけ目立たないようにしておきたかったのです。

 純白のシュミーズ姿の美枝子はすらりとして手足が長く、とてもきれいでした。妹と比べたらいけないのでしょうが、年齢の違いもあるとはいえ、比べものにならないほど輝いて見えました。

 それに、いいニオイがしました。

 最初は石鹸の匂いだと思ったのですが、彼女の髪や体から出ているようなのです。

「友子ちゃん、絵、上手だよね」

 美枝子はぼくの妹のことを褒めてくれます。

「そうかな」

「教室で一番だよ」

「そうなの?」

「俊ちゃんは、絵は?」

 痛いところを突かれます。

 兄や妹の能力を百とすればぼくは一。兄や妹がオール五ならぼくはオール三。いや正直なところ一とか二もある。絵も音楽もスポーツも、なにも取り柄がありません。

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