第8話 はしたない 2
励ましていた兄の友人たちも、兄があまりにも暗くなってしまい、徐々に遠ざかっていきました。
春になっても、とても走れる状態ではなく、兄はひたすら本ばかり読んで無口になり、友人と会うことも減りました。行動範囲が極端に狭くなりました。
一時は気味が悪いほど太りましたが、その後は急激に痩せていきました。風船が萎むように細くなったあげく、ひょろっとした、少しやつれた、暗い顔をした青年になっていました。父にも母にもぼくにも妹にも似ていない誰かになっていき、もしかしたら別人なのではと思うこともありました。
ぼくは投げ飛ばされたりキーロックされたり四の地固めとかされなくなって、本当にうれしかったのですが……。
「先祖に一人ぐらい天才がいてくれたらなあ」という言葉は、自分の肉体をあきらめ、数学、物理、探偵小説にのめり込んでいた兄らしい嘆きでした。
数学も物理も、そして探偵も、父や祖父やもう少し前の祖先に天才的な人がいれば、兄にとってはもっともっと手の届く世界に思えたのではないでしょうか。最初の数段だけあって、残りには手掛かりさえなさそうな長い長いハシゴを見上げたときのような気分でしょう。
父の親戚、母の親戚をたどると、学校の教師、なんとか省の役人、なんとか株式会社の重役などはいましたが、とても天才と呼べるような人は見当たらず、いかにも平凡な一家でした。
そもそもうちは、親戚の人たちとの交流があまりなく、電話がかかってきたら「ああ、東京の叔父さん」とか「大阪の親戚」とか言うものの、会ったことのない人が大半です。
もちろん、ぼくも妹も、他と比べて驚くほど優れたものなどなにもなく、中の中、たまに中の上、下手をすれば下の上ぐらいの成績で、いかにもどこにでもいる人間なのでした。父も母も残念ながらそうでした。
そう考えると、兄はもしかしたら彼自身がこの家系で最初の天才的な人間になれたかもしれないのですが、自分ではそうは思っていないようでした。
「努力には限界があるんだ。限界が見える。わかる。だけど、天才は、そんな限界を軽々と越えてしまう。彼らは無限に努力できてしまう……」
なにを言ってるんだか、と思ったものの、鬱々とした兄の言葉は、下手をするとこっちにも伝染しかねないので、あまり関心を持たないようにしていました。
「お兄さん、なにしてたんだろうね」
泥だらけになったぼくと美枝子は、それ以上、現場を見つけるようなことはせず、彼女に誘われるままに美枝子の新しい家に行きました。幸い、その間、見知った人に出会うことはなく、泥だらけになったぼくたちを咎める人もいませんでした。
「うち、忙しいから誰もいないんだ」と美枝子が言ったとき、ぼくたちはまるで完璧に犯罪を成し遂げたような気がし、彼女との距離がすごく近くなった気がし、いろいろな意味でドキドキしていました。
美枝子は妹と同じ絵画教室に通っていますが、なにかの事情で同じ住宅地の向かいにいたのに、少し離れたところへ引っ越したのです。うちより明らかに貧乏で、うちは住宅ローンを返済するのに父母が必死になっていましたが、彼女の家では家賃を払うのに必死になっているのでした。それも市営の住宅で周囲よりはかなり家賃の安い長屋のような建物です。
「よく自分の家、わかるね」
同じような平屋で三軒つながった家が、きれいに十幾つも並んでいて、砂利道をくねくね歩いて彼女の家に到着しました。
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