第37話 ひもづける 1

 電話は鳴らず、外に出ることもなく、本を読みトイレに慣れようとし、それを何度か繰り返し、パンがなくなってしまったので水だけ飲んでいると、ガタガタと足音がしました。

 あの板を歩くと、こんなに音が聞こえるんだ、と驚きました。

 もしも、鬼だったら……。

 ぜんぜん慣れることのできない狭いトイレに逃げ込みました。ドアはちゃんと閉じないので自分で引っ張っていなければなりません。

 誰かが鍵を開けています。

「おーい、帰ったぞ」

 耕一が戻ってきました。

 すごくうれしくなってトイレから飛び出しました。

「なんだ、どこにいたんだ」

 思わず駆け寄っていました。短いハシゴを伝って下りてきた耕一は、とてもいい匂いをさせています。

「隠れてたんです」

 彼の向こうには曇り空が見え、細かく冷たい雨を感じました。彼も濡れています。

「そうか。えらいぞ。遅くなって悪かったな。思ったより時間がかかっちまった。腹減っただろ」

 紙袋を受け取ると「熱いっ」とビックリしてしまいました。

「ハハハ。中華まんじゅうだぞ。うまいぞ、ここのは。本当のいい豚肉を使っているからね。ジュースも買ってきた」

 オレンジジュースの瓶。

 耕一はビール瓶も持っていました。

「お店は? あの人たちは?」

「待て。ゆっくり話そう」

 彼がテーブルに食べ物や飲み物を並べ、コップに水をかけて洗ったことにして、ようやく席につきました。彼は寝床に腰掛け、ぼくは木のイスです。座布団を勝手にイスにのっけていましたが、耕一は文句を言いませんでした。

「なにしてた、この二日」

 二日も経っていたのです。

「本を読んでいました」

「おまえが読む本なんて、ここにはない。マンガも絵本もない。なにを読んだんだ」

「えっと、そこの」と端っこの木箱を指差して、それから木箱四つ目までを示しました。

「そこまで」

 あと一箱でここにある本はすべて読んだことになるはずです。

「ん?」

 耕一は、最初の箱に入っている広辞苑とか漢和辞典を見たので「あ、辞書は使いましたが全部読んだわけじゃないです」と答えました。

「当たり前だ。どこに辞書を全部読むやつがいるんだ。じゃ、これは?」

「はい。読みました」

「なんだって!」

 彼が手にしているのは、『マルクス資本論』でした。

「こっちもか?」

「そこからそこまで全部」

『「資本論」解説』、『金融資本論』、『資本論解説』、『資本論初版鈔』、『国富論』、『経済学史略』といった本、さらに、『ケインズ入門』、『ケインズ経済学研究』など、古くてボロボロの本もあれば新しい本もありました。とくに折れて破れて水に浸かったのかぐねぐねの『実践理性批判』『認識の対象』『マルテの手記』などは、ページがくっついて、めくるのも大変でした。

 最初の箱は辞書とそんな本ばかり。次の箱は『経済学教科書』、『太陽の季節』など小説を含めた比較的新しい本。その次の箱には、なんと兄が読んでいた『世界探偵小説全集』がかなり揃っていました。

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