第16話 こわいこと 1
美枝子の家で通夜があった翌日。学校に行っている間に葬儀があったはずです。確か木曜日。
学校の帰りに、家が見えるところまできたとき、いきなり、背後からドンと押し倒されました。ランドセルがぼくの頭を越えて飛んでいき、足になにかが乗っていました。
「ぼく、大丈夫?」
男の声。タバコの臭い。大きな革靴。外国製の靴でしょうか。底が分厚くて太い紐が編み上げるようにズボンの中まで。
しかしその直後、意識を失ったのです。
暗いトンネルの中で、泥濘に足を取られながら、ぼくは父母の名を叫び、兄の名を叫び、それから美枝子を探しました。
出口はなく、体の中からいろいろなものが沸騰して蒸発していくような暑さを感じ、ぼくはぼく自身から抜け出したくて仕方がありませんでした。
もがいてももがいても、なお深く落ちていく感じが続いていました。
「冬眠ごっこ」と美枝子が言い、ぼくたちは狭いけど柔らかな空間で肌と肌を合わせている感じがあって、彼女の肌は冷たくて気持ちがいいのです。
「伝染病だったらすぐ死ぬよ」
真っ白な顔。それはピエロを連想させます。ふいに白い顔が二重になって見えたかと思うと、また消えます。野太い声なのに、見たところはおばさんっぽい。誰だろう。
美枝子を探すのですが、それはおっかない顔をした彼女の母になって、ニヤニヤしている兄になります。兄はいまどこにいるのでしょう。
父母の顔が浮かばないことに気付いて、焦ります。父と母。ぼくにとって大事な人。忘れてはいけない人。
それなのに、顔が思い出せません。
ふいにパッと目が開きました。
薄暗い天井。いえ、天井ははるかに高く、闇がそのあたりに溜っていてよく見えません。暗い空間が雨雲のようにそこに固まっているのです。
ぼくはそこから目を逸らすことができません。そこに吸い込まれていく……。
「大丈夫?」
気味の悪い声。何人かの声が混ざったような甲高くもあり、野太くもある声。誰だろう、聞いたことがありません。
パチパチと叩く音。
それは誰かがぼくの頬を平手で叩いている音です。
「目をつぶっちゃだめ。戻れなくなるよ」
野太い声。
父母ではありません。また、あの、真っ白い顔です。
「うえええええええーん」
ぼくは泣きました。泣くしかなかったのです。怖い夢が現実になっているのです。それともまだ夢なのでしょうか。
泣くのに疲れた頃、白い顔が二重になって「泣いたらいいよ」とか「これ、食べる?」と同時に言い始めるので、なにがなんだかわかりません。頭が二つある怪物。ピエロのような真っ白な顔。それでいておばさんのような格好。
真っ赤な唇が二つ。別々のことを言う。同じ声で。
花柄のワンピース。
胴体は二つ。
同じ顔をした人たち。人形の世界に紛れ込んでしまったのでしょうか。
銀色のスプーンに卵色のものが少しだけ、のっています。
「山手のケーキ屋さんのプディングだよ」
「高いんだからね」
「あんたのために買ったんだから」
「なに言ってるの、あんたも食べたでしょ」
「味見よ、味見」
口紅がべったり。二つの真っ赤な唇が立て続けに言葉を発っしています。
「ここは?」
やっと言葉が出たはずですが、二人はまだなにかをしゃべっています。同じ顔。同じ格好。同じ声。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます