導入 二
物心ついた頃から、アタシは他人に見えないものが見えてるの。
とは、保育園から小学校の三年生まで付き合いのあった、近所に住む幼馴染の口癖だ。果たして、それがどのようなものであったのか、真実は最後の最後まで理解できないまま、彼女とは同校の進級と共に別れて、以後、一度も会っていない。
顔を合わせる都度、自慢気に語られた幼馴染の言葉から、幼い頃の自分は勝手に納得していた。人間という生き物は、誰もが他人には見えない、自身にだけ見える何かがあるのだろうと。己だけの世界があるのだろうと。
だから、それが普通だと思っていた。
なんて俺の見ている世界は、危ないヤツらに満ち溢れているのだろうと。
この事実が覆されたのは、小学校四年生へ進級した直後だった。通い慣れた学舎からの下校途中、道すがら半殺しに遭い、救急車で大きな病院へ運ばれた。周囲の人間曰く意識不明の重体となり、生死の境を彷徨った。全治三ヶ月の大怪我だった。
医者や両親、警察からは根掘り葉掘り、事情を尋ねられた。
俺は自身が体験した事実を素直に答えた。
結果、病室を移して、入院の期間が半年ほど延びた。
決して幼馴染みを責めるつもりはない。
勝手に勘違いしていた自分が悪いのだ。
ただ、彼女のおかげで、自分は随分と遠回りをしてしまった。
物心ついた頃から、俺は他人に見えないものが見えているんだ。
そんな言葉を自身の意思から口とするまで。
◇ ◆ ◇
真っ暗が終わり、薄暗がりが戻ってくる。
シャツの生地越し、固いアスファルトの感触を肉体が脳に伝える。瞼の僅かな痙攣と共に、意識は浮上した。目が開いた先、何にも先んじて目に入ったのは、空に浮かんだ大きなお月様。
ひゅぅと吹いた生ぬるい風が頬を撫でる。
「…………」
目が覚めた時、身体は変わらず路上に転がっていた。
倒れたときはうつ伏せだったのに、今は何故か仰向けだ。
空に眺める月の位置には、そう大きく変わりがない。
赤い変態も角の生えた幼女も見当たらない。
しかし、手元からは酒瓶とつまみの入ったビニール袋が失われていた。
代わりに背の下、いつの間に生まれたのか、大きな血の溜まり。現場の状況は、一連の出来事が決して夢ではないことを物語っていた。猫の死骸と段ボール箱もそのままだ。
恐らく時間にして数分ばかりの意識喪失。
更に不幸が一点。
ここ数ヶ月、俺の右肩に留っていた可愛いペット。
幸せの青い鳥ちゃんが、消えていた。
きっと、鬼やキチガイが怖くて逃げてしまったのだろう。
「マジか……」
人外の連中に襲われたのなら、まだ諦めはつく。彼らの与える理不尽は絶対的で、人間の限界を遥かに越えたものだ。言わば自然災害のようなもの。
だけれども、人間相手に殺され損ねた上、尚且つ、これを鬼に救われるとは驚きである。しかも前者の姿格好や言動があまりにも衝撃的で、後者が霞んで思えた。
「警察に通報した方がいいんだろうか」
少し悩んで、端末に伸ばしかけた手を止める。
面倒だ。
止めておこう。
事情聴取だの何だのと、無駄に時間を消費するばかりで得がない。
「……この道は当分の間、使わない方がよさそうだな」
ゆっくりと身体を起こす。
自らの足で立ち上がる。
路上の風景がより遠くまで確認できるようになった。
改めて周囲を窺ってみる。だが、赤い変態と鬼の幼女は見つけられない。
やはり、共に場を去った後らしい。
近隣は静かだった。
普段と変わりなく、いわゆる閑静な住宅街というやつ。
ジージジジとオケラの鳴く音が唯一の音源。
ただ、今も視界の端々には、色々なものが見える。
それは例えば絵に描いたような幽霊であったり、分けの分からない霞であったり、内蔵や目玉の飛び出した犬っころであったりと、多岐に渡る。これらは本来であれば、見えてはいけない類いの色々。
見えないふりをしていれば、相手は何もしてこない。
逆に見えることをアピールしていると、ちょっかいを出される。
相手によっては問答無用で喰らい付いてくる。
「……傷も残ってないとか、スゲーなぁ」
特に鬼や鬼の亜種に類する化け物は、その中でも性質の悪い部類に入る。少なくとも自身の経験や、書物などで得た情報ではそうだ。害悪の固まりってやつ。
だからこそ、あの幼女の反応は酷く新鮮なものだった。まさか見ず知らずの相手を助けるとは思わなかった。どうやって瀕死の俺を復活させたのか。
そもそも生粋の鬼など、滅多なことでは出会えない。レアだ。レア。吸血鬼や餓鬼といった亜種に比べて、ガクッと絶対数が減る。自分も過去に一度しか見たことがない。
「なんだったんだろな……」
まあ、考えても仕方がない。
家に帰るとしよう。
多分に疑問を孕みながらも、早々に解決を諦めて、帰路に着く。
良く分からないものは、どれだけ考えても、やっぱり良く分からないのだ。調べても分からないことなんて、世の中、幾らでもある。
そして、それらは往々にして、凡夫が知るべきでないものだ。
気にしないのが長生きの秘訣。
「あ、酒……」
が、Uターン。
当初の目的を果たさねば。
もう一度、コンビニへ行くことにした。
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