phase45 報いと救い
日が経つにつれ、仁蓮市内はもはや別世界の森と言っていいくらいにまで様変わりしていた。奇怪で不気味な植物に覆われ、エネミーが跳梁し、街角に人の姿はない。ライフラインは破壊され通信すらも不安定になりつつある。死者数は正確にはわかっていないが、7万の市民の半数以上が既に死亡しているのでは、という憶測が飛び交っていた。
生存者に対する支援は、上空からの水や物資の投下のみとなった。今までのデータから「仁蓮病」に対しては既存の対策がほとんど意味をなさない、という推測が立てられたからだ。防護服や酸素マスクで厳重に対策しても感染するし、一度かかってしまえば仁蓮市の外に出ても助からない。
一方で希望が見えるニュースもあった。周辺地域への感染拡大がまったく見られなかったのだ。専門家はそろって首をかしげたが、実際に仁蓮市の外で患者が出た事例は一つもなかった。
「迅速な隔離が功を奏した」と評価する声がある一方、「7万の市民を見殺しにした」という批判も強かったが、国民の多くは政府の方針を支持し、国際社会もそれを黙認する。歴史を紐解くまでもなく、新種の感染症への恐怖は人々の記憶に深く刻まれていたからだ。
仕方なかったとはいえ世界は仁蓮市の住民を切り捨てたのである。そして、切り捨てられた7万人の中には、あの赤尾貞治も含まれていた。
「……金……使っときゃ……良かった……」
赤尾は滝のような汗を流しながら床の上を這いずっていた。今は夜だが停電でクーラーが使えないせいで部屋の中は耐え難い蒸し暑さである。窓を開けてはいるがエネミー対策で板を打ち付けたせいで風通しなど望めない。
頭痛、吐き気、倦怠感、全身の痺れ、その他様々な症状が入れ代わり立ち代わり、時にまとめてやってくる。このまま意識を失ったら死ぬという恐怖が赤尾を突き動かしていた。「人間いつかは死ぬ」なんて偉そうに言ったが、実際に死にかけるとこんなものだ。
スマートフォンのバッテリーは残っているが、繋がらないので意味がない。それに通じたとしても誰が助けに来るというのか。相手の方こそ「助けてくれ」と思っているに違いない。今この街で元気なのはきっとティリアのような〈マルダリアス〉の生き物だけなのだろう。
(約束を破った罰……か)
故意ではないにせよ、赤尾はティリアとの約束を破ってしまった。直接謝る機会もないまま日々を過ごすうちに、突然家にやってきた正体不明の連中に尋問を受け、知っていることを洗いざらい喋らされた。あの日から何日たっただろう。もはや日付の感覚すら曖昧になりつつある。
(助けに来て……くれるわけねえよなあ……)
そもそもティリアはこの家を知らない。そして連絡も取れないのだからどうしようもない。赤尾は役立たずのスマートフォンを床に置くと、暗い家の中を見回した。板の隙間から差し込む月光で、おぼろげながら物の形は見える。電化製品は止まっており、家の中は静まり返っていた。聞こえてくるのはエネミーと虫の声だけだ。
(……何だ?)
ふと気づくと暗闇の中で何かが光を放っている。赤尾はスマートフォンを拾い上げて部屋の中を照らした。部屋の片隅でぼんやりとした光を放っていたのは〈マルサガ〉の専用ハードウェアである〈バーサルウェア〉だった。その光に吸い寄せられるように、赤尾は床を這っていく。
手探りで〈バーサルウェア〉を持ち上げて電源コードを手繰り寄せると、先端は宙ぶらりんだった。これでは停電していなくても電源など入るはずがない。入るはずがないのに、どういう訳かパワーランプが発光している。見間違いかと目をこするが何度見てもそれは光を放っていた。
(理屈なんて、知った事か)
理屈はわからないが電源が入っているなら起動するはずだし、さらに奇跡が重なってゲームにログインできれば、誰かと連絡が取れる可能性もある。最悪爆発などしたとしたところで、このままでは死を待つだけの身だ。赤尾はのろのろと〈バーサルウェア〉を装着して起動スイッチに触れた。
(起動、した……)
何事もなくタイトル画面が表示され、キャラクターの選択画面に移行する。熊と人間の中間のようなキャラクターが映し出された。〈
理想のキャラクターを作る難しさと手間に早々に心が折れてしまい、それならばと思い切り獣に寄せて作ったのがアジールだった。骨格こそ人間寄りだが、顔立ちは人間の面影がある熊である。
事件が起きてからずっと繋がらなかったのに、何故今になってログインできるのか、本当にワケが分からなかった。
普通なら、この画面で選択したキャラクターの姿で〈マルダリアス〉に移動するのだが、どれだけ操作しても画面は切り替わらなかった。
「やっぱりダメか……うぐ!?」
絶望したところに強い発作が襲ってきた。今までの症状が子供騙しに思えるほどの強烈なもので、あまりの苦しさに胎児のように身体を丸めて呻くことしか出来ない。
(ぐるじい……だずげで……だれが……)
顔から身体からありとあらゆる液体を垂れ流しながら、赤尾は一刻も早くこの苦しみが終わってくれることを祈ったが、その願いも空しく苦痛は延々と続いた。眠る事も気を失う事も死ぬことも出来ずに苦しみ続け、時間の感覚すらなくなった。
何時間、あるいは何日経っただろうか。いつ果てるとも知れない拷問のような責苦に正気を失いかけた頃、ふっと苦痛が和らいだ。同時に目の前に何者かの気配を感じて、赤尾は瞼をうっすらと開く。
(……あ、ああ……どうして……)
ドアには鍵がかかっているし、窓は板を打ち付けてある。隙間は小型のエネミーなら通れる可能性はあるが、人が通れるほどではない。だというのに、目の前に立っていたのは紛れもなくティリアだった。
「た、助けに……来てくれた……のか?ご、ごめん……おれは……」
どうやってここを知ったのか、どうやって入ってきたのか。そんなことはどうでも良かった。赤尾は謝罪を口にする。許してもらえるとは思えないが、謝らずにはいられなかった。少しでも罪悪感から逃れたかった。
だがティリアは怒っている風でも悲しんでいる風でもなく、ただじっと赤尾の顔を見下していた。以前話した時とはまるで違う様子に違和感を感じて、赤尾は言葉に詰まる。
「こっち?あっち?」
「え?」
ようやく口を開いたティリアは意味不明のことを口走る。指示代名詞だけでは何が何だか分からない。気づけば赤尾を苛んでいた地獄のような苦痛は嘘のように消え去っており、起き上がる事も出来るようになっていた。
「どっち?」
「何がなんだか……せ、説明してくれ」
ティリアは何も答えようとしない。おそらくは彼女の手を取るか、取らないかという事なのだろうが、何か重要な意味があるように感じる。周囲は暗闇に閉ざされており、ティリア以外は何も見えなかった。いよいよもってまともな状況とは言い難い。
「えらんで」
背後から差してきた光に気づいた赤尾が振り返ると、少し先の闇の中に明るく暖かな花畑の光景が浮かび上がった。穏やかな日差しの下で色とりどりの花が咲き乱れ、鳥の囀りや小川のせせらぎすら聞こえてくるようだった。その一方で、ティリアの背後には漆黒の闇があるだけだ。
赤尾はティリアの顔を覗き込むが、相変わらずやはり何も答える気はないようだった。今ある情報だけで選べということらしい。
「わかった」
少しだけ悩んだ後、赤尾はティリアの手を取る。こんな状況なら多くの人間は花畑を選ぶのだろうが、ひねくれもの故に天国のような光景に胡散臭さを感じてしまうのだ。しかし一番の理由は、花畑を選べばティリアに会えないだろう、と思ったからだった。
「きめたの?」
「ああ」
僅かに首をかしげるティリアに向けて、赤尾は深く頷く。
「ハッピーバースデー、サダハル」
後頭部から聞こえた囁きに驚いて振り返ったが、そこには何もなかった。先程まであった天国のような光景もない。慌てて向き直るとティリアの姿はなく、自分の身体の感覚すら消え失せて、意識だけが闇の中を漂っていた。
だがそんな中でも、誰かに呼ばれているイメージだけはあった。薄れる意識の中で赤尾はそれがティリアであると確信していた。
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部屋に差し込んでくる日差しで赤尾は目を覚ました。床に寝そべったまま大の字に手足を伸ばす。その身体は人間のものでなくなっていた。全身は赤茶けた長い体毛に覆われ、手も足も人間ではないものに変わっている。
「……腹、減った……」
赤尾はのそりと立ち上がる。身体をまっすぐ伸ばすと頭が天井にぶつかりそうだった。
「何か、食うものは」
あっという間に目に付くものを食らい尽くした赤尾だったが、空腹を満たすには足りなかった。金属の味しかしなくなった缶詰を勢いよく吐き出すと、すっかり変形した金属の塊が床の上を転がっていく。
「足りねえ」
寝起きと空腹のせいか頭がはっきりしない。しかし、何か考えるのは腹を満たしてからでも遅くはないだろうと、赤尾は乱暴にドアを開けて家の外に出る。ミルクのように濃い
赤尾は鼻を利かせて周囲の様子を探る。こんな見通しの悪い状況では鼻と耳の方が頼りになった。獲物の臭いを嗅ぎとるなり食欲に突き動かされて一目散に走り出す。木々の間を抜け、垂れ下がる枝の下を潜り、蔓に覆われた建物の角を曲がる。破れた窓の内側に小型のエネミーが群がっていた。獲物の匂い、血の臭いはそこからしている。
「どけ!俺の獲物だ!」
雄叫びを上げながら殺到すると、小型エネミーはクモの子を散らすように逃げ出した。後に残されたのは全身を齧られた人間の死体だった。先程の小型エネミー達もまだ見つけたばかりらしく「中身」は食われていない。赤尾は駆け寄って獲物の腹に牙を立てようとした。
「……?」
だが、そこでぴたりと動きが止まってしまう。よく分からない何かがそれを口にすることを躊躇わせたのだ。とはいえ、そんな違和感など空腹に比べれば取るに足りない。気を取り直した赤尾は獲物にかぶりついて舌鼓を打った。
いくらか腹が膨れて落ちつきを取り戻すと、近くにあったシーツで残りの部分を一まとめにする。まだ満腹には遠いが、ここでは邪魔者が入る可能性が高いし「食材は調理したらもっと美味い」ということに気付いたからだ。しかし焼くにしても煮るにしても、あの家にあった道具では小さすぎる。
(とりあえず場所変えるか)
赤尾は食材の包みを担ぐと、窓から飛び出して周囲を見回した。木々に埋もれた街並みには見覚えがあるような、ないような、どちらとも言えなかった。しかし今はそんなことはどうでも良かった。「この食材を調理して味わいたい」という衝動が赤尾を急き立てていた。
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