phase28 蝕まれる世界
連休最終日の朝。昨日からの雨は上がっていて、聞こえてくるのは心地良い鳥のさえずり、ではなく上空を飛ぶヘリコプターのローター音だった。もはや慣れっこになってきつつあるが、うるさいものはうるさい。
「うう……朝か」
瑞希は身体を起こして大きく伸びをする。すぐそばで紅美が寝ていて夜間飛行の騒音もうるさかった割にはよく眠れたようだった。この身体になる前は眠りが浅く、夜中や明け方にしょっちゅう目が覚めていただけに、朝まで熟睡できるようになったのは素直に嬉しい。
まだ少し眠かったが、目覚めてしまった以上じっとしていたくなかった。紅美には無理をするなと言われたが、出来ることをするのは無理でも何でもないのでセーフなはずである。
瑞希は寝ている紅美を起こさないよう静かに布団を畳むと、昨日持ってきた袋を抱えて部屋を出た。幸助や玲一もまだ寝ているらしく、耳を澄ませてもエアコンや電化製品の駆動音しか聞こえない。
洗面所に行って歯磨きを済ませ顔を洗い、いつもの習慣から無意識にヒゲ剃りを探していた瑞希は、鏡に映った己の顔を見て苦笑する。
(なに、その分尻尾はフサフサだし)
瑞希は顎をさすって尻尾を一振りすると、タオルを首にかけてリビングルームに向かった。ドアを開けた途端、待ってましたとフェリオンがすり寄ってくる。紅美が落ち着かないと思ったのと、ここからなら家のどこにでもすぐ駆けつけられるので別々に寝ていたのだ。
「おっはようフェリオン。見張りありがとな」
瑞希はひとしきりフェリオンとスキンシップを取ると、アイテムに戻れと念じながら首輪に触れた。フェリオンの姿が消えて飾り気のないブレスレットが現れる。
(毎日肉をあげるのは無理だし、早くドッグフード買いに行きたいなあ。いっそエネミーを……いや、さすがに)
ブレスレットを左腕にはめて着替えを始める。自宅アパートに出現した衣類は多種多様で記憶にないものもかなりあったが、現代日本の田舎街で着れそうなものとなるとさほど多くはない。
どれも本物だけあってペラペラした不自然さはないにせよ、異国情緒に溢れすぎたエキゾチックな衣装や、いかにもファンタジックな服や鎧を着て出歩く訳にはいかないからだ。耳や尻尾を晒している時点で手遅れだろう、と言われれば返す言葉もないが。
「さて今日は……と」
下着だけになった瑞希は袋の中から昨日とは別のショートパンツを取り出した。涼しくて動きやすく、走ろうが跳ねようが見えてしまう心配がないのでお気に入りである。
ぴったりしたパンツルックはスタイリッシュだし、男と違って股間を気にする必要がないので楽なのだ。蒸れやポジションを気遣う必要もない。さらに胸に余計なウェイトもついていない。今の自分は最強なんじゃないか、などと考えてみるが、やはり一抹の寂しさは拭えなかった。
ショートパンツに足を通して尻の半ばまで引き上げ、尻尾を穴に通してから腰まで引き上げる。慣れればなんてことはない。続いてベルトに鉈のような肉厚の刃物を装着した。仁蓮駅で無くした〈月相のダガー〉と違って普通の武器だが、重量があって頑丈なので弱いエネミー相手には十分使えるのだ。
武器攻撃に耐性のあるエネミーや、昨日の〈
(暑いし、着けなくていいよな)
最強なのでブラジャーなど必要ない。頭からノースリーブをかぶり、髪を引っ張り出して後頭部で一纏めにする。この髪の毛にも少しは慣れてきたが、毛の量が凄くて濡れるとびっくりするくらい重いのが困りものだ。
ちなみに昨夜、髪の一房を切ってから寝たのだが、起きてから調べたら切った部分がわからなくなっていた。まるで怪談に出てくる呪いの人形のようだ。
「呪いの人形、か」
近づいた人間を次々と不幸に追いやる人の形をした呪い。そんな自分が人外の姿になったのは、必然だったんじゃないかと瑞希は自嘲する。
手足の爪も同じように元に戻っているが、一応武器にはなるし時間もないのでそのままだ。とはいえこれでエネミーと戦うのは最後の手段である。武器としては頼りないというのもあるが、他に道具があるなら自分の爪を汚したくない。
はやる気持ちを抑えて柔軟体操を済ませると、テーブルの上に周辺の偵察に行く旨を書置きしておく。夜の間に周りの状況がどう変わったのか気になっていたし、身体がうずうずしていて何でもいいから駆け回りたかった。
年甲斐もなくこんな子供じみた衝動に駆られている事がバレれば、間違いなくからかわれるだろう。特に幸助にだけは知られたくない。それでもこみ上げてくるものは止めようがなかった。
最低限のアイテムを詰めたウェストバッグを身につけると、瑞希は尻尾を立てながら玄関のドアに近づいて耳を澄ませる。相変わらずヘリコプターの音はうるさいが、家の周りで不審な物音はしなかった。
チェーンをしたまま玄関のドアを少しだけ開いて外を覗く。外には濃い
(昨日とは全然違う……何の匂いだ?)
雨の後の湿った土の匂いだけではなく、何か嗅ぎなれない匂いがした。すんすんと鼻を鳴らしている内に
現実にはあり得ない〈マルダリアス〉の草花が、あちこちで枝葉を伸ばしていたからだ。嗅ぎなれない匂いの元は間違いなくこれだと思った。〈バーサルウェア〉は嗅覚を再現できないので、すぐにはそれと分からなかったのだ。ゲーム内での嗅覚の扱いはもっと単純化されたものだ。
「まさか!?」
瑞希は外に飛び出すなり家の壁に飛びつき、窓枠や雨どいなどに手足をかけて登っていく。昨日戦った〈
あっさり屋根の上に立った瑞希は周りの様子に目を凝らす。真っ先に目に入ったのは遥か上空を飛ぶヘリコプターと、奇っ怪な鳴き声を上げている飛行エネミーの姿だった。大して強いエネミーではないが、小さな子供なら攫ってしまいそうな大きさがあるので油断はできない。
続けて
瑞希は何度も目を擦り、目の前の光景が夢でないことを確かめずにはいられなかった。
(……こりゃ、ただごとじゃないぞ!)
瑞希は屋根の上から地面をさっと見下ろした。地上までは6メートルほどだろうか、下手すれば大怪我をする高さである。しかし昨日の戦闘で否応なしに己の身体能力を確かめていた瑞希は、その高さが問題にならないことを感覚で理解していた。
えいやっと呟いて6メートル下の地面に飛び降りる。着地の衝撃も物音も予想通り小さなものだった。自分の身体に働く超常的な力に感動する間もなく、瑞希は家に入って階段を駆け上がり、幸助の部屋のドアをノックした。
「幸助!起きろ!外が!外が大変なことになってる!」
「んあ……何だよ。朝っぱらからうるせえな」
ドア越しの会話がもどかしくなり、瑞希は勢いよくドアを開けて部屋の中に踏み込んだ。幸助は照明をつけっぱなしで寝ていたらしく部屋の中は明るい。
「それどころじゃないぞ!そこら中に〈マルダリアス〉の植物が!」
「ちょっ、いきなり開けんな!」
ベッドに駆け寄ると幸助は慌てて身を起こした。瑞希は構わず幸助の腕を引っ張ってベッドから連れ出そうとするが、うっかり爪を立ててしまったらしく幸助は悲鳴を上げる。
「いってぇ!爪ひっこめろバカ!!」
「あっ、ごめん……」
瑞希は慌てて手を離し両手の爪を引っ込める。まだまだ自由自在という訳には行かないのだ。足の爪も同様なので、慌てて走ってきた廊下や階段がどうなっているのか確かめるのが怖い。
「ったく。一晩たったんだから少しは落ち着けよな……それで?植物がなんだって?」
「そう、そうなんだよ!街中に〈マルダリアス〉の植物が生えてて」
「なに?」
幸助はベッドから跳ね起きると窓とシャッターを慎重に開いて外を見渡した。しばらくの間
「……こりゃ想像以上だわ。ほっといたら一週間もしないうちに〈マルダリアス〉の森になっちまいそうだぞ」
「これってもう、俺達がどうこうできるレベルじゃないよな」
「俺は朝支度してリビングで情報調べてるから、お前は鬼島さんと竜宮さんを起こしてきてくれ」
「わかった!」
幸助の部屋を出て、紅美が寝ている部屋の前まで戻って来た瑞希は、少し息を整えてから静かにドアをノックした。さすがに幸助と同じようには行かない。
「紅美、起きてくれ。緊急事態だ」
「……うーん、もう朝……」
女性の寝起きという事で少し迷ったが、一晩同じ部屋で寝ていたのだから今更である。ドアを開けて明かりをつけ紅美の枕元に膝をつくと、目を覚ました紅美が薄く目を開けて見つめてきた。
その顔が心なしか赤いように思えて瑞希に中に緊張が走る。今の状況では風邪だとしても油断できないからだ。
「おはよう、紅美」
「ああ、ティリア……それにこの部屋……やっぱり夢じゃないんだね……」
「うん……それより少し顔赤く見えるけど、体調悪い?」
医療機関が当てにならない今、病気や怪我は深刻な問題だった。薬品類も買い足してはいたが、いざという時に医師の診療が受けられないのは不安すぎる。〈マルダリアス〉のアイテムでどうにかなるのは瑞希だけだからだ。
「あらら、一目でバレちゃうか……確かにちょっと熱っぽいかな」
「やっぱり!すぐ体温計と風邪薬持ってくるから今日は一日ゆっくり休んでて。朝ごはんも
「あはは。そこまで辛い訳じゃないから大丈夫だよ。ほら」
紅美は何でもないように布団から立ち上がる。思ったより足元はしっかりしていたが、瑞希はやはり不安が拭えなかった。
「でも、体調良くないならやっぱり寝てた方が」
「大丈夫だって。風邪薬飲んで静かにはしてるつもりだから。それよりティリアにうつらなくて良かった」
紅美は瑞希より頭一つ分は背が高い。自然と見上げる形になった瑞希の頭を紅美の手がぽんぽんと撫でてくる。この扱いは思う所がないでもないが、この程度のスキンシップは昨日された事に比べれば大したことはないし、紅美の気が済むならそれでいい。
「ところで緊急事態って?」
「あ、そうだった。〈マルダリアス〉の植物が街中に生えてきて、見渡す限り凄いことになってるんだよ」
「へええ……エネミーだけじゃなく植物まで……なんだか、とんでもないことになってきちゃったね」
「……」
やはり昨日の内に無理を承知で送って行くべきだったのでは、と思ってしまうが、今さらそんなことを言っても後の祭りだった。それにあの土砂降りの中、車も使えないのに別の街に移動するなんてエネミーがいなくても不可能だっただろう。
ただの偶然といえばそれまでだが、何者かがこの街から誰も逃がすまいとしている気がして、瑞希は胃を締め付けられるような気がした。
「出海さんと鬼島さんはもう起きてるの?」
今さらながら紅美の言葉遣いが変わっている事に瑞希は気づく。相変わらず子供扱いされている気もするが、呪いの事を考えれば積極的に合わせるべきなのだろうし、紅美の命に比べれば自分のプライドなど些細な問題である。
「幸助はさっき起こしたからリビングルームにいるはず。鬼島さ……玲一はこれから起こし行くところだよ」
「そう、わかった。じゃ私も後から行くねー」
廊下で紅美と別れ、瑞希は気を取り直して玲一の部屋に向かった。昨日話した時は元気そうだったが、落雷にあって一時心臓が止まるというとんでもない目にあっただけに、一晩たって何かの後遺症が出ていないか心配だった。
「玲一。朝だぞ。起きてくれ」
ノックの後で声をかけるが返事は返ってこない。何度か繰り返して耳を澄ませるがエアコンの音がうるさくてそれしか聞こえなかった。何かあったのではと胸騒ぎを覚えて瑞希はドアノブに手をかける。
「玲一、入るからな!」
ドアを開けると玲一は静かに布団で寝ていた。瑞希はそっと近寄って枕元に膝をつき、玲一の顔を覗き込む。
「起きてる……か?」
その瞬間、瑞希はギョッとして尻尾を振り上げた。玲一は苦しげな表情を浮かべ、額にうっすらと汗をかいている。呼吸も少し早い。これはただ事ではないと瑞希は血相を変えて呼びかけた。
「玲一!?具合悪いのか!?悪いんだな!?」
呼びかけを繰り返しているうちに玲一の目がうっすらと開いて宙をさまよい、やがて目を合わせてきた。
「やぁ……おはよう、ティリア」
「ごまかさず正直に話してくれ。体調悪いんだろ!?」
「確かに良くはない、かな……」
そう口にする玲一の表情には、いつもの余裕が感じられなかった。
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