phase24 交差する想い
生暖かく湿ったもので顔を撫でられる感触で瑞希は目を覚ました。それなりに長い間好き放題されていたらしく、顔中はベトベトで目覚めとしては最悪の部類である。そんなことをする犯人はもちろん一匹しかいない。
「うぷっ……フェリオン、もう大丈夫だからさ」
瑞希は舌の攻勢から顔を背けながら身体を起こした。目を開けると幸助の家、自分が間借りしている部屋だった。窓の外に目を向けると日はだいぶ傾いてきており、気を失ってからかなりの時間が経っていることに気づかされる。ヘリコプターが何機も飛び回っているらしく、耳障りなローター音がひっきりなしに聞こえた。
(今度も助かったみたいだな……それより、何か拭くものは……)
寝起きの気怠さも手伝ってぼんやりしている瑞希の前に、横合いから濡れタオルが差し出される。振り向くと少しやつれた顔の玲一が座っていた。
「おはよう。傷はもう良いようだね」
「あ、ああ……うん、ありがとう」
ぼんやりした頭をしゃっきりさせるべく、瑞希はタオルを受け取って唾液でベタベタの顔を拭う。フェリオンは強くて賢くて可愛い自慢のペットなのだが、これだけは困りものだった。
彼はとても賢いので言えば従ってくれるだろうが、心配をかけたことを思えば今は甘んじて受け入れるべきなのだろう。冷たいタオルでさっぱりすると瑞希はようやく頭が回り出した。
「鬼島さん!起きてて大丈夫なのか?息も心臓も止まって……」
「落ち着いて。僕はしっかり生きてるし身体に異常はないよ。落雷といっても直撃じゃなかったんだろう。何なら確かめてみるかい」
瑞希はすぐさま身を乗り出して玲一の胸に顔を押し当てる。ドクドクと脈動する心臓の鼓動を感じ取ると目頭が熱くなった。
「……動いてる、生きてる……よかった……」
あの後で幸助か紅美が蘇生させてくれたのだろうと、瑞希はホッと息を吐き出した。
「まいったな……冗談のつもりだったんだけど」
「……あ」
玲一の呟きで我に返った瑞希は、自分がいかに気持ちの悪い行動を取ってしまったのか理解して青ざめる。中身が男だと分かっている相手にこんな事をされたら、ふつうはドン引きであろう。瑞希は尻餅をつく勢いで玲一から離れ、寝ていた布団の上に戻った。
「ごめん!気持ち悪いことして!これは、俺は、別にそういう……」
「構わないよ。それよりお礼を言わせてほしい。僕が死にかけてた時、必死になって助けようとしてくれたんだってね。君が寝てる間に出海さんと竜宮さんから聞いたんだ」
「礼なんて……運んだのは幸助だし俺は何もできなかった。あちこち引っかいちゃったし」
「それくらいのこと、感謝はしても責めるなんてありえないよ」
そこで瑞希は、玲一にはまだ謝らなければならないことがあるのを思い出した。この様子だと幸助も紅美も言ってはいないだろう。
「それと、その……言いにくいんだけど……じ、人口呼吸を……ごめん!」
「それは、聞いてなかった。言われてみれば唇に何か、感触が残ってるような気がしないでもないかな、はは」
玲一は一瞬目を見開いて口元を手で覆った。気を使っているだけで内心では相当気持ち悪いと思っているのだろう。部屋から出たらきっと即座に洗面所に走るはずだ。そうされても仕方ないことをしてしまったとはいえ、瑞希は身が縮む思いだった。
「ホントにごめん!あの時は夢中で」
「謝る必要なんてないよ。君がそうしてくれたおかげで、僕はこうして生きていられるんだ。ありがとう」
玲一はあくまでも優しかった。それが逆に瑞希の胸を締め付ける。幸助と違って玲一はゲーム内での知り合いでしかない。付き合いはそれなりに長いが現実で実際に会った事は一度しかないのだ。
それだけの関係なのに、あんなメチャクチャな呼び出しに応じて来てくれたのだ。そんな人を自分のせいで2度も殺しかけた。
許されて良いはずがない。どうして責めてくれないのか、責めてくれれば少しは気が楽になるのに、と瑞希は思った。思ってしまった。
(なら……これを言えば鬼島さんだって……)
「鬼島さんが……死にそうになった事自体、俺のせいだと言っても?」
山や海あるいは河川敷などの何もない場所ならともかく、建物が立ち並ぶ街中で人が落雷にあう可能性はかなり低いはずで、それこそ宝くじ並だろう。瑞希からすれば自分の呪いに巻き込んだからとしか思えなかった。
「それはどういう意味?」
「幸助には止められてたけど……こうなった以上、全部話すよ」
傍らで静かに身を伏せているフェリオンを撫でながら、瑞希は自分の過去を玲一に話した。家族を亡くした事故から始まった不幸の連続、呪いとしか思えない不運についてを。玲一は茶化したりふざけたりすることなく真剣に聞いてくれた。
「……そんなことがあったのか。昨日までなら眉唾だっただろうけど、今なら信じられる。呪いかどうかはともかく作為的なものを疑う気持ちは分かるよ」
「だから本当は二人に手伝いを頼むのも迷ってたんだけど……」
「出海さんだね。確かに真っ先に酷い目に遭いそうなのに」
「ああ。幸助は大丈夫だったから……ちょっと油断してたのかもしれない……でも」
自分の勝手な思い込みで友人を、少なくとも瑞希からは友人だと思っている人間を殺しかけたのだ。助かったからと言って許されることではないだろう。非難され絶交されることも覚悟しての告白だった。
「それで、鍵森さんはどうしたいのかな」
「どうって……この後、鬼島さんと竜宮さんを家まで送って、もう二度と近づかないようにする。幸助にはもうちょっとだけ世話にならなきゃならないけど、いずれは一人で」
「それって意味あるのかな?話を聞いた限りだと離れた場所で亡くなったり不幸に遭った人も多くない?」
「それはそうだけど……」
「それに話の通りなら僕も竜宮さんもとっくに手遅れだと思うよ。例えこの後、完全に付き合いを断ったとしてもね」
「じゃあ……どうすればいいんだ。他にどうしようも……」
確かに玲一の言う通りではあるのだが、他に手など思いつかない。自分の被害に遭う人間を増やさないためには、親しい人間など一切作るべきではないのだ。どこか人間のいない場所でひっそりと生きるしかないのだ。
「こうは考えられないかな。ご家族を除いて、誰よりも君と親しかった出海さんは呪いの被害を受けず、そこまで行かない僕は死にそうな目にあったけど、こうして生き残った」
「……へ?」
瑞希は思わず間の抜けた声を上げてしまった。そんなことは今まで考えた事もなかったからだ。いくら玲一の台詞とはいえ、さすがにすぐには頷けない。
「い、いやでも、幸助だって巻き込まれて酷い目に遭ってるし」
「酷い目、本当にそうかな。僕からすると出海さんは今の状況を楽しんでる、とは言わないまでも、望んで受け入れているように見えるよ」
それこそあり得ない、と言いかけて瑞希は考え込んだ。言われてみれば思い当たる節がなくもないからだ。「面白そうだから付き合う」とか言っていたし、自分と同じように〈マルサガ〉のキャラクターになりたがっていたくらいだからだ。
「言われてみれば……」
家族のことを除けば大体の辻褄が合うような気がしてくる。玲一の頭の回転の速さには一目置いていたし、〈マルサガ〉での長い付き合いで信用もあっただけに、その言葉には説得力があった。
何よりもそれは瑞希の希望に
「きっとそうだよ。物理的に離れたところで呪いから逃れることは難しいかもしれない。でも出海さんと同じくらい親しくなれば、あるいは」
「た、確かに……そうかも」
瑞希は身体が震えるほどの興奮を感じた。この先ずっと一人ぼっちで生きて行かなければならないと諦めていたところに、そんなことはないと気づかされたからだ。
「まあまあ、落ち着いて。親しくなると言っても君と出海さんくらいに打ち解けるのはすぐには難しい。といってゆっくりしてるとまた呪いが降りかかるかもしれない。だからここは形から入るのがいいと思うんだ」
「というと?」
「呼び名からっていうのはどうかな?今後、僕の事は名前で呼んでほしい。さんづけも要らない。僕も君の事はティリアと呼ばせてもらうよ」
「名前で呼ぶのは分かるけど、『瑞希』じゃないのはどういう?」
「僕からすればその姿はティリア以外の誰でもないし、鍵森さんがその姿に名付けた名前だからだよ」
「うーん……そういうものかなあ」
ティリアを作成したのはかなり前の事なので、瑞希もはっきりおぼえているわけではない。どういう意図でこの名を付けたのかも思い出せなかった。しかし自分が名付けたのは間違いないので、玲一の言うことも一理ある。
「あとは一応、用心の為でもある。今の鍵森さんの特異性と身元が知られるのは、余計な面倒が増えると思うから。うっかり外で呼んでしまわないようにね」
その理屈は瑞希にも理解できた。今の自分を捕まえて〈マルサガ〉のエネミーやアイテムの原理解明に利用しようとする国家や組織などいくらでもいるだろう。瑞希は天涯孤独の身の上なので、幼馴染の幸助が狙われることは十分あり得る話であった。
「でも、これだけは言わせてほしい。僕は何も呪いの事だけで君と仲良くなりたいわけじゃない。今までの〈マルサガ〉での付き合いに加えて、今日一緒に修羅場を潜り抜けて君という人物をより深く知った。その上で、もっと親しくなりたいと思ったからだよ」
玲一の台詞を聞いて、瑞希は思わず半歩分ほど後ずさった。聞きようによっては別の意味に取れてしまう台詞だったからだ。
「ちょ、ちょっと待った!酔っぱらってないよな?その言い方は誤解を生みかねないぞ?」
瑞希とて玲一と親しくなるのは望むところだが、だからってあんな言い方をされたら素直に頷くのは難しい。たとえそういう意味でなくとも、気恥ずかしいというのもある。
「酔っぱらってはいないけど、いつも通りじゃないかもしれない。何せ一度死んだようなものだしね……というわけでティリア。改めてよろしく」
玲一はいつもの微笑みを浮かべているが、その目はいつになく真剣な光を湛えて瑞希の目を見据えていた。瑞希は観念して受け入れる。もとより拒否など出来る立場ではないのだから。
「わ、わかった、よろしく……れ、れい、玲一……」
何とも言えない気恥ずかしさに顔が熱くなる。日本で生まれ育った身としては、初対面ですぐ名前で呼び合う外国人の感覚が信じられなかった。
(いっそ外国人ロールプレイをしてるつもりになれば……「玲一」ではなく「レイイチ」だと思えば……)
となれば当然、握手とハグをするべきなのかもしれない。ハグはさすがに気が引けるが握手ならいいかと瑞希は玲一に向かって手を差し伸べた。
「ちょっと待って!」
部屋のドアが勢い良く開かれる。驚いて振り向いた先には引きつった笑みを浮かべた紅美が立っていた。心なしか顔が赤いような気がする。
「話は全部、聞かせてもらいました。抜け駆けはずるくないですか?私だってティリアともっと仲良くなりたいのに」
「……やあ竜宮さん。ティリアにも気づかれないなんて相当だね」
「ええ、お互い油断してましたね」
つかつかと部屋に踏み込んできた紅美は、玲一を一瞥してから瑞希の前に立った。紅美から放たれる謎の迫力に戸惑った瑞希は、何となくそうしなければいけないような気分になって布団の上で居住まいを正す。紅美が腰を落として目線を合わせてきた。
「私もお願いします。鬼島さんが良くて私がダメってことは無いですよね?」
「え、何を」
「とぼけないでください。名前ですよ名前」
「も、もちろん……改めてよろしく……紅美」
もうどうにでもなれと瑞希は全てを投げ捨てた。
「こちらこそよろしく、ティリア」
にっこり笑う紅美からは先程までの迫力がウソのように消えていた。差し出しだされた手を爪で傷つけないよう注意しつつ、瑞希は二人と代わる代わる握手を交わした。
「あ、そうそう。君の身体を拭いて着替えさせてくれたのは竜宮さんだよ。僕はもちろん、出海さんも一切手伝ってないそうだから安心してほしい」
「そ、そっか。ありがとう、紅美」
気絶する前は頭から下着までずぶ濡れだった上に、あの〈
幸助にもからかわれたが、この身体になってからは男に裸を見られるのは少しばかり抵抗があった。涼しさや動きやすさ優先で露出の多い恰好をしていても、全裸とは天と地の違いがある。
女性の紅美に見られるのがまったく恥ずかしくないわけではないが、やはり気持ちの面でずっと気が楽だった。
「どういたしまして。でもティリアがしてくれた事に比べればどうって事ないです。ティリアが庇ってくれなかったら私はとっくに死んでたか、あのエネミーのお腹の中だったはずですから。ありがとう」
「どういたし……!?」
気が付けば瑞希は紅美に抱きしめられていた。女装して痴漢しているような罪悪感を覚えた瑞希は離れようと身じろぎするが、紅美の腕はがっちりと巻きついていて放してくれそうもなかった。
本気を出せば振り払えるだろうが怪我をさせかねないし、紅美の微かな震えに気づいてしまってはもう、一切の抵抗をやめて身を任せるほかなかった。
(もう少しで殺されるところだったんだから、怖くないわけないよな……)
自分の方でも抱き締め返すべきなのかと思ったが、さすがにそんなことは出来なかった。紅美だって今は混乱しているだけで冷静になればきっと後悔するに違いない。
黙って抱き枕になっていたが瑞希は、ふと誰かの視線に気づいて顔を上げる。見れば玲一が微笑ましい物を見るような目で見つめてきていた。途端に羞恥心が巻き起こり顔がかっと熱くなる。
「あ、あのさ……そろそろ放してほしいんだけど……玲一も見てるし、ちょっと恥ずかしいというか……」
「もうちょっとくらい良いじゃないですか。私だって真っ先にお礼言いたかったのに鬼島さんに譲ったんですよ?」
「ははっ。お邪魔そうだし僕は少し外に出てるよ。また後でね」
「あ……」
「ちょっとだけ耳や尻尾触らせてもらっていいですか?着替えさせる時は我慢したので」
「そんな台詞聞きたくなかった!フェリオン!」
「大丈夫ですよ。私たちはスキンシップするだけですから、ね?」
玲一はそそくさと部屋を出て行ってしまい、頼みのフェリオンは布団の傍で寝そべったままだった。危険がない以上邪魔はしないということだろうが、その賢さが今は恨めしかった。
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「やあ、出海さん。何となくいるような気がしたよ」
玲一が廊下に出ると、腕組みした幸助が壁に背中を預けて立っていた。その眼は言いようのない圧力を湛えて玲一の顔を睨んでいる。
「うまく丸め込んだつもりだろうが、俺はそうは行かねえぞ」
「まるっきりでまかせを言ったつもりはないよ。出海さんだって呪いの事なんてわからないだろう?」
幸助は鼻を鳴らして閉じられたドアをチラリと見た。
「今のあいつはひどく不安定なんだ。そこにつけ込むような真似は感心しねえな」
「その発言は保護者としてかい?」
「ああそうだ。あいつとはガキの時分からの付き合いだからな」
「もう一人の恩人の言う事だ。よく覚えておくよ」
「俺は運んだだけで蘇生させたのは瑞希だよ。実際、玄関に寝かせてすぐあんたは息を吹き返したしな」
それだけ言うと幸助は手を振りながらリビングルームに戻って行った。残された玲一の耳に、ドアの内側から少女の嬌声が漏れ聞こえてくる。少しだけ覗いてみたい衝動に駆られたが流石に実行する気はない。
「っ……!?」
突如、玲一は強い
「う……ぐ……っ」
他人には見せられない格好のまま玲一はただひたすら耐えた。数十秒か、数分か、どうにか発作は収まると玲一は壁に手を突いたまま姿勢を正す。
(何もなしとはいかない、か……)
肌には電撃の跡らしき火傷が残り、全身には微かな痺れが残っている。心臓が止まるほどの電撃を浴びたのだから、それくらいで済んだのはむしろ幸運なのかもしれない。
人は必ず死ぬ。それは誰もが知っている当たり前の事実だ。しかし玲一がそれを本気で意識したのは今回が初めてだった。ならばせめて悔いのないように生きたいと願うのは当然の事だ。
「……後悔だけは……したくないな」
相変わらずドアの向こうから聞こえてくる嬌声を聞きながら、玲一はそっと唇を撫でた。
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