phase46 病の果てに

「息が……!」


 幸助が見つめる中、紅美の手を握っていた瑞希が血相を変えた。弱々しかった紅美の呼吸がついに止まってしまったからだ。


「紅美、ごめん!」


 瑞希は横たわる紅美の顎を持ち上げ、用意しておいたガーゼ越しに唇を重ねて息を吹き込んだ。同じことを数度繰り返してから、胸に手を当てて心臓マッサージを行う。玲一の時より手際は良くなっていたが、それでも難しいのではないかと思ってしまう。

 幸助とて紅美には生きて欲しいが、落雷のショックで心停止してしまった玲一とは事情が違うからだ。それでも瑞希の必死の形相を目の当たりにすれば、そんなことは口に出来なかった。


「マッサージなら俺が代わってやる。竜宮さんには申し訳ねえが、タオル越しってことで許してもらおう」

「……仕方ない。でも変なところに触ったら、紅美の代わりに引っかくからな」

「やらねえよ。人を何だと思ってんだ」


 幸助は紅美の胸にタオルを重ねてリズミカルに押し続ける。玲一の事があってから自分でもやり方は再確認しておいたのだ。異性ということで気が引けるが、緊急事態にそんなことは言っていられない。余計なことを考えないよう無念無想でマッサージを続けた。


「まだ駄目か!?」


 二人がかりで5分ほど続けても紅美の呼吸は戻らなかった。やはり無駄なのではないかと諦めかけるが、目を潤ませて人口呼吸を続ける瑞希を止められるはずもない。


「代わろう」

「おわっ!?」


 唐突に物凄い力で引っ張られて幸助は床を転がった。今まで黙って様子を見ていた玲一がマッサージ役を代わってくれるらしい。あのケタ外れの力を考えると若干不安はあるが、今までに家具や食器を壊したことはないので力加減は弁えていると思いたい。壁際に下がった幸助は、うっすら滲んだ汗をタオルで拭きながら人外の少女二人による心肺蘇生を見守った。


「あ……」

「やったか!」


 幸助は布団に駆け寄って紅美の顔を覗き込んだ。必死の想いが通じたらしく、紅美の胸が僅かに上下している。泣き腫らした顔を隠そうともせず歓声を上げる瑞希を見て、幸助も拳を突き上げた。


「やったじゃねえか。流石は経験者だぜ」

「ああ……」


 瑞希は濡れた目元を拭うと、弱々しいながらも自力で呼吸を始めた紅美の手を握りしめる。そのままの状態で暫く様子を見続けたが、紅美の容態はひとまず安定しているように見えた。


「幸助、お前は寝てくれ。俺はこのまま見守るから」

「わかった。サイカ、2人を頼んだぜ」

「言われるまでもない。早く出て行け」


 時刻は既に明け方近かった。静かに部屋を出た途端、幸助の口から大きなあくびが漏れる。昼間の作業で疲れていることもあって強い眠気が押し寄せて来ていた。ふらふらと自室に戻ってベッドに身を投げ出すと、意識はあっという間に眠りに落ちて行った。


                  :

                  :

                  :


「おい!起きろ!」

「ぬ……」


 耳元で響く少女の声が幸助の意識を眠りの底から引きずり上げる。薄く目を開けると窓の隙間から光が差し込んできていた。寝不足で頭がはっきりしないが、数時間は眠れたのだろうか。なかなか起き上がろうとしない幸助に業を煮やし、瑞希が腕を引っ張ってくる。


「大変なんだ!早く来い!」


 また爪を立てられる、と緊張して一気に目が冴えるが、腕に突き刺さる痛みはなかった。身体に慣れて経験を積んだことで瑞希も進歩しているらしい。ちょっとした仕草や身のこなしも変わってきているせいで、中身が同い年の男であることを忘れそうになる。


「わ、わかった、起きる、起きるからちょっと待て」


 休日朝の父親のごとくに叩き起こされた幸助は、腕を引っ張られて「女子部屋」に連れてこられた。部屋に入った瞬間、えも言われぬ芳香が幸助の思考を奪う。昨晩も感じたが今の幸助にはかなり辛い。


 だがそんな戸惑いも目の前の光景を見れば消し飛んでしまった。部屋の真ん中に敷かれた布団で、見知った人物が静かに寝息を立てている。幸助は瑞希と並んで布団の横に膝をついた。玲一は反対側に陣取って静かに酒を飲んでいる。状況は見てすぐにわかったが、詳しい話を聞こうと幸助は瑞希の顔を覗き込んだ。


「少しだけ仮眠して起きたら……もう」

「……そうか」


 炎のような赤い髪。頭から生えた2本の角は玲一のそれとは生えている位置も形も違う。布団から盛大にはみ出した尻尾は髪と同じ色の鱗に覆われている。その姿は紅美のメインキャラクター、ディアドラそのものだった。

 瑞希や玲一と同じ変異が紅美にも起こってしまったのだ。覚悟はしていたが、実際に起きるとやはり衝撃的だった。


「きじ……サイカは見てないのか?」


 ずっと起きていたらしい玲一に尋ねたが、玲一は無表情のまま杯を口に運ぶのみだった。なぜ何も答えてくれないのか、苛立ちながらその顔を睨んでいると、玲一はおもむろに杯を床に置く。


「目覚めたようだぞ」

「!」


 弾かれたように紅美の顔を見ると、開かれた瞼からライトグリーンの瞳が覗いていた。その瞳孔は蛇のように細く尖っている。


「……ここは」


 紅美の声ではない、女性としては低めの声。だがそれは幸助がよく知っている声だった。ゲーム中、この声で何度となく罵られたものだと懐かしさがこみ上げる。


「お、おはよう、紅美……」

 

 瑞希は布団の横にひざまずいて恐る恐るといった体で語りかける。紅美の目が獲物を見つけた肉食獣のようにさっと動いた。


「ティリア!」

「わっぷ!?」


 紅美は布団を跳ね除けるなり、瑞希の腕を取って身体を引き寄せる。ディアドラは長身なので、瑞希の顔が胸に埋まる形になっていた。瑞希は離れようともがいているが、紅美の腕はびくともしない。サイカと同じように今の紅美の膂力も人間の範疇にはないのだろう。


「ああ……こうしてティリアを抱きしめられるなんて」

「んー!んんー!!」


 瑞希は紅美の腕をぺちぺちと叩いて抗議しているが、感極まった紅美はそんなことはお構いなしのようだった。瑞希の髪に顔を寄せて至福の表情を浮かべている様は、友人同士のスキンシップを超えている。


(ぬ、瑞希の奴、羨ましいことされやがって)


 紅美が着ていた寝間着は翼と尻尾のせいでズタズタになっていた。そうでなくともサイズが違い過ぎる。幸助はディアドラとは仲間という意識が強いので、そういう目で見た事はさほどなかったし、そもそもゲームのキャラクターでしかなかった。


 だが今は紛れもなく現実である。禁欲生活が長引いているところに現れた、スタイル抜群の美女を意識するなという方が難しい。人外のパーツも見慣れてしまえば問題ないどころかチャームポイントになりえる。何よりお子様体型のティリアやサイカとは違うし、中身も女だと分かっているからだ。


「気持ちはよくわかるぞ、ディアドラ。だがそれくらいにしておかぬとティリアがまいってしまう」

「ああ、すまない。サイカも久しぶりだな。色々と世話になった」

「ぶはっ!」


 ようやく解放された瑞希は慌てて入り口のドア前まで逃げ出す。紅美はというと、玲一と抱き合って再会(?)を喜び合っていた。瑞希へのそれほどではないにせよ、文化が違うんじゃないかとか、中身男とそれはどうなんだとか疑問は尽きない。


 瑞希はしばらく挙動不審だったが、わざとらしく咳払いしながら紅美の傍に戻り、枕元に置いてあった手鏡を拾い上げて差し出した。


「い、一応確認するけど……紅美、だよな?自分がどうなってるのか分かる?どこか痛いとか、苦しいとかない?」

「大丈夫。身体に異常はないし自分の事も分かっている。ただ紅美ではなくディアドラと呼んでほしい。それが私の名前だからね」


 玲一とのハグを終えた紅美は受け取った鏡を片手に微笑む。一夜にして人外の存在になってしまったというのに、まるで動揺している様子はなかった。玲一という前例を見て覚悟していたとしても、多少は慌てても良さそうなものだ。


「……わかったよ、ディアドラ」


 枕元にぺたりと座った瑞希は、俯いて肩を震わせ始める。


「ごめん……ホントにごめん……こんなはずじゃなかったのに……」

「謝る必要はないさ」


 瑞希は紅美の前でしゃくりあげている。紅美の命が助かった事を嬉しく思う反面、自分のせいで人間ではなくなってしまった事に責任を感じているのだろう。それは幸助も同じだが、瑞希が受けた衝撃はずっと大きいはずだ。


 あの日以来ずっと同じ部屋で寝起きしていたし、玲一の時と同じように献身的に身の回りの世話をしてきたのだから。幸助も手伝おうとしたのだが、紅美本人の希望もあって結局瑞希に任せてしまっていた。玲一もサイカの姿に変わってしまってからはちょくちょく手伝っていたようだが。


「瑞希、これ使っとけ」


 幸助は手元にあったタオルを放り投げた。昨日心臓マッサージに使ってから、なんとなしにそのまま持ち歩いていたものだ。宙を飛んだタオルはふわりと瑞希の頭に覆いかぶさった。


「……ちょっと汗臭いぞ」

「しょうがねえだろ」


 真夏のこと、クーラーが動かない中で心臓マッサージなどすれば汗くらいかく。茂木から貰った充電器ではクーラーを動かすことは出来なかったし、手持ちの〈マルサガ〉のアイテムにクーラーの代用が出来るような物もない。せいぜい氷を作って部屋に置いておくくらいだろう。


 玲一にしてもクーラーの代わりが出来るような〈闘技バトルアーツ〉はなかった。暑さや寒さを感じなくすることは出来るらしいが、短時間ならともかくずっとそうしていたら間違いなく身体に悪い。


「そんな汚物を使うことはない。私が清潔なものを持ってきてやる」

「いいよ。そこまで臭う訳じゃないし、慣れてるしな」


 そう言うと瑞希はタオルを確かめてから目元を拭った。刹那、幸助は突き刺さるような視線を感じて息が止まりかける。目だけでその方向を窺うと、玲一がヤバすぎる気配を放っていた。またぞろ何か勘違いをしたに違いないが、こういう時にあらゆる言い訳は無用である。


。悪いけれど暫く外に出ていてくれないか?」


 緊張を破ったのは紅美だった。共同生活を始めてからそれなりに経ったが、紅美から名前で呼ばれた記憶は一度もなかっただけに少し驚いてしまう。今の紅美の声は女性としては低めで迫力があった。高い身長もあいまって女性受けもしそうだが、人外のパーツが瑞希や玲一以上に目立つのでかなり人を選ぶだろう。


 ちなみに顔立ちは「凛とした美女に隠し味ドラゴン」という感じである。瑞希や玲一も含めて顔の造形だけなら人外度はそう高くないが、間近で見るとやはり瞳の異質さが目を引く。


「着替えるのか?じゃあ俺も外に出てるよ」

「2人は構わないよ。むしろいてほしい」

「ということだ。男はさっさと出て行け」

「ちょ、押すな!」


 幸助は廊下に追い出されてドアを閉められた。瑞希はともかく玲一が追い出されないのは何となく釈然としない。


(何だろうな、このアウェー感)


 中身の性別で考えればこの家の男女比は男3対女1のはずなのだが、紅美がああいう対応を取ると逆転してしまう。家主だというのにこの肩身の狭さは何だろうか。娘しかいない家庭の父親は日頃からこんな思いを抱えているのかもしれない。追い出された幸助は仕方なく廊下で聞き耳を立てることにした。


「わ、やっぱり大きいなあ」

「我らにはこんな大きなものはないからの」

「普段は邪魔にしかならないさ」


(なにっ)


 幸助は一瞬目の色を変えたが、瑞希の話しぶりから色っぽい話ではなさそうだと落胆する。気を取り直して状況を整理し始めた。起きてしまった事はしょうがないし覚悟もしていたが、気になるのは紅美の口調や態度である。玲一と同じようにロールプレイをしているのは分かるが、問題はそんなことをする理由だ。


 興奮して浮かれているだけなのだろうか。自分のキャラクターだけに不満は少ないだろうし、途轍もない力を得た全能感から気が昂るのは普通にありえる。


(瑞希が大して変わらなかったのは、サブキャラで弱かったからか?)


 そう考えれば辻褄が合った。もしそうだとすると、今後は少し警戒する必要が出てくる。変異する人間が玲一や紅美だけで終わるとは思えないからだ。〈マルサガ〉のプレイ人口から考えて、仁蓮市内の〈マルサガ〉プレイヤーは他にもいるはずだし、瑞希が会った赤尾という動画配信者もその一人だと聞かされていた。


 キャラクターに変異した人間が、浮かれるままに力を振るえばどうなるか。全員が強力なキャラクターになるとは限らないが、一人でもこの街を更地にするには十分だろう。その勢いでに出て暴れでもしたら、翌週の天気は「晴れのちミサイル」になりかねない。


「服は一応用意しといたけど翼と尻尾がなあ」

「ホルターネックとかの背中が開いたものを探してこよう。尻尾用の穴はひとまず自分で何とかするしかないけれど」

「えっ、自分で何とかできるの?」

「それくらいならね」

「さすが本物、女子力高い」

「大したものじゃないさ。ティリアやサイカがその気になれば、すぐに私より上手くなるよ」

「い、いや。俺にはそういうのは無理だと思う……」

「私も遠慮しておこう。筆ならともかく針はな」


(何かガールズトークっぽいのが始まったぞ。本物の女なんて一人しかいねえのに)


 そもそも人間の女が一人もいないとか、幸助は胸の内でツッコミを重ねる。ドア越しに聞き耳を立てている姿は他人には見せられないが、幸い今の幸助を咎める者はいない。


「服を買いに行くならついていこうか?一応、病み上がりなんだし……」

「そう言ってくれるのは嬉しいよ。でも私の実力は知っているだろう?大丈夫だから信じて待っていてほしい」

「心配なのはわかるが、そなたとて目覚めてすぐは身体を動かしたくなったのではないか?」

「言われてみれば……確かに色々試したような気がする」


(畜生、わかんねえの俺だけかよ)


 仁蓮病などという謎の病気のせいで街中の人間が苦しみ、同居人は全て人外の存在に変異してしまったのに、自分だけはその兆候すらない。それはきっと全人類が求めて止まない体質なのだろうが、幸助は素直に喜ぶことが出来なかった。

 このままではいつか自分だけ置いて行かれるのではないか、という恐怖が頭をよぎるからだ。


(ここまで来て、俺だけノケモノなんて冗談じゃねえ)


 宝くじ当選から立て続けに起こった事件以来、友人だと思っていた人間はことごとく態度を変え、親族を名乗る人間がハエのように集まってきた。もちろんそんな連中はまともに相手にしなかったが、彼らはそうと分かると逆恨みして周囲にある事ない事を言いふらしたのだ。


 大学にも居づらくなり休学する羽目になったが、家に引きこもったところでそんな連中が押しかけてこないはずがない。何度も引っ越しをしてようやく落ち着いたが、その頃には他人の笑顔に嫌悪感しか湧かず、男も女も信用ならなくなっていた。


 そんな中、瑞希だけは変わらなかった。最初は知らなかったようだが、知った後でも態度を変えることはなかった。瑞希がそんな人間だと分かったからこそ、事情を知った時にはすぐ援助を申し出たのだが、逆にきっぱりと断られた。幼馴染だし遠慮するなと言っても、とにかく「お前から金を借りることはできない」と繰り返すばかりだった。


 最初はプライドから拒否したのだろうと思ったが、すぐにそれだけが理由ではない事がわかってくる。少額ならいざ知らず、大金の貸し借りなどすればどんなに仲が良い友人同士でも確実に関係はおかしくなる。


 瑞希は己の苦しい状況を少しでもマシにすることより、対等の友人でいられなくなる事を恐れていた、と幸助は思っている。自惚れが過ぎるかもしれないが、瑞希の過去や境遇を聞いていただけに、それは間違っていないと思えた。


 瑞希の考えに気づいた時、幸助は自分を深く恥じた。援助を申し出たのは善意からだったが、本音を言えばそれだけではなかった。苦しい所に手を差し伸べれば、払った金額以上に深く恩を感じて、決して裏切らない味方になってくれるのでは、という打算があったからだ。


 それは金で奴隷を買うのと変わらず、何よりも自分との絆を大切にしようとする友人の想いをドブに捨てる行為である。


 二度とそんなことはすまいと幸助は自分の心に誓った。そして金以外で出来ることなら何でもしてやろうと決意した。こんな事態になるとは思ってもみなかったが、その想いが変わる事はない。


(……それはそれとして……長えな……)


 話し声は延々と聞こえてくる。いつまで待てばいいのか、待ちくたびれた幸助はドアに背中を預けたまま大あくびを漏らす。やがて背後から聞こえてくる声を聞きながら居眠りを始めてしまった。

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