phase12 ホモサピエンスお断り

「ホントにやるのか?」

「ここまで来て止められるかよ。いいからやってくれ」


 瑞希の目の前に幸助の太くたくましいものが突き出される。血管が浮き上がり熱を孕んで脈動するそれを、瑞希は憧れと嫉妬しっとの入り混じった目で見つめた。今の瑞希には望むべくもないものだからだ。


「でもわざわざ俺の手でやらなくたっていいんじゃ?」

「お前じゃなきゃ意味ないんだよ。いいから早く」


 幸助に促された瑞希は渋々と目の前のそれに手を伸ばした。小さな指が遠慮がちに幸助の身体に触れる。


「どうなっても知らないからな」

「おう、バッチ来い……いって!」


 悲鳴を上げた幸助の腕に瑞希の爪が突き立っていた。瑞希はすぐに手を引っ込めたが穿うがたれた傷口からは赤い血が噴き出てくる。


「だから言っただろうが……」

「お前の爪だと違うかもしれないからな。よし、また〈回復薬〉かけろ」


 瑞希はテーブルの上に並んだ小瓶の一つを手に取ると、蓋を外して中身の液体を幸助の腕に垂らした。それは瑞希と共に現実に出現した〈マルチバースサーガ〉の〈回復薬〉である。ゲーム内では一定量を身体に振りかけるか、服用することで傷を癒す効果があった。


 空になった瓶をテーブルに置き、瑞希と幸助は固唾かたずを飲んで腕の傷を見つめる。しかしいくら待っても幸助の腕の傷が癒える様子はなかった。本来ならば液体はあっという間に消滅して治癒効果が発動するのだが、腕は濡れたままだ。幸助は別の小瓶を手にして中身を一気飲みしたが、やはり傷が癒えることはなかった。


「ほら見ろ。やっぱり効果ないじゃないか」


 瑞希は幸助の傷を念入りに消毒して絆創膏を貼り付ける。〈特典パーク〉の中には爪や牙から毒や呪いを送り込むものもあるからだ。無論、ティリアはそういったものを取得していなかったが、病原菌などの心配もあるので入念に手当しておくに越したことはない。


「人間にはどうやっても効かねえってわかっただけでも収穫だぜ。逆に考えりゃ厄介事のリスクが多少減ったってことでもあるしな」

「え?ああ……そういうことか」


 幸助が言わんとすることは瑞希にも分かった。〈回復薬〉のランクによっては致命傷や長期入院が必要になる大怪我でもあっという間に治せてしまう。そんな夢のような薬がこの世に存在すると知れれば、争いの元になるのは想像に難くない。なのでリスクが減ったというのは正しいのだが、それは幸助が大怪我をした時に治療できないという事でもある。


 〈毛玉〉より凶暴なエネミーが出現する可能性がないとは言えないし、長く一緒にいれば自分の呪いじみた不運に巻き込まれる可能性も上がるだろう。「呪い」のせいで何人もの人間を不幸に追いやり、自分自身さえ人外の少女にされてしまったわけだが、それでも瑞希は「みそぎが済んだ」などとは思っていない。今まで無事だったからといって今後もそうである保証はないのだ。


「効かねえもんは仕方ねえわな。お前の方はどうよ?傷が治ってるのはわかるが痛みとか」

「俺は大丈夫。最初から傷なんてなかったみたいだ」


 傷一つない手をヒラヒラと見せつける瑞希だが、目元にはまだ少し熱が残っている気がした。〈回復薬〉の効果を知って調子に乗った結果、あの〈月相のダガー〉で掌を貫通させてしまったからだ。激痛と共にドクドクと流れ出す血に泡を食ってダガーを引き抜いたが、気づいた時には涙が溢れてきてしまっていた。


 すぐに〈回復薬〉を使った事で傷も痛みも嘘のように消えたが、泣き顔を幸助に見られてしまったのは大失態という他ない。こんな身体になってしまった今でも、瑞希は幸助の前で弱い所は見せたくなかった。それは男同士だからこその意地と言えた。


「完璧に貫通してたのにな。さすがの〈回復薬〉とファンタジー生物だぜ」

「蘇生アイテムのテストだけはしたくないけどな……もう回復系アイテムのテストはいいだろ。時間も遅いし次行こう、次」


 瑞希は並べておいた別のアイテムを掴んで幸助の手元に放り投げた。


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「攻撃や妨害系はまだしも身体強化系までもダメとか、ホモサピエンスは完全にお断りかよっ」

「そうがっかりするなよ。俺だって低ランクのアイテムしか使えないんだし」


 様々な実験の結果、瑞希は使用条件を満たす限り、全てのアイテムを使えることが分かった。ここまでは予想通りである。問題は幸助の方で、ほとんどのアイテムが効果や性能を発揮しなかったのだ。そのくせ瑞希が発動した攻撃や妨害といったアイテムの効果は幸助にも影響を及ぼしてしまう、ということも分かった。


 幸助でも使える〈マルサガ〉のアイテムというと、使用条件のない低ランクの装備品くらいである。条件に合わない品物は持ち上げられない程重かったり、性能がガタ落ちしたりで使い物にならなかったし、付与された特殊な効果も発揮されなかった。


 瑞希がペンダントとして身につけているユニークアイテム〈月相のダガー〉は数少ない例外で、高ランクにも関わらず幸助でも高い殺傷力を発揮させることが出来た。しかし一点物であるのと、肝心の形態変化機能が使用できなかったのであまり意味がない。現代日本でこれみよがしに武器を持ち歩いていたら、あっという間に捕まってしまうからだ。


 バッグなどにしまっておくといざという時すぐ使えないし、職務質問でもされたら面倒である。幸助は図体のせいで目立つし、それ以上に目立つ瑞希が近くに居るのだから。


 それらの結果を知った幸助は目に見えて落胆していた。


「なれるもんなら俺もお前みたいになりてえわ」

「冗談はやめろよ。人間じゃなくなったら街で暮らせなくなるんだぞ。俺だってお前がいてくれなかったら……」


 カラスや野良猫ならまだしも、猿やいのししが迷い込めばすぐに追い払われるか捕獲されるのが人間の街だ。今の自分のような存在が、誰かの庇護なしに人里で暮らしていくなどまず不可能だろうと瑞希は思う。


 そもそも人間は人間同士ですら必要以上に奪い合い殺し合う生き物だ。周囲よりわずかでも良い暮らしを求め続け、自分より下の存在を見下しては喜びを感じる生き物だ。そんな存在が、他の生き物を対等の存在と認めて一緒に暮らす、なんてことをするはずがない。


 なにより自分がそんな人間の一人だったと思うからこそ、瑞希は己の身の危うさを理解していた。


「……まあな。それにお前と同じパターンだと俺も女になっちまうし、それだけは絶対に嫌だぞ。おっぱいは他人のだから良いんであって、自分についててもちっとも嬉しくねえし」

「また胸の話か」


 瑞希はうんざりして天井を見上げる。男だった頃から女の胸には幸助ほど拘りはなかった。しいて言えば顔だが、それすらもはや二の次である。何より大事なのは自分の呪いじみた不運に巻き込まれないことだからだ。そうでなければ女でも男でも自分の傍にはいられない。

 高校の頃、付き合い始めたばかりの少女に降りかかった不幸は、いまだにトゲとなって瑞希の胸に刺さっている。


「巨乳は良いぞ。服越しに見るだけでも目の保養になる。お前には分からんだろうがな」

「分からんし分かりたくもない。自分の胸でも揉んでろ」


 幸助の巨乳賛美はいつものことで、似たような話は散々聞かされた記憶がある。瑞希にしても自分が幸助の好みから外れているのは大歓迎なのだが、こうまで言われるとティリアの容姿、ひいては今の自分を馬鹿にされている気がしてくる。少なくとも面白くはなかった。


「いきなりどうした?」


 膨れる瑞希を見て幸助が不思議そうな表情を浮かべる。しかし理由を正直に口にして意識しているなどと勘違いされては困る。逃げるように目を逸らした視線の先には壁掛け時計があった。針は既に午前0時を回っている。


「……何でもない。もう眠いんだよ」

「おっと、もうこんな時間か。召喚系アイテムのテストもしたかったが」

「呼び出した後の制御失敗が怖すぎる。やるとしても後でいいだろ。とにかく俺はもう寝るからな」


 散らかったアイテムの後片付けもそこそこに、瑞希はリビングルームを飛び出した。これ以上ここにいたら胸の内を見透かされるような気がしたからだ。


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 次の日の朝。早起きした瑞希は洗濯物を干し終えて、朝食の準備に勤しんでいた。タンクトップとショートパンツという格好の上にエプロンをつけ、長い髪は邪魔にならないよう後頭部でひとまとめにしている。


 居候の身分では家事くらいしないと落ち着かなかったせいだが、小柄で非力なティリアの身体での家事は思っていたより苦労が多かった。背が低すぎて踏み台が必須だし、小さな手や鋭い爪のせいでまるで勝手が違ったからだ。


 この爪だが、昨晩寝る前にある程度切っておいたのに今朝起きたら元に戻ってしまっていた。伸びるのが早いというレベルではなく怪談の域である。仕方がないのでそのまま家事に当たっているが、爪が飛び出さないように気をつけながらの作業は、結構な集中力を要した。


 日常生活において色々と欠点が目に付く身体ではあるが、病気と薬から解放された事実はそれらの短所を上回った。酒をまともに飲めるようになった事も嬉しかったし、可愛らしい服を着る事が出来るのも密かな楽しみだった。

 女装趣味があった訳ではないが、今までとは全く違う服を着られるというのは純粋に楽しいものである。それが似合ってしまうのだからなおさらだ。


(トーストとベーコンエッグ、コーヒー……野菜がないな。昨日買ったのは保存食がメインだったし……)


 簡単なサラダくらいはつけたいが、幸助の家にはろくな野菜がなかった。男の一人暮らしなら大抵そんなものだろう。瑞希とて以前は外食やスーパーの見切り品で済ませていたのだから。

 しかしこれから暫くは幸助と二人暮らしなので、瑞希は自分なりに料理を頑張るつもりでいた。上手とは口が裂けても言えないが最低限のものは作れるのだ。


 昨晩の夕食が何だったか思い出せないことにモヤモヤしながら、瑞希は家の中を探し回った。ようやく見つけたタマネギを刻んで炒め、水とコンソメと調味料を放り込んでひと煮立ちさせればスープの完成である。今日出かけたら帰りに野菜をたくさん買ってこようと瑞希は心に決めた。力が有り余っている荷物持ちが居るので重くても問題ない。


(よし、これでいい)


 瑞希は料理をテーブルに並べて時計を見上げた。時刻は午前8時を回っているが幸助はまだ起きてこない。約束もあるのでそろそろ起こした方がいいだろうと、瑞希はエプロンを脱いで椅子の背もたれにかけ、幸助の部屋に向かった。


「幸助。朝飯作ったから起きろ」


 部屋の前まで行きドアをノックして呼びかけるが返事はない。耳に意識を集中すると、ドアの向こうで微かな物音がしている。


「おい。起きてるなら返事しろよ。朝飯出来てるぞ」

「ぬお……わかった」


 部屋の中から眠そうな返事が返ってくるのを確認して瑞希はキッチンに戻った。男の寝起きは色々と都合が悪いことくらい承知している。


(あいつが女を連れ込んだら……出て行かないとだろうなあ)


 今は特定の相手はいないようだが、などと考えながらカップにコーヒーを注いでいると、Tシャツとトランクス姿の幸助が腹をかきながらリビングルームに姿を見せた。


「お、良い匂いしてるな。ありがとよ」

「ああ。それより爪であちこち傷つけちゃったんだが……すまん」

「気にすんな。古い家だし高い家具があるわけでもねえ。家事やってくれるだけでありがてえし」


 そう言うと幸助は唐突に不気味な踊りを始めた。知らぬ間に妙な宗教にハマり、朝のお祈りでも始めたのかと不安になったが、よく見ると踊りではなく体操らしい。これが見世物なら逆に金を貰いたいくらいだと瑞希は思った。


「キモいぞ。何の儀式かと思った」

「お前もやってみたらどうだ。体調良くなって背が伸びるかもしれんぞ。胸だってな」


 瑞希は鼻で笑って椅子を引き、淹れ立てのコーヒーを口に運ぶ。わかっていたことだが以前より香りも苦みも強く感じてしまう。それでもミルクを入れたら負けな気がして、ブラックのまま少しずつ舐めるように啜った。そうしているうちに謎の儀式を終えた幸助もテーブルについてカップに口をつける。


「しかしあれだ、ガキの頃は当たり前だと思ってたが、朝起きたら飯が出来てるってめっちゃ有難いぜ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいが、ホントに大したもんじゃないぞ?真面目に料理したのなんて本当に久しぶりだし」

「なあに見た目は美少女の手料理なら美味さ1割増しってやつだぜ」

「褒める気があるならせめて3割くらいは言えよ」

「あぁ?」


 わざとらしい視線が瑞希の身体をさっと流れて顔に戻ってくる。目が合ったところで幸助は溜息交じりに頭を振った。何が言いたいかくらい瑞希とて察しはつく。


「一応、聞いてやる。その溜息はどういう意味だ」

「いやあ、3割はねえなって」

「うるせえ。とっとと食っちまえ」


 昨日の夜と同じようなやりとりに怒りが沸騰ふっとうしかけるが、瑞希は怒りに任せてすぐ手を上げるような子供ではない。目を閉じて静かに息を吐けば感情をコントロールするくらい造作もないのだ。


「もうちょい胸があったら2割増しってことにしてや……」


 目を開けると幸助の顔に焼きたてのトーストが貼りついていた。だが今のこの街の状況を考えれば、男の顔にトーストが貼りつくくらい不思議な事ではない。瑞希は黒くて苦くて酸っぱい液体との戦いから撤退し、自分のトーストにベーコンをのせてかじりついた。

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