phase10 束の間の休息


 想定外の出来事にすっかり酔いが覚めた瑞希は、幸助を連れて自宅アパートに戻った。暫く幸助の家に泊まることになったので、着替えを中心に様々なアイテムを持って行くことにしたのだ。

 大急ぎでかき集めた分だけでも相当な重さだったが、途中で足りないものを買い足したこともあり、幸助の家に辿り着いた時の瑞希はすぐには立ち上がれないほどへとへとに疲れていた。


「つ、ついた……疲れた……」

「おつかれさん。自分ちだと思ってゆっくりしてってくれや」


 がっくりと玄関に座り込んだ瑞希の横を、大荷物を抱えた幸助が追い越していく。瑞希の何倍もの荷物を持っていたにも拘わらず、まだ余力がありそうな様子に再び体力差を痛感させられるが、今の瑞希には悔しいと思う気持ちさえ浮かんでこなかった。


「でかい家だな……ホントに一人で住んでるのか」

「まあな。古くてボロいが静かでいい。俺はお前が入る部屋片づけとくから、先に風呂入ってていいぞ」


 瑞希はそれくらい自分でやると言いたかったが、気を抜くとまぶたが落ちてしまいそうな有様では素直に好意に応じるほかなかった。階段を上がっていく幸助を見送った瑞希は、廊下を這うように風呂場へ向かった。


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「広い風呂って、やっぱいいな……」


 勝手の違う風呂場に戸惑いつつも全身の汗を流した瑞希は、温めの湯にゆったりと浸かって変わり果てた己の身体を見下ろした。鮮やかな明褐色の肌はきめ細かく滑らかで、手足の爪はちょっとした刃物のように鋭い。ある程度出し入れも出来るが、気がつけば出っぱなしになっている。

 このままだと家中を傷だらけにしてしまいそうなので、切るなり削るなりしておいた方が良いだろうか、と瑞希は爪を眺めながら手首を回した。


 浴室の鏡に映るのは人間とはかけ離れた少女の姿。三角の獣耳、金色の瞳に縦に割れた瞳孔、口を開けば鋭い牙も飛び出ている。見れば見るほど瑞希が〈マルチバースサーガ〉で作ったサブキャラクター、ティリアそのものだ。

 少しだけ膨らんだ胸と、何もなくなってしまった股間を見て溜息交じりに天井を仰ぐと、タオルで適当にまとめていた髪が一房、はらりと湯面に落ちる。


(仕事がなくなった日に人間すらクビになるなんてなあ……)


 性別が変わった事に思う所がない訳ではないが、別人どころか人間ですらなくなった事に比べれば些末な問題に思えてしまう。正直なところ瑞希はそこまで大きなショックを受けているわけではなかった。


 常識的に考えれば激しく動揺するのが普通なのだろう。だが、それなりに馴染み深い姿ということに加え、病気から解放されたというのが大きかった。どれだけ考えないようにしても薬を飲むたびに蘇る絶望と焦燥感しょうそうかんは、同じ境遇になった者でなければ分からないだろう。


(とりあえず今後の事だよな……ずっと幸助の家に居候いそうろうって訳にはいかないし)


 〈マルサガ〉のアイテムを売り払えば暫くは持つだろうが、そんなものがいつまでも続くわけではない。幸助は「動画配信者になれば良くね?」などと言っていたが、そんなもので食べていけるとは思えなかった。瑞希は風呂の端に身を乗り出して鏡を見つめ、にっこりと微笑んでみる。


(……可愛い、よな。自惚うぬぼれじゃなく。自分で作ったのが信じられんくらいだし。でも動画のネタがなあ。喋りなんて自信ないし、特技と言っても多少身軽なことくらいしか……)


 やはり人里離れた山奥や無人島での自給自足生活を目指すべきだろうか。だが知識や道具は後付けで何とかするとしても、基礎的な身体能力に不安がありすぎる。特に腕力がないのが問題だった。野外生活なんてものは基本的に力仕事のオンパレードなのだから。

 レベルアップすればいいと幸助は言っていたが、瑞希はそこまで楽観的に考えられなかった。ゲームと違って自分の能力すら確認できないし、キャラクターレベルなんて概念自体が今の自分には存在しないかもしれないのだ。


 そのあたりを何とかしたとしても、やはりずっと一人ぼっちというのは精神的に耐えられないと思う。中身まで人外になっているならまだしも、何の変哲もない一般人のままなのだから。


「あふ……」


 何度目か分からない欠伸あくびが漏れ、まぶたが重く垂れ下がる。瑞希の意識はまどろみの中へ沈んでいった。


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(あいつ、いつまで入ってんだ……いくらなんでも長風呂すぎだろ)


 リビングルームで荷物の整理していた幸助は、いつまでたっても風呂から出てこない瑞希に苛立っていた。いくらの長風呂といっても限度があるだろうと、作業を中断して風呂場に向かう。


「おい、いつまで入ってるんだ?溶けちまうぞ」


 浴室のドアをノックして声をかけるが返事はない。さすがの幸助もドアを開けるのは躊躇ためらわれた。中身が男であっても身体は少女のそれだからだ。しかし何度声をかけても返事がない事に業を煮やし、意を決して脱衣所に足を踏み入れる。


 脱衣籠の中には瑞希が着ていた下着や服がまとめて放り込まれ、あたりには少女の匂いと石鹸の香りが混じり合った何とも言えない芳香が漂っている。幸助は自分が一瞬呆けていた事に気づいて頭を振った。


「おい瑞希」


 声をかけて耳を澄ませたがやはり返事はなく、聞こえてくるのは換気扇の音だけだった。これは中で寝ているな、と見た幸助は大きく息を吸い込んだ。


「風呂で寝るんじゃねえ!寝るならちゃんと布団で寝ろ!」


 刹那、風呂場からバシャッと激しい水音がして少女の悲鳴が上がった。


「うひゃあっっっ!?こ、幸助っ!?おまえ何しにっ!?」

「やっぱり寝てやがったな。俺も入りたいんだから早く出ろ」

「な……なんだ、びっくりした……ごめん、急いで出るから」


 曇りガラス越しに申し訳なさそうな少女の声が聞こえてきて、幸助は自分が何か悪いことをしたような気分になってくる。


(何か調子が狂うな)


 中身は男だと分かっていても、この匂いと声の合わせ技は色々とまずい。長居は無用と踵を返した幸助は、ふと脱衣籠に目を止める。


「そういやお前の下着、一緒に洗っちまっていいのか?」

「え?何でそんな事聞くんだ」

「いや、女の子的な意味で気にするかと」

「アホか。さっさと出てけ」


 曇りガラスにお湯が叩きつけられる音を聞きながら、幸助は素早く脱衣所から出る。だが瑞希が風呂からあがってきたのは、それから10分近く後の事だった。





「ふう、良い湯だったぜ」


 瑞希と入れ替わりに入浴を済ませた幸助がトランクス一丁でリビングルームに戻ると、部屋の中には良い匂いが漂っていた。その発生源である少女はドライヤーと櫛を手に長い髪と格闘中である。デフォルメされた〈毛玉〉がプリントされた可愛らしいパジャマを着て、ソファの上で濡れた髪を乾かしている姿は、事情を知らなければ年頃の女の子にしか見えない。


 幸助としては今の瑞希が下着姿だろうが裸だろうがどうということもないが、匂いについてはそう簡単に割り切れるものでもない。妙な気分を追い払うため、濡れた頭をタオルで乱暴に拭いつつ、空いているソファーにどっかりと腰を下ろす。気づいた瑞希がドライヤーを止めて振り返った。


「お前の分の飲み物もいれといたぞ。勝手に冷蔵庫あけちまったけどいいよな?」


 なるほど、テーブルの上には氷が浮かんだグラスが置いてあった。幸助はさっそくそれを手に取って口をつける。火照った身体に冷たい氷水が染みわたって心地良い。


「気が利くじゃねえか。酒以外なら冷蔵庫は好きにしな。それより、随分と可愛い格好してんじゃねえか、おい」

「別にいいだろ。今更尻尾出せない服なんて着てられんし」

「んな事言って、実は結構気に入ってんじゃねえか?」

「……まあ、ちょっとは」


 瑞希は再びドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始める。もう少し恥ずかしがると思っていただけに、幸助は少しがっかりしながらグラスを呷った。リビングのTVは今日の暑さについて繰り返し報道している。幸助はドライヤーの騒音に負けないようにボリュームを上げた。どこそこで観測史上最高気温を記録したとか、何人が熱中症で病院に運ばれたといった、日本の夏の定番といえるニュースが続いている。


 風呂上がりの火照りが少し冷めてきた頃、再びドライヤーの音が止んだ。見れば瑞希は髪に指を通して乾き具合を確かめている。


「ぐひひひ、お嬢ちゃん、どんなブラジャーつけてんの」

「つけてないが」

「いいのかそれ」

「もう寝るだけだし。というか暑苦しいから昼間もつけてなかったぞ。邪魔になるほどないしな」


 今の瑞希は背格好的には小学校高学年くらいに見えるが、〈マルサガ〉のPCプレイヤーキャラクターはどんな姿形をしていようが成人、成体扱いなので、このまま成長しないという可能性もある。

 しかし幸助は瑞希が褐色巨乳美人になるという奇跡を信じたかった。例えそうなったとしてもどうこうする気はないが、それとこれとは別の話なのだ。


「つまらんなあ。じゃあチ〇コなくなった感想でも」

「動く時に結構邪魔だったんだなーって気づいた。あと蒸れとかポジションの心配もなくなって楽」

「お、おう……まあ俺には一生わからん話だがな。その代わり髪の手入れは大変そうだが」

「ホントだよ。洗うのも乾かすのも大変で、いっそバッサリ切っちまおうかって思うくらいに」


 振り返った瑞希が口を尖らせる。元々感情がすぐ顔に出るタイプの人間だったが、ティリアの身体になってから一層顕著けんちょになったように思う。今の瑞希のコロコロ変わる表情を見るのは、子猫でも眺めているようでそれなりに退屈しない。


 ソファーの上で髪と苦闘している瑞希を眺めつつ、幸助はもう一度タオルで頭の水気を拭き取った。幸助の髪はそれだけでほぼ事足りてしまうのだ。


「切る切らないはお前の勝手だが、多少もったいねえ気はするな。そんな髪、世界中探したってお前しかいねえだろうし」

「お前、黒髪派だったろうが」

「一番がそうってだけで原理主義者じゃねえし。良いもんは良いと認める」


 幸助は何気なく言ったつもりだが、瑞希は何か思うところがあったらしく、身構える素振りをしながらジト目を向けてきた。


「まさかとは思うけど、口説いてんの?」

「おう、愛してる」

「そうか、死ね。で、実際どうなんだよ」

「中身がお前ってことを差し引いても、見た目がガキ過ぎて無理だわ。せめて5年後に出直してきてどうぞ」

「おっぱい星人のお前ならそう言うのは分かってたが、その言い方は何となくムカつくぞ」

「可愛いのは認めてやるからそう怒るなよ。中身知らなけりゃきっとイチコロだぜ。まったくひでえ詐欺もあったもんだ」

「俺はそんなつもりは……って、なんでこんな話になってんだよ。やめやめ」


 瑞希は再びドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始める。


「そうなったのは昨日なんだよな?その割には落ち着いてるみたいだが、前の身体に未練とかねえの?」

「正直、あんまりない。ポンコツな身体だったし、家族もいなけりゃ付き合ってる女もいなかった。おまけに失業した日だったし……はは、笑ってくれていいんだぜ?」

「お、おう……悪い事聞いちまったな」

「あのままじゃどうせ長くなかっただろうし、この姿にも馴染みがないわけじゃない。だからこうなった事自体は……別に、いいんだ。今後のことは別だけどな」


 瑞希が昔から人並外れた不幸に襲われ続けていたことは聞いている。幸助も平凡とは言えない出来事は経験してはいたが、瑞希に比べれば大したものではない。


「そうか。まあ俺だったら人外になるのはともかく、女になるのは嫌だぞ。おっぱいは揉みたい方なんで揉まれる方はごめんだぜ。お前は揉まれるほどねえけどよ」

「はっ。でかい胸なんて羨ましくもなんともない」

「いつまでそう言っていられるかねえ。お前もいずれこの世の真理に気づいて、巨乳を羨むようになるんだ。大きいは正義。巨乳は至高」

「……それ普通の女の前で言ったら終わるからな?特に今は色々うるさいんだし」

「言論の自由万歳ってこった。それに言う相手はちゃんと選ぶわ。お前だから言ってる訳で……おっと、そろそろログインするか。手伝いを頼むって話だったろ」


 瑞希のアパートに立ち寄った際、〈バーサルウェア〉も抜かりなく持ち出してきている。瑞希が入浴している間に電源や通信回線の準備も終えていた。


「ほぼ乾いたから、もうちょっとしたら行けるかな。お前は先に行っててくれ」

「近場に住んでても都合がつく奴となるとかなり限られるからな。俺の方でも探すけどあんまり期待すんなよ」

「頼んだ」


 さすがにトランクス一丁でプレイするのはありえないので、幸助は急いで着替えを済ませる。いつものように〈バーサルウェア〉を身に着け、瑞希より一足先に〈マルダリアス〉へと旅立った。

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