phase19 復活!一難去ってまた一難
「おう゛ぇぇぇ!くっせぇ!なんだこれ!?マジで臭っ!あいつの胃液か!?」
瑞希の身体から漂う強烈な悪臭が幸助の鼻を直撃していた。今まで気にならなかったのはそれどころではなかったのと、外気に触れることで臭いが強まる性質でもあるからだろう。
酸っぱいような甘いような、それでいてピリっとする刺激が入りまじった強烈な臭気に襲われたことで、幸助は一瞬気が遠くなって足がもつれる。が、どうにか踏ん張って瑞希の身体を抱え直した。
「っ……」
抱えられている瑞希が身を縮めてぷるぷると震え出した。ハッとして顔を覗くと金色の瞳が幸助を睨んでいて、血の気が引いていた顔に少しずつ赤みが増していく。幸助は瑞希が意識を取り戻したことを喜んだが、同時に自分がしくじった事に気づいてフォローを入れた。
「一応言っとくがお前じゃなくこのベトベトの話だからな。お前自身は……まあ、とにかくお前がくせえワケじゃないから気にすんな」
うっかり余計なことを口走りそうになり、幸助は言葉を濁した。そもそもなぜ男の精神ケアなぞしなければならんのかと、幸助は自分も瑞希の外見に引っ張られていることを自覚せずにはいられない。
「……もう、いい……おろ、せ」
「自力で立てもしねえ奴を下ろせるか。それにお前分かってんのか?服ボロボロで、かなりやべえ格好だぞ」
瑞希の着衣は損傷がひどくてかなり危うい状態だ。特にタンクトップがまずい。なるべく見ないようにしていたが、視界に入ってしまうものはどうしようもなかった。言われてようやく自分の格好に気づいたのか、瑞希はハッとして胸を隠そうとする。
「み、みるな……っ!」
「何その反応、キモ……いってぇっ!?爪っ、爪止めろ!!今どういう状況かわかってんのか!」
弱々しい抵抗ではあったが、鋭い爪を肌に突き立てられて幸助は悶絶する。
「いい加減にしろ!まだあのクソッタレ〈毛玉〉に追われてんだぞ。また食われたいのか!?」
「……ぐ」
幸助が怒鳴ると瑞希はようやく爪を立てるのを止めた。引っ掻かれた部分はヒリヒリと痛んで血が滲んでいる。傷口からこの臭い体液が入ったら変な病気になるんじゃないかと少し心配になった。
ただ、そういう意味では瑞希の方がもっと危ういのだろう。全身傷だらけで出血とエネミーの体液がミックスされ、見るも無残な状態だったからだ。捕食行動など〈マルサガ〉では見せなかっただけに何が起きるか幸助にも予想がつかない。医者に見せるのは無理でも回復アイテムだけは早急に使っておくべきだろう。
「み、みたら……ころ、す」
「俺ロリコンじゃねえし。おまけに中身知ってるのにそんな気起きねえよ」
「どう……だか……」
決して痛いとは言わないが、瑞希は息を吹き返してからずっと苦悶の表情を浮かべており、大きく揺さぶられるたびに抑え込んだ
幸助は、瑞希を寝かせられる場所を求めてあたりを見回した。防犯カメラの位置を確認して長椅子の上に瑞希の身体を慎重に横たえ、背負っていたリュックサックから水が入ったペットボトルと〈回復薬〉を取り出した。長椅子に酷い臭いがついてしまうが命の問題なので勘弁してもらうしかないだろう。
「こうぐっちょんぐっちょんに汚れてると、ぶっかけても効果ないかもしれんからな。飲めるか?」
ざっと見ただけでも瑞希の怪我は酷かった。怪物の体液まみれの肌は傷や痣だらけで血が滲み、骨や内臓にもかなりのダメージがあるように見える。この状態で丸呑みにされてよく助かったものだ。幸助は瑞希の頭を持ち上げて濡らしたタオルで顔を拭い、〈回復薬〉の瓶口を唇に触れさせる。
「んん」
瑞希が微かに頷いたのを確認すると空になるまで瓶を傾けた。必死に飲み下す瑞希を見て、幸助は昔拾った子猫にミルクをあげた時の事を思い出した。結局その子猫は死んでしまったのだが、今度は死なせるわけには行かない。
幸助が見守る中、〈回復薬〉は正しく効果を発揮して見る見るうちに瑞希の身体の傷が癒えていく。生々しい傷が魔法のように消えて跡すら残らないのは何度見ても目を疑いたくなる光景である。
今回使った〈回復薬〉は今の瑞希が使える中では最もアイテムランクが高い品で、ダメージ回復と同時にある程度の毒も解毒することが出来る。もっと低いランクの回復薬でも間に合うのだが大事を取ったのだ。それに回復にかかる時間などにも差が出るので無駄という訳でもない。
「はあ……効いてきた……」
傷が消えるにしたがって瑞希の顔から苦痛の色が消えていく。暫くの間、瑞希は目を閉じたまま安堵の表情を浮かべていたが、急にカッと目を見開くなり、胸を隠したまま勢い良く跳ね起きた。
「服!Tシャツ貸せっ!」
「きゃーエッチー……おい!わかったから無理に引っ張るな!」
にわかに元気を取り戻した瑞希は、幸助が着ていたTシャツを奪い取って頭からかぶる。サイズが違い過ぎてワンピースのような状態だったが、服を着れてようやく安心したのか一際大きな溜息を吐いた。
だがそうしていたのも束の間、すぐにその顔に怒りを滲ませてTシャツの裾を固く握りしめる。
「くそっ!くそっ!あの〈毛玉〉!いつか絶対殺す!」
「落ち着けよ。ともかく今は俺達も逃げねえと。他の人間はとっくに避難してるだろうし、この格好でもそんなには目立たんだろ」
ここに来る途中、幸助は転んで怪我をしたらしい人間を何人も見かけていた。学校の避難訓練の時に散々「走るな」と言われた記憶があるが、実際に起きてみないとその重要性は実感できないものである。
「ああっ!?俺の酷い格好を撮った奴、絶対いるだろ!?幸助!お前も見たんだから何とかしろ!この辺のスマホ全部ぶっ壊してこい!」
瑞希はTシャツ越しに胸を押さえて喚きだした。確かに助け出した直後は色々と危うい格好だったが、幸助が知る限りそんな余裕のある人間は1人もいなかった。
「無茶言うな。つーか撮ってた奴なんていねえよ。そもそも男が胸くらいで」
「そ、それはそれなんだよ!いいから行ってこい!もし捕まっても差し入れには行ってやる!」
瑞希の興奮は収まらず怒りの矛先が幸助に向いてきた。Tシャツを奪われて上半身裸という事もあって、興奮した瑞希の爪がダイレクトに幸助を襲う。瑞希の爪は〈
「いてっ!いって!」
野良猫のように荒ぶる瑞希を扱いかねて幸助は途方に暮れる。臨死体験のショックで幼児退行でも起こしているのか。金色の瞳を
「落ち着けっつってんだろ!!あと爪立てんのマジやめろ!それ洒落になんねえから!」
ついに我慢しきれなくなった幸助は瑞希の手首を捕まえると、力づくで長椅子の上に押さえつけた。瑞希はあどけない顔を怒りで紅潮させたまま跳ねのけようと暴れるが、体格と筋力の圧倒的な差はどうしようもないようだ。
「はなせっ!!筋肉デブ!!ホモ強姦魔ッッッ!!」
「だから落ち着けと……」
瑞希の脚が幸助の股間を狙って跳ね上がろうとするが、それを予想していた幸助は片膝で瑞希の足を押さえつけた。完全に身動きできなくなった瑞希は幼い顔を怒りと屈辱に歪め、牙を剥き出して荒い息を吐いている。
だぼだぼのTシャツはエネミーの体液で肌に貼りつき、呼吸に合わせて激しく上下していた。事情を知らない人間が見ればとても通報したくなる光景だろう。そのまましばらく見つめ合ううちに、少し冷静になったらしく瑞希は牙を引っ込めた。表情は相変わらず厳しいままだったが。
「落ち着いたか?そのひっでえ臭いを脱臭してやるから、ちょっとだけ大人しくしてろ」
もう大丈夫だろうと幸助は瑞希を解放してやる。跳ね起きた瑞希は大きく飛び退いた先で尻尾を立て、爪を構えて唸り出した。それは今の瑞希なりの精一杯の威嚇なのだろうが、見た目が獣耳尻尾付きの少女では和みこそすれ迫力など無い。爪だけは侮れないのは幸助が今体験した通りであるが。
「フーッ、フーッ……ホ、ホントだろうな……ぷわっ!?」
恐る恐る近寄ってきた瑞希の顔に、幸助は〈回復薬〉とは違う瓶の中身をひっかけた。薄く広く大半の
期待通り効果はたちどころに現れ、瑞希の全身から漂っていた酷い悪臭が綺麗さっぱり消えてなくなる。とはいえ身体も髪もずぶ濡れのままなのは変わらないが。
「おぉ……すごい!臭いが消えた!」
「良かったな。くっせえお前を運んできた俺には効果ねえけどよ」
「あっははは!ざまあみろ!いい気味だ!」
「せっかくだからもう一度ゲロ塗れなってみねえか?」
幸助が腕を広げて近寄る素振りを見せると、瑞希は大きく飛びのいて自分の鼻を摘み、嫌そうな顔でしっしっと手を振った。
「臭いからこっち来んな!でも、ホントに便利だし助かった。どんだけ可愛くても臭い女とか最悪だし」
「自分で可愛い言うかね。まあ謙遜しすぎるのも嫌味だがよ」
あっという間に機嫌を直した瑞希を見ているとチョロすぎて心配になるが、わざわざ指摘してヘソを曲げられてもかなわない。とにかく今日は色々あり過ぎたし、時間が経てば元に戻るだろうと、幸助はリュックサックを背負い直して立ち上がった。
「それじゃとっとと逃げようぜ。服や靴はともかく、あのダガーとお前のウェストバッグはできれば回収したいとこなんだが」
「財布とかも入れてたからな……そういえば鬼島さんと竜宮さんは?」
「駅の外まで送ったよ。土産も渡して帰るように言っといたから大丈夫だと思うぜ」
「そうか、なら安心……」
瑞希は急に言葉を切ると難しい顔になって周囲を見回し始めた。〈
「どうした?アレが復活して追ってきたのか?」
「いや……そうじゃない。何て言ったらいいのか、さっきまでとは空気が違うんだ。今までそれどころじゃなかったから気づくのが遅れた。お前は感じないのか?」
「こちとら普通の人間なんでな。魔力だの霊感だのエーテルだの一切分かんねえよ。でもお前がそう言うなら何かあるんだろ。ヤバいなら回収は諦めるか」
幸助は緊張した様子の瑞希と並んで歩き出す。少し前方に毛玉が数匹まとまって蠢いているのが見えた。近づけば勝手に逃げていくだろうと思った矢先、天井から音もなく大きな物が降ってきて毛玉の群れの真ん中に落下した。
「なんだ?」
最初は照明か電光掲示板かと思ったが落下音がまったく違った。よく見ればそれはブルーベリージャムのように黒々とした不定形の塊で、アメーバのように動いて毛玉達を包み込むように形を変えていた。
「うげ、ここ〈
「幸助……周り見ろ……それどころじゃ、ない……」
呻くような瑞希の声で周囲を見回した幸助は、叫び声をギリギリで飲み込んだ。
「ここ……日本だよな?いつ〈マルダリアス〉に来ちまったんだ?」
いつの間にか様々な異形の生物達が周りを取り囲んでいた。今しがた見た不定形生物のほか、大人の頭くらいある蜂、移動する蔓状の植物、絶滅生物に酷似した謎の飛行生物などなど、その大半が〈マルダリアス〉では最弱ランクの雑魚エネミーだったが、その数は見当もつかなかった。
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