第39話 Cさんの職場を訪ねて

「暑い……」


 窓からねっとりとした風が体にまとわりついて、よけいに暑さに拍車がかかる。


「いい加減、カーエアコンを入れたらいいじゃないか」


 だるそうにハンドルを握るみゆきに文句を言ってみる。もちろんダメ元だけど、さすがにこう暑くてはやってられない。


「車のエアコンがダメだって知ってるじゃない。わざと言ってるでしょ?」

「そりゃあ、知ってるけどさ。運転中に熱中症になったらどうするんだ?」

「その時は浩が介抱してくれるんでしょ?」


 そう言いながら、汗だくの手で握ってくるみゆき。ちゃっかりしてるなあ。

 暑さでくたびれてると思ったけれど、あいかわらずの減らず口で安心した。

 

 実は今回、Cさんの勤務先である市立病院へ行く前、みゆきにはさんざん釘を刺されていた。一番面倒なのは同業者だってこと。それは僕だけじゃなく、みゆきにとってもだ。

 

 一番、面倒で厄介なのがしがらみという奴だ。

 

 同じ大学かとか、同期か、先輩か後輩かって、いうのは世間話程度だったらいい。問題なのは、この力関係が仕事にまで及んでしまうことだ。

 僕でさえ面倒くさいなあって思うんだから、みゆきならなおのことだろう。さすがに話し合いの最中に、キレることはないとは思うけど、態度に出そうだ。


***

 

 市立病院は街の真ん中にある歴史ある病院だ。Cさんはここに三十代から勤務しているベテラン医師だ。院内の見学もそこそこに、さっそくCさんの件で話し合いを持った。


「ところで本間先生。申し上げにくいのですが、なぜ遠野先生と手を繋いでおられるのですか?」


 開口一番、河合病院長に僕らのことを尋ねられた。

 

「ああ。気にされないでください。僕とみゆきにはそれぞれ障がいがあって、お互いを補うために手を繋いでいるのです」

「またお二人とも新婚か、何かかと思いました。失礼しました」


 一瞬、沈黙が流れた。

 ほざけた奴だと思われただろうか?


「みなさんによくそう言われます。僕たちの事については、大学の西村教授にお尋ねください。西村先生は僕とみゆきの恩師ですから」


 と、僕は伝家の宝刀をちらつかせた。

 先生、申し訳ない。こうでもしないと乗り切れそうもないです、と、内心謝った。


「ああ。遠野先生と本間先生は西村先生の……」


 病院長の頬が緩んだ。これで第一関門突破だ。

 ありがとう、西村先生。名前借りました。あとでワインでも贈っておこう。


「それでCさんの件ですが、復職されたいと希望されておられます」


 思い切って話を切り出した。


 笑顔が引きつって、ははっ、と乾いた笑いが病院長や他の人たちから漏れる。


「……まあ、無理ですね。C先生も五十代後半だ。充分貢献していただきましたし、そろそろご引退されてもよいのでは?」


 やっぱりそう来たか。

 B子さんやAさん達と違って、年齢が一番のネックだ。復職できなければ、再就職活動をしなくちゃならない。残念ながら、その方がむしろ難しいんだよなあ。

 

 困ったな……。

 

「そうですか……。脳挫傷でダメージを負ったと言っても、まだ見立ての腕は鈍っていないですけど?」


 意外にもみゆきが援護してくれた。向こうがこれで食いついてくれば……。

 

「ほう? 事故後、診断はされてませんよね?」


 ……のってきた。僕自身の甲状腺ガンを見抜いたことを話さなくては、

  

「診断はされてませんよ。たまたま廊下ですれ違った、本間の甲状腺ガンを見抜かれただけですが。それも医師が二人、いえ、大学病院の専門医を入れると三人が見逃したガンをです」


 自分で言う前に、淡々とみゆきが話した。

 目尻があがって、病院長たちを見据えている。きっと、さっき手を繋いでいることを皮肉られたからだろう。内心はらわたが煮えくり返っている

のが伝わってくる。


「そ、そうなんですか? 本間先生」

「ええ。もし疑われるのなら、大学病院耳鼻咽喉科の大川先生にお尋ねください。Cさんの見立ては適切でしたよ」

「……すごい……ですね。C先生。まだ見立てできるとは……」

「ええ。もったいないと思うんですけどね。別に外来である必要はないですよ。復職後の現場は」


 含みを持たせて、Cさんの希望を伝えた。というより、配慮してくれ! と遠巻きに伝えたようなものだ。このくらい言っておかないと、逆に譲歩や妥協点を引き出せないだろうな。

 

 最初の条件から、徐々に緩くして得をしたな、と思わせる作戦だ、

 

 別に多忙な外来である必要はない。それがみゆきと二人で話し合った妥協点だ。

 後方支援の業務だって病院にはあるのだ。蓄積された経験を生かせればいい。


「本間先生、遠野先生。今回はC先生のご様子など、ありがとうございました。復職の件は私たちだけでは決められません。少しお時間をください」


 病院長はそういうと頭を下げた。

 どうやら最初の職場訪問は上手くいったようだ。


*** 


 職場に戻って、みゆきと一緒にCさんを探した。職場訪問の様子を本人に伝えなくては。……それにしてもどこに行ったんだろう?

 

「まったく! どこ行ったのかしら? 人が怖い思いをして、ちゃんと伝えたのに」

「…………」


 怖い思いをしたのは市立病院の人たちじゃないの? と、いうツッコミたかったが、黙っていた。

 実際、にらみつけて威嚇してたのは、みゆきの方だし。


「だってさ。向こうの病院長、ひどいじゃない! あたいたちの事をからかっただけじゃなく、Cさん、ちゃんとしてるのに引退だなんてさ!」


 本当はからかわれたことが悔しかったんだろう。


「あ! いた!」


 Cさんを見つけたのは食堂だった。

 彼はテレビも付けないで、一人で新聞を読んでいた。

 こちらに気がつかないほど熱中しているので、そっと近づいていく。


 よく見ると新聞を読んでいるのではなく、新聞を書き写していた。

 それも麻痺している左腕をテーブルの上にのせて、ノートが動かないように固定していた。


 Cさんは左半身が麻痺している。

 自分で歩けるし、トイレも行くことができる。ただ、左腕はなかなか上がらなかったはず……。理学療法士の鈴木さんも、左腕を机上にあげるのは難しいだろうと言っていたのに。


 でも現実に、今、あげているのだ。何の介助もなしに。

 

「Cさん……」


 畏敬の念が湧き上がってくる。気がつけば、自然と彼に声をかけていた。


「……ふん。戻ってきたか。で、結局、無理だったろう?」


 気がついたCさんが、僕とみゆきを見つめた。どこか遠くを見ているような目。


「いえ……。少なくても病院長は、『自分たちだけで決められないから時間をくれ』と言っていましたよ」

「そうか」

「ところでその左腕、どうしたのですか? 机上にあげられないって聞いてましたけれど」

「ああ、これは座るときに、左腕を置いてゆっくり座ったんだよ。こうすればあげているようにみえるだろう?」


 Cさんは一度立って、左側の手をあらかじめテーブルに置いてみせた。なるほど。自分でいろいろ試してみてたのか。すごいな。


 僕はみゆきと顔を見合わせ、うなずきあった。

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