第52話 Last Negotiation

 夜勤明けの日、さよこの運転で特別支援学校へ向かった。

 D君は一足早く、ご両親が学校へ連れて行ってくれた。

 

 気を利かせてくれた鈴木さんが、D君のご両親に段取りをつけてくれたのだ。

 どうしても事務手続きをしなくてはいけなかったので、鈴木さんの連絡はありがたかった。


 さよこの横顔をチラリとみる。

 一晩中泣いていたのが、すっかりいつもの調子に戻っていた。


「着いたわね」

「ああ、ここだ。悪いね、さよこ」

「別にいいわよ。みゆきの代わりでもね……」


 僕らは車を降りると、足早に担当者のところへと向かった。

 

***


「はじめまして、金城さん」

「こちらこそ、本間先生。お噂はかねがね……」

「私は脳外科医の荒井さよこです。よろしくお願いします」


 金城先生は入学や転入の担当をしている教頭先生だ。

 電話口で受けた印象どおり、落ち着いて柔和な印象を受ける。


「さっそくですがD君の転入について、ご相談をしたいと思います」


 応接室での挨拶も、そこそこに僕は話を切り出した。


 今はもう十時過ぎ。

 もう僕には時間がなかった。

 できるだけ早く、D君の転入を決めたいと思った。


「……なんだか焦っておられるようですね。急ぎの用事でもおありですか?」


 小首をかしげながら、金城さんが尋ねてくる。

 自然と額から汗が噴き出してくるのが、自分でもわかった。


「申し訳ないです。私、明後日には入院しなくてはならないものですから」


 初対面の交渉相手に、つい、自分のことを話してしまっていた。


「そうでしたか……。実は安西ちゃんから、いろいろ手を尽くす人だ、と聞いていたものですから、少し拍子抜けしました」

「安西ちゃん?」

「あら、ハローワークで相談員をしている後輩ですわ」


 え? 小松さんといい、安西さんといい、何だか世間は狭いな。

 関係ないと思っていた人たちが、こんな繋がりを持っているなんて……。


 やっていけばいくほど、人に会えば会うほど、世界が拡がっていくのがわかる。

 これが福祉、ソーシャルワークの愉しさか!


「どうかされましたか? 本間先生」

「あ、いや。最近、いろいろな人たちと繋がっていくな、って思いまして。それが面白いなって思ったんです」


 すると金城さんが目を細めて、


「まだ社会福祉士になって、日が浅いって聞いてましたのに……。もう、その域に行かれたのですね。素晴らしいわ」


 と、何やら感心された。感心されても困るな……。


「さあ、では本題に入りましょうか」

「あ、はい」


 D君のご両親と一緒に、僕は彼の障がいについて説明しはじめた。



 一通り説明が終わると、金城さんはうなづいて、どうすればいいのか提案をしてきてくれた。

 

「なるほど、ありがとうございます。どうやら介助員を常時、D君のために配置しておく必要がありそうですね」

「はい。そうしていただけると助かります。ご両親も安心されるかと思いますが、いかがですか?」

「お願いします」


 D君のご両親が頭を下げた。


 すると、金城さんは近くの電話をとり、さっそく介助員の手配をしはじめたのだ。

 素早い……。手際の良さは、たぶんこれまでで一番だろう。


「あ、申し訳ない。さっそく介助員の手配をはじめさせていただきす」

「早いですね、感心しちゃいます。と、いうことは、転入は大丈夫なのでしょうか? 時間的に厳しくないでしょうか?」

「はい、もちろん喜んでお受けいたしますよ。問題はありません。できれば今日中に、D君の障がいや対応方法について書類をいただきたいのですが……可能ですか?」


 ああ、そっか! 普段は作ってくる資料を、今回は忘れてきてしまった!

 僕は今さらながらミスに気がついた。


「も、申し訳ありません。忘れてきてしまいました……」


 と、素直に謝ると、金城さんは笑みを浮かべながら、


「ふふ、いいのですよ。気になさらないで……。安西ちゃんが、いい人がいるっていうから、どんな方かと思っていました。お会いできただけで嬉しかったですわ」


 と、悪戯っぽく言われた。


 D君の頭部外傷の状態を話した事以外、大人しくしていたさよこが、僕の脇っ腹をつねってきた。


***


 今夜はD君は自宅に外泊することになり、彼やご両親とは、特別支援学校でお別れとなった。


 職場へ戻ろうと、僕が助手席に座るなり、いきなりさよこが聞いてきた。


「ねえ。ところで最近、浩さんって変よね?」

「ん? どこがだ?」


 車を出すと、さよこは、


「何だかさ、研修医してた時より、今の方が浩さんがモテてるのよ……。おかしいわ」


 と、まるで深海生物でも見るかのような視線を送ってくる。


「う〜ん、そうかな。今でもモテないって、思うけど?」

「なんかむかつく! 自覚なく女を口説いてるの?」

「口説いてなんかないぞ?」


 あれ? そう言われれば、そうかも。異常なまでに女の子に好かれてる?

 でも口説いちゃいないんだが。


「…………。ある意味、奥手だもんね。口説いちゃいないかも。この間、シシリーに来てた女の子たちって、仕事で顔を合わせただけの娘たちでしょ?」

「そうだよ。まあ、安西さんは高校の同級生だけど、小松さんはたった一度だけだぞ」


 ふ〜ん、と不満そうに、さよこは鼻を鳴らし、


「小松さんとか完全にメロメロのようだったけど? 交渉するのに、媚薬でも使ったの?」


 と、意地悪く目を細める。


 このサドが……。

 昨夜の彼女の涙はほんものだった。僕との時間をこうやって愉しんでいるのかもしれない。そう思うと、もう少しさよことの会話を続けたいと思った。


「んな、わけないだろ。性的に興奮させて、どうするっていうんだ? さよこ」

「ふふん、だってみゆきとは関係もってないんでしょ? まだ……。だからやりたいじゃないかと思って……。あんな小娘たちより、私ならいつでもいいわよ」


 妖艶な口調で、わざと太ももをチラリと見せてくる。


「まったく……。学生んときは、その色気にやられたけど、今は違うぞ!」

「ちえ〜。半分、本気だったのにな。別に愛人でいいのに」

「あ、愛人って……。お前なあ」


 クスっと笑って、少し真面目な顔をするさよこ。


「でもさ、B子さんと関わってからかな? たった一度、仕事で顔を合わせただけで、女の子がメロメロになるのって変じゃない? 私が言うのもなんだけど、だんだん魅力がマシマシになってるのよ」

「なんだよ、マシマシって。僕はラーメンなのか?」

「ラーメンよりおいしいから安心して」


 あははっ、と屈託なく、さよこが笑う。

 ま、魅力が増す能力があったら、教えて欲しいくらいだ。


「B子さんは関係ないだろう?」

「うん。ただタイミング的に、彼女の担当になった時期と重なるだけ」

「ほんと自覚ないんだよね。自分でいつ、どうしたのかもわからないよ」


 ちょっと悪いことを思いついたように、ぱあっと瞳を輝かせると、


「ね、ね! 私もメロメロにさせてよ!」


 と、言いながら、わざとらしく胸元をみせてくるさよこ。


 まったく懲りないやつだな。


「まったく……。そうやって僕の前だと、勝手にはだけるんだからさ、もうメロメロになってるじゃないか」

「ちっちっ! まだ女というものを教え足りなかったのかしら? いいわ! 退院してから、たっぷり教え込んであげる」 

「な、べ、別に教えてくれなくっていいから!」

「あ〜楽しい。ちょっとからかうと、真っ赤になるのは変わらないわ」

「あ、からかわれてたのか! 僕は!」

「今、気がついたの? おほほ」


 こうやって、さよこに言葉責めされながら、ようやく職場につく。

 正直、うちに帰って寝たい。

 

 彼女は夜勤明けということもあって、午前中で自宅へ帰っていった。


***


 さよこと職場に戻ってきてからは、院長にD君の件を報告しに行ったり、特別支援学校の金城先生に、送付する資料を作成したりと忙しかった。


 もちろんその間も介助はあった。人手不足だからね。

 結局、仕事のめどがついたのは、午後八時前だった。


「おい、みゆき。スーパーのタイムセールに行くぞ!」


 誰もいない職員室で、自分の声だけが響く。


「あ、そっか、入院してるんだけっか……」


 独り言を言いながら、というより独り言を言わなきゃ、その場で崩れてしまいそうだった。


 昼間、さよことバカな事を言い合ったせいか、

 昨夜、患者さん達と一緒だったせいか、


 みゆきが傍らにいないことが、こんなにも虚しいなんて…………。

 正直、何もしたくないや。僕のやることに意味なんて見いだせない…………。


***


「ただいま」


 誰もいないアパートに、僕は数日ぶりに戻ってきた。


 かすかに漂うみゆきの香り。忘れもしない。

 僕はその香りに誘われるままに、ベッドに身を投じた。

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