第51話 Every Heart, Last Night shift

(少し長文です)


「え? いいのかい? 病み上がりなのに、夜勤を代わってもらっても」


 廊下で思いっきり大きな声をあげてしまったのは、理学療法士の鈴木さんだ。

 彼と今夜の夜勤を代わってもらったのだ。


 理由はD君と直接話したいからだ。それに時間もない。

 まずはD君本人が学校に行きたいかどうかだった。


 僕は夜勤に入る前に、入学予定の特別支援学校に電話した。


「もしもし。やすらぎが丘森障がい者センターの本間と申します。入転学担当のかたは、いらっしゃらないでしょうか?」


 八月末にもなれば、もう教職員は通常通りに出勤してきている。

 D君のように、新学期に転入してくる生徒も多いはずだ。


「本間さまですね。しばらくお待ちください」


 内心、僕はホッとした。もし担当がいなかったら、百パーセント、期限内に転入できなくなるからだ。


「お待たせしました。担当の金城と申します。ご用件をお聞かせくださいませ」


 電話口に出てきたのは、落ち着いた感じの女性の方だ。


「うちの患者さんで、そちらへの転入を希望されている方がいます。突然のお話で申し訳ないのですが、明日、でご相談したいと思います。お時間をいただけないでしょうか?」

「明日……ですか。本当に急ですね。何かご事情がおありのようですね」

「はい。申し訳ございませんが」

「……わかりました。では明日の午前十時、場所はこの学校までおいでください」

「大変ありがとうございます。では、お伺いいたします」


 なんとか段取りはつけた。


 この話、そもそも転入手続きするだけで、オッケーじゃない。


 障がい者です、D君にはこんな症状があるので、注意してください。

 それでは終わらない。


 そんなことをしたら、困るのはD君本人だ。

 あと、クラスメイトたちも困る。突然、D君にキレられても戸惑うばかりだろう。


 D君にはD君にとって、いい環境があるはず。

 その根っこを作るのが僕の仕事だ、


 さて、今度はD君本人が、どう特別支援学校で過ごしたいか……だ。


 みゆきがいない今、僕は一人でなんとかしなくちゃならなかった。


***


 当直室に行くと、さよこが腕組みをして待っていた。


「浩さん……。何で病み上がりなのに、夜勤しちゃうのよ」

「ちょっと患者さんと面談しなきゃならなくなってさ」

「あきれた! もしかして一人で面談する気だったの?」


バッチン!


 思いっきり補を平手打ちされた。


「どうして相談してくれないの? 私だって医者なのよ! 互いの相性も癖もわかってる間柄じゃないの!」


 かつてアパートの前で、平手打ちされたことを思いだした。

 あの時、僕は何もしなかったし、できなかった。


「わかったよ……さよこ。ちょっと付き合ってくれないか?」

「いいわよ。しっかり朝まで付き合ってあげる」


 そう言い放つと仮眠室にバックを放り込んだ。

 

「で? 誰と面談するの? 目的は?」

「まあ、待てよ。食事介助と入浴介助が先だろ? 面談はそれからで充分だよ」


 あせる彼女をなだめながら、僕は入浴介助へと向かった。


***


「へえ。浩先生は、明明後日から入院なんだあ。寂しくなるね」

「ええ。すみませんね、Hさん」


 上手く洗えない左上半身を、僕が洗い終えると、Hさんが残念そうに言った。


「まあ、浩先生やみゆき先生には、お世話になったんだからさ、ゆっくり体を治してくれればいいさ」


 入浴介助をしていると、患者さんといろいろ話ができる。

 僕はこの時間が好きだ。

 普段は話してくれることもない、患者さんの昔の思い出、家族のこと、ほのかなこれからの生活への希望、そしてホッとした表情。


 他愛もないことだけど、自然と心の芯が暖かくなってくるのだ。


 おそるおそる湯船につかろうと、手すりにつかまるHさん。

 よろけそうになるところを、そっとおさえた。


「ありがとう、浩先生」

「どういたしまして」


 Hさんはすぐにお礼を言うけれど、Kさんとかは何も言わないんだよなあ。

 ふと、ここで出会ったいろいろな患者さんの顔が浮かんできた。


「あれ? どうした、泣いてんのか? 浩先生」


 肩まで湯に浸かったHさんが、不思議そうに僕をみつめる。


「いや、いろいろあったなって、思ってさ」

「なんだい、湿っぽいな。ちょっと入院してくるだけだろ?」


 苦笑しながら、ウィンクする茶目っ気たっぷりなHさん。

 一度は死の淵をさまよって、戻ってきた彼に、帰ってこれないかもしれない、なんて言えるわけがない。


「まあ、そりゃあそうだけね……」


 思わず言葉を濁してしまう。


「落ち着いた頃に、ここのみんなで、お見舞いに行こうって話してるんだぞ。みゆき先生も同じ病院だろ?」

「ええ。同じ病室の予定です」


 一瞬、瞳を輝かせたHさんが、


「ひゃあぁ〜。お熱いねえ。病めるときも……だね! 同じ部屋だからって、エッチするなよ、あははっ」


 と、結婚式の誓いの言葉をもじって、僕をからかってきた。


 ほんのちょっとした冗談だったけれど、おかげで決心がついた。

 明日、特別支援学校へ相談しに行った帰りに、寄っていこう。


***


 夕食兼食事介助が終わると、僕はD君を当直室脇の個室に呼んだ。

 ここなら、夜勤時に何かあっても対応できる。


「な〜んの〜ごよう〜です〜か? あら〜い先生に、ほん〜ま先生」


 D君が少し間延びした感じで、話すのは脳挫傷のためだ。

 動作が緩慢なのが、D君の障がいの特徴だ。


 正直、これが誤解を生むかもしれないと思っている。特別支援学校の生徒さんは、自閉症スペクトラムの子が多い。

 今まで接してきた生徒と、D君が似てるからって、同じように対応されると困る。きっとD君は混乱する。


「Dくんは、がっこうに、いくことに、なる、けど、だいじょうぶ?」


 できるだけ言葉を切って、彼が一つ一つの単語を理解するまで待つ。

 彼は意味がわかると、小さく頷く。


 これは言語聴覚士の木下さんが、試行錯誤して教えていった成果だ。最初は理解しているのかどうかさえ、僕たちにはわからなかったのだから。


「うん、いい」


 彼が応答する。彼自身が発した言葉の意味を、彼が理解するまで待つ。

 小さく頷くD君。


「みっつか後、いいかな?」


 日付の認識は結構難しい。さよこがカレンダーを持ってきて、その日付を指さした。


 小首をかしげるD君。


 この場面を待つべきかどうかって難しい。

 本当にその日でいいのか、考えているようだ。

 本人の様子や行動パターンを、僕らが知っているから、ある程度対応できている。

 

 もしここで特別支援学校の教員が、この場面で、もう一度日付を指し示したなら、髪をひっぱられるか、大きな声を出すだろう。

 D君はしつこくされるのが嫌いなのだ。わかってるのに急かされるから、問題行動を起こしてしまうことがある。


 さよこと僕は笑みを浮かべながら、D君の返答を待つ。

 十分くらい待っただろうか。


「いい、ぼく、べんきょ、したい」


 と、自らの意思をはっきり言ったのだった。


 内心、とても嬉しかった。

 あのD君が自分の意思をはっきりと述べたのだ。


 こちらが指示したわけじゃない。彼自身が勉強したいから行く、と、はっきり言っているのだ。

 さよこの横顔をチラリとみると、口に手を当てて驚いていた。そりゃそうだ。めったに彼が意思表示をすることはなかったから。


 それだけD君の意思が固いってことだ。


 よし! 安心して明日、特別支援学校へ行ける。


「僕が、あす、がっこうに、はなし、してくるけど、いい?」


 今度はD君の代わりに、手続きして構わないか尋ねた。

 さよこも僕も、彼の返事を待った。


「はい。おねがい」


 そう言って、軽くうなずくD君だった。


***


 D君と一緒に個室から出てくると、車椅子の患者さんが数名、廊下で待っていた。


「ほらほら、みんな待ってるから、早く早く!」


 僕とさよこは、車椅子の集団に押されるかたちで、談話室へ連れて行かれた。


 談話室の真ん中に置いてあるテーブルには、たくさんのお菓子や飲み物が置かれている。テーブルの周囲には、ここに入院しているほぼ全員が待ちかまえていた。


「な、何だよ、みんな……」

「そうよ、病棟で騒いじゃダメよ」

「固いなあ〜。荒井先生!」

 

 さよこの尻を、誰かがパンパンと笑いながら叩く。

 いつものさよこなら、セクハラよ! とか、言いながら怒るところだ。


 しかし、僕とさよこは圧倒されていた。

 今までここの患者さんが一つになって、何かするなんてなかったからだ。

 

「さあ、主賓が来たから、浩先生の壮行会をおっぱじめるか!」


 宴の合図をしたのはCさんだ。

 自分よりずっと先輩の医者に、先生なんて言われるのは恥ずかしい。


「よし。じゃあ、俺が代表して、本間先生に……」


 ふらつきながら、車椅子から立ち上がったのは、Sさんだ。

 ある程度動ける患者さんたちが、Sさんを支えていた。


「本間先生……。他の人が嫌がる俺のトイレ介助、いつもありがとう。助かってる。これから入院するそうだけど、ここの連中は待っているから。背が高くて美人な先生によろしく」


 ここにいる患者さんたちが、真剣な表情で話を聞いていた。

 言い終えると、Sさんはなだれ込むかのように、車椅子に座った。


 パチパチパチ……。

 控えめな拍手が隣から聞こえてきた。


 さよこだ。


 彼女がさらに拍手すると、次第に拍手の輪が大きくなった。きっと職員室まで拍手が聞こえていたかもれない。


「さあ、これから消灯時間まで無礼講だ〜!」


 Cさんの合図をきっかけに、その夜ははじまった。


***


 お酒も出ていないのに、みんな、ハイテンションだった。

 

「ところでさあ〜。前から聞きたかったんだけどぉ?」


 僕の隣にドカッと座ってきたのは、F子さんだ。

 

 彼女はB子さんと同室だった女性で、脳挫傷の後遺症で、軽い左足麻痺と幻聴、幻視があるかただ。


「F子さん、なんでしょう?」

「なんでしょうじゃないよ! 遠野先生とはどこまでいった? 確か同棲してるんだったよね?」


 にやにやしながら、みゆきのことを尋ねてきた。


「ど、どこまでって……。ただのパートナーですよ」

「ふ〜ん、どうだか。浩先生、遠野先生が入院してから、ずっと元気ないじゃない。わかるんだよ?」

「…………」


 よくみてるな。そう……だったかもしれない。


「早く結婚しちゃいなよ! すぐそこに教会だってあるんだしさ」

「へ? 教会? そんなものありましったけ?」

「リンクル教会。すぐ隣にあるじゃない? そこで結婚式やれば、ここのみんなが参加できるもの。どう、ステキでしょう?」

「べ、別に結婚式だなんて……まだ」

「あははっ。照れちゃって可愛い。年下はからかいようがあるわ〜」


 教会? ああ、渡辺さんの資料で見たな。確か、この病院は教会の施設の一部だったとか。


 それにしてもF子さん、ひどいな。

 ちょっと拗ねて、というか呆れて、F子さんをみると、


「早く結婚したほうがいいよ、マジで。B子が狙ってるんだろ? あの子やばいから」


 と、真顔で言った。


 B子さんが癖がある女性だって言うのはわかる。

 でもやばいって……。どういう意味だろう。

 

 頭の中にクエスチョンマークが飛び交うなか、F子さんが耳元で囁いた。


「あの子、ほんとは金髪なんだよ。遠野先生に対抗して、黒く染めているだけなんだよ。それに……」

「それに?」


 饒舌だったF子さんが、急に声をひそめて、不安そうに周りをみた。


「それにあの子、夜中に妙な呪文を唱えてるんだ。その時は……えっと、ああ、そうだ。まるでおとぎ話の妖精さんみたいな格好してんだよ」

「へえ」


 何やら決死の形相だったけど、ファンタジー小説の読み過ぎだな。

 どうやらF子さんの幻視と幻聴のようだ。ここはとりあえず話だけ聴いておこう……。




 F子さんから解放されると、彼女と入れ替わるように、Cさんが隣に座ってきた。


「うちの孫が世話になってるようだな。勉強になるって、褒めていたぞ」


 口火を切ったのはCさんからだった。


「お孫さん? はて?」

「最近、喫茶店でうちの孫娘とデートしたそうだな。女付きで泣いたって聞いたぞ。ひどい男だ」


 Cさんの孫娘? 本当に覚えがないぞ。

 もしかしてCさん、ぼけたかな……。


 そんな失礼なことを考えていると、


「まったく! ヒント出してやったのに! 市立病院の社会福祉士、メディカル・ソーシャルワーカーの小松だよ。二度ほど会ったろうが」


 と、思いっきり怒られてしまった。


「え? Cさんの孫娘って、小松さんなんですか? 名字が違うじゃないですか」

「当たり前だ。私の娘の子なんだからな」


 そういうことか! 

 でも似てないな。性格も全然違うし。


「孫娘からいろいろ聞かされたよ。手を出すつもりはなかったが、孫にお願いされてしまった手前、いろいろ手伝ってやってる」


 口は悪くても、これでも長く医者をやってきた人だ。いろいろなパイプを持っているのだろう。確か市立病院の副院長を兼任されていたんだっけ。Cさんを支援する前に、彼のプロフィールを漁っていたときの事を思いだした。


「Cさん……大変申し訳ないです」

「まったくだ。どうして患者の私が、お前を助けるのか……。逆だろう? 普通は……。まあ、いいけどな」


 やれやれ、とため息をついたかと思うと、Cさんが僕に耳打ちした。


「近日中に結果が出る。安心して手術を受けろ! そして帰ってこい」、と。


***


 あっという間に、患者さんたち主催の宴も終わり、あちらこちらで照明が消されていく。まるで夏祭りが終わったかのような感じだ。なんとなくもの悲しい……。


 戸締まりの最終確認のため、さよこと外に出ると、そこには満天の星があった。


「わあ、きれい」

「今夜はすごいね。久しぶりだな、こんなに星が近くに見えるなんて」


 天の川の中に、手を入れられるかのようだ。

 瞬く星が美しかった。


 子どものように歓声をあげて、夜空を見上げるさよこ。

 その横顔に僕は魅入られた。


 やっぱりきれいだな。

 もったいないよ、僕なんかには……。


「何? 浩さん」


 視線に気がついて、僕を見つめるさよこ。


「いや、いい女だなって思ってさ」

「こんないい女をフったのよ? 幸せにならなきゃ許さないわ」


 研修医時代のように、エイっと小さく声を出して、僕を小突いた。


「今日は感動したよ。患者さんたちが、自分たちで何かやるなんて、思いもよらなかったよ」

「私も感動した……いいところだよね、ここ」


 僕を見つめているさよこの瞳から、一気に涙が溢れ出してきた。

 

「ど、どうしたんだ? さよこ」


 彼女の涙を拭こうとする僕に、さよこが抱きついてきた。


「彼女でなくても、妻でなくてもいいから……。ずっと私のそばにいなさいよ……この、ばか。ちゃんと帰ってきてよ……ばかぁ」


 震える声で泣き続ける彼女を、僕はそっと抱きしめた。

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