第50話 Last Order
翌朝、西村先生に呼ばれた。
昨夜の内視鏡切除の状態確認と、三日後の入院時のことについてだ。
「うむ、大川先生はきれいな仕事をされるなあ。一番問題の場所は取れているよ。まあ、病理検査の結果次第で、オペは変わるけどな」
咽頭鏡で僕の喉をみて、そう言った。
「よし。じゃあ、予定通り三日後にオペだ。ところで……。また入院中は遠野君と一緒の病室でいいかな?」
「はい。お願いできますか?」
「……そうか。申し訳ない。君たちにできることは、このくらいしかできない」
本当に申し訳なさそうに、恩師は頭を下げた。
みゆきと一緒にいれるのはいい。そんな配慮がありがたかった。
「ところで……君に家族はいないんだったな」
「ええ、両親はどちらも行方がわかりませんし、親戚とも疎遠です。どこに誰がいるのかも、わかりません」
「…………そうだったな。できれば親族に説明しておきたかったんだが」
あの事件以来、僕には家族も親族もいない。
みんな離れていったから。
ふと、僕の脳裏に浮かんだのは、さよこの姿だった。
「先生、もしよろしかったら、さよこ……荒井に話してください」
「そうか。君たちは昔、付き合っていたんだったな。本当は遠野君に説明したかったんだけど、無理そうだな。では、荒井君に話をしておくよ」
「お手数かけます」
「本間君。次回、入院する前までに、したいと思う事をやってしまった方がいい。昨夜、話をしたけどね」
西村先生が二度も同じ事を言った。
早い話、死を覚悟しておいたほうがいいってことだ。
咽頭ガンは転移しやすいし、進行速度も速い。
正直、オペで開けてみないとわからないってのが、先生の本心だろう。そのうえのアドバイスなのだ。
脳外科医への道を離れても、ずっと僕たち二人のことを気遣ってくれているのだ。
本当に頭が下がる。
***
退院後、さよこと一緒にタクシーで出勤した。
会計やら手続きやらで、職場に着いたのは、昼過ぎだった。
「本間君、大丈夫? 申し訳ないけど、院長が呼んでるよ」
職員室に入るなり、心配そうな顔をして、看護部長が声をかけてきた。
「え? まさかクビですか」
一瞬、イヤな予感がよぎる。
院長や総務部長のことを、いろいろ嗅ぎまわっていることが、バレたのかと不安になった。
「さすがにそれはないよ。なんでもお孫さんの件なんだってさ」
「お孫さん? お門違いなんじゃないですかね」
まさかとは思うが、将来、福祉関係に進みたいとか。進路関係のことだろうか?
まあ、確かにここでは、僕が一番若いからな。
どうしたものかと、首をかしげていると、
「でもさ、大丈夫? 喉……。声がハスキーになったね」
と、心配そうに、今村さんが尋ねてくる。
「とりあえず大きいモノは取ったので、だいぶいいですよ。また三日後、入院します。ご迷惑おかけします」
「ああ、そっか。荒井先生から聞いてる。今度の入院は長くなりそうだね」
どこまでさよこは話したのだろう。看護部長は僕たちの味方だとは言え、管理職だ。本当の病状を話すとまずいかもしれない。
僕のなかの防御反応が働く。
「長くても一ヶ月くらいかと思います」
「あら? そのくらいなら休職扱いで構わないね」
もちろんウソだ。そんなに早く退院できるわけがない、
ん? 僕が休職扱いっていうことなら、みゆきはどうなんだろ?
「あれ? 今井さん、みゆきはどういう扱いになってます? ドタバタしてたので、聞いてはいなかったのですが」
ちょっとだけ今井さんがたじろいだ。疑問に思っていただけだったのだが。
「だ、大丈夫! 詳しくは院長にきいて」
それだけ言うと、忙しそうに職員室から出ていってしまった。
この様子だとみゆきは解雇されてしまったかもしれない。
そんなシナリオが脳裏に浮かんでしまった。
***
院長室に行くと、中田院長が一人で書きものをしていた。
「失礼します」
「おお、待っていたよ、本間君」
妙にフレンドリーな態度で、僕に腰掛けるよう促してきた。
なんだ? 気持ち悪い。
「実はな、ここに入院している患者さんで、D君っているだろう?」
「ああ、スケボで転倒して、脳挫傷になった中学生ですね」
「そうだ。その子は私の孫なんだよ。お願いというのは、このままだと義務教育を終わらせることができない。そこでD君を何とか特別支援学校に転入してほしいんだ」
なるほど。孫っていうから、進学の話だろうとは思っていたが、そういう話だったか。
それにしてもずいぶん虫がよすぎるな。
勝手に退院させるな! とか、就労させるなとか言っているくせに、自分の身内はいいんだな。
D君は頭部外傷がひどく、普段はぼーっとしていることが多い。歯磨きのような単純な日常生活動作も、次に何をやるのか、周りで指示しないとできない。そのうえ、ストレスには弱く、感情を爆発させることが多い。
典型的な高次脳機能障がいだ、と言ってしまうのはたやすい。問題は学校側がどれだけD君に、時間と手間をかけられるかだ。ずっとD君の様子を見てておく必要がある。
「どうだ? やってくれないか? 金ははずむぞ!」
ここの患者さんだ。金なんかいらない。
でも断ったら、たぶん僕は解雇だろうな。
「いくらほしい? 目が不自由なんだろ? 介助犬でも購入したらどうかね」
「お金はいりません。ここの患者さんですから。それより、遠野の処遇はどうなっていますか?」
ぶん殴りたくなる気持ちを抑えるのが、やっとだった。
何だと思っているのだろう。
「ああ、あの眠りこけてばかりいる女は解雇した。総務部長か看護部長から聞かなかったのかね?」
やっぱりそうだったか。今村さんが動揺するはずだ。
西村先生が、早く辞めてしまった方がいいって言っていたことを、今さらながら思い出す。
「そうですか。ではD君の就学支援をさせていただきますが、条件があります」
できるだけ、そう、できるだけ冷静に……。
「なんだ? 言ってみろ」
「遠野を休職扱いとしてください。それだけです」
もし僕に万が一の事があっても、さよこもいる。
彼女が戻ってきたときの居場所を残しておいてやりたい。
「なっ! 何を言ってるんだ。おまえは! 解雇してしまったんだぞ? それにおまえに何の得になるんだ!」
みゆきとは損得勘定じゃない。
僕の大切でかけがいのないパートナーだ。
僕の半身だ。
「得? それが意味があるんですか? 僕にとって大切な人だからです! 解雇を取り消してください。それができないというなら、D君の就学支援はしません」
中田院長は全身をブルブルと震わせていた。怒りをおさえているように感じられる。脂ぎった彼の額から、汗が流れ落ちていく。
「ちっ! わかった。でもな、今日は八月二十九日だ。ちょうど九月の新学期には、どうしてもD君を特別支援学校に転入させたいんだ。やれ!」
もうわずかな時間しかないじゃないか……。
よく考えれば、僕が入院してしまうのも、あとわずかだ。
ちょうどいい! やるか!
結局、僕は院長の依頼を受けた。
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