第49話 ボーダーライン

「今晩はありがとうございました。本間さんと荒井先生」


 と、喫茶シシリーの出口で安西さんが頭を下げた。


「ほんと! こんなかたちで、本間さんにお礼できるなんて、思ってもみなかったですぅ」


 続けて小松さんが、明るい表情で笑いながら手をふった。

 この子は明るいのが長所なんだなと思う。最初は感情をはっきり出しすぎる、ちょっと抜けた子だと思っていた。

 みゆきが倒れた事も話したのだが、大丈夫だよ、とか、きっとよくなると、きらきらと輝く瞳で強く言われると、そうかもしれないと思ってしまう。

 

 前言撤回。

 この明るさ……今の僕らも見習わなきゃ、と思わせてくれる。


「ゴホッ! 失礼……。こちらこそ、いろいろお世話になります。ゴホ、ゴホッ……」

「だ、大丈夫ですか? お大事に……。近いうちお伺いしますね」

「ほんと、大丈夫ですか? ゆっくり休んでくださいね。私も近いうち、お邪魔しますから」


 咳き込む僕を気遣って、安西さんが言葉をかけると、負けじと小松さんにいたわってきた。


「ありがとうございます。ではまた……」


 僕はさよこと一緒に頭を下げ、手をふる彼女たちを見送った。


「私たちも帰りましょうか……」


 さよこが頭を上げ、駐車場へ向かおうとした。


 その途端、僕は吐血した。

 真紅の絨毯のように、鮮血がアスファルトに広がっていく。

 

 息が苦しい……。先を行くさよこの背中に声をかけようにも、ヒューヒューと虚しく息が漏れるだけ。

 

 僕はそのまま路上に倒れた。


***


 目が覚めると、蛍光灯がチカチカ眩しかった。

 半分、キレそうな顔をして、さよこがスマホに向かって怒鳴っていた。


「いいから! 早く西村先生を出して! 緊急なのよ! あんた、わかってる? 呼吸が停まって吐血したの。今? 救急車の中よ!」


 サイレンと彼女の怒号で、僕は救急車で搬送されていることに気がついた。


「あ! 気がついた! ほら! 運転手、早くしなさいっ!」

「そんな……大学病院じゃなく、市立病院じゃダメなんですか? 荒井先生」

「ダメよ! 大学病院じゃなきゃ! 西村先生じゃなきゃ助からないわよ。あんた、患者さんを殺す気っ!」

「わ、わかりましたよ……。荒井先生。無茶、言わないでください」


 無茶苦茶な理屈で、救急隊員を脅すさよこ。モンスター患者さんか、お前は……。


 きっと大学病院は断られたんだろうな……。さっき電話していたのは、直接、西村先生に頼み込んだんだろう。ある意味、荒技だ。


 内心、苦笑しながら、僕は頼りになる元カノの顔を眺めた。


 その横顔にはいつものゆとりはなく、目を真っ赤に腫らしていた。

 見慣れたそのきれいな顔立ちは、汗なのか涙なのか、ビッチャリ濡れてしまっていた。


***


 ようやく大学病院に着くと、救急外来に僕は運ばれた。

 そこには既に西村先生と大川先生が待ちかまえていた。


「……本間君、あんなに自己犠牲は辞めたまえと言ったはずだ。なのに、なぜこんなひどい状況になるまで、放っておいた?」


 恩師に言い訳をしようと唇を動かすが、ヒューヒューと空気が漏れていくだけ。


「西村先生、呼吸がうまくできないようですね。とりあえず検査を兼ねて、内視鏡で取ってしまいましょうよ」

 

 喉頭鏡で僕の喉の様子を見ると、大川先生がそう提案した。


 内視鏡で取るといっても、組織検査のための素材収集を兼ねている。つまり、手術本番ではない。ガンの場合はどういう性質で、どこまで組織を侵食しているかを調べてから、手術本番に臨む。


 これを病理検査という。

 うちの大学病院の場合、早くて三日で結果がわかる。これも大学内に病理医がいるおかげだ。


「そうだな……。私は術前検査の準備をするよ。大川先生、内視鏡の方、お願いできますか?」


 西村先生は放射線科や病棟へ内線を入れると、僕の血液を採取した。

 血液検査は術前には必ず実施する。腫瘍マーカーを調べ、他に転移がないかどうかと、エイズや梅毒の有無、全身の健康状態を確認するためだ。


 大川先生が内視鏡を入れる。

 その映像を見ながら、大川先生が僕に告げた。


「これから組織とるよ、本間君。君には隠してもわかるだろうから、ありのままに言う。見た感じは甲状腺から転移の声門がんだね。リンパ転移があるから、ステージ三以上は覚悟してね」


 灼けるような痛みが、喉から頭に突き抜けていく。今、組織をとったところだろう。麻酔はしているが表面の局部麻酔だ。当然、ある程度は痛い。


「取り終わった、本間君。今夜は病室に泊まっていくといい。西村先生が準備してくれたようだし」


 内視鏡が外されると、僕はコクリとうなずき、大川先生にお礼と意思を伝えた。


「さて、本当はすぐ入院しろって言いたいところだが、今はオペの予定が一杯だ。病理検査の結果が出る三日後に入院だ。わかったな、本間君」


 ひとまず措置が終わり、西村先生が僕に入院予定日を告げた。


「オペは大川先生ではなく、私が行うよ。大川先生は助手だ。それと……。今夜と三日後の病室は、遠野君と相部屋だ。安心したまえ」


 そういうなり、照れくさそうに西村先生は、足早に立ち去っていった。


「じゃ、また三日後に。本間君。やりたいことは明日以降、やっておいたほうがいいぞ。次の退院がいつになるかわからないから」


 妙に明るい感じで、僕に挨拶をしていく大川先生だった。


***


 僕が病室に移されると、暗い病室の中で、さよこが椅子に座っていた。


 小柄なさよこが、よけいに小さく見えるほど、気落ちしていた。救急車で見せていた鬼気迫るようなパワーは、そこにはなかった。


 もしかしたら、大川先生や西村先生が、病状を説明したのかもしれない。それに彼女も医者だ。僕がどういう具合なのか、ある程度はわかってしまうだろう。


 病室の窓際にはみゆきがいた。

 見慣れた、毎朝見ていた彼女の寝顔そのままの姿で。


 今にも起き上がって、黒い下着姿で『浩、朝ご飯は?』って、文句を言い出しそうな雰囲気があった。

 血色も良く、とても病気を患っているとは思えない。



 みゆきを見つめている僕の視線に気がついたのか、さよこはゆっくり立ち上がった。僕の脇を通るとき、うつむいて僕から視線をはずした。そして、そっと扉を閉めた。

 

 ごめん、さよこ……。ほんとごめん……。

 星明かりの静寂の中、廊下にいるであろう元カノに何度も謝った。



 ストレッチャーで病室に移動中、看護師さんが話していたのだ。

 みゆきの病状について……。彼女の寝顔を見ながら、僕はその事を思い出す。


「これから行く病室って、遠野先生の病室だよね」

「そうだよ。あの有名な眠り姫ドクターさんの個室。西村先生が、この人と一緒にしてけってさ」

「ふ〜ん。遠野先生も大変だね。ステロイド、効かないんですってね」

「今は血漿の交換をやってるの。ステロイドが効かなきゃ、このくらいしかできないからね」




 みゆきは症状が重いようだ。どうりで西村先生から、みゆきのことについて話がなかったわけだ。


 週に二回以上も夜勤をし、昼は昼で、解雇された職員の埋め合わせもしなくちゃ

いけない。それも慣れない介護業務もこなしていたのだ。


 ストレス、マックスだっただろう。

 守ってやれなかったんだ……。姉のように。


 今さらながら後悔の念でいっぱいだ。


 ほんの少し前まで、さよこたちとバカやっていたことを思い出す。

 

 僕は彼女にとって、何だったんだろう?

 

 いつの間にか、立ち上がっていた。

 喉に焼きごてをあてられたようだ。


 身に絡まってくる点滴の管を引きずりながら、僕はみゆきの側に立っていた。


 そしていつものように、彼女の左手を握りしめる。

 気のせいだろうか? 僕には彼女が握り返してきたように思えた。


 その手が暖かく、力強く感じられたのだ。


「……み、ゆ、き……」


 声にならない声で、僕は彼女に呼びかけると、握りしめた彼女の手を頬にあてる。


 彼女の手を握って、どのくらい経っただろう。

 僕は知らぬ間に泣いて、彼女の手を濡らしていた。

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