第25話 キャリアチェンジの苦しみとB子さんの決意(B子さんの就労支援・後編その2)

 ハローワークで同級生に会ってから、みゆきの機嫌が悪い。


 二人っきりだと、強襲してくることもある。

 

 昨日なんて……茶の間でくつろいでいたら、思いっきり背中をバチンと叩かれた。


 彼女は家にいるときは、下着かジャージ姿が定番なのだが、ここ数日はわざと扇情的な下着を着けたり、全裸でいたりするようになったし。対抗してるつもりなんだろうけどさ。


 研修医をしていたときは、こんなことしなかったのにな。

 女心は難しいなあ……。


「ねえ? 何考えてるの?」


 どさっと、みゆきが背中に覆いかぶさってきた。

 なんだかムニュっと、胸が押しつけられている気がするが無視しておこう。


「ねえったら?」

「なんだよ、みゆき……。最近、前よりべたべたしてくること多くなったよね?」


 すると後ろから胸に両腕を絡ませてきた。


「なんだよ、はないんじゃない? あのさ……。あたいたち、パートナーだよね?」

「まあ、そうだな」

「だったらっ! だったら何で、あたいと関係もってくれないの? あたいだって、がまんしてるんだよ?」

 

 逃がさない、と言わんばかりに両腕に力を入れてくる。


「僕にはそんな権利はないよ。だって、あんなひどい形でさよこを振ったんだからさ……」


 高ぶっている彼女の気持ちを抑えようと、僕は首をひねってみゆきをみた。


 その時、突然、唇に紅色の唇が触れた。

 すぐ目の前には閉じたみゆきの瞳があった。


「……キスしちゃった。やっとだ」


 ゆっくりと唇を離して、潤んだ瞳をむけてくる。


「なっ……」

「……なあんてね、ばあか」


 いたずらっ娘のようにペロリと舌を出すと、みゆきは何事もなかったように風呂場へと向った。


 シャワーの音を聞きながら、彼女の唇の感触を確かめるかのように、そっと僕は唇に触れた。


***


 次の日の朝、みゆきは鼻歌交じりで車を運転している。

 気のせいか、いつもより柔らかく手を握られているように感じられた。


 職場に着くと、B子さんが玄関で待っていた。


「ど、どうしたの? B子さん。まだ訓練まで時間はあるけど?」

「ちょっと仕事のことで相談があったので……。朝イチでお話いいですか?」


 いつものように僕らをからかうこともなく、ジッと僕たちを大きな瞳で見つめている。


 希望していた販売系で落ちたことがショックだったのだろう。

 横目でみゆきの様子をうかがうと、彼女と目が合った。

 小さくコクリと肯く。


「わかったよ。調整するから待ってくれないか?」

「ありがとうございます。浩さん、みゆきさん」


 深々とおじぎをすると、足早にB子さんは病棟へと戻っていった。


***


 初夏の強い日差しが窓から差し込んで、彫りの深いB子さんの輪郭を際立たせていた。


「事務のほうに行こうと思います。販売には戻りたいけど無理なんだなって、受けてみてわかりました」


 しっかりとした口調で彼女は僕らにそう告げた。


「……B子さん。本当にそれで後悔しないの?」


 不意にみゆきが口を出してきた。

 医者としての立場で、面談に臨んできた彼女にしては珍しい。


「……後悔というか未練はないわけじゃないですよ。でも落ちちゃった……。好きな人に振られたって感じです」


 ほんの少し空気が重く感じられた。

 みゆきもそれを聞いて、長いまつげを伏せている。


 僕は僕なりの言葉でB子さんをフォローしよう……。今、彼女はもがいているんだ。

 そう思った途端、自然と口が動いていた。


「B子さん……仕事ってさ、自分の好き嫌いだけじゃ選べないよね。残念ながら。僕自身が医者をあきらめてから思ったのは、できるだけ好きな仕事に近いところにいたいって思ったんだ」

「浩さん……それが相談員やってる理由ですか?」

「まあ、それだけじゃないけど……」


 みゆきが一緒にいることを望んだから。

 なんてことを言えるわけがない。


「あたいはね、B子さん。脳外科医になりたかったんだよ。でも、手術中に寝落ちする医者なんて、患者さんにも迷惑がかかるだろ。だから手術をしないで済むよう、神経内科医を選んだんだ」

「……そうだったんですか、みゆきさん」

「ああ。あたいも浩も自分の希望する仕事につけたとは言えないよ。でも良かったと思っている」

「よかった……んですか?」


 B子さんは小首をかしげ、わずかに眉根をひそめた。


「もちろんっ! 病気を治す以外のこと経験させてもらってるから」

「治す以外のこと?」


 よくわからない、と小さく首を横に振るB子さん。

 そんな彼女に対し、


「ええ。退院後のことを患者さんと一緒にじっくり考えるってこと、脳外科医だったらできなかったもの……」


と、みゆきは言葉をついだ。


「……今、こうやって面談しているのもですよね? みゆきさん」

「そういうこと」


 ニッコリと微笑んで、首肯するみゆき。

 ようやく合点がいったのか、B子さんはふぅっとため息をついた。

 

「正直、怖かったんです。した事がない仕事をするのが……だから販売の仕事を紹介された時は、飛びついちゃいました」


 そっか。不安だったのか。

 だから職種転換しようって話になっていたのに、販売系を受けたのか……。

 

 職種転換しようとした時、僕も不安でいっぱいだった。


 社会福祉士の施設実習に行った時、どうしていいか戸惑っていたもんな。


 自然と僕はB子さんに声をかけていた。


「誰だって……誰だって不安になると思う。でも乗り越えないとね」

「大丈夫かな? あたし……」

「B子さん……あなたはくも膜下出血から生きて戻ってこれたじゃないですか。その上、こうやって仕事を選べるようになった。人生でも一番きついことを乗り越えたんですよ。できないわけがない」


 B子さんは左腕を右手で持ち上げて、そっと両手を机上にのせると、麻痺している左手をひとしきり撫でた。

 そして、B子さんは僕たちの瞳を交互に見つめて言った。


「ありがとう……。浩さんにみゆきさん。仕事、変えてみますね。お力を貸してください」


 面談が終わった彼女の顔が、窓からの日差しに輝いて見えた。

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