第32話 きっかけは向こうから
Cさんの担当となった夜のこと。
僕は悪夢をみていた。
息が苦しくって、うまく声が出せない。
ちょうど海の中に潜っているような感覚だ。それになんだかとても寒い。
息もできずに、手足をばたつかせてる自分の姿が見えた。どんどん息が苦しくなって、自分の喉をかきむしっている。
喉が痛い。
「うぅ……ん」
焼けるような痛みで、目が覚めた。
気がつくと、きめ細かい白磁のような柔肌が目の前にあった。例によってみゆきの抱き枕になっていたようだ。
息が苦しかったのは、この胸のふくらみに押しつけられていたからか。何となく
「……どうしたの? 浩。汗びっしゃり。風邪ひくよ」
うっすらと瞳を開けたみゆきが、とりあえず僕の額の汗を手で拭う。
「あ、ああ。ちょっとね……」
「……あれ? 浩、声がおかしいね。風邪ひいたのかな?」
確かに何となく喉がイガイガする。寝汗をかいてたのも風邪のせいかな。
「そうかも……て、おい、みゆき。おまえまた全裸じゃないかっ!」
「い、いいじゃん! 別に。ひ、浩になら裸を……。それはともかく、ほら、こうやって暖めてやるよ」
耳先まで桃色に染めて、僕におおいかぶさってくる。
彼女は僕を抱き締めると、ふぅ、と満足げにため息をもらした。
暖かい……。みゆきの鼓動とぬくもりを感じる。少し気持ちが落ち着いた。
目覚ましが鳴るまで、僕は彼女に包まれて、再び眠りについた。
***
夜中、妙な時間に目が覚めたためか、なんとなくだるい。たいていそういうときに限って、こんな目にあう。
「あら? 浩さん、顔色悪いよ? みゆきさんにイタズラされた?」
「何言ってるのよ! B子さん。あたいが浩にイタズラ何てするわけない!」
「さあ、どうだか。みゆきさんだしぃ」
出勤したら、ばったりB子さんと会ったのだ。彼女は僕をみるなり、体調が悪い事に気がついた。さすが元販売員。ただその方向性が恋愛系になってるけど。
みゆきとB子さんが、にらみ合いをしてるとき、さよこがやってきた。
「朝っぱらからやってるのよ? 二人ともっ!」
「いつものじゃれあいだよ」
眉を吊り上げて、顔を近づけてくるさよこ。さすがに僕も腰が引けてしまう。
「あれ? 風邪でもひいたの? ちょっとかすれ声……」
「ち、ちょっと、さよこ、近いって!」
ぴたっ。
さよこの額が僕の額にくっついた。
近い! 近いよ! さよこ。思いっきり吐息が唇にかかってるんだけどっ!
「な! どさくさに紛れて何してるの? さよっち」
「そ、そうですよ。わたしの浩さんに……」
「何言ってるの? B子さん。浩はあたいの……」
頬を桃色に染めて、女性たちが騒ぎ出した。
「ところで院内では静かにね」
騒ぎを聞いてなのだろう。やってきた今村さんに注意された。僕らをからかうこともあるけど、一応、看護部長だ。
「「「はあい」」」
こんなときばかり、三人揃って仲良く返事して……。内心、思わず苦笑した。
「ところで本間君。Cさんの件はどうなったかしら?」
今村さんが思い出したように、例のことを尋ねてきた。きっと気になっていたのだろう。不安そうにまつげを震わせている。
「昨日はCさんから面談を断られましたよ」
僕は頬をぽりぽり掻きながら、申し訳なさそうに返答した。
「そっかあ。気長にやっていくしか……あっ! Cさん、ちょうどいいところに」
ため息をついたかと思ったら、慌てて手招きをしはじめた看護部長。
振り返ってみると、眉間にしわを寄せてCさんがやってきた。
騒がしくしていたからだろうか?
みゆき達は苦笑いしているし、B子さんは腰がひけて今にも逃げ出しそうだ。
「おい! おまえ!」
「す、すみませんでした!」
つい反射的にあやまってしまっていた。
「は? 何をあやまっている?」
目をパチクリさせてCさんは僕を見つめた。あれ? 叱りつけるつもりじゃなかったのか?
「いえ……私たちがうるさくしてしまったので、ご迷惑だったかと思いまして……」
「とっくに朝だ。起きないほうがダメだろ? ん?」
何か見つけたかのように、しげしげと僕の顔色をうかがう。
そして眉間にしわを寄せたかと思ったら、人の首の根っこをむんずとつかんだ。
「いててっ。何するんですか? Cさん」
「あんたら医療従事者なのに、こいつの頸部リンパが腫れているのが、わからなかったのか? まぬけ」
みゆきやさよこ達をにらむと、いきなり悪態をついた。まぬけ呼ばわりされて、さよこは口を尖らせた。
……ん? リンパが腫れてる?
小首を傾げていると、呆れた顔で耳をひっぱられた。
「おい、早く病院行け! それにこの声の変化は風邪じゃないぞ。紹介状書いてやるから」
あっ!、と気がついたように、みゆきが両手を口にあてて、瞳を見開いた。
そういえば身に覚えがあった。つい先日、甲状腺に腫瘍が見つかったばかりだ。画像では良性だろうって思っていた。こんなに早く症状が出てくるのはおかしい。
もっと悪いものの可能性もある。
「でも、そういうわけには……。ちょうどよかった。Cさんの面談をしたいのですが、いつが……」
「何いってる! このたわけ! 人のことより、まず自分のことを考えろ!」
えらい剣幕でCさんが怒鳴った。つい、ビクッと体が震えてしまう。自分やさよこより小さい身体なのに、彼が大きく見える。市立病院の内科を背負って立っていただけのことはある。
……そうだ。
Cさんの本音を聞けるいい機会かもしれない。
「Cさん。あ、先生。お願いがあります。紹介状を書いてくださるお礼に、先生のお話を聴かせてほしいのですが……」
そう。僕は交換条件を出した。Cさんから紹介状を書いてもらう代わりに、面談をお願いしたのだ。
「……なんだと。何をいってる。紹介状を書くのは医師のつとめ。見返りなんぞ不要だ」
「紹介状を書いて、今まで対価をもらっていたじゃないですか」
「それはそうだが……。今はこうだぞ」
Cさんは左足を軽く叩き、上げようとした。
しかしその足は上がらない。麻痺側だからだ。今でこそ、彼はトイレも入浴も食事も自分でできる。
事故直後は三ヶ月近く意識が戻らなかったCさん。
ここまで回復するのに、人並み以上の努力はしてきたはずだ。せめてその努力には報いたい。
「僕は相談していただいてなんぼです。あなたが医師として、紹介状を書いてくださるのだから、僕も仕事でお礼したいだけですよ」
「よけいなことを……おい、そこの背の高い姉ちゃん」
ちっ、と舌打ちをすると、Cさんはみゆきを指さした。
「なんでしょう? Cさん」
「こいつに惚れてるんだろ? だったら診察室を貸せ。あと何も書いていない紹介状もだ。早くしろ!」
「惚れてる……。あ、は、はい」
一瞬、みゆきの頬が桃色に染まった。しかし、次の瞬間、素早く診察室を開けた。
「ひ、浩のためなんだからねっ。あんたが浩のために、紹介状書いてくれるって言うから……」
「フン、素直じゃないな」
みゆきに悪態をつきながら、左足を引きずりながらも机に着いた。
少し左腕が上がらないため、みゆきが診察を手伝っている。自らの片手で、カルテ情報をパソコン端末に入力している。
なるほど。本人が復職したいと言うわけだ。
実際、僕自身、Cさんの診察を受けてみて、復職してもいいのかもしれないと思っている。
言葉は乱暴でも、何が本当は大切なのかを知ってる。それに見立ても早い。
できればCさんには医療現場に戻って欲しいな……。
僕はそんなことを思いながら、紹介状を受け取った。
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